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論点④ 霊とは何か(3)キリスト教の霊界観

🔷聖書の知識47-論点④-霊とは何か(3)ーキリスト教の霊界観

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(ヘブル11.13~16)

私たちにとって「死」の問題は最大の関心事であり、人生の奥義です。そして「死とは何か」を考える際に、「死後の世界は存在するか」という命題が重要になります。つまり、死生観と霊界観は表裏一体であります。

李登輝元台湾総統は、「私は十五、六歳のころから人間の生死の問題を真剣に考えてきました。『人間とは何か』『死とは何か』『死に直面して、生死をさまよう人間とは何なのか』という大命題の思索に耽りました」と述懐し、「人間『死』という問題を考え抜いて、初めて『生』についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね」(著書「武士道解題」P72 )と語りました。

しかし、死や霊界(死後の世界、あの世)に関するキリスト教の教義は解釈が分かれて、分かりにくい点が多々あります。その点、大本教の霊界観ほど分かり安いものはありません。

従って、先ず大本教の霊界観から見ていくことにいたします。

[大本教の霊界観]

大本教は、出口なおとその女婿出口王仁三郎が興した神道系新宗教で、1892年(明治25年)、なおに「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗る神が憑依したことにはじまります。

なおには国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって伝えられました。なおの娘婿である王仁三郎には、豊雲野尊などの神懸りによって神示が伝えられていましたが、なおが死去すると、国常立尊の神懸りも加わり、『霊界物語』の口述を始めました。 

そして、「立替え・立直し」という終末主義的な宣伝が活発化し、知識人や海軍士官などを含め急激に信徒を拡大していきましたが、国体にそぐわななど当局の警戒を招き、1921年には王仁三郎らが不敬罪などで逮捕され(第一次大本事件)、1935年に再び王仁三郎らは投獄されました。(第二次大本事件)。

主神は、宇宙を創造したという「大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)」で、それが生み出した様々な神も合わせて「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」と称しています。なお、古事記では、この大国常立大神を「天之御中主大神」としているほか、世界の各宗教でもゴッド、エホバ、アラーなどと呼んでいると主張しています。王仁三郎の「万教同根」の思想が表れています。

さて王仁三郎は、27才の時霊界を実際に探索し、そこで見聞きしたことを後に口述筆記でまとめた「霊界物語」を残しています。

これによれば、人間は「霊魂と肉体」からなり、これが結合したものであり、霊魂が本体で肉体は霊魂の入れ物(容器)だとしています。そして、肉体に宿っている霊魂が肉体から脱離することを、人間の死としています。

肉体は地に帰りますが、霊魂は知情意の個性を持ち、いわゆる霊界と呼ばれる世界に旅立ちます。即ち、死とは「霊界への霊魂の復活」であるというのです。

霊界は天界(天国)、中有界(中間霊界)、幽界(地獄)からなり、死ねば先ず中有界に行き、ここで善悪を判断され、善の魂は天国へ、悪の魂は地獄へ行くことになります。

ここで、善とは利他的な魂で、悪とは利己的な魂をいい、霊界ではある期間(50日)の準備期間(修養期間)があり、神について学びます。この期間に、遺族が死んだ霊のために「追善供養」を行うことによって、死者の霊魂は成長すると信じられています。

そしてどの霊界にいくかは「心のままの世界」に行く、即ち天国も地獄も最終的に自らが判断して行くようになるといい、現界(地上界)は天国に行くための「修行の場」と意義付け、人生の目的は修行することとしています。

王仁三郎は霊界に関し、次のような短歌を読みました。

世の中に死後の世界を知らぬほど

淋しきものはあらじと思う

かの霊界研究家で有名な俳優の丹波哲郎は、自分が体験した霊界は、出口王仁三郞が言われた通りだと証言し、立花隆の著書「臨死体験」とも整合性があると言われています。

また、スウェーデンボルグによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされています。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などであります。

以上が大本教の霊界観ですが、これはUCの霊界観と瓜二つです。

大本教が弾圧される前には、300万人を越える信者を擁していましたが、大本教の神観、霊界観は原理と親和性があり、当たらずとも遠からずであります。神社神道は多神教的ですが、大本教や天理教などの教派神道は一神教的であります。

ただ、神道を含め、神道系の宗教には、原罪観と贖罪思想がありません。この点、新渡戸稲造は「神道には原罪観が無い」と指摘し(「武士道」P34)、内村鑑三は『余はいかにしてキリスト信徒になりしか』で、日本の宗教には贖罪思想がないと記しています。

ちなみに幸福の科学の霊界観には、仏教的な輪廻の思想が入っているようです。「人間は肉体と霊魂で成り立ち、霊魂はこの世とあの世を転生輪廻し魂の向上を目指して修行している」というものです。あの世に還った魂は数十年~数百年して再びこの世に生まれ変わってくるといいます。これを霊的人生観と言っています。

なお、転生輪廻とは、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言い、ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著です。しかし、輪廻の考え方は聖書にはありません。

[キリスト教の霊界観]

キリスト教では、一般的に肉体が死ねば霊魂が肉体から離れて、永遠の世界に旅立つとしています。つまり、死ねば天国または陰府(よみ=ハデス)に行くとされ、陰府とは、一般的な死者の世界で地獄(ゲヘナ)ではありません。

地獄(ゲヘナ)とは、最後の審判で断罪された者が行く場所で、陰府はいわば未決囚の留置場と言えるでしょう。聖書では死んだ非キリスト教徒の霊は陰府(よみ)に下り、いわば眠ったような状態に、または捕われた、または囲い込まれた状態になっているとしています。陰府では階層があり、自らがふさわしい場所に行くといいます。

神道でも、死者は黄泉(よみ、冥界)に行くと言われています。黄泉とは、日本神話における死者の世界のことで、古事記では黄泉國(よみのくに、よもつくに、根の国)と表記されます。

旧約聖書には、死後天国に行くという観念はなく、死後陰府に行き、陰府の中にあるそれぞれの場所に行くという理解をしています。(黙示録6.9) 古代エジプトもギリシャ、シュメールも死後の行き先は陰府でした。死後、天国へ行くという思想は新約からで、クリスチャンは陰府を経ずに即天国へ行くとされています。(2コリント12.2)

世界宣教教育センター所長の奥山実牧師は、「死ねば天国か地獄かで中途半端はない」と明言されています。また中川健一牧師も、死ねばパラダイスかゲヘナ(地獄)かどちらかに行き、煉獄と言った中間的なところは存在しないとし、従っていわゆる成仏出来なかった霊(浮遊霊、幽霊)などは存在しないとしています。

その点、カトリックには「煉獄」(中間霊界)という教理があり、煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。生者が死者の救いのために祈祷や代償などの宗教行為(供養)をするというものです。ちなみに煉獄とは、天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところであり、火(苦罰)によって罪を清められた後、天国に入るとされています。

ただし、ギリシャ正教、プロテスタントは煉獄を認めていません。

以上のように、死後の世界に対し、聖書には、ハデス(陰府)、ゲマナ(地獄)、天国、第三の天(2コリント 12.2~3)、パラダイス、アブラハムの懐(ルカ12.22)、などの言葉があり、これらが一体何を意味するのか、いまいち定義がはっきりせず、もやもや感を禁じ得ません。これらはひとえに聖書を統一的に解釈する物指しがなく、教派により神学者により解釈がまちまちであることに原因があります。新しい聖書解釈の真理よ、来たりませ!

[キリスト教における死の意味]

さて、キリスト教では、死には霊的な死と、肉体の死と、永遠の死の3つがあると言っています。

霊的な死とは、失楽園でアダム、エバが堕落して神との関係が切れたことを意味します。肉体の死とは、堕落することによる罰として人間は死ぬべき存在になったというものです。また、永遠の死とは、最後の審判で有罪とされ、永遠の地獄に行くというものです。

ここで問題は、人間は霊においても肉においても一体のものとして、本来死なずに永遠に生きるように造られていたとしている一部キリスト教の教理です。エホバの証人はさらに明確に肉体が永遠に生きると主張しています。

つまりキリスト教では、肉体の死は堕落の罰として与えられた罪の結果であり、本来永遠に生きるように造られていたという考え方があります。しかし、私たちの普通の常識から考えても、人間が肉体を持ったまま死なずに永遠に生きるなどとは信じがたいことで、こんな非合理的なことはありません。

しかし偉大な神学者ジューコブズでさえ次のように言っています。

「霊魂と身体は永遠に結びついているように造られた。両者が分離することは神の秩序を破ることになる。人間の最高の目的は、霊体になることではなく、分離の状態が過ぎた後、身体と霊魂が完全に結合し回復されることである」(ジューコブズ著「キリスト教教義学」P548)

これが、いわゆる「復活の体」です。しかし、キリスト教でいう「天上に生きるのに適した復活の体」とは如何なる体なのか、霊と肉を備えるという復活の体が具体的にどういうものなのか、合理的な説明がなく明確ではありません。

上記大本教の死生観にしても、原理観にしても、肉体の死は早晩必然的に訪れるもので、そもそも肉体はやがて朽ちて土に還るものとして創造されたと考えています。それに反して、このキリスト教の「本来霊肉は一体となって永遠に生きる」という教理は理解に苦しむところであります。

[霊界と死に関する原理観]

UC創始者は、霊界と死生観について次の通り語られています。(天聖経第七篇「地上生活と霊界」より)

「人間は霊と肉、心と体の二重構造になっており、霊界とは、肉体と分離した霊人体が行く死後の世界で、神が主管される愛の世界です」.

「人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。死んで第二の出生をして行く世界が霊界です。霊界が私たちの故郷、本然の故郷です」

「霊界は永遠であり、霊界の主人は神様です。天国は神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です」

「霊界は、天国、楽園、中間霊界、地獄と何段階にも分かれます。霊界は地上で自分が愛を感じた分だけの霊界に行くので天国、地獄は自分が決めるものです。霊界で審判する裁判官は自らの良心です」

「人間の霊人体と肉身の関係で、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は100年くらい生きて死にますが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します」

「有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させるべき責任があるということです。真の愛の実践を通して、完熟した霊人体が実っていきます」

以上を整理すると、a.死とは霊魂(霊人体)と肉体が分離して霊魂が霊界に旅立つこと、b.霊界は実在する世界で永遠であり、霊魂も霊界で永遠に生きること、c.霊界には階層があり、自らの良心が選択してそれぞれの階層に赴くこと、d.霊魂の完成は肉身が土台となり、その要素は真の愛であること、であります。

そしてこの霊界観は大本教の霊界観とほぼ同じです。上記しましたように、大本教には原理的な神観、霊界観を有しています。ただ惜しむらくは、救済論の根幹となる原罪観、贖罪思想がありません。これは、神道にも言えることです。

[死者と先祖供養]

霊界は即ち数千億の死者(先祖)が住む世界です。この先祖の霊のために地上人が何らかの鎮魂、慰霊などの宗教的儀礼を行うことが、いわゆる先祖供養であります。

しかしプロテスタントは、先祖供養は偶像崇拝につながるという理由で、消極的又は否定的であります。また、死者は陰府という閉ざされた場所に閉じ込められたような状態に置かれていると考えていますので、そもそも地上人がそれに働きかけるという関係にはありません。

この点、上記しましたように、カトリックには煉獄(中間霊界)という教理があり、煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。

UCでは、霊界解怨、先祖解怨、先祖祝福という儀式があります。これは未だ救われない死者の霊を解放するため、生者が行う宗教行為です。そのことによって霊界の先祖の霊人は善霊となって子孫によい影響を及ぼすようになるというのです。上記したように、大本教にも、似たような「死者への追善供養」という考え方があります。

UCの先祖解怨の思想は、あくまで生者か祭司として行うもので、生者に主体性(祭司性)がありますので、死者に重きを置く日本の先祖供養とは若干赴きが異なりますが、しかしこれは一種の先祖供養といってもいいでしょう。

日本において伝統的に根付いている先祖供養は、古神道以来の土着宗教思想で、今は専ら仏教がこれを担っています。しかし、仏教の経典には先祖供養に関しての記述はなく、この先祖供養の教えは仏教からではなく、日本に古くから伝わる祖霊信仰、ないしは儒教から来ていると考えられます。  

祖霊信仰とは、既にこの世にいない祖先を祀ることによって、現世で生きている者の生活に影響を与えることができる、とされる信仰のことです。

また、先祖供養の思想は、目上の人を敬うという日本の伝統的倫理観からも強い影響を受けています。即ち、先祖供養は、祖霊信仰と伝統的倫理観が結びついた土着の宗教儀礼と言えるでしょう。

慰霊、祈祷、布施などの功徳を死者に回向(自分の善行・功徳を相手にふりむける)して先祖の霊を鎮魂し、その結果、生者もそのお陰に浴するというものです。

以上の論議は、死後、人間の霊が行く霊界の存在を前提とした話しです。先祖供養は、霊界で生きている先祖の霊人体に対する現世人からの宗教行為であります。

[死生観雑感]

上記に見てきましたように、死とは、肉体の終焉であり、霊魂が肉体から分離されて霊界に旅立つ、いわば第二の出生です。霊界への復活とも言えるでしょう。 

即ち、人間の生命は精子と卵子の結合で誕生し、母親の胎内での10カ月(腹中時代)、出生を経て肉体を持った地上での80年の生涯(地上時代)、肉体の死を経て霊界での永生(霊界時代)、という3世界を生きていくようになっています。

これが原理観であり、これらの事実は、表現の違いや、多少の教理の違いはあっても、大筋では大多数の宗教が認めているところです。従って、死は恐るべきことでも、抵抗すべきことでもなく、自然の道理であります。

ただ問題は、地上において為すべきことを為したか否か、悔いや恨みが残っていないかどうか、ということです。これは、人間の良心が知り得ることであり、良心に照らして顧みることが肝要です。

そして人間は、上記の個人的な思惑を越えて、大義のために死ぬことを良しとしてきた伝統があります。武士道における「切腹」はその典型です。特攻隊の若き命も、国家、天皇、家族といった大義に殉じていきました。クリスチャンの殉教は信仰(神)という大義に捧げられました。それが、主君であれ、国家、天皇、家族、キリスト、信仰であれ、そのために尊厳ある自分の命を捧げることに価値を見出だしたのです。

私たちは、いかにして堂々たる死を迎えられるか、これは深刻な課題です。それは、自己の生に「悔いがない」か、あるいは「大義に殉ずるか」のいずれかになると思われます。いずれにせよ、信仰者としては「死を希望とし、自らの生死の一切を神に委ねる」という境地、一人の人間としては、「死に際し自らが納得しているかどうか」即ち「悔いがない」かどうかが問題になるでしょう。

さて、人間の死に様にはなんと様々あることでしょうか。中曽根康弘や李登輝のような大往生、特攻隊やクリスチャンに見る殉教、リンカーン、ケネディ、キングに見る暗殺、西部邁の自裁死、朴元淳ソウル市長や太宰治、中川一郎、新井将敬などに見る自殺。

それにしても、いかに死ぬかは、いかに生きるかよりも難しい人間の最後の課題ではあります。

以上の通り、宗教における霊界観、死生観を見て参りました。次回は、神の働きの表れと言われている、「啓示、黙示、役事」(論点5)について考えていきます。(了)



*上記絵画:フェリペ二世の栄光(エル・グレコ画)


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