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神について③ 偶像崇拝とは何か

🔷聖書の知識54--神について③ 偶像崇拝とは何か

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。(出エジプト20.4)

[はじめに]

前回、古代オリエントの多神教及び一神教の起源と確立の歴史を見て参りました。一神教の特質は、唯一性、排他性、偶像崇拝の禁止の3点であり、今回はその特質の一つである「偶像崇拝の禁止(出エジプト20.4)とその様相」について見ていきたいと思います。

そもそも偶像礼拝とは、神でないものを神として、あるいは神のようなものとして崇めることであり、神仏像、聖人像、祖先像、ミイラ、獣像さらには樹木や岩石などの形象物を崇拝することであります。しかし一方、偶像には、神、仏、超自然力などの抽象的な信仰対象に具体的な姿をもたせ、人々に明確な信仰対象を与える力があるとも言われています。

[古代イスラエルにおける偶像禁止規定]

出エジプト20章3節には「私をおいて他に神があってはならない。いかなる像を造ってはならない」とあり、また申命記4章16節~19節には「神の像を刻むこと、そのような像の前にひれ伏すこと、あるいは太陽や月のように像はなくても崇められている自然物の前にひれ伏すこと」が禁止されています。

更に、申命記18章10節には「息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない」など、「占い行為」を戒めています。

そして第二イザヤでは、モーセの十戒の第2戒に示された「偶像崇拝の禁止」違反に関するイスラエル社会への批判が直截に述べられています。 

「あなたがたは、わたしをだれにたぐい、だれと等しくし、だれにくらべ、かつなぞらえようとするのか。彼らは袋からこがねを注ぎ出し、はかりをもって、しろがねをはかり、金細工人を雇って、それを神に造らせ、これにひれ伏して拝む」(イザヤ46.5~6)

上記の通り、アブラハムの宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教では偶像崇拝は禁忌とされており、神を可視化してはならないとされました。特にユダヤ教においては厳格で、イスラエルの民が金の子牛を崇拝した際には、極刑をもって処罰されました(出エジプト32.35)。

さらに律法は個人が偶像崇拝を行った場合、その人は石で撃ち殺さなければならない(申命記17.2~5)とあり、町がこの罪を犯すなら、そこの住民と家畜を殺して、分捕り物も町と共に焼かなければならないと命じています(申命記13.12~18)。19世紀までユダヤ系の画家・彫刻家などの芸術家が輩出されなかったのは、偶像崇拝禁止の規定のためと言われています。

しかしこの戒めは、神殿、幕屋、礼拝堂、あるいはその中の装飾については除外されています。十戒を与えた神は、契約の箱を、刻んだケルビムで飾るように指示しており、単にケルビムを芸術品としてそこに置くことは、偶像崇拝ではありませんでした。このことから、像を造ることが偶像崇拝となるのは、彫像が礼拝や服従の対象となるか、礼拝の不可欠な一部となる場合においてであるとの見解があります。

[偶像礼拝に染まる]

上記で見てきましたように、古代オリエント世界は多神教であり、偶像崇拝が横行していました。特にバビロンは偶像の都でした。「ソロモンは、シドンの女神アシュトレイト、アンモン人の神ミルコムに従った。モアブ人の神、ケモシュ、アンモン人の神モレクに香を焚きいけにえを捧げた」(1列王11・5)とある通り、ソロモンでさえ異教徒の妻の影響で、晩年偶像崇拝に陥っていきました。

またモアブ人の神ケモシ、アンモン人の神ミルコムなどの神々のために聖なる高台が築かれ、祭儀が行われました(2列王記23.13)。このような土地の神々は一括して「バアル」の名で呼ばれることもあったようで、この「バアルの聖なる高台」で、イスラエルの人々は豊穣繁栄を求めて、神話が語る神々の像を造り、その前で香を焚き、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸に耽り、神殿売春をし、時には息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのであります(エレミヤ19.5)。

カナン、シリヤ地方の祭祀では、男性神のそばに女性神を置くのが慣習でした。この女神を祭って豊穣を祈る祭儀は性的なもので、その祭儀が行われる場所は「聖なる高台」と呼ばれ、神殿娼婦が置かれていたと言われています。また、カナン人は神殿男娼や娼婦を「神聖な男女」として考えていました。生殖と豊穣が結びついて、豊穣を祈る祭儀に性的な象徴が用いられるのは、現在でも世界共通の現象のようです。

[何故イスラエルは偶像礼拝に陥ったか]

イスラエルの歴史は偶像礼拝との戦いの歴史だったともいえます。その偶像拒否の姿勢は、カナン人の聖絶(民数記21・2)、BC167年のマカバイ戦争(マカバイ記)、ユダヤ戦争(ローマへの反乱、66~73)で証明されています。しかし、にもかかわらず何故、イスラエルの民は、繰り返し律法で禁止されている偶像崇拝に陥ったのでしょうか(2列王記17.12)。

そこには、ヤーベは絶対だが、しかしバアルやアスタルテも悪くないといった安易な考え、異民族との混血による感化、そして異教の神々の儀式における性的誘惑、などがあったと言われています。即ち、目立つ演出、盛観、行列を伴なう儀式などの、目に見える外形の形に引かれることの他に、罪深い人間にとっては最も大きな魅力の一つである、不道徳な遊興や淫行に関する事柄があります。

単純で質素な礼拝儀式と律法における生活を求めるイスラエル民族にとって、この宗教はあらゆる肉欲的な欲情に訴えて、しかも富や流行、贅沢をも添えているので大きな誘惑となったというのです。

[バアル信仰に何故惹かれたか]

バアル神というのは、カナン人(フェニキア人)が崇めた信仰の対象であり、カナン人は古代イスラエル人と同じセム系民族で古代イスラエル人の先住民です。 

バアル神は雨や雷や武器の神であり、乾燥地帯であるオリエント地方では、雨やそれに伴う雷というのは「恵み」であり、素直に神に感謝したことでしょう。また、豊穣の時は、周辺民族からの奪略から収穫を守る時でもあり、武器が必要でした。

ではカナンに入植した古代イスラエル人が何故バアル信仰に走ったのでしょうか。一つはバアル信仰がオリエントの気候に合った素朴な信仰であり、同じセム系民族の古くからの信仰が下敷きにあったからだという見解があります。またカナン人はそれなりに裕福で、その富の由来がバアル信仰にあると考え、バアル信仰に走ったとも考えられます。

更に古代イスラエル人は結構混血を行いました。モーゼの妻はミデアン人で、ダビデにも異民族の血が入っています。異民族と結婚して異教徒の配偶者の信仰に染まることは、ソロモンを待つまでもなくよくあることです。それに、上記しましたように、生活感のある派手な演出や性的儀礼を伴うは祭儀は魅力的だったのです。

以上の通り、上記の要因が複合的に重なって預言者から何度も戒められたにも係わらす、イスラエルは偶像崇拝に陥ったというのです。

[偶像崇拝の諸様相]

自然に関連した神々の偶像崇拝には、様々な動物、植物、天候、火山、太陽、月、惑星などを対象とするものが含まれています。例えば旧約聖書のバアルは自然の神となっていて、雨と土の肥沃と関連しており、また太陽の神としても崇拝されていました。太陽や月に代表されるように、天体を拝むことは最も古い習慣のみならず、全てを貫く力の外的な象徴として、偶像崇拝の最も普遍的なものとして早い時期からありました。

現代の偶像崇拝の対象となるものは、古代のものほど雑ではありませんが、どんな名誉や富、快楽であっても、それらを神以上に求めるなら、それは偶像崇拝の対象となり得るというのです。ルターは「人間の心は偶像を作り出す工場」と指摘しました。

使徒教父のポリュカルポスはヨハネの黙示録2章10節にある「死に至るまで忠実であれ」を読み、この言葉どおりに、皇帝を拝む偶像崇拝を拒み、火あぶりにされた後に刺し殺され、殉教しました。現在中国では、金崇拝が行われ、もはや富や金は、成り上がり中国人の神になっており、一種の偶像崇拝だと言えるでしょう。

また正教会の教えによると、木や金属その他の材料によって形作った像を神として崇めることばかりでなく、「強欲」、「酒食に耽ること」、「傲慢と名誉欲」も偶像崇拝であるとされています。こうして私たちは、地位、名誉、金、貪欲、快楽、そして人間など、神以外のものを神としてはならず、ただひたすら唯一にして創造主である真の神を礼拝すべきであるという教訓を引き出すことが出来ました。

[キリスト教の聖像、聖画論争]

ローマ帝国内で大衆伝道の方便として使われていたマリア像などの聖像や聖画が、モーセの十戒第2項「刻んだ像を造ってはならない」に当たるか否かで論争がありました。これが聖像論争であります。

726年ビザンツ皇帝レオンは、聖像は偶像に当たるとして「聖像禁止令」を出しました。しかし、ローマ・カトリックなど崇拝派は「聖像そのものは神ではなく、聖像を通して背後の神を礼拝するものである」とし、東西教会は対立し、この問題が大きな問題となって1054年には相互に破門して分裂しました。

世にいう大シスマですが、分裂の要因には、聖像論争の他に、ローマ教皇の地位(教皇首位権問題)、典礼形式の差異、フィリオクエ問題(聖霊派出問題)、聖職者の妻帯問題、などがあったと言われています。


また、ギリシャ正教の教会には「イコン」と呼ばれる聖画(聖画像)が掲げられています。以前はこれが偶像にあたるか否かということで大論争が起りましたが、東方教会で、843年「イコン」の使用が認められるようになりました。

但し、平画像のみで彫刻や立像は認められていません。現在は正教、カトリック共に聖画を飾ることを認めています。当時、聖書を読める人が少なかった時代に聖画は聖書を理解させる道案内になりました。



[マリア信仰]

更に、同様の問題はカトリックのマリア信仰にも見られます。カトリックのマリア信仰は、当時のオリエント・ギリシャ・ローマ世界に広まっていた母性信仰・再生信仰と歩調を合わせ、むしろこれを取り込むもので、キリスト教の土着化の方策だったと言われています。

カトリックは、マリア像は「崇敬」の象徴であって、「崇拝」ではないので偶像崇拝でないとの見解に立ちました。やはりカトリックは、聖画・聖像・マリア像などを用いて、大衆にキリスト教を浸透させるツールと考えた面があるのです。

しかし、プロテスタントはこれらを否定しています。カトリックの礼拝堂には、マリア像、聖画などにぎやかですが、プロテスタントの教会にはそのようなものは一切なく、礼拝堂は極めてシンプルです。

ユダヤ人は、「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」(申命記6・4)の言葉を座右の銘として刻み、シナゴーグに偶像はありません。更に徹底しているのはイスラム教のモスクです。モスクにはマホメットの像も写真も絵もありません。そこにいるのはただアラーの神だけであるというのです。

[神道の神は偶像か]

上記の通りカトリックは、マリア像はマリア崇敬の象徴であって、マリア崇拝ではないので偶像崇拝でないとの見解に立ちました。では、日本の神社の神々を参拝することは偶像礼拝に当たるのでしょうか。

この点、日本のキリスト教(特に改革派教会)は、信仰よりも教会防衛を優先し、戦前、戦争遂行の国策に同調して、神社参拝や皇居遥拝を容認した反省と自己批判から、一転して神社参拝を偶像礼拝であるとしました。

即ち、日本キリスト改革派教会の常葉隆興牧師は、戦前の日本基督教団の結成式で行われた宮城遥拝は、「偶像礼拝であり、神に対して死に値する罪であった」としました。また改革派は1951年の第6回大会で「すべての神道神社は偶像であり、我々はそれを礼拝する事を拒絶する。神棚、仏壇その他どのような宗教的事物に対しても頭を下げて礼をしない」と決議しました。更に福音派など聖書信仰の教会は、1959年11月18日の日本宣教百年記念聖書信仰運動大会において、偶像崇拝の罪を神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白いたしました。

しかし、上記のキリスト教団の見解に対して、東方教会に詳しい久保有政牧師は、神道の神の本質はユダヤ教から色濃く影響を受けたユダヤの神と共通神であり、従って偶像でも多神教でもないと言われています。例えば、宇佐八幡宮の主祭神は応神天皇ですが、神道は応神天皇その人を拝むと言うのではなく、応神天皇が崇めたもの、即ち背後の目に見えない神を礼拝しているのだと主張しました。

この点、乃木将軍が師事した国学者の渡辺重石丸は、神道は最初一神教だと主張し、先祖の神様に立ち返ること、純化して回帰することが重要であると言っています。また、歴史家であり神主でもある竹内睦泰氏は、ニニギノ命が天孫降臨する際に、天照大御神から授与されたという三種の神器は、「神器そのものに価値があるのではなく、それが象徴するもの(鏡は歴史そのもの、剣は権威、勾玉は御霊)に価値ある」と主張しています。即ち、伊勢神宮の神体は鏡でありますが、鏡は神が降臨される拠代、真理の象徴であって真理そのものでも偶像でもなく、鏡に象徴される背後の真理、神々しいもの(God)を象徴しているというのです。

確かに、古代イスラエルの幕屋(至聖所)に安置されている契約の箱の中の三種の神器(十戒の石版、アロンの杖、マナの壷)は偶像ではなく、神聖さを示すものであり、イスラエルは契約の箱自体を拝んだのではなく、そこに降臨される目に見えない神(ヤハウエ)を拝んだのであります。


これは神社の神体が神聖なものの象徴であるのと同じ脈絡にあり、そこに「目に見えない神を拝む」という共通要素があると言うべきで、神社の神体は偶像ではなく、神社参拝は偶像礼拝ではないということになります。なお、仏教やヒンズー教には神仏を刻んだ像がありますが、神道にはありません。

[神道の神々は、真理への養育係]

パウロが、「その方を誰だか知らずに拝んでいる」(使徒17.23)といい、律法を新約の福音への「養育係」と形容したように(ガラテヤ3・24)、神道の神々は、より高い真理へと人々を導くの養育係と考えられるでしょう。釈尊が最高真理の法華経へ導くために、先ず衆生の機根に合う仮の教え(方便)を説き、そうして次に最高真理の法華経に導きました。(方便品第二) 同様に、神道のカミを、究極の神に導くための一里塚と見ることが出来きるというのです。

神社に祭られる祭神には、記紀に出てくる神々、自然万物、歴史上の人物、地域の神々など4種類がありますが、これらは日本人特有の神観である「世の常ならぬ畏きもの」(本居宣長)であり、全能の絶対神ではありません。即ち、神道の祭神、神体は、究極的な真理に至る過渡的な「カミ」または象徴であり、祭神を崇めるけれども万能の絶対神として他を排除していません。

従って神道のカミは偶像ではなく、一神教を目指す神と言えるでしょう。日本の8万神社の本殿に、神体として聖書(原理)が安置される日を待ち望みます。

以上で偶像崇拝問題の論議を終わることにいたします。次回は、創世記における神観、世界観を中心に、創世記全体を鳥瞰的に学ぶことにいたします。(了)

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