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使徒信条を読み解く⑪ 子なる神について(8) かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん

🔷聖書の知識166ー使徒信条を読み解く⑪ー子なる神について(8)-かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん


かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん


使徒信条の「かしこより来たりて」とは天より降臨されるイエスの再臨のことであり、「生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん」とは再臨による審判を意味します。


終わりの日、即ち終末とは再臨の日をいいますが、再臨は、いつ如何に来るのか、その時何が起こるのか、そもそもメシア(キリスト)とはどういう方か、を考えていきます。そして今回で「子なる神」の最後の論考になります。


【歴史の終わりー再臨と審判】


上記の通り、この信徒信条の箇所は「イエス・キリストの再臨」、及び「再臨による審判」、即ち歴史の終わりの日(終末)の出来事を予告しているフレーズであります。


聖書は、創世記1章・2章の神の天地創造から始まり、創世記3章の人類の堕落を経て、以後、創世記4章から黙示録まで全体が神の救援歴史となっており、再臨と審判が救援歴史の終結であります。そして、原理では第一次世界大戦後から終末期、即ち再臨期に入っていると見ております。こうして聖書には壮大な歴史観があるというのです。


内村鑑三も、「聖書に特別の歴史観があるのである。聖書は歴史である。しかも単に過去を語る歴史ではない、過去、現在、未来を通して一貫する宇宙、人類にかかわる神の聖謨(せいぼ;天子のはかりごと)の実現について語る歴史である。しかも信仰の眼をもっていなければ解することのできない歴史である」(『研究第二之十年』)と語っています。


但し、聖書の歴史観は、黙示録が示す通り、はなはだ抽象的で漠然としたものであり、色々な議論の余地のあるものとなっています。この点、原理には「蕩減復帰歴史」という明確な歴史観があり、歴史の背後に一定の法則とバターンを見いだした画期的なもので、人類歴史の過去、現在、未来を正確に見通した歴史観となっています。


さて、聖書の終末に起こる再臨、審判に関して記述した文書として黙示文学と呼ばれるものがあります。黙示文学には、ヨハネ黙示録、ダニエル7~12章、イザヤ24~27章、エゼキエル37~41、ゼカリヤ9~12章、が挙げられていますが、主たるものはヨハネ黙示録です。


黙示とは覆いを取って、隠されたものを明らかにすることで、一般的に終末、または特に終末に起こる出来事、即ち、「再臨と最後の審判」を予告する言葉として、しばしば使われています。これを象徴によって人々に語り,最後まで信仰をまっとうした人々を神が劇的に救済するという思想があり、宗教的圧迫や政治的苦難を社会的背景に、神に従う人々を指導し励ますためのものでもありました。


黙示録は、超現実、超空間的世界観を現し、イメージ、比喩、象徴で語っています。これははっきりと普通のことばでメッセージを語るよりも、イメージと象徴とでメッセージを伝えた方がより神秘的であり、しかも迫害から防御できる安全な奥義の表明であったと言われています。


そしてイエス・キリスト自身こそ、私たちに神を示す最高の「黙示」であると言われます。「終わりの時代には御子によって語られる」(へブル1.2)とある通りです。


最後の審判(一部分)ミケランジェロ画


【再臨とは】


聖書は再臨について、「ラッパのうちに天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)、「雲に乗ってこられる」(黙示1.7)、と言った表現で言い表しています。また、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.11)とも語っています。


一方、上記のはっきりした形での再臨の降臨の聖句とは反対に、「主の日は盗人のようにやって来る」(2ペテロ3.10、黙示録3.3)と語られ、「その日、その時は、だれも知らない。ただ父だけが知っておられる」(マルコ13.32)とも述べられています。


これらが何を意味しているかについて、以下考察いたします。


<メシア思想について>


再臨とはメシアの降臨ですが、先ず聖書のメシア思想について述べたいと思います。


「聖書は40人もの様々な職業を持った聖書記者によって書かれた書物であるが、そこには一貫したメシア思想がある。これは、その背後に思想的核心(神)がいることの証左である」


これは、文鮮明先生の言葉ですが、聖書の真の著者は神自身であり、それ故に一貫した思想性があるというのです。


ちなみに原理講論は劉孝元先生によって書かれた神学書でありますが、劉先生は逐一文先生に聞きながらまとめられたと言われ、聖書の真の著者が神であるように、講論の真の著者は文先生だというのです。(史吉子著『原理に関するみ言の証』HJ明圓P73)


聖書には、メシア思想、唯一神思想、贖罪贖想という三大思想があり、その中でも「メシア思想」は代表的な思想であります。


この点、聖書学者の山我哲雄氏は、ユダヤ教(旧約聖書)の代表的な思想として、メシア思想、唯一神思想、契約思想、終末思想の4つを挙げられ、これらをキリスト教は相続したと言われています。更に山我氏は、キリスト教はユダヤ教を母体とした宗教であり、これら4つの思想は相続したが、民族主義的な「選民思想」と「律法至上主義」は相続せず、退けたとも述べられました。(著書『キリスト教入門』岩波ジュニア新書P14)


このように、 聖書のメインテーマはメシアの来臨であり、旧約聖書には300ものメシア預言があるといわれています。即ち聖書は救世主を待望する書であり、メシア思想が聖書の根幹であるといわれる所以であります。これは仏典など他宗教には見られない際立った聖書の特徴であります。


メシアとはヘブライ語で、「油を注がれた者」を意味し、ギリシャ語では「キリスト」(=救世主)の意味です。 当初メシアは、イスラエルでは政治的、神的な権威と力によりイスラエルを解放し全世界を治める「王」と意識されていました。


カルバンが「メシアは役割において預言者的、祭司的、王的機能を有す」と述べている通り、「預言者」「祭司」「王」はメシアの3つの側面と言われています。しかし、最も本質的なメシアの本質は、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1.29)、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)に象徴されますように、「罪を取り除き、神の国をもたらす者」であるというのです。


そしてその旧約聖書の預言がイエス・キリストによって成就したというのです。アウグスチヌスは旧約と新約の関係について、「旧約の中に新約が隠れており、新約の中に旧約が現れている」と語っています。即ち、旧約が初臨のキリストを預言しているとするなら、新約はその成就だというのです。


更に新約聖書の黙示録は再臨預言の書と言えます。内村鑑三は「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその頭脳である」と語りました。


以下は、キリスト教における代表的なメシア預言に関する聖書からの引用です。


a.旧約聖書は、以下の通り、初臨について預言しています。


「私は彼らの同胞の内からお前のような一人の預言者を立ててその口に私の言葉を告げる」(申命記18.18)⇒モーセのような預言者、即ちメシアを意味する聖句。


「わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の王座を堅く据える」(2サムエル7.12~16) ⇒ダビデの家系から出るキリストによる王権を謳う。


「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7.14)⇒有名な処女懐胎の予告


「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、霊妙なる義士、とこしえの父、平和の君と唱えられる」(イザヤ9.6)⇒栄光の主としてのメシア預言。


「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53.5)→受難の主(贖罪の羊)の預言。


b.また新約聖書は、再臨について、以下の通り明確に預言しています。


「いなずまのように現れる」(マタイ24.27、ルカ17.24)


「ラッパのうちに天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)


「雲に乗ってこられる」(黙示1.7)


「思いがけない時に来る」(マタイ24.44)


「その日は不意に襲う」(ルカ21.34)


「主の日は盗人のようにやって来る」(2ペテロ3.10)


「見よ私はすぐに来る、それぞれの報いに応じる」(黙示22.12)


<キリスト教のメシア観と再臨観>


キリスト教におけるメシア観の推移について、初期のユダヤ教的キリスト教時代は、「神とメシア(イエス)は別存在」と理解していました。しかしパウロの神学や異邦人宣教などにより、ローマ、ギリシャ、地中海世界の異邦人キリスト教時代に入ると、「イエスは神」と理解されて世界的キリスト教時代に広がっていきました。 厳密には神性と人性の両性を持った存在、即ち、「神であり人である」としています。


イエス・キリストを神(神性)であるか人(人性)であるか、或いはその両者(両性)であるか、即ちイエスとは誰かを論じるのがキリスト論ですが、「イエスは神である」との観念は、神秘的宗教指導者としてのメシア像を顕す次のような聖句が根拠となっています。


「アブラハムが生まれる前から私はある」(ヨハネ8.58)


「世界が造られる前に、みもとで持っていた栄光」(ヨハネ17.5)


「天地創造の前から愛して下さった」(ヨハネ17.24)


「全てのものが造られる前に生まれ」(コロサイ1.15)


次にメシア(再臨)は如何に来られるかという問題があります。キリスト教徒の代表的な来臨の考え方の根拠になっているのが次の聖句です。


「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(ルカ21.27)


「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.10)


「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)


つまり、再臨は、肉体を持って復活し(変えられて復活の体となって)、昇天されたイエスが、再び雲に乗ってラッパの合図と共に天から来られると信じています。そしてキリスト者の唯一の希望は、他ならぬ再臨にあるというのです


この点は、我が内村鑑三でさえ、「イエスが身体を以て復活し給ふた」と信じ、再臨のあり方についても同様のことを信じていました。内村は、「聖書之研究」211号の「余がキリストの再臨に就て信ぜざる事共」において、次のように述べています。


「キリストの再臨とはキリスト御自身の再臨である、是は聖霊の臨在と称する事とは全然別の事である、又之と同時に死せる信者の復活があり、生ける信者の携挙があり(1テサロニケ4.17)、天国の事実的建設が行はる」


つまり、再臨とは、聖霊の臨在といった内面的、霊的なものではなく、キリストご自身の、具体的、身体的な再臨であり、父のもとから身体を持るって来られると信じていました。


「キリストは其身体を以て復活し給ふた、而して其復活体を以て今尚存在し給ふとは聖書の亦明に示す所である、彼は栄光化されたる人の身体を以て父の許に還り給ふたのである、而して時至れば其身体を以て再び現はれ給ふとは是れ亦聖書の明かに示す所である、基督教の奥義は此に在るのである。(全集24巻 p118「復活と再臨」「聖書之研究」213号)


<メシア再臨に関する新解釈>


では、上記に見るキリスト教のメシア観が、果たして妥当なものであるかどうか、これを検証しなければなりません。


先ず、何故キリストは再臨しなければならないかというと、イエス・キリストが残された救いのみ業を完成しなければならないからです。イエスは十字架に架かることによって霊的救いのみ業をなされましたが、肉体はサタンに奪われましたので、肉的救いは未完成のまま残されたというのです。


従って、霊と肉の救いを完成されるために再臨することが必要になりました。もしイエスにおいて救いのみ業が完成しているのであれば、そもそも再臨する必要は必要ないというのです。


さて、原理は、イエスは神自体ではなく、「創造目的を完成したアダム(人間)」と捉え、また同時に「神聖な価値を持たれた方」と考えています。これは自由主義神学の先駆者であるシュライエルマハーも同じ見解を示しています。


同様に、アリウス派、エホバの証人、ユニテリアン等々もイエスを神聖な人格を有した被造物(人間)とし、ユダヤ教、イスラム教もイエスを人間と主張しています。


つまり、「イエスは、原罪がないという点を除けば、我々と少しも異なるところのない人間であられるし、また、復活後、霊界においても、弟子たちと異なるところのない霊人体としておられるのである」(原理講論P259)とある通りです。


ただ、弟子たちは生命体級の霊人で、受けた光を反射するだけの存在であるのに比べて、イエスは、生霊体級の霊人として、燦爛(さんらん)たる光を発する発光体であるという点が違うというのです。従って、イエスは神性を持たれ神と一体となっておられるので神と同視できる存在であり、イエスを創造目的を完成した人間としても、イエスのキリストとしての価値を引き下げることにはならないというのです。


また、イエス自身も、神を父と呼び、自ら神でないことを明らかにしておられ(マタイ27.46、ヨハネ17.1)、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27.46)と言われたみ言を見ても、イエスが、神御自身でないことは明らかであります。


また原理では、再臨がどのように来られるかについて、イエス自身が文字通り「雲に乗って天から下る」とは考えていません。 後述するように、雲とは文字通りの空に浮かぶ雲ではなく、主を証す敬虔な「信徒の群れ」を意味する比喩として捉えています。


預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、既に昇天したエリヤがまず来るであろうと預言しましたので(マラキ4.5)、イエス当時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていましたから、当然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していたのでした。


ところが意外にも、イエスも洗礼ヨハネを指して、「彼こそがエリヤである」と明言されたように(マタイ11.14)、エリヤとしてきたヨセフは、ザカリヤの息子としてエリザベツから生まれてきました(ルカ1.13)。この事実は、エリヤと洗礼ヨハネは、使命的に見て同体であるということであって、エリヤその人が下って来るという意味ではないことを意味しています。


同様に、使命的に見れば、洗礼ヨハネがエリヤの再来であったように、イエス自身がまた来られるというのは、あくまで使命的に見た見方であるというのです。従って再臨は、イエス自体が下って来られるのではなく、イエスと同じ使命を持ち、イエスが果たし得なかった使命まで果たす方が来られるというのです。


また今までクリスチャンの中には、「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」(ダニエル7.13)と記録されている通り、メシヤが雲に乗って降臨されると信ずる信徒たちもいました。 しかし結局、イエスはマリアから生まれました。同様に再臨も文字通り「雲に乗って天から」来られる のではなく、女の腹から肉体を持って地上に生まれるというのです。


ちなみに「雲」とは水が水蒸気となって浄化されたもので、敬虔な信徒の群れ、一種のシャカイナグローリー(神の臨在に伴う栄光)を意味しています。つまり、雲に乗って来られるというのは比喩的表現で、主を証す信仰者の群れに囲まれて登場されるという意味であります。


<携挙について>


ちなみにキリスト教には「携挙」という、一般人には理解の範囲を越える概念があり、中川健一牧師や高原剛一郎牧師はこの考え方の強い信仰の持ち主です。


携挙(けいきょ)とは、一部プロテスタントの終末論の一つで、イエス・キリストの再臨において起こる出来事と信じられています。先ず死んだ全ての聖徒が、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し主と会い、次に地上にいるすべての敬虔なクリスチャンが生きたまま空中に引き上げられ主と会い、不死の体を与えられるという信仰です。


聖書根拠箇所は、次のコリント人への第一の手紙です。


「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」(1コリント4.15~17)


その携挙の時期を巡り、患難前携挙説、患難後携挙説などがありますが、携挙を強調する教派の多くは艱難前携挙説、即ち、終末に7年間起こるとされている大艱難が始まる前に携挙が起こり、これにより真のクリスチャンは艱難を避ける事が出来るとしています。


しかし、この携挙という概念は、現代人の合理性を遥かに越える考え方であり、科学的事実ではなく、あくまでも信仰的事実というしかありません。もちろん原理にはこういった考え方はありません。

【終末、審判に関する新しい解釈】


さて、聖書には世の終わりについて、天変地異が起こると預言されています。歴史の終末において、「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」(ペテロ3.12)、「日と月が光を失い、星が天から落ちる」(マタイ24.29)、「天使長のラッパの音とともに死人たちがよみがえる」(テサロニケ4.16~17)などと記されています。


しかしこれらの聖句は文字通りの天変地異が起こるというのではなく、他の聖書箇所がそうであるように、世の終わりについての意義や患難について、比喩や象徴で表されているというのです。 つまり終末に全てのものが総清算されて新しくなるときの産みの苦しみを比喩したものです。


世の終わりの大患難については「ヨハネの黙示録」に比喩的に詳しく示されていますが、患難の目的は罪を清算するところにあります。そして福音書の中心テーマはキリストの初臨ですが、黙示録のテーマはキリストの再臨であり、信者をキリストの再臨に備えさせることにあるといえるでしょう。


黙示録4章から22章までは、終末に起こることの預言であり、 キリストの再臨を中心に据えて将来の出来事を概観すると以下のようになります。


即ち、4章~18章はキリストの再臨に至るまでの出来事で大患難についての記述、19章がキリストの再臨、20章が千年王国、21章~22章で新天新地の到来が記されています。5章では有名な7つの封印を解く「ダビデの若枝」が登場し、その後、大患難→再臨→千年王国→新天新地という終末の大パノラマの展開です。


つまり終末とは、堕落によって生まれたサタンが支配する罪悪世界が、再臨によって神主権の創造理想世界に転換される時代、即ち「善悪が交差する時」をいうのであり(講論P147)、世の中が滅亡することではありません。即ち、今までキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、今までの古い天地が滅んで「新しい天と新しい地」(黙21.1) が生まれる時であります。


原理講論153ページに、「神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである」とある通り、再臨はみ言葉の実体として、最終的な神のみ言を持って、天地を再創造するために来られる方であります。従って、審判とは「み言の審判」を意味します。「天と地を火をもって審判される」(ペテロ3.12)とありますが、「舌は火である」(ヤコブ3.6)とある通り、火の審判とは、即ち舌の審判であり、舌の審判は、即ち、み言の審判を意味するというのです。再臨主のみ言に従う者には「救い主」(ヨハネ5.24)ですが、否定する者には「審き主」(ヨハネ12.48)になるというのです。


なお、「ハルマゲドン」(黙示録16.16)とは、神が悪魔と戦って究極的に勝利をおさめる世界最終戦争を意味しますが、もともとはパレスチナにある古戦場メギドの丘をさしました。創始者は「大審判とは、誰を審判するのかというと、人を審判するのではなく、人間に対して主人のように君臨しているサタンです」と言われました。 


現代では、冷戦末期に核戦争による東西国家間の決戦がハルマゲドンにたとえられています。即ち、ハルマゲドンとは、サタン側の最終真理として生まれた共産主義と、神側の最終真理である再臨のみ言との決戦であると言えるでしょう。


以上、使徒信条の再臨と審判について論考しました。これで子なる神、即ちイエス・キリストに関する解説を終わり、次回から「聖霊なる神」について話を進めることにいたします。(了)

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