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論点③ 霊とは何か(2) 悪霊とその解放について

🔷聖書の知識46-論点(3)ー霊とは何か(2)ー悪霊とその解放について

そして、パウロはその霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。(使徒16.18)

[はじめに]

前回、聖霊を含む神の霊の働き、即ち、霊のよき業について論及しました。今回は逆に、霊の中で悪い働きをする霊、即ち.「悪霊」について考えていきます。

世界宣教訓練センター所長の奥山実牧師は、インドネシア宣教に従事されましたが、インドネシアには、いわゆる悪霊にとりつかれた人が多くいて「悪霊の追い出し」は拝み屋や牧師の仕事だったと言われ、その現場を何度も目撃し、また自らも行ったと証言されています。

[悪魔とその手先とは]

先ず、そもそも悪魔、悪霊とは何かを明らかにしなければなりません。

新訳聖書には悪霊という言葉が77回出てきます。そしてマタイ福音書25節~41節に「悪魔とその使いたち」という言葉があります。

「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔と『その使たち』とのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」(マダイ25.41)

キリスト教では「悪魔」は堕落した天使(堕天使)の長ルーシェルでサタン(悪魔)と呼ばれ、「その使い」とはサタンの手下となって働く「悪霊」のことで、やはり「堕天使」であると理解しています。即ち、悪魔(サタン)も悪霊も堕落した天使という見解であります。

ルーシェルは、神のようになろうとして神と敵対し、またアダムに対する嫉妬から、他の多くの天使を引き連れて堕落し、天界から追い落とされたといいます(イザヤ14.12~15)。

そして創世記3章に出てくるエバを誘惑した蛇とは、「既に堕落していた天使長」を指すと主張しています。

堕落した天使の数は天使の3分の1であると聖書は示唆していますし(黙示録12・4)、又旧約外典の「エノク書」には、天使たちが人間の女たちと集団で淫行を行った記事があり、その時の天使たち20人の名前まで記録されています。しかし、天使がいつ、何故堕落したかは定説がありません。

一方、原理講論P116には、「サタン(悪魔)の対象は霊界にいる悪霊人たちである。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。従って、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人の肉身の活動として現れる」とあります。

また同P229には、「マタイ福音書25・41に、“悪魔とその使いたち”という言葉がある。この使いは、正に悪魔の教唆を受けて動く悪霊人体をいうのである」とあります。

上記講論を見る限り、悪霊とは悪霊人体、即ち死んで霊界に行った人間の(悪)霊人体のことを指しています。

原理講論でも、悪魔(サタン)は堕落した天使長ルーシェルと言っていますが、その「使い」については上記の通り「悪魔の教唆を受けて動く悪霊人体をいう」と記され、キリスト教の「悪霊とは悪魔に従って共に堕落した堕天使である」という理解とは異なっています。

即ち、悪霊とは堕天使のことか、あるいは死んで霊界にいる悪霊人体のことか、あるいはその双方か、一体、悪霊が何を意味するか、神学的にも議論のあるところのようです

[悪霊についてのある神学者の見解]

この点、悪魔と悪霊について、キリスト教神学に詳しい食口は以下のような見解を示されています。

「シーセンも”これを定義するのはかなり厄介だ”(組織神学P331)といっていますが、キリスト教の最初の頃(教父たち)は、悪霊は悪人の死んだ霊(悪霊人体)と考えられていたようです。

この説は当時の著名なユダヤ人哲学者フィロンやユダヤ人歴史家のヨセフスも同じ考えだったようです。したがってイエスも弟子も当時のユダヤ人もこの意味で考え使っていただろうと思われます。

しかし、キリスト教が拡大し、神学的にも整備されてくると、『聖書では死んだ人の霊は陰府(よみ)に下り、いわば眠ったような状態に、または捕われた、または囲い込まれた状態になっているとしているのに、人にまとわりつくのがおかしい、聖書的でない』ということになり、浮上してきたのがサタンの元にいる手下の堕落天使(これらは陰府に捕われたことになっていない)という考えだったそうです。これが支持を得て今のキリスト教の主流的考えになっているとのことです。

ただシーセンも、悪霊即ち堕落天使が人にまつわりつくというのも、聖書的に見てもぴんと来ないといっています。これにはキリスト教サイドの教理からの恣意的神学的な聖書への読み込みが入っていると思われます。いろんな霊的証しや本、またわれら清平をみても悪天使の憑依などという話はあまり聞きません。

私としては悪霊とはサタン+7悪天使+悪霊人の総称ではないかと考えております。またこれはイエス当時の一般的ヘブル人の考え方に近く、妥当ではないかと考えております。

実際、原理的にいっても死んだ人間はすべて、陰府に隔離され眠っていたり、現世にタッチできないようにはなっていませんから、そのことからも悪霊=悪天使という現代神学は無理があり、修正されるべきではないかと考えています」

(ちなみに、7悪天使とは、ルシファー(あけの明星)、レヴィアタン(曲がりくねった蛇)、サタン(ルシファー、訴える者)、ベルフェゴール(怠惰)、マモン(強欲)、ベルゼベル(暴食)、アスモデウス(色欲)という説がある)

以上の通りですが、悪霊とは「サタンの手下として働く堕天使と悪霊人の総称」との見解は当らずとも遠からずであり、筆者もこの見解を支持します。

しかし、ルーシェルがサタン(悪魔)であること、悪霊人体が悪霊であることは間違いないとしても、ルーシェルの他に、ルーシェルと共に悪霊となった堕落した天使がいるのか否か、いたとすればどれくらいの数なのか、今後の課題としたいと考えています。読者は如何に!

[福音に伴うしるし]

次に悪い霊との戦い、病気の癒し、悪霊の追い出しについて論評いたします。

聖書には霊について、人間を鼓舞する良い働きをする霊だけでなく、災いの霊(士師記9・23)、死者の霊(箴言21・16)、悪霊(詩篇106・37)、占いの霊(使徒16・16)、悪の霊(エペソ6・12)などの良くない働きをする霊について、各所で言及しています。

そしてイエス様は悪霊の追い出しや病気の癒しなどの役事を数多くなされました。福音書には「教え」が47回であるのに比し、「癒し」が72回も出てきます。そしてイエスは、自ら役事を行うだけでなく弟子たちにもその権限をお与えになったのです。

これらの役事は「福音に伴うしるし」と言われています。つまり、福音を証しするためのしるし(奇跡)であると云う訳です。

「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、『御言に伴うしるし』をもって、その確かなことをお示しになった」(マルコ16・20)と書かれている通りです。

イエス様は、以下の聖句の通り多くのしるし(奇跡)を行われました。

「夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった」(マタイ8・16)

「イエスは汚れた霊をお叱りになった。『私の命令だ、この子から出て行け』霊は叫び声をあげ出て行った」(マルコ9・25)

「すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった」(マタイ15・30)

「そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった」( マタイ10・1)

「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16・17)

「パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。『イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け』と言った。すると即座に、霊が彼女から出て行った」(使徒6・18)

[悪霊の追い出しに関する牧師の話し]

上記世界宣教センターの奥山実牧師は、インドネシア宣教で多くの役事を体験したと証されました。

「イエスのみ名(権威)によって、悪霊よ、出て行け」と確信を持ってみ言葉通り命令すれば、悪霊が出て行くことを何度も体験したと述べられ、悪霊の解決に関する本も出されています。(奥山実著『悪霊を追い出せ』)

インドネシアでは、貧しいので病気になれば医者に行かないで拝みやに行くことが多いそうです。奥山牧師は預かっていた18歳の医者の娘の引付を治したそうですが、原因は先祖の占いや呪文の習慣にあったそうです。

占い、卜者、易者、呪術、呪文、偶像、ほこら、お守り、占星学、拝み屋、霊媒などは悪霊の業が多く、地域の悪霊としてその地を支配していると指摘されています。聖書もこれらを忌避しています。

「あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔使、 呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。 主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである」(申命記18.10~12)

呪文や霊媒も問題になるとし、青森恐山のイタコは先祖の霊を出すことで有名ですが、大抵は霊が人真似しているだけだと奥山牧師は言われています。人が悪霊に心開いた時に入るといわれ、拝み屋や占い師に心許すとあぶないと指摘されています。

そしてこれらの行為を聖書が否定しているのは、これらを主管できる真理の力(原理)、より高い霊的な力を持たないが故に、逆に振り回されて悪霊に主管されてしまうからというのです。

UC内でも姓名判断、四柱推命、家系図、マヤ暦など、占いに類することが流行っていますが、逆に主管されないよう気をつけなければなりません。つまり、先ず最初に神に尋ねることをせず、占いの霊(偶像)に頼ることが問題になるという訳です。

従って、原理的な祈りとみ言と信仰をもって分別し、占いはあくまでも福音宣教のためのツール(手段)として、しっかり位置付けることが肝要です。

[精神病と悪霊について]

アメリカでは、精神病を悪霊による精神病と普通の精神病を分けています。精神病には次の通り3種類あり、これらの一つまたは重なったものと思われます。

一つは脳の神経系統の機能に何らかの異常があると言われているものです。現代医学は統合失調症などの精神病は、この脳の働きに何らかの異常があると考えていますが、実のところその詳細はまだ分かっていません。治療方法としては主に薬の投与があります。

また、肉体から来るものとしては、麻薬やアルコール中毒による幻聴、幻覚(幻)などがあります。

二つ目は、精神的、心理的なもので失恋のショックや人間関係などの軋轢、ストレス、心の傷などから来るもので、これらには心理カウンセリングと薬の投与による治療があります。

そして三つ目が霊的なもので、これが悪霊の仕業と言われるものです。これらは拝み屋や牧師の癒し、即ち「悪霊の追い出し」の分野になります。

ウガンダのカ・ヤンジャ師は講壇から癒しを行うことで有名な牧師です。5千人の孤児を養っているそうですが、ウガンダではかのエリヤのように、異教徒との癒しの競争に勝ち3万人がクリスチャンになったそうです。 

また最近大和カルバリチャペルに、著名な説教師であるマレーシアのレイモンド・ムーイ牧師が来られて「解放と癒し」のメッセージがありました。やはり講壇から直接会衆に訴え、筆者はその場で癒しの役事をされるのを視聴しました。

「病気よ、悪霊よ、主イエスの名によって命じる、出て行け」と力強い霊的迫力でした。ある集会では末期癌が治癒したそうです。 

タイでは、カリスマペンテコステ教会による癒しの集会で、医者が見離した子ら40人が礼拝後癒されるという奇蹟がありました。

いまやプロテスタント人口のうちの多くがペンテコステ派といわれていますが、このペンテコステ派は、聖霊による病気の癒し、悪霊の追い出し、異言などを強調しています。

また福音宣教教会の御国イザヤ牧師は若い頃、悪霊に取り付かれ苦しみましたが、イエスのみ名によって治癒したと証され、これが牧師生活の原点になっているということです。

サタンの本性は「傲慢と嫉妬と血気」だとUC創始者は言われています。そういう思いに相対するというのです。神に天使がいるように、サタンには悪霊が手下にいるので、この手下をつかって禍をおこすというのです。

しかし、これら悪霊に打ち勝つ力は何と言っても信仰と神の言葉です。イエス様も、その人の信仰を見て「信仰があなたを救った」と言われました。(マタイ9・22)

これらの奇跡に関し留意すべきは、あくまで「福音に伴うしるし」であってその逆ではないことです。「祈り、賛美、み言、信仰」こそ悪霊に打ち勝つ力です。即ち、先ずみ言と信仰があり、その結果として奇跡が行われるというのです。 

そして悪霊は傲慢と嫉妬の霊ですので、これを鎮魂し、許し愛することが肝要になります。愛こそ悪霊問題の決め手です。即ち、分別と共に、愛を伴う信仰、愛に源を持つみ言、これが悪霊問題への最良の処方箋だということになりそうです。

さらに、悪霊の仕業を蕩減的な試練として甘受し、悔い改めのきっかけと捉えれば、なお、発展的と言えるでしょう。

以上の通り、今回は人間にとって否定的な霊について考えてきました。奥山牧師は、神社のお札や仏壇や位牌にも悪霊がいると言われていますが、ちょっとそれは考え過ぎかも知れません。問題は分別力です。原理的な真理の霊で主管することだと思います。

次回は、今回を受けて、霊界について考えることにいたします。キリスト教の霊界観やユダヤ教、大本教の霊界観など、他宗教と対比しながら、霊界の実相を考えていきます。そしてこの問題は死生観にもつながります。霊界観、死生観が次のテーマになります。(了)


*上記絵画:ラザロの蘇生(レンブラント・ファン・レイン画)

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