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使徒信条を原理観で読み解く④ 子なる神について-キリスト論(1)

🔷聖書の知識159ー使徒信条を原理観で読み解く④ 子なる神について-キリスト論(1)


我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。


次に使徒信条は、前二回の「父なる神」に続いて「子なる神」について述べています。この項は最も長いフレーズ(5行)であり、イエス・キリストについてどう認識するかという問題を扱っています。神学的にはいわゆる「キリスト論」に属する領域であります。 


そこで先ず、「イエスは誰か」というキリスト論を論じた上、信徒信条「子なる神」に関する上記5行のフレーズについて逐次解説いたします。なお、この議論はそのまま三位一体論の問題に直結することになりますが、三位一体論については別途、異端問題の項で解説いたします。


【子なる神―キリスト論】


我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。(使徒信条)


キリスト論とは、イエス・キリストはどのような存在であるか、神との関係はどうか、といったイエス・キリストの本質を考察し、それに付随して先在、受肉、公生涯、十字架、復活、昇天などを、イエス・キリストとの関わりにおいて論じる神学分野であります。


平たくいえば、「イエス・キリストは誰か」という問題を扱い、イエスが神(神性)か人(人性)か、はたまた両性かというイエスの存在論的な本質やその位格(独立した人格)について論じる神学と言えます。そしてこれらは、前記の通り、三位一体論と密接に関連するもので、キリスト教の最も根幹となる教理であります。


洗礼を受けるイエス・キリスト(カール・ブロッホ画)


キリスト教の歴史の中で、三位一体論と並んで、このイエス・キリストの本質の問題ほど激しく論議されて来た神学上の論点はありません。キリスト教としては、ニケーア公会議(325年)、及びカルケドン公会議(451年)で、「イエスキリストはまことの神であり神性において父と同質、まことの人であり人性においてわれわれと同質。神性と人性の両性を有し、神であり人であるが、しかも一人格である」という両性説で最終的に決着を見ることになりました。


即ち、キリストは、神がマリアに受肉する前は神性のみの存在であったが、受肉により人性をも持つようになった、つまり、神がマリアに受肉して「人になった神」であるというのです。


この問題については、これまで様々な論議がなされてきました。以下、これらの代表的な諸説を対比しながら「イエスキリストとは誰か」、即ちキリスト論について考えていきたいと思います。


さて、使徒信条の第二の信仰告白は、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」ですが、先ずはじめに、「独り子」、「主」、「イエス・キリスト」の意味をおさらいしておきます。


「イエス」とは、ヘブル語ではヨシュアといい、「主は救い」という意味の人名です。ギリシャ語で「キリスト」、ヘブル語で「メシア」、日本語では「救世主」という意味であり、従ってイエス・キリストとは「メシア(救世主)であるイエス」ということになります。イスラエルではメシアとは「油を注がれた者」を意味し、神から特別の使命を託された人のことです。


次に「独り子」の意味ですが、これは「神の子」という意味です。もちろん、ある意味で、全ての人は神の子でありますが、イエスは、特別な意味で「神の子」(the Son of God)であり、正に神のひとり子であります。


即ち、独り子とは、父と子の特別な関係を示す言葉で、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3.16)とあるとおり、正に「罪(原罪)なきメシア」を意味する言葉です。ヨハネ書には次の通りあります。


「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1.14)


そして「我らの主」 の「主」とは、ギリシア語で「キュリオス」といい、尊敬の意味を込めて呼びかける際に使用する言葉で、新約聖書ではイエスを「救い主」として告白する際に使用する言葉であります。


しかし旧約聖書では、主とは「神(ヤハウエ)」を意味します。「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である」(出エジプト3.15)とある通りです。


更に聖書には「人の子」という言葉が頻繁に出てきますが、この聖書的な意味は何でしょうか。


「人の子」の第一の意味は「メシア」、即ち「独り子」のことで、ダニエル書7章13節~14節に「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」とある通りです。


そして「人の子」の二番目の意味は、イエスが本当に、「人間」であったと言うことです。


イエスは、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8.20)と、ご自身を「人の子」を呼ばれ、一人の人間であることを証言されています。


つまり、「人の子」という言葉は、イエスがメシヤであること、また人間であること、という二つの意味で使われています。


【伝統的キリスト教のイエス観】


先ず最初に、伝統的なキリスト教のイエス観とその論争について見ていきたいと思います。伝統的キリスト教では、前記カルケドン公会議の信条を支持し、次のように主張しています。


「イエス・キリストは歴史上のダビデの子孫としての人間であるが、しかし単なる人間ではなく、神が肉体をとり、受肉されて人となって地上に来られた方である」(ヨハネ1.14)


前記の認識は、イエスの復活を体験した弟子たちの告白(ヨハネ20.28)と、その後豹変した命懸けの信仰をみれば明白であるというのです。そしてイエスは自ら、「アブラハムの前からいる」(ヨハネ8.58)と言われ、「世界が存在する前からいる」(ヨハネ17.5)と表明されました。いわゆるキリストの「先在性」です。


また、「私は父と一つ」(ヨハネ10.30)、「わたしを見たものは、父を見たのです」(ヨハネ14.6~9)とも言われており、イエスが神であることは明らかだと言う訳です。


そして、福音派の中川健一牧師は、「人でなければ死ねない、神でなければ救えない」と表明され、イエスは神であり人である必要があるというのです。アメリカの神学者ゲーリーバーグは、「キリストは神の驚くべき自己啓示であり、キリストと神との合一に妥協はありません。イエスは完全に神であり、そして完全に人間なのです」(「キリスト教神学Q&A」教文館P108)と明記しています。


【イエスを巡る論争】


しかし、イエス自身が「私は神である」と明示された記述は福音書にはなく、ナザレの一大工の息子が神だというのは、いかにも常識通念から乖離があり、合理性に欠ける教義だという批判が多々あります。


イエス・キリストが神であるのか人なのか、あるいは神であり人であるのか、といった「イエス・キリストが誰か」についてのキリスト論は、400年に渡って激しく論議され、前記の通り、ようやくカルケドン公会議で「キリストは神であり人である」との宣言が出されました。


<苦渋の選択―カルケドン会議>


しかしそのカルケドン信条でさえ、神と人という相反する概念の合体は可能なのか、その関係はどうなのか、父・子・聖霊の3つの神の概念は多神教に陥るのではないか、といったことへのきちんとした説明はなく、実体はあくまで「信仰告白」でありました。


著名な神学者も「(神性と人性の)二性を持ちながら、しかもどのようにして一人の人であり得るのか、この質問に答えることは難しい」(シーセン「組織神学」P503)と述べ、合理的な説明の難しさを吐露しています。その論争は400年に渡り、アリウス主義、ネストリウス主義、単性論、化現論など多くの説が生まれましたが、結局上記カルケドン信条で決着したというのです。


「イエスを人だとすれば、イエスの崇拝は偶像崇拝になる、イエスを神だとすれば十字架の贖罪を説明できない」というように、どちらかを否定すれば救いの教理が崩壊する恐れがあり、結局「神でなければ救えない、人でなければ死ねない」としてキリストの両性説を採用したのであり、苦渋の選択でした。


<異なる見解について>


上記の伝統的なキリスト教の見解に対して、「イエスは神ではなく人である」との考え方が根強くあります。


日本においてキリスト教系のエホバの証人、モルモン教、UCを始め、ユニテリアン、クリスチャンサイエンスなど、これらは皆、三位一体論の神を否定し、イエス・キリストを神ではなく人(被造物)としています。ちなみに、異端かどうかの最大の尺度は、イエスを神と認めるか否か、即ち三位一体の教理を認めるかどうかだと言われています。前記異端とされている教派は、この基準に引っ掛かっていると言うわけです。


例えばエホバの証人は、イエス・キリストは神の子であるが、神ではなくエホバによって最初に創造された被造物とし、イエスを天使ミカエルだと主張しています。また、キリストの復活は「からだの復活ではなく、霊的な復活」であるとし、聖霊についても、聖霊は神ではなく、「非人格的な神の活動力」であるとしています。文字通り三位一体論の全面否定です。


ユニテリアンも、キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調します、イエス・キリストを卓越した宗教指導者としては認めつつも、神としての超越性は否定しました。


また宗教的多元論で知られるイギリスの神学者ジョン・ヒック(1922 ~2012)は、三位一体の神観を拒絶し、イエスは神の霊と愛に満ちた偉大な預言者であるが、神そのものではなく人間であるとしました。神の受肉という教義は、あくまでも比喩(メタファー)として考えるべきであるというのがヒックの考え方であります。


イスラム教では、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドの5人を預言者たる「使徒」と認めており、キリスト教はイスラームに強い影響を与えました。しかし、イスラム教はムハンマドを「飯を食べ市場に行く一人の人間」と見ているのと同様、ナザレのイエスを神ないしは神の子ではなく人と見ています。 クルアーンには、「これがマルヤムの子イーサー(イエス)。みながいろいろ言っている事の真相はこうである。もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い」とある通りです。また、ユダヤ教もイエスを人(被造物)と見て、三位一体の神観を多神論と見ました。


<公会議で異端とされた各派の見解>


更に公会議で異端とされた各派の見解を簡潔に見ておきます。


アリウス派は、キリストは神性的存在であるが神と同一ではなく「被造物」としました。イエス・キリストは「まことの神にしてまことの人である」として、イエスの神性と人性の両性が不可分に繋がっているとしたアタナシウス派に対し、アリウス派はイエスの神的資質を評価したものの、被造物たる人であるとしたのです。


つまり「キリストは、神ではなく被造物たる人間であり、神よりも劣る」という教理です。前述しましたように、これはユダヤ教、イスラム教、エホバの証人、ユニテリアンなどと共通する考え方であり、UCもこのキリスト観の系譜にあると言えるでしょう。しかし、この考え方は三位一体論の否定であり、325年のニカイア公会議で異端とされました。


更にアリウス派は、イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であり、キリストの先在説を否定し「キリストが存在しない時があった」としました。アリウス派はニカイア公会議で異端とされたあと、ゴート族、ゲルマン系民族に広まり、フランク王国に統合されるまで200年間にわたって存続しました。


次にネストリウス派ですが、イエスの両性を認めるものの、「位格は神格と人格の二つの位格に分離される」とし、「イエスの神性は受肉によって人性に統合された」と考えます。 そのため、人性においてイエスを生んだ母マリアは単に人間の子を生んだだけなので、「神の母」と呼ぶことを否定し「キリストの母」と呼びました。  


このネストリウス派もエフェソス公会議で異端とされ、以後、ペルシャ帝国、中央アジア、モンゴル、中国に伝わりました。中国では「景教」と呼ばれ、最澄や空海にも影響を与えたと言われています。


一方単性論は「キリストの人性は二つの性からなるが、受肉による合一以後、人性は神性に融合し摂取され単一の神性人になった」とするもので、カルケドン公会議で異端とされました。この単性派は非カルケドン派と呼ばれ、シリア正教会、アルメニア教会、コプト正教会、エチオピア正教会などが属しています。


<ニケーア・カルケドン信条の結論>


このようにイエスキリストは誰かという問題は、キリスト教における異端論争と異端排除の歴史を見ればよく分かるというものです。


前記の通り、アリウス派、ネストリウス派,単性論などの異なる思想が続出し,これらに対しニカイア信条を中心とする正統教理が明文化されていきました。こうして、正統派のアナタシウス派(ニカイア派)は、ニカイア会議(325年)でアリウス派を、エフェソス公会議(431年)でネストリウス派を、カルケドン会議(451年)で単性派を異端として排除しました。


結局、アタナシウス派の三位一体説が正統教義として確立して、「イエスは神と同質で混合も分離もせず、神性と人性の両面を一つの位格の中にもつ」とされ、「イエス・キリストは、100%神であり、100%人間である」とされました。


【イエスは何故神になったかの考察】


では如何にしてイエスは神になったのでしょうか。これには原始教会におけるイエスの弟子たちの原体験を見ていくことが肝要です。


<初代教会の原体験>


「救世主イエスは人にして神である」と宣言する信仰告白は、初代教会の原体験やパウロの回心体験におけるイエス観の影響があると思われます。


初代教会信徒にとってこのキリストは、すべからく神と同一視されるものであったのです。そこには、神がイエス・キリストを通し、聖霊の力によって自分達を救われたという「古代教会の原体験」がありました(小田垣雅也著「キリスト教の歴史」)。 使徒時代のクリスチャンにとって、イエス・キリストや聖霊との出会いは、確かに神と同視し得るものでした。使徒トマスは「私の主、私の神」(ヨハネ20.28)と告白しています。


またパウロはペテロのように生前の人間イエスに会った経験はなく、復活されたイエスに会って回心したのであり、そのイエスは当に神的イエスでありました。パウロは「キリストは永遠に褒めたたえられる神」(ロマ書9.5)と告白しており、このパウロのイエス観はキリスト教のイエス観に大きな影響を与えました。


聖書学者の八木誠一氏は、「何故イエスは神になったか」(神格化)について次の3段階を指摘しています。


第1段階は、イエスの直弟子たちが、師であるイエスを見捨てた自責の念とそれによる苦しみから解放されるために、イエスを旧約聖書のイザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」に擬してメシア化したことです。


次に第2段階は、異邦人がクリスチャンになる過程で、ローマヘレニズム世界での神観念に影響され「主」と告白されるようになったことを挙げています。それは特に、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の皇帝が、神性と主権という二つの概念が含まれる「主」(キュリオス)と公言して神的存在とされ、皇帝礼拝を強要してきたのに対して、初期キリスト教が「イエスこそ主(神)なり」という信仰を告白したことによります。


ちなみに、初代教会において「イエスが主である」と告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。つまり、殉教覚悟の告白を意味したのです。   


第3段階は、キリスト教がローマ帝国にて公認され、ローマ帝国内での精神的統一の必要性から、信仰の多様性を排除してキリストを神と同本質とするアタナシウス派(ニカイア派)を正統としたことです。


以上が八木氏の見解ですが、ここに至って、もともとユダヤ教の一改革者にすぎず、人間としての一人のユダヤ人が、畏れ多くも神とされることになったというのです。


<神格化は求心力の源>


そして両性説は、イエスキリストを「神格化」することの理由付けに他ならず、イエスが神であることを該当聖句を根拠に後付けしたと言えなくもありません。


そもそも教祖の神格化は多くの宗教で見られるところであり、仏教では第一原因としての神を認めていなかった原始仏教を改変して、大乗仏教において釈尊を「久遠仏」として神格化しました。「如来」の思想も同様です。


天理教の教祖中山みきは親神様(天理王命)と同視されて、今も教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」があります。西洋の王、中国の皇帝、日本の天皇もかっては神格化され神になりました。


教祖が神として神格化され絶対視されることで、信仰は大きな求心力を発揮するのであり、一神教の強さはここにあります。イエスが神であると信じる信仰は、迫害に打ち勝つ力となり、その意味でイエスは神でなければならなかったとも言えるのです。


【キリスト論の新しい視点とキリスト論の課題】


では原理はイエス・キリストをどう見ているでしょうか。原理はイエスを「創造目的を完成したアダム」(人間)と見ています。


神の創造目的(創世記1.28)を完成した人間は、神の実体対象(第二の神)として神的価値を有し、それぞれが唯一無二の宇宙的価値を有する存在であります(講論P252)。 その創造目的を完成した人間こそイエス・キリストで、創世記2章9節で象徴されている「生命の木」であるというのです。人間に堕落(創3.6)がなかったなら、人間は生命の木になり得る存在でした。


今までキリスト教は、「私を見たものは神を見たもの」(ヨハネ14.9~10)や、「世は彼(イエス)によってできた」(ヨハネ1.10)、「アブラハムの生まれる前から私(イエス)はいた」(ヨハネ8.58)などの聖句を根拠にイエスが創造主(神)であると主張してきました。しかしイエス・キリストは、正に神的価値を有する「創造目的を完成した人間」(生命の木)に他なりません。イエスは神と一体となり神性を持っていますので、第二の神とは言えますが神自体ではないというのです。


そしてイエス・キリストが創造目的を完成した人間であるとしても、それはイエス・キリストの価値を引き下げることにはなりません。何故なら、創造目的を完成した人間は神的価値を有し、唯一無二の宇宙的価値を有する存在であるからです。この「神性」という点で伝統的キリスト論とイエスを人間と見る見解との両者を仲介できる余地があると言えるでしょう。


しかし、この原理観に対して、東京神学校助教授の尾形守氏は、「人間を神性を持った存在とすることで、イエスと人間が同レベルの神性を持った存在として位置付けようとする悪魔の意図が潜んでいる汎神論的人間論」と断じて批判しています。(「異端見分けハンドブック」P93)


イエスを神的価値を有する人間と見ることがイエスの価値を引き下げると尾形氏は批判しますが、神的価値を有する神の実体対象たる人間という観念は、イエス・キリストの価値を引き下げるものではありません。その人性の中に十全な神性が顕現されているからです。


この点アメリカUTS神学校教授の神明忠信氏は、尾形氏の批判に次のように反論しています。


「尾形守氏の議論は、紀元2世紀に活躍した聖エイレナオイスを初めとする東方のギリシャ圏の神学的伝統に関して無知である、ということが暴露されてしまっています。東方の神学的伝統では、被造物である人間でも救われれば神性を帯びることができると教え、それを神成( theosis )と呼んでいます。そういう伝統は、キリスト教が西方に移ってカソリックやプロテスタントになると、無くなってしまうのです。東方のキリスト教における人間の神性に関する教えは、決して悪魔的な『汎神論』(pantheism)ではなく、現代流にいえば『万有内在神論』(panentheism)として受け入れられるべきものです。統一思想的観点では『汎神相論』と呼んでいます」


確かにギリシャ正教には「神成」(テオーシス)という概念があり、これは、クリスチャンが徐々に神に似ていき、「神の性(神の本性)に与る事」を言い、「神の性質にあずかる者となる」(2ペテロ1:4) という聖句が、聖書的根拠とされています。即ち、人間は神の像として、終わりなく成長し発展し、限りなく神に似ていくというのです。


いずれにせよ、イエスは原罪がないという点を除けば、我々と変わらない人間であり、霊界において霊人体として存在される点では霊界の先祖と変わりはありません。無論イエスは、霊界において最上位の存在(生霊体)であり、この点で先祖とは異なることは言うまでもありません(講論P259)。 


「私たちのために(神に)取り成し」(ロマ8.34)をされ、「我が神、我が神」(マタイ27.46)と神を呼ばれ、「父よ、時がきました」(ヨハネ17.1)と、神を子の立場から父と呼ばれている聖句を見ても明らかであります。


以上が「イエスとは誰か」(キリスト論)に関する原理観であります。今まで見てきた通り、このキリスト論は三位一体論と並んで、多くの議論を呼んできました。イエスの存在論的な在り方とその価値について正しく認識することは、私達の信仰や救いの意味を知る上で不可欠であります。


何故なら、人間は神霊的存在であると同時に真理に立つ存在でもあり、科学的思考を持つ現代人を納得させるものでなければなりません。即ち、伝統的キリスト教は、現代人の合理性にも応える義務があるというのです。


しかし、キリスト者がイエスを神として信じてきた信仰をあながち否定するものではありません。イエスを神と信じる信仰が迫害にも打ち勝つ求心力を発揮してきたからであり、また事実イエスが神と同視できる神性を備えられていたからです。ただ、今回のキリスト論に限らず、キリスト教が持ついくつかの非合理性は、それを信仰告白(信仰的事実)として受け入れてきたにせよ、多くの信徒が困惑し、信仰上の混乱をもたらしていることは事実であると言わねばなりません。


以上でイエスの本質についての考察を終え、次回は「聖霊によりてやどり処女マリアより生れ」、即ちイエスの処女降臨について論及いたします。(了)

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