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論点⑦ イエス・キリストはなぜ神になったか?

🔷聖書の知識50-論点(7)-イエス・キリストは何故神になったか



キリスト論とは、「イエス・キリストは誰か」という問題、端的に言えばイエスが神(神性)か人(人性)か、はたまたその双方かというイエスの存在論的な本質やその位格について論じる神学と言えます。そしてこれらは、三位一体論と密接に関連するものです。

キリスト教の歴史の中で、三位一体論と並んで、このイエスの本質の問題ほど激しく論議されて来た神学上の論点はありません。キリスト教としては、ニケーア公会議(325年)及びカルケドン公会議(451年)で、「イエスキリストはまことの神で神性において父と同質、まことの人であり人性においてわれわれと同質。神性と人性の両性を有し、神であり人であるが、しかも一人格である」という両性説で最終的に決着を見ることになりました。

即ち、キリストは、神がマリアに受肉する前は神性のみの存在であったが、受肉により人性をも持つようになったというわけです。(「やさしいキリスト教神学」P90)

上記の問題については、これまで喧々諤々、様々論議されてきました。これらの代表的な諸説を対比しながら「イエスキリストとは誰か」について考えていきたいと思います。

[伝統的キリスト教のイエス観]

伝統的キリスト教では、前記公会議の信条を支持し、次のように主張しています。

イエス・キリストは歴史上のダビデの子孫としての人間であるが、しかし単なる人間ではなく、神が肉体をとり、受肉されて人となって地上に来られた方であり(ヨハネ1.14)、死人から復活して神性を持った存在であるとしています。(ロマ書1.4)

この認識は、イエスの復活を体験した弟子たちの告白(ヨハネ20.28)と、その後の豹変した命懸けの信仰をみれば明白であるというわけです。

そしてイエスは自ら、「アブラハムの前からいる」(ヨハネ8.58)と言われ、「世界が存在する前からいる」(ヨハネ17.5)と表明されました。(キリストの先在) また、「私は父と一つ」(ヨハネ10.30)、「わたしを見たものは、父を見たのです」(ヨハネ14:6-9)とも証言され、自ら神性宣言されていることからも、イエスが神であることは明らかだと言うのです。

そして、福音派の中川健一牧師は、「人でなければ死ねない、神でなければ救えない」と表明され、イエスは神であり人である必要があるといわれています。アメリカの神学者ゲーリーバーグは、「キリストは神の驚くべき自己啓示であり、キリストと神との合一に妥協はありません。イエスは完全に神であり、そして完全に人間なのです」(「キリスト教神学Q&A」教文館P108)と表明しています。

[イエスを巡る論争]

しかし、イエス自身が「私は神である」と明示された記述は福音書にはなく、ナザレの一大工の息子が神だというのは、いかにも常識通念から乖離があり、合理性に欠ける教義だという批判も多々あります。イエス・キリストが神であるのか人なのか、あるいは神であり人であるのか、といった「キリストが誰か」についてのいわゆるキリスト論は、400年に渡って激しく論議され、前記の通りようやくカルケドン公会議で「キリストは神であり人である」との宣言が出されました。

しかしそのカルケドン信条でさえ、神と人という相反する概念の合体は可能なのか、その関係はどうなのか、3つの神の概念は多神教に陥るのではないか、といったことへの説明はなく、実体はあくまで「信仰告白」でありました。著名な神学者も「(神性と人性の)ニ性を持ちながら、しかもどのようにして一人の人であり得るのか、この質問に答えることは難しい」(シーセン「組織神学」P503)と合理的な説明の難しさを吐露しています。

その論争は400年に渡り、アリウス主義、ネストリウス主義、単性論、化現論など多くの説が生まれましたが、結局前記カルケドン信条で決着したのです。

「イエスを人だとすれば、イエスの崇拝は偶像崇拝になる」、「イエスを神だとすれば十字架の贖罪を説明できない」というように、どちらかを否定すれば救いの教理が崩壊する恐れがあり、結局「神でなければ救えない、人でなければ死ねない」としてキリストの両性説を採用したのであり、苦渋の選択でした。

[異なる見解について]

この伝統的なキリスト教の見解に対して、「イエスは神ではなく人である」との考え方が根強くあります。

キリスト教の三大異端とされているのが、エホバの証人、モルモン教、家庭連合(統一教会)であります。他にもユニテリアン、クリスチャンサイエンスなどもありますが、これらは皆、三位一体論を否定し、イエスキリストを神ではなく人(被造物)とする傾向があります。

ちなみに、異端かどうかの最大の尺度は、イエスを神と認めるか否か、即ち三位一体の神を認めるかどうかだと言われています。これら異端とされている宗派は、この基準に引っ掛かっていると言うわけです。(三位一体論については次回考察することにいたします)

[エホバの証人などの神概念]

エホバの証人は、イエス・キリストは神の子であるが、神ではなくエホバによって最初に創造された被造物とし、天使ミカエルだといっています。また、キリストの復活はからだの復活ではなく、霊的な復活であるとします。聖霊についても、聖霊は神ではなく、「非人格的な神の活動力」であるとしています。文字通り三位一体論の全面否定です。

ユニテリアンも、キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調します、イエス・キリストを卓越した宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定しています。イギリスの神学者ジョン・ヒック(1922年 ~2012年)は、三位一体の神観を拒絶し、イエスは神の霊と愛に満ちた偉大な預言者であるが神そのものではなく人間であるとしました。神の受肉という教義は、あくまでも比喩(メタファー)として考えるべきであるというのがヒックの考え方であります。

[ニケーア・カルケドン信条までの道のり]

イエスキリストは誰かという問題は、キリスト教における異端論争と異端排除の歴史を見ればよく分かるというものです。何故なら、古代キリスト教の主たる異端論争は、イエス・キリストが神か人か、或いは両方かで争われてきたからです。

4世紀になると,キリストの神性と三位一体の教理を巡って,アリウス主義,ネストリウス派,単性論などの異なる思想が続出し,これらに対しニカイア信条を中心とする正統教理が明文化されていきました。正統派のアナタシウス派(ニカイア派)は、ニカイア会議(325年)でアリウス派を、エフェソス公会議(431年)でネストリウス派を、カルケドン会議(451年)で単性派を異端として排除しています。

こうして結局、アタナシウス派の三位一体説が正統教義として確立して、「イエスは神と同質で混合も分離もせず、神性と人性の両面を一つの位格の中にもつ」とされ、「イエス・キリストは、100%神であり、100%人間である」とされました。

[公会議で異端とされた各派の見解]

アリウス派は、キリストは神性的存在であるが神と同一ではなく「被造物」としました。イエス・キリストは「まことの神にしてまことの人である」として、イエスの神性と人性の両性が不可分に繋がっているとしたアタナシウス派に対し、アリウス派はイエスの神的資質を評価したものの、被造物たる人であるとしたのです。

つまり「キリストは、神ではなく被造物たる人間であり、神よりも劣る」という教理です。これは、ユダヤ教、イスラム教、エホバの証人、ユニテリアンなどと共通する考え方であり、UCもこのキリスト観の系譜にあると言えるでしょう。しかし、この考え方は三位一体論の否定に繋がり、325年のニカイア公会議で異端とされました。

更にアリウス派は、イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であり、キリストの先在説を否定し「キリストが存在しない時があった」としました。アリウス派はニカイア公会議で異端とされたあと、ゴート族、ゲルマン系民族に広まり、フランク王国に統合されるまで200年間にわたって存続しました。

次にネストリウス派ですが、イエスの両性を認めるものの、「位格は神格と人格の二つの位格に分離される」とし、「イエスの神性は受肉によって人性に統合された」と考えます。 

そのため、人性においてイエスを生んだ母マリアは単に人間の子を生んだだけなので、「神の母」と呼ぶことを否定し「キリストの母」と呼びました。このネストリウス派もエフェソス公会議(431年)で異端とされ、以後、ペルシャ帝国、中央アジア、モンゴル、中国に伝わりました。中国では景教と呼ばれ、最澄や空海にも影響を与えたと言われています。

一方単性論は「キリストの人性は二つの性からなるが、受肉による合一以後、人性は神性に融合し摂取され単一の神性人になった」とするもので、カルケドン公会議で異端とされました。この単性派は非カルケドン派と呼ばれ、シリア正教会、アルメニア教会、コプト正教会、エチオピア正教会などが属しています。

[イエスは何故神になったかの考察]

「救世主イエスは人にして神である」と宣言する信仰告白は、初代教会の原体験やパウロの回心体験におけるイエス観の影響があると思われます。パウロはペテロのように生前の人間イエスに会ったのではなく、復活されたイエスに会って回心したのであり、そのイエスは当に神的イエスでありました。パウロは「キリストは永遠に褒めたたえられる神」(ロマ書9・5)と告白しており、このパウロのイエス観はキリスト教のイエス観に大きな影響を与えました。

また、初代教会信徒にとってこのキリストは、すべからく神と同一視されるものであったのであります。そこには、神がイエス・キリストを通し、聖霊の力によって自分達を救われたという古代教会の原体験がありました。(小田垣雅也著「キリスト教の歴史」) 使徒時代のクリスチャンにとって、イエス・キリストや聖霊との出会いは、確かに神と同視し得るものでした。使徒トマスは「私の主、私の神」(ヨハネ20・28)と告白しています。

聖書学者の八木誠一氏は、「何故イエスは神になったか」(神格化)について次の3段階を指摘しています。

第1段階は、イエスの直弟子たちが、師であるイエスを見捨てた自責任の念とそれによる苦しみから解放されるために、イエスを旧約聖書のイザヤ書に預言されている「苦難の僕」に擬してメシア化したことです。

次に第2段階は、異邦人がクリスチャンになる過程で、ローマヘレニズム世界での神観念に影響され「主」と告白されるようになったことを挙げています。それは特に、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の皇帝が、神性と主権という二つの概念が含まれる「主」(キュリオス)と公言して神的存在とされ、皇帝礼拝を強要してきたのに対して、初期キリスト教が「イエスこそ主(神)なり」という信仰を告白したことによります。ちなみに、初代教会において「イエスが主である」と告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。つまり、殉教覚悟の告白を意味したのです。   

第3段階は、キリスト教がローマ帝国にて公認され、ローマ帝国内での精神的統一の必要性から、信仰の多様性を排除してキリストを神と同本質とするアタナシウス派(ニカイア派)を正統としたことです。

以上が八木氏の見解ですが、ここに至って、もともとユダヤ教の一改革者にすぎず、人間としての一人のユダヤ人が、畏れ多くも絶対者とされることになったというのです。

[神格化]

そして両性説は、イエスキリストを「神格化」することの理由付けに他ならないとの見方も出来ます。イエスが神であることを該当聖句を根拠に後付けしたと言えなくもありません。

教祖の神格化は多くの宗教で見られるところであり、仏教では第一原因としての神を認めていなかった原始仏教を改変して、大乗仏教において釈尊を「久遠仏」として神格化しました。「如来」の思想も同様です。

天理教の教祖中山みきは親神様(天理王命)と同視されて、今も教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」があります。西洋の王、中国の皇帝、日本の天皇もかっては神格化され神になりました。

教祖が神として神格化され絶対視されることで、信仰は大きな求心力を発揮するのであり、一神教の強さはここにあります。イエスが神であると信じる信仰は、迫害に打ち勝つ力となり、その意味でイエスは神でなければならなかったとも言えるのです。さて、読者の見解はいかに!

[原理観]

この項の最後に原理観を見ておきたいと思います。

神の創造目的(創世記1.28)を完成した人間は、神の実体対象(第二の神)として神的価値を有し、それぞれが唯一無二の宇宙的価値を有する存在であります(講論P252)。その創造目的を完成した人間こそ創世記2章9節で象徴されている「生命の木」であるというのです。人間に堕落(創3.6)がなかったなら、人間は生命の木になり得る存在でした。

今までキリスト教は、ヨハネ14章9節~10節の「私を見たものは神を見たもの」や、ヨハネ1章10節の「世は彼(イエス)によってできた」、ヨハネ8章58節の「アブラハムの生まれる前から私(イエス)はいた」などの聖句を根拠にイエスが創造主(神)であると主張してきました。

しかしイエスキリストは、正にこの神的価値を有する「創造目的を完成した人間」(生命の木)に他なりません。イエスは神と一体となり神性を持っていますので、第二の神とは言えますが神自体ではないというのです。そしてイエスキリストが創造目的を完成した人間であるとしても、それはイエスの価値を引き下げることにはなりません。何故なら、創造目的を完成した人間は神的価値を有し、唯一無二の宇宙的価値を有する存在であるからです。この点で伝統的キリスト論とイエスを人間と見る見解との両者を仲介できる余地があると言えるでしょう。

しかし、この原理観に対して、東京神学校助教授の尾形守氏は、「人間を神性を持った存在とすることで、イエスと人間が同レベルの神性を持った存在として位置付けようとする悪魔の意図が潜んでいる汎神論的人間論」と断じて批判しています(「異端見分けハンドブック」P93)。

このお門違いの批判は、余程急所をつかれたのか、その慌てぶりを見るようです。イエス・キリストを神的価値を有する人間と見ることがイエス・キリストの価値を引き下げると批判しますが、神的価値を有する神の実体対象たる人間という観念は、イエス・キリストの価値を引き下げるものではありません。その人性の中に十全な神性が顕現されているからです。

いずれにせよ、イエスは原罪がないという点を除けば、我々と変わらない人間であり、霊界において霊人体として存在される点で霊界の先祖と変わりはありません。無論イエスは、霊界において最上位の存在であり、この点で先祖とは異なることは言うまでもありません。(講論P259)

また、イエスが神的価値を有するとしても、神そのものではないことは、「神に(人間を)取り成し」(ロマ8.34)をされ、「我が神、我が神」(マタイ27.46)と神を呼ばれ、「父よ、時がきました」(ヨハネ17.1)と神を父と呼ばれている聖句を見ても明らかであります。

以上が「イエスとは誰か」(キリスト論)に関する原理観であります。

前記に見てきた通り、このキリスト論は三位一体論と並んで、多くの議論を呼んできました。イエスの存在論的な在り方とその価値について正しく認識することは、私達の信仰や救いの意味を知る上で不可欠であります。何故なら、人間は神霊的存在であると同時に真理に立つ存在でもあるからです。信仰と理性は究極的に一致しなければなりません。

この点、伝統的キリスト教は、現代人の合理性にも応える義務があるといわなければなりません。つまり、今回のキリスト論に限らず、キリスト教が持ついくつかの非合理性は、それを信仰告白(信仰的事実)として受け入れてきたにせよ、多くの信徒が困惑し、信仰上の混乱をもたらしていることは事実であるからです。

今回のキリスト論を踏まえて次回は、三位一体論及び重生論(新生論)を考察していきます。(了)



*上記絵画:サルバトール・ムンディ《救世主》(レオナルド・ダ・ビンチ画)

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