殉教を考える① 古代教会の受難
- 2020年10月8日
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更新日:9月18日
🔷聖書の知識27 -殉教を考える①→古代教会の受難
こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。(使徒行伝7・59~60)
プロローグ
さて、キリスト教歴史の3大特徴を挙げるとすれば、筆者は、「殉教」、「異端」、「リバイバル」の3つを挙げるでしょう。勿論、これには異論もあると思いますが、キリスト教を彩るキーワードには違いありません。そこで、この3つのキーワードを手がかりに、キリスト教の本質を考えていきたいと思います。
先ず最初に「殉教」を取り上げることにいたします。殉教は、キリスト教最大の特徴であり、キリスト教とは何かを知り、その本質に迫る象徴的な言葉です。今回は、特に「初期キリスト教時代の殉教」を取り上げることにいたしましす。
殉教とは、「信仰のために自らの命を犠牲にして(非暴力的に)キリストを証すること」と言えるでしょう。国家の禁制により処刑されたり、改宗や棄教を迫られて拷問を受けたり、他宗派異教徒により殺されたりした人々です。
そして、キリスト教ほど多くの殉教者を出した宗教はありません。特に、禁教下のローマ時代の殉教や宣教に伴う各地各国での殉教です。正に「キリスト教の歴史は殉教の歴史」でした。教祖であるイエス・キリストの死は殉教の象徴であり、それ故に、またそれに倣って、キリスト教徒も殉教の道を行ったというのです。カトリックでは、殉教者は多くが聖人や福者に列せられています。

【新約時代の最初の殉教者はステパノ】
新約時代の最初の殉教者はステパノです。彼は、新約聖書の使徒行伝(6.8~7.60)に登場するユダヤ人キリスト教徒(35年頃没)で、ギリシャ語を話すヘレニストユダヤ人(ユダヤ系ギリシア人)であったと言われています。
教会運営のために使徒たちによって選ばれた7人の一人で、世話係のような立場にありました。ステパノは「天使のような顔」を持ち、「霊的な智恵としるし」によって熱心に伝道したため、これをよく思わない人々によって訴えられ、最高法院に引き立てられました。
そこでもステパノは、アブラハム、モーセ以来の歴史を紐解きながら「神殿には神は住まわれない」と、ユダヤ教の形骸化を批判し神殿を否定したため、パリサイ派によって石打ちの刑に処せられたのです。しかしステパノは、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」 (使徒7.60)と、イエスに倣って迫害する者のために祈りました。多くの殉教者も同様です。
このステパノの殉教の場にサウロ(後のパウロ、使徒7.58)が立ち会っていました。この時の体験が、後日サウロ回心の動機・遠因・伏線となったのではないかという説もあります。
なお、ぺテロなど12使徒に関して、ヨハネ以外の11人は皆殉教したと言われ、筆者の洗礼名の「トマス」もインドで殉教しました。以後、あらゆる国々でおびただしい殉教者を出すことになりました。後で述べますように、三大使徒教父と言われるイグナティオス、クレメンス、ポリュカルポスも殉教しています。
【ローマ帝国時代の迫害について】
キリスト教はローマ帝国時代に迫害を受け、多くのクリスチャンが殉教しました。しかしローマ帝国迫害時代と言っても、その時代を通じて常に迫害があった訳ではありません。断続的な迫害はあったものの、250年以前は散発的な迫害でした。従ってこの時代の真相を正しく把握する必要があります。このことは、摂理的同時性と言われる旧約時代のエジプト苦役時代にも同じことが言えるでしょう。
しかし、313年にコンスタンティヌス帝がミラノ勅令を発してキリスト教を公認するまで、ローマ帝国下で多くの殉教者を出したことは確かで、たびたびキリスト教は禁止されました。この犠牲の霊的な意味は、代価を払って罪を贖うという「福音宣教の宿命に起因」するものであります。
当初、ロー帝国領内に広がったキリスト教は、ユダヤ教など他の宗教と同じように見られ(当初、キリスト教はユダヤ教の一派と見られていた)、はじめはそれ自体を禁止することはありませんでした。しかし、国家神としてのローマの神々への儀礼祭祀や、特に「皇帝礼拝」に反した場合は罰せられました。そして、この皇帝礼拝の強要こそ、キリスト教徒が苦難にあわなければならなかった主要な原因であります。この皇帝礼拝は、ヘレニズム的な君主礼拝の思想に影響を受けたものと言われています。
キリスト教迫害の主な理由は、a.皇帝礼拝の拒否、b.ローマ多神教礼拝の拒否、c.民衆の風評による憎悪(キリスト教徒による陰謀・魔術・人肉を食べるといった風評、近親相姦に耽っているといった類のもの、土着文化との不適合)、d.兵役拒否、などがあります。処刑は、斬首、火刑、十字架刑、闘技場での野獣との戦い、追放、重労働、奴隷、などであります。
ローマ帝国時代を通じ、迫害の時期と容認される時期がありましたが、基本的には容認されざる宗教であり、ネロの迫害以後、キリスト教信徒であること自体が迫害の対象(禁教)になるようになっていきました。即ち、「キリスト教徒という名それ自体が処罰に値する」ことが公認されていっと言うのです。
このローマ帝国時代の迫害の状況は、概ね次の通りです。
トラヤヌス帝(在位98~117)迄の初代教会時代は、ローマの対キリスト教政策は一定せず、むしろユダヤ教などからの迫害の方が大きかったと言われています。2世紀初頭のトラヤヌス帝の時に対キリスト教政策が定められ、「キリスト教徒はその名のゆえに処罰される」という原則が示されました。只、棄教すれば許されるとか、キリスト教徒を探索、密告してはならないとするなど、概ね抑制的なものでした。むしろ、キリスト教を嫌悪する民意に配慮したものという一面があったと言えるでしょう。
そして、3世紀半ばのデキウス帝(在位249年 ~ 251)になって、探索しないという原則を破り、国家的規模での迫害が実施されるようになりました。この時の迫害で、多くの棄教者を出したと言われています。
ローマ帝国迫害としてよく知られているのが、64年のネロ帝(在位54~68)の迫害の時と、4世紀はじめ303年のディオクレティアヌス帝の迫害の時であります。以下、これを見ていきたいと思います。
<ネロ帝の迫害・使徒教父の殉教など>
特にネロ皇帝下での迫害は有名です。64年7月19日の夜間、大競技場周辺から起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いたと言われています。「ネロは新しく都を造るために自ら放火した」という噂が流れ、こうした風評をもみ消そうとして、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人としてでっち上げ、反ローマと放火の罪で処刑しました。この謂われなきでっち上げは、ユダヤ人迫害(ユダヤ陰謀論)にもしばしば見られ、現代でもマスコミによるレッテル張りが横行しています。
ネロの迫害はローマ市に限定されていましたが、この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、ネロはキリスト教の一般信徒を多数処刑した最初の皇帝であり、火葬で肉体を損なうと天国へ行けないと考えるキリスト教徒を火刑に処したため、暴君、反キリストの代名詞となりました。ペテロ、パウロもこの時期に殉教しました。
キリスト教信者はローマのコロッセウムなどの円形競技場で、社会への敵対者として引き出され、見世物として提供されました。しかし、キリスト教徒は、我先に死ぬことを望み、殉教したと言われています。以下は、円形闘技場で見世物として殺されるキリスト教徒とその信仰を生々しく描いたクリストファー・ケリーの「一冊でわかるローマ帝国」(岩波P111~112)からの引用です。
「殉教が血なまぐさい見世物だったことは、疑いない。177年のリヨンでキリスト教徒の一群を死へと追いやった群衆は、キリスト教徒が拷問にかけられ、鉄の椅子で焼き焦がされ、雄牛に角で突き上げられ、飢えたライオンに四肢を食いちぎられるのを見て喝采をおくった」(本来、ローマ人は血を好む人種だったという)
「晴れ着に身をつつみ、社会の秩序に従って円形競技場にいならぶ観客全員が注視するなかで、キリスト教徒にライオンが投げ与えられた。だが、キリスト教徒自身にとっては、苦痛と死をもたらす殉教は、決して敗北ではなかった。殉教は、むしろ勝利だった」
「帝国各地の都市に住むキリスト教徒にとって、殉教は信仰の強さを万人に示し、ローマの体制を軽蔑する自分たちの信念を表明するものだった。殉教が有効な抗議行動となり、大観衆の前でキリスト教の信仰を宣言し、恐るべき公開処刑を受けて記憶に留められることが、むしろ重要なことだったのである」
次に注目すべきはドミティアヌス帝(在位81年~96年)の時です。精霊を受けたという帝自身と誓約し、その像の前で献酒と焚香(ふんこう)をしなければならず、また、皇帝を「主にして神」と呼ばなければならなかった慣習が生まれました。そして、この慣習は、その後の皇帝たちに受け継がれたのでした。
共和制に心情を寄せていた政治家、哲学者、キリスト教徒たちはドミティアヌスのこうした政策に抵抗しましたが、結局、皇帝によって追放させられたり、投獄されたり、処刑されてしまいました。しかし逆にハドリアヌス帝は、属州民のキリスト教徒の告発に対しては、確証が要求されること、そして、単なる民衆の怒号による告発は取り上げるべきでないこと、さらに、偽告発者は逆に処罰すべきであることをも命じています。(論文-日本基督神学校講師泥谷逸郎より)
また使徒教父の殉教も特筆に値します。使徒教父でアンティオキア司教の「イグナティオス」(35~107)は、トラヤヌス帝治世下(98~117)の迫害において逮捕され、ローマに護送されて、衆人環視のうちに野獣に噛み殺されるという刑に処せされました。ローマで殉教する旅の途中、最も初期のキリスト教神学の例とも言える一連の手紙を書き送り、その中で殉教への願望が述べられています。
同じく使徒教父でスルミナ司教の「ポリュカルポス」(69年頃 ~155年頃)も殉教者として火刑にされ刺し殺されました。また同じく使徒教父でローマ司教の「クレメンス」(在位92~101)も初期のローマ司教たちと同じように殉教したと言われています。使徒教父に続いて、弁証家(護教家)と呼ばれる著述家が出ますが、弁証家「ユスティノス」も165年に処刑されています。
そしてキリスト教徒は、これらの迫害を逃れて、カタコンベ(共同地下墓所)で秘かにミサを行ったと言われています。
<ディオクレチアヌス帝の迫害>
最後の迫害は、ディオクレチアヌス帝(在位:284~ 305)時代の大迫害です。デキウス帝(在位:249~251)の時代のキリスト教徒迫害も、はじめてローマ帝国全土にわたる広範なものであり、その惨酷さは今までのどの迫害にも勝るものでありましたが、今回はそれを上回る規模と内容になりました。
このディオクレティアヌス帝は能力のある皇帝でしたが、帝国内の秩序維持のために皇帝崇拝を強化しました。しかしキリスト教徒は皇帝崇拝を拒み、ローマの神々を礼拝することもありませんでした。また帝国内で大きな地歩を固めつつあったキリスト教勢力の存在も目障りで、更にキリスト教徒の兵役拒否が多発したこともあり、キリスト教に警戒感を抱くようになりました。そして、303年にディオクレティアヌス帝はローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収となりました。
それはかつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したと見なされるキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたといいます。また、その報復として、キリスト教徒によって2度にわたり宮殿放火が企てられています。キリスト教史を編纂する側は、このディオクレティアヌス帝の迫害を「最後の大迫害」と呼んでいます。
ようやく313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマ帝国による迫害は終わり、ついに392年にテオドシウス帝によってキリスト教の国教化が行われるに至ります。
【死を賭しても信仰を守った殉教者の勇気と力は何処から来たのか】
では、死を賭しても信仰を守った殉教者の勇気と力は何処から来たのでありましょうか。以下、3点を指摘いたします。
一つは聖霊の働き、聖霊の賜物です。信徒は、聖霊の賜物を受けると生死を越える境地に導かれ、我ならぬ我の力が生まれて来るというのです。特に、初期聖書時代は聖霊が強く働く時代圏にありました。
今一つは、肉体の死の先にある神の国、より優れた永遠の故郷への願望と確信です。錆がつき、虫がつく現世より、死の向こうにある朽ちない永遠の霊界に希望と憧れを見いだしました。不義を受け入れて現世の幸福を享受するより、死を賭しても神の義に生きることを選んだというのです。そして、自らの死をもってキリストを証しました。いわば、殉教という名の「究極の伝道」でもあるのです。
聖書に、「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした」(ヘブル人11・16)とある通りです。
第三に、神が殉教を要求されました。キリスト教の殉教は、神の摂理自体、償いの歴史、贖いの歴史自体に必然的な起因があるというのです。クリスチャンは、この見えざる神の摂理に殉じました。
なおキリスト教が殉教の歴史になった理由は、蕩減という原則から説明できるでしょう。人類はイエスを憎んで十字架につけたので、イエスを愛して「自ら十字架を背負うて従っていく」という逆の経路の道、即ち蕩減条件を立てなければならないというのです。ここにキリスト教が殉教の歴史になった理由があり、神を捨てたので、神に捨てられても従う立場を
蕩減復帰(マタイ27.46)しなければならないのであります。
以上の通り今回は、主に初期キリスト教会とローマ帝国下の殉教を見てまいりました。次回は、東洋、特に日本と韓国における殉教の歴史を見ていきたいと思います。(了)
牧師・宣教師 吉田宏



