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使徒信条を読み解く⑮ 聖霊なる神について(4) 聖書の霊界観・死生観

🔷聖書の知識170ー使徒信条を読み解く⑮ー聖霊なる神について(4)-聖書の霊界観・死生観


ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る(伝道の書12.7)


前回まで、神の霊・聖霊・悪霊について解説しましたが、今回は霊界と死生観について論考致します。


【聖書の霊界観・死生観】


私たちにとって「死」の問題は最大の関心事であり、人生の奥義です。そして「死とは何か」を考える際には、「死後の世界は存在するか」という問題が大きな命題になります。何故なら、死後の世界、即ち、霊界の存否は、人間の死生観に決定的な影響を与えるからです。つまり、死生観と霊界観は表裏一体と言えるでしょう。


李登輝元台湾総統は、「私は十五、六歳のころから人間の生死の問題を真剣に考えてきました。『人間とは何か』『死とは何か』『死に直面して、生死をさまよう人間とは何なのか』という大命題の思索に耽りました」と述懐し、「人間『死』という問題を考え抜いて、初めて『生』についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね」と語っています(著書「武士道解題」P72 )。


【キリスト教の霊界観】

さて、一般的にキリスト教では、死とは肉体と霊魂が分離し、霊魂は霊界で永住し、肉体は土に還るとしています。カトリックでは、死とは「霊界への誕生日」とし、この点、UCの死の概念と違いは有りません。「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12.7)とある通りです。


そしてその霊魂の霊界での行き先ですが、イエスの贖罪で罪が赦された人が行くところが「天国」であり、罪を赦される機会が無かった人は基本的に「黄泉」(よみ=ハデス)、または「地獄」(ゲハナ)に行くとい言われています。


即ち一般的に、死ねば霊魂は「天国」または「黄泉」に行くとされ、黄泉とは、一般人の死者の世界で、地獄とは、最後の審判で断罪された者が行く場所とされ、黄泉はいわば未決囚の留置場と言えるでしょう。


聖書では死んだ非キリスト教徒の霊は黄泉に下り、いわば眠ったような状態に、または捕われた、または囲い込まれた状態になっているとされています。そして黄泉では階層があり、自らがふさわしい場所に行くというのです。


なお、上記に見た肉体の死の他に、人間が堕落して神との関係が断絶したこと、即ち、「霊的死」という観念があります。この霊的死は堕落論で扱うことがふさわしいと思われます。


【キリスト教一派における死の概念】


しかし一部のキリスト教教派の死の概念として、死には「霊的な死」と、「肉体の死」と、「永遠の死」の3つがあるという考え方があります。霊的な死とは、失楽園でアダム、エバが堕落して神との関係が切れたことを意味します。肉体の死とは、堕落することによる罰として人間は死ぬべき存在になったというものです。また、永遠の死とは、最後の審判で有罪とされ、永遠の地獄に行くというものです。


ここで問題は、人間は霊においても肉においても一体のものとして、本来死なずに永遠に生きるように造られていたとする考え方です。エホバの証人では、さらに明確に肉体は本来永遠に生きると主張しています。つまり肉体の死は堕落の罰として与えられた罪の結果であり、本来人間は永遠に生きるように造られていたというのです。


しかし、私たちの一般常識から考えても、人間が肉体を持ったまま死なずに永遠に生きるなどとは信じがたいことで、こんな非合理的なことはありません。


しかし偉大な神学者ジューコブズでさえ次のように言っています。


「霊魂と身体は永遠に結びついているように造られた。両者が分離することは神の秩序を破ることになる。人間の最高の目的は、霊体になることではなく、分離の状態が過ぎた後、身体と霊魂が完全に結合し回復されることである。(ジューコブズ著「キリスト教教義学」P548)


これが、いわゆる「復活の体」です。しかし、キリスト教でいう「天上に生きるのに適した復活の体」とは如何なる体なのか、霊と肉を備えるという復活の体が具体的にどういうものなのかについて、合理的な説明がなく明確ではありません。


大本教の死生観にしても、原理観にしても、肉体の死は早晩必然的に訪れるもので、そもそも肉体はやがて朽ちて土に還るものとして創造されたと考えています。それに反して、このキリスト教一派の「本来霊肉は一体となって永遠に生きる」という教理は理解に苦しむところであります。


【霊界と死に関する新しい解釈】


人間は霊魂(霊人体)と肉体(肉身)から成り立ち、霊界は霊魂が死後永住する神の無形の実体対象であります。原理講論は次のように記しています。


「被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない。したがって、被造世界には、人間の体のような有形実体世界ばかりでなく、その主体たる人間の心のような無形実体世界(霊界)もまたあるのである。霊的体験によれば、この無形世界は、霊的な五官により、有形世界と全く同じく感覚できる実在世界なので、この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙と呼ぶ」(原理講論P82)


死とは、霊魂と肉体が分離し、霊魂は霊界で永生し、肉体は朽ちて土に還ることです。UC創始者は、「死とは霊界で永生するために、肉身を脱いで新しい体に生まれる日、即ち第二の出生である」と語られました。


つまり、この第二の出生こそ「肉体の死」であります。あたかも赤ちゃんが母胎から生まれるように、宇宙的な地上の母胎から別の世界へ誕生することであります。(天聖経第七篇地上生活と霊界)


従って葬儀(聖和式)は、霊魂(霊人体)が肉身を離れて新しい生に出発する、「祝賀の儀式」とも言え、「第二の誕生日」であるというのです。前述のように、カトリックでも、死はその人の誕生日と位置付けています。


原理の三段階の法理によれば、先ず人間は母の腹中、即ち水の中で10ヶ月を過ごし、次に地上、即ち空気の中で100年を経て、最後に霊界、即ち神の愛の中で永生すると言われています。 それはあたかも、幼虫が水の中で過ごし、さなぎとなって地上で生き、蝶となって空中に羽ばたくのと同様です。 「死は、胎児が子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から神の愛の位置に帰っていくのが第二の出生、即ち死というものです」(天聖経第七篇地上生活と霊界P710)とある通りで、正に霊界こそ、私たちの故郷、本然の故郷であるというのです(天聖経第七篇地上生活と霊界P730) 。



天聖経第七篇「地上生活と霊界」によれば、霊界では生命の要素が愛であり、愛を呼吸して生きるとされ、衣食住の心配がない時空を超越した世界であると言われています。そして天国は生命がぎっしりつまっている愛の世界、愛の空気を吸って生活する世界だと説明されています。


しかし霊界には、天国・楽園・中間霊界・地獄の階層があり、善悪の霊界があるといわれ、また全ての個人情報が記録されているともいわれています。 そして何よりも、天国は先ず地上で成就されなければならならず、地上生活こそ、霊界で永生する霊人体を「完成させる」ためのものであるというのです。大本教的に言えば、地上は霊界に行く前段階の「修行の場」ということになります。


以上を整理すると、a.肉体の死とは霊魂(霊人体)と肉体が分離して霊魂が霊界に旅立つこと、b.霊界は実在する世界で永遠であり、霊魂は霊界で永遠に生きる、c.霊界には階層があり、自らの良心が選択してそれぞれの階層に赴く、d.霊魂の完成は肉身が土台となり、その要素は真の愛であること、であります。


【天国・楽園・地獄・黄泉・煉獄】


ここで、天国、楽園、地獄、黄泉、煉獄などの概念について明確にしておきたいと思います。


霊界には、天国や楽園や地獄や黄泉といった特定された特定の場所があるというより、喜びに満ちたところを天国と呼び、苦しみに満ちたところを地獄と呼んで概念化しているというのです。須らく人間は霊界に行き、自らにふさわしい居場所、即ち自らの心霊基準に見合うところを探して、自ずとそこに留まるようになるというのです。


即ち、あるのは永遠無限の霊界であり、高きから低きまで、何段階もの霊的水準やグループがあるということです。ただ、前述しましたように、み言の程度と範囲に応じて、「アブラハムのふところ」、「楽園」、「天国」といった区別はあるということです。


楽園とは、地上でイエスを信じて霊的救いを受けた霊人(UCでは生命体級の霊人体と呼んでいる)が行くところで、肉身を脱いで行った霊人たちが、天国に入る手前でとどまっている霊界をいうのであり、天国と楽園は異なる概念です。


イエスは右の強盗に、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23.43)と言われましたが、このようにイエスをキリストと信じて行くところが楽園(パラダイス)であります。


また黄泉とは、未信者らが死後行くところで、天国へ行く前の段階の場所であり、いわゆる中間霊界であります。カトリックには「煉獄」という教理があります。煉獄は、クリスチャンで天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところであり、ここで罪を清められた後、天国に入るとされています。そしてカトリックでは、クリスチャンの煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。生者が死者の救いのために祈祷や代償などの宗教行為をするというものです。


ただ、キリスト教内で地獄に対する捉え方が教派・神学傾向などによって異なり、地獄と訳されるゲハナと、黄泉と訳されるハデスの間には厳然とした区別があるとする見解と、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解など、両概念について様々な捉え方があるところです。


そして、最後の審判で審判を受け、サタンとその手下らは「永遠の炎の池」に投げ込まれるとされています。この炎の池こそ地獄(ゲハナ)であり永遠の苦しみを受けるところであります。しかし、再臨主は、最終的には地獄まで撤廃し、サタンも救われる方であります。キリスト教が言うように、サタンといえども永遠の炎の池に留まるわけではありません。


【霊魂について】


次に霊魂について述べておきます。霊魂二分説では、霊と魂は同じと見て、神との関係では霊、地上との関係では魂と呼びます。「するとマリヤは言った、わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。(ルカ1.46~47)とある通りです。これは、カトリック、プロテスタントが採用し、アウグスチヌス、ルター、カルビンもこのように捉えています。


しかし霊魂三分説では、魂と霊を別のものとします。人間は、肉体(ソーマ)、魂(プシュケー)、霊(プニューマ)の3つの部分からなり、霊は神、人間、天使のみが持つ非物質的部分、魂は人間と動物のみが持つと考え、ギリシャ正教が採用しています。


原理は、人間の霊魂を霊人体と見れば二分説であり、霊人体を霊、人間の心(生心と肉心の統合)を魂と見れば三分説に該当します。


では霊魂(霊人体)はどこから来たのでしょうか。神がこの世を創造した時に、その後生まれてくる個々の霊魂も同時に創造したとするのが「霊魂先在説」です。霊魂は人間が地上に生まれるとき肉体と結合して生まれてくるとし、プラトンやカントが主張しています。


一方、「霊魂創造説」では、肉体だけが親から子へと受け継がれ(原罪も)、霊魂はそのつど神により創造されるとするもので、カトリック、ギリシャ正教、カルビン派が採用しています。また「霊魂伝承説」は、肉体も霊魂も親から受け継ぐとするもので、ルター派やアウグスチヌスが採用しています。


創始者は霊人体の起源について、「霊人体は母親の胎内で種として既に宿り、胎児が母親の胎内から出てきて空気を吸った時から、芽が出て成長が始まる」(史吉子著『原理に関するみ言の証』P100)と言われています。そもそも人間は霊と肉を持って創造されましたので、肉が誕生したとき、同時に霊も誕生すると考えるのが理にかなっていると思われます。


【人間の死についての死生観】


前述しましたように、死とは、肉体の終焉であり、霊魂が肉体から分離されて霊界に旅立つ、いわば第二の出生です。霊界への復活とも言えるでしょう。 


即ち、前述したように、人間の生命は精子と卵子の結合で誕生し、母親の胎内での10カ月(腹中時代)、出生を経て肉体を持った地上での100年の生涯(地上時代)、肉体の死を経て霊界での永生(霊界時代)、という3世界を生きていくようになっています。


これが原理観であり、これらの事実は、表現の違いや、多少の教理の違いはあっても、大筋ではキリスト教を始め大多数の宗教が認めているところです。従って、死は恐るべきことでも、抵抗すべきことでもなく、自然の道理であります。


ただ問題は、肉体の死に際して、人生における「納得感」があるか否か、「悔い」が残っていないかどうか、ということです。これは、人間の良心が知り得ることであり、良心に照らして顧みることが肝要です。


元大阪府知事の橋下徹氏は、最近『異端のすすめ』(SB新書)という本を出し、この本の中で、「死に際して、悔い無しと言える生き方、心から納得できる人生か否かが問題だ」と語っています。そして自ら大胆にチャレンジして、敢えて異端児としての人生を選択したと告白し、「今や、いつ死んでも悔いはない」(P202)と言い切りました。


孔子は「四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)」と語りましたが、高々50才にして「我が人生悔い無し」と言える橋下氏には脱帽するしかありません。


一方人間は、上記の個人的な思惑を越えて、「大義のために死ぬ」ことを良しとしてきた伝統があります。


かの吉田松陰が、処刑なる前日に書き終えた、自分の門人たちにあてた遺言書とも言うべき『留魂録』(りゅうこんろく)には次のように書き記されています。


「私は今、30歳です。何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに『惜しい』ことでしょう。しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの『収穫の時』を迎えたのではないか、と思っています。どうして、その『収穫の時』を、悲しむ必要があるでしょう。もしも同志の人々のなかで、私のささやかな『誠の心』をあわれと思う人がいて、その誠の心を『私が受け継ごう』と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば1粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう」


文字通りイエスの「一粒の麦」の例えの通り、松陰の志を受け継いだ門下生である高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、木戸孝允、品川弥二郎などは、後の指導者として明治政府を構築、発展させました。


また忠臣蔵の47人の「切腹」は大義に死した典型です。特攻隊の若き命も、国家、天皇、家族といった大義に殉じていきました。クリスチャンの殉教は信仰(神)という大義に捧げられました。それが、主君であれ、国家、天皇、家族、キリストであれ、そのために尊厳ある自分の命を捧げることに価値を見出だしました。


私たちは、いかにして納得できる死を迎えられるか否か、これは深刻な課題です。それは、自分の人生に「悔いがない」か、あるいは「大義に殉ずるか」のいずれかになると思われます。いずれにせよ、信仰者としては「自らの生死の一切を神に委ねる」という境地、一人の人間としては、死に際し自らが納得しているかどうか、即ち「悔いがないか」が問題になるでしょう。


さて、人間の死に様にはなんと様々あることでしょうか。中曽根康弘や李登輝のような大往生、特攻隊やクリスチャンに見る殉教、リンカーン、ケネディ、キングに見る暗殺、西部邁の自裁死、朴元淳ソウル市長や太宰治、中川一郎、新井将敬などに見る自殺。


それにしても、いかに死ぬかは、いかに生きるかよりも難しい人間の最後の課題ではあります。


以上、聖霊を中心に、神の霊、聖霊、そして霊と霊界全般について述べて参りました。聖霊の賜物はある種の啓示であり、「神の霊・聖霊」を常に感じ、享受し、この賜物を受け取る器にならなければならないというのです。このことは、聖書的霊性の相続者として、私たちの信仰生活に欠かすことは出来ません。サムエルやダビデ、ベテロやパウロに注がれたように、この聖なる霊の注ぎは霊的生活の源泉であります。


以上で、「聖霊なる神」の項を終わり、次回は「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」について解説いたします。(了)

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