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殉教を考える① 古代教会の受難

🔷聖書の知識27 -殉教を考える(1)→古代教会の受難

こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。(使徒行伝7・59~60)

はじめに

はじめに、ある信徒から、大変本質的な質問がありましたので、先ずこの質問に答えたいと思います。聖書の知識22(日本的霊性とは何か)で、矢内原忠雄元東大総長の言葉「日本が新生するために、先ずこの国を葬って下さい」を引用しましたが、この主意を解説して欲しいということでした。以下が、私の回答です。

矢内原忠雄のこの言葉は、1937年10月1日、藤井武第七周年記念講演で、「神の国」と題して語られたものです。そこで矢内原氏は、思い切った一言を述べました。「今日は、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或いは理想を失ったる日本の葬りの席であります。日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください」と。

上記は、日本が大陸に版図を拡大していく際に、その傲慢に見える高ぶりを批判し、近隣国の虐げに対して矢内原が厳しい審判の言葉を語ったものです。矢内原は、この反戦思想とも見える一言のお陰で東大教授を辞める羽目になりました。

しかし、敗戦後は、一転して日本の癒しを語り、赦しへの立ち返りを説いています。

また天皇への敬意は、その権威を担いで利を得る人々ではなく、むしろ真の神を敬う者においてこそ実現されると語りました。彼は、「八紘一宇」や「共栄圏」の表現を頭から否定はせず、ただ「日本の民族神」から諸民族を導く普遍的な「真の神」へと、神観の改変を説いたのです。

「神はイスラエルを愛したまうが故にこれを滅ぼしたまう。しかしまた愛したまうが故に、これを救い上げたまう」という捕囚の地で訴えた預言者エゼキエルの書を引用しました。神の怒りと共に、悔い改めて神に立ち返る者には回復がもたらされるという思想です。

エゼキエル書講義において「バビロン捕囚の苦難を経てイスラエルの信仰が霊的覚醒したように、日本もこの試練を経て飛躍しなければなりません。それができなければ日本は神の選民ではない、ということになります。それを実行するのは、我々神の真理を教えられたキリスト者の任務であるわけです」とも語っています。

ご存知の通り、モーセ5書は、モーセが書いたものではなく、バビロン捕囚前後にかけて、悔い改めた霊的な祭司・神学者集団によって書かれたものと言われています。これが、アッツシリア、バビロニアによって一旦滅んだ民族が、再び回復していくための霊的理念になりました。

矢内原は、1937年の盧溝橋事件から本格的に戦争に突入していく日本をバビロン捕囚と重ね合わせ、多くの東大教授が戦争擁護に傾いていくとき、聖書的視点から反戦に傾いたのです。

上記の思想は師匠であった内村鑑三の思想でもあります。内村は、人生と信仰を二つのJ(キリストと日本)に捧げましたが、日本にも非があることを認識していました。即ち、中国や朝鮮で行っていることは、白人による他民族蔑視、差別思想と同罪だと認識したのです。そして遂に、「かって不信仰に陥ったイスラエルが神の元に立ち返るためには、一度滅ばなければならなかったように、神は日本が滅びることを決定された」と言って泣いたと言われています。

只、内村の日露戦争反戦論は、海老名弾正や植村正久ら愛国的な有力神学者に批判されています。しかし、内村の反戦論は、単なる左翼的な皮相なものではなく、日本が滅ばなければならないのは、イスラエルと同様に、「神が日本を必要としているからである」という愛国的信念から生まれています。

以上が不足ながら、矢内原忠雄の発言に関する質問への回答でした。

本題

さて、今回の本題に入ることにいたします。キリスト教歴史の3大特徴を挙げるとすれば、筆者は、「殉教」、「異端」、「リバイバル」の3つを挙げるでしょう。勿論、これには異論もあると思いますが、キリスト教を彩るキーワードには違いありません。そこで、この3つのキーワードを手がかりに、キリスト教の本質を考えていきたいと思います。

先ず最初に「殉教」を取り上げることにいたします。殉教は、キリスト教最大の特徴であり、キリスト教とは何かを知り、その本質に迫る象徴的な言葉です。今回は、特に初期キリスト教時代の殉教を取り上げることにいたしましす。

1、殉教とは、「信仰のために自らの命を犠牲にして(非暴力的に)キリストを証すること」と言えるでしょう。国家の禁制により処刑されたり、改宗や棄教を迫られて拷問を受けたり、他宗派異教徒により殺されたりした人々です。

そして、キリスト教ほど多くの殉教者を出した宗教はありません。特に、禁教下のローマ時代の殉教や宣教に伴う各地・各国での殉教です。正にキリスト教の歴史は殉教の歴史でした。教祖であるイエス・キリストの死は殉教の象徴であり、それ故に、またそれに倣って、キリスト教徒も殉教の道を行ったというのです。カトリックでは、殉教者は多くが聖人や福者に列せられています。


2、新約時代の最初の殉教者はステパノです。彼は、新約聖書の使徒行伝(6・8~7・60)に登場するユダヤ人キリスト教徒(35年頃没)で、ギリシャ語を話すヘレニストユダヤ人(ユダヤ系ギリシア人)であったと言われています。

教会運営のために使徒たちによって選ばれた7人の一人で、世話係のような立場にありました。ステパノは天使のような顔を持ち、「霊的な智恵としるし」によって熱心に伝道したため、これをよく思わない人々によって訴えられ、最高法院に引き立てられました。


そこでもステパノは、アブラハム、モーセ以来の歴史を紐解きながら「神殿には神は住まわれない」と神殿を否定し、ユダヤ教の形骸化を批判したため、パリサイ派によって石打ちの刑に処せられたのです。

しかしステパノは、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」 (使徒7・60)と、イエスに倣って迫害する者のために祈りました。多くの殉教者も同様です。

このステパノの殉教の場にサウロ(後のパウロ、使徒7・58)が立ち会っていました。この時の体験が、後日サウロ回心の動機・遠因・伏線となったのではないかという説もあります。

なお、ぺテロなど12使徒に関して、ヨハネ以外の11人は皆殉教したと言われ、筆者の洗礼名の「トマス」もインドで殉教しました。以後、あらゆる国々でおびただしい殉教者を出すことになりました。後で述べますように、三大使徒教父と言われるイグナティオス、クレメンス、ポリュカルポスも殉教しています。

3、ローマ帝国時代の迫害について


ローマ帝国迫害時代と言いますが、その時代を通じて常に迫害があった訳ではありません。断続的な迫害はあったものの、250年以前は散発的な迫害でした。従ってこの時代の真相を正しく把握する必要があります。このことは、旧約時代のエジプト苦役時代にも同じことが言えるでしょう。

しかし、313年に信仰の自由を得るまで、ローマ帝国下で多くの殉教者を出したことは確かで、たびたびキリスト教は禁止されました。この犠牲の霊的な意味は、代価を払って罪を贖うという福音宣教の宿命に起因するものであります。

ロー帝国領内に広がったキリスト教に対し、ローマ帝国はユダヤ教など他の宗教と同じように見られ(当初、キリスト教はユダヤ教の一派と見られていた)、はじめはそれ自体を禁止することはありませんでした。

しかし、国家神としてのローマの神々への儀礼祭祀や、特に皇帝礼拝に反した場合は罰せられました。そして、この皇帝礼拝の強要こそ、キリスト教徒が苦難にあわなければならなかった主要な原因でありました。この皇帝礼拝は、ヘレニズム的な君主礼拝の思想に影響を受けたものという見方があります。

キリスト教迫害の主な理由は、a.皇帝礼拝の拒否、b.ローマ多神教礼拝の拒否、c.民衆の風評による憎悪(キリスト教徒による陰謀・魔術・人肉を食べるといった風評、近親相姦に耽っているといった類のもの、土着文化との不適合)、d.兵役拒否、などがあります。処刑は、斬首、火刑、十字架刑、闘技場での野獣との戦い、追放、重労働、奴隷、などであります。

しかし、ローマ帝国を通じ、迫害の時期と容認される時期がありました。しかし、基本的には容認されざる宗教であり、ネロの迫害以後、キリスト教信徒であること自体が迫害の対象(禁教)になるようになっていきました。即ち、キリスト教徒という名それ自体が処罰に値することが公認されていっと言うのです。

このローマ帝国時代の迫害の状況は、大体次の3期に分類されるようです。

第1期にあたるトラヤヌス帝迄の初代教会時代は、ローマの対キリスト教政策は一定せず、むしろユダヤ教などからの迫害の方が大きかったと言われています。

2世紀初頭のトラヤヌス帝(在位98~117)の時に対キリスト教政策が定められ、「キリスト教徒はその名のゆえに処罰される」という原則が示されました。只、棄教すれば許されるとか、キリスト教徒を探索、密告してはならないとするなど、概ね抑制的なものでした。むしろ、キリスト教を嫌悪する民意に配慮したものという一面があったと言えるでしょう。

そして、第3期の3世紀半ばのデキウス帝(在位249年 - 251)になって、探索しないという原則を破り、国家的規模での迫害が実施されるようになりました。この時の迫害で、多くの棄教者を出したと言われています。

ローマ帝国迫害としてよく知られているのが、64年のネロ帝(在位54~68)の迫害の時と、4世紀はじめ303年のディオクレティアヌス帝の迫害の時であります。以下、これを見ていきたいと思います。  

4、ネロ帝の迫害など


特にネロ皇帝下での迫害は有名です。64年7月19日の夜間、大競技場周辺から起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いたと言われています。

「ネロは新しく都を造るために自ら放火した」という噂が流れ、こうした風評をもみ消そうとして、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人としてでっち上げ、反ローマと放火の罪で処刑しました。

ネロの迫害はローマ市に限定されていましたが、この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、ネロはキリスト教の一般信徒を多数処刑した最初の皇帝であり、火葬で肉体を損なうと天国へ行けないと考えるキリスト教徒を火刑に処したため、暴君、反キリストの代名詞となりました。ペテロ、パウロもこの時期に殉教しました。

キリスト教信者はローマのコロッセウムなどの円形競技場で、社会への敵対者として引き出され、見世物として提供されました。しかし、キリスト教徒は、我先に死ぬことを望み、殉教したと言われています。以下は、円形闘技場で見世物として殺されるキリスト教徒とその信仰を生々しく描いたクリストファー・ケリーの「一冊でわかるローマ帝国」(岩波P111~112)からの引用です。 

「殉教が血なまぐさい見世物だったことは、疑いない。177年のリヨンでキリスト教徒の一群を死へと追いやった群衆は、キリスト教徒が拷問にかけられ、鉄の椅子で焼き焦がされ、雄牛に角で突き上げられ、飢えたライオンに四肢を食いちぎられるのを見て喝采をおくった。(本来、ローマ人は血を好む人種だったという)

晴れ着に身をつつみ、社会の秩序に従って円形競技場にいならぶ観客全員が注視するなかで、キリスト教徒にライオンが投げ与えられた。だが、キリスト教徒自身にとっては、苦痛と死をもたらす殉教は、決して敗北ではなかった。殉教は、むしろ勝利だった。

帝国各地の都市に住むキリスト教徒にとって、殉教は信仰の強さを万人に示し、ローマの体制を軽蔑する自分たちの信念を表明するものだった。殉教が有効な抗議行動となり、大観衆の前でキリスト教の信仰を宣言し、恐るべき公開処刑を受けて記憶に留められることが、むしろ重要なことだったのである」

次に注目すべきはドミティアヌス帝(在位81年~96年)の時です。精霊を受けたという帝自身と誓約し、その像の前で献酒と焚香(ふんこう)をしなければならず、また、皇帝を「主にして神」と呼ばなければならなかった慣習が生まれました。そして、この慣習は、その後の皇帝たちに受け継がれたのでした。

共和制に心情を寄せていた政治家、哲学者、キリスト教徒たちはドミティアヌスのこうした政策に抵抗しましたが、結局、皇帝によって追放させられたり、投獄されたり、処刑されてしまいました。

また、逆にハドリアヌス帝は、属州民のキリスト教徒の告発に対しては、確証が要求されること、そして、単なる民衆の怒号による告発は取り上げるべきでないこと、さらに、偽告発者は逆に処罰すべきであることをも命じています。(論文-日本基督神学校講師泥谷逸郎より)

使徒教父の殉教

使徒教父でアンティオキア司教のイグナティオス(35~107)は、トラヤヌス帝治世下(98~117)の迫害において逮捕され、ローマに護送されて、衆人環視のうちに野獣に噛み殺されるという刑に処せされました。ローマで殉教する旅の途中、最も初期のキリスト教神学の例とも言える一連の手紙を書き送り、その中で殉教への願望が述べられています。

同じく使徒教父でスルミナ司教のポリュカルポス(69年頃 ~155年頃)も殉教者として火刑にされ刺し殺されました。また同じく使徒教父でローマ司教のクレメンスも初期のローマ司教たちと同じように殉教したと言われています。

使徒教父に続いて、弁証家(護教家)と呼ばれる著述家が出ますが、弁証家ユスティノスも165年処刑されています。

そしてキリスト教徒は、これらの迫害を逃れて、カタコンベ(共同地下墓所)で秘かにミサを行ったと言われています。

5、ディオクレチアヌス帝の迫害


最後の迫害は、ディオクレチアヌス帝(在位:284年~ 305年)時代の大迫害です。デキウス帝(249-251年)の時代のキリスト教徒迫害も、はじめてローマ帝国全土にわたる広範なものであり、その惨酷さは今までのどの迫害にも勝るものでありましたが、今回はそれを上回る規模と内容になりました。

このディオクレティアヌス帝は能力のある皇帝でしたが、帝国内の秩序維持のために皇帝崇拝を強化しました。しかしキリスト教徒は皇帝崇拝を拒み、ローマの神々を礼拝することもありませんでした。また帝国内で大きな地歩を固めつつあったキリスト教勢力の存在も目障りで、更にキリスト教徒の兵役拒否が多発したこともあり、キリスト教に警戒感を抱くようになりました。

そして、303年にディオクレティアヌス帝はローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収となりました。

それはかつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したと見なされるキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたといいます。また、その報復として、キリスト教徒によって2度にわたり宮殿放火が企てられています。キリスト教史を編纂する側は、このことを「最後の大迫害」と呼んでいます。

ようやく313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマ帝国による迫害は終わり、ついに392年にテオドシウス帝によってキリスト教の国教化が行われるに至ります。

6、では、死を賭しても信仰を守った殉教者の勇気と力は何処から来たのでありましょうか。以下、3点を指摘いたします。

一つは聖霊の働き、聖霊の賜物です。信徒は、聖霊の賜物を受けると生死を越える境地に導かれ、我ならぬ我の力が生まれて来るというのです。特に、初期聖書時代は聖霊が強く働く時代圏にありました。

今一つは、肉体の死の先にある神の国、より優れた永遠の故郷への願望と確信です。錆がつき、虫がつく現世より、死の向こうにある朽ちない永遠の世界に希望と憧れを見いだしました。不義を受け入れて現世の幸福を享受するより、死を賭しても神の義に生きることを選んだというのです。そして、自らの死をもってキリストを証しました。いわば、殉教という名の「究極の伝道」でもあるのです。

聖書に、「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした」(ヘブル人11・16)とある通りです。

第三に、神が殉教を要求されました。キリスト教の殉教は、神の摂理自体、償いの歴史、贖いの歴史自体に必然的な起因があるというのです。クリスチャンは、この見えざる神の摂理に殉じました。

以上の通り今回は、主に初期キリスト教会とローマ帝国下の殉教を見てまいりました。次回は、東洋、特に日本と韓国における殉教の歴史を見ていきたいと思います。(了)



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