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出エジプト記 注解① モーセの時代とその背景、意義と全体構造

🔷聖書の知識70ー出エジプト記注解①ーモーセの時代とその背景、意義と全体構造


前回まで、12回に渡って創世記を学んできました。創世記には、ヘブライズムの神観、世界観、歴史観があり、 神、罪、救いという神学の基礎があり、人類歴史の雛形がありました。この創世記を踏まえて、今回からの出エジプト記では、より具体的な民族レベルでの救い(復帰)の摂理が展開されます。


出エジプト記は、奴隷からの解放の書、即ち束縛からの「贖いの書」であり、民族が始めて神と契約を結んだ「契約の書」であります。そして主役たるモーセは、イスラエル最大の預言者であり、キリスト教でもイスラム教でも教祖に次ぐ霊的指導者であることは明らかです。


なお、出エジプト記から始まるモーセ路程は、復帰摂理の原理観から見ると、「メシアのための民族的基台」を形成していくための歴史になり、また、モーセはヤコブ路程を見本として歩むことになります。 それにしても、アブラハムの召しから始まり、モーセで基礎づけられるイスラエルの歴史とその起源は、他のどの民族・国家の歴史的起源よりも鮮明であります。


【モーセ時代の歴史的背景】


イスラエル民族にとって出エジプト(エクソダス Exodus)は、神によって奴隷から解放された歴史的事実として、イスラエルの歴史の中で最も大きな出来事であります。そこで先ず、出エジプト期における時代背景について考えることから始めたいと思います。


<エジプト王朝の変遷>


ヨセフが活躍するBC1700頃のエジプトは、北方から侵入してきたセム系のヒクソスがエジプトを統治していました。いわば異民族外来政権で、エジプト第15、16王朝時代のことです。ちなみにヒクソスとは異民族の支配という意味のギリシャ語であり、馬、戦車をもたらしました。ヨセフは神の導きの中で宰相にまで出世しますが、ヒクソスがヨセフと同じセム系民族の王朝であったことも幸いしたと思われます。


しかしBC1570年頃、第18王朝のアアフメス王がヒクソスを駆遂し、王都をテーベ(ルクソール )に定めました。また、エジプトを66年間統治した最盛期の第19王朝のラムセス二世(紀元前1314年頃 ~紀元前1224年)は、都ラメセスの建設にイスラエル民族を酷使しました。(出エジプト1.11 )

従ってモーセの時代(BC1275年頃)には、ヒクソスはとっくに追い出されており、ハム系エジプト人の王朝になっていました。異民族イスラエルに対する態度は厳しくなり、その圧迫は大きくなっていきました。そうして奴隷状態になっていき、過酷な労働を課せられたと聖書は記録しています。


「ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。『見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう』。そこで重い労役をもって彼らを苦しめた」(出エジプト1.8~11)とある通りです。


<霊的な核としての出エジプト>


「さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった」(出12.37)


上記の通り、壮丁60万人がエジプトを出発したと記してありますが、この出エジプトの規模と人数については、専門家により、色々議論されているところです。エジプトに大規模な逃亡奴隷の歴史的記録がないこと、シナイの荒野では、何十万人もの人口を養えないこと、などの理由から、聖書が記す壮丁60万人(家族を含めると200万人)はかなり大袈裟な数字であり、せいぜい数千人規模ではないかと言う説もあります。


しかしよしんば数千人であったにせよ、出エジプトしたイスラエルの集団が、その後の民族全体を規定し、霊的な核となる主流的な集団であったことは確かであります。そうして後世、出エジプトをイスラエル民族全体に関わるヤハウェの偉大な救いの業と信じ、民族全体の共通体験として再解釈されたきたと言うのであります。今日まで、この解放を記念して、イスラエルでは「過超し祭」など三大祭が祝われています。


【過超しの祭ーユダヤ三大祭】


今や国家の祝日となっているイスラエルの「過超しの祭」(ペサハ)など三大祭は、窮地から救われた民族の記憶を記念したものです。ここから多くの歴史的意味と霊的教訓を得ることが出来るでしょう。


<ユダヤ三大祭>


イスラエルには「過超しの祭」(出12章)という祭があります。これはユダヤ教の三大祭りの一つで、出エジプトによって民族が解放されたことを想起し記念するための最も重要な祭となっていまさす。


ちなみに、ユダヤ教の三大祭りは「過越しの祭り」(ペサハ)、「七週の祭」(シャブオット)、「仮庵の祭」(スコット)の3つです。(出23章)


「七週祭」(シャブオット)は、イスラエルの民がエジプトを脱出してから紅海を渡って50日目にシナイ山に着き、そこで神ヤハウェと出会い、ヤハウェから十戒のみ言を授かりましたが、このことを記念した祭です。初穂の祭から50日目に行われる収穫祭でもあります。太陽暦で5月または6月に行われ、新約聖書中のペンテコステ(五旬節)に対応しています。


仮庵の祭(スコット)とは、ユダヤ人の祖先がエジプト脱出後、荒野で40年さまよい、放浪の民として天幕(仮庵)に住んだことを想起し、これを記念するものです。第七の月の15日から7日間行われます。(レビ記23.34~43)


さて過越しの祭(ペサハ ) ですが、これは、出エジプトの際、十災禍の最後に「エジプトのすべての初子を撃つ」という神の裁きがありましたが、戸口に小羊の血の印を付けた家はその災いが「通り過ぎた」ことを記念するものです。出エジプト記12章に詳細な規定があります。


「もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』民はこのとき、伏して礼拝した」(出エジプト12.26~27)


ユダヤ暦では第一月の14日で、グレゴリオ暦3月末から4月頃の満月の日となります。


以上のように、ユダヤ三大祭は、全て出エジプトに関連した祭であり、これを見ても如何に出エジプトが民族の性格を決定付ける大事件であったかが分かります。


<アメリカの感謝祭との対比>


これと同様にアメリカには感謝祭という祭があります。「感謝祭」(Thanksgiving Day)とは、1620年にイギリスからピルグリム・ファーザーズ102人がアメリカのプリマスに上陸した時の、最初の収穫を記念する行事であります。


最初の冬は大変厳しく、半数に昇る大勢の死者を出しました。翌年、近隣のインディアンのワンパノアグ族からトウモロコシなどの作物の栽培を教えられ、1621年の秋は、多くの収穫がありました。そこでピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待し、神の恵みに感謝して共に祝ったことが感謝祭の始まりであるとされています。


最初この感謝祭を祝ったのは、極少数のピューリタンたちでしたが、アメリカの創建神話的な意味を持つようになり、やがて諸国からの移民からなるアメリカ全体の共通体験として共有されることになりました。アメリカでは11月の第4木曜日が感謝祭として、祝日になっています。


これは、出エジプトの記憶が、少数者の体験だっだとしても、その後イスラエル民族全体が共有する体験となったことと相似するものです。従って、モーセに率いられて出エジプトした奴隷集団も、プリマスに上陸した102人のピューリタンも、その後の民族、国家の霊的な核となる中心的集団であったというのです。


<私たちにとっての過越祭>


さて、私たちのエクソドス(解放)、自らの内的記念碑となる過超しの祭はあるのでしょうか。民族、国家に試練を越えた時の記念祭、戦いに勝った時の戦勝日があるように、私たちにも自らを記憶する「過超祭」が必要です。


イスラエルは、荒野での苦難の生活を想起するため仮庵の祭を行い、当時を偲ぶと共に、ぜいたくに流れて堕落することを戒める教訓としてきました。徳川家康は武田信玄に三方ヶ原の戦いで大敗北を喫し、九死に一生を得ますが、その時の教訓を忘れまいと、惨敗の惨めな姿の自画像を描かせたといいます。


それが成功にせよ、失敗にせよ、試練にせよ、恵みにせよ、私たちが原点とし、励みとし、そして教訓とすべき記念碑、私にとっての「過超しの祭」が必要です。


神に救われ日は過越祭、み言葉に出会っ時は七週祭、試練の日々は仮庵祭です。神に出会ったあの日を刻むことが肝要です。そこでこの際筆者は、どん底のあの荒野から解放される合図となった「市営住宅当選の日」、即ち、古稀の10月1日をもって筆者における「過越の日」と一応しておきます。


【出エジプト記について】


さて、ここで出エジプト記の全体像を見ておきましょう。


<出エジプト記の趣旨>


出エジプト記は大きく、エジプトで苦しむイスラエル(1~12章)、エジプトを脱出し、シナイ山に移動するイスラエル(12~19章)、シナイ山で神と契約を結ぶイスラエル(20~24章)、幕屋、祭儀の規定(25~40章)、に分けられます。


出エジプト記は、伝統的キリスト教ではモーセが書いたとされ、イエスは、モーセが書いたと認めているとしています(ヨハ5.45~47)。しかし、今日ではバビロン捕囚前後にまとめられたとするのが一般的であります。


著者の著作意図は、イスラエルの歴史や出エジプトの歴史を知らない世代のために、何のためにカナンの地で生きるのかを知らせることでした。モーセは、出エジプト記の中で、出エジプトの出来事の経緯、神と交わした契約の内容、幕屋と祭儀が与えられている理由を語っています。


<出エジプト>


a.当時のエジプトにおけるユダヤ人の状況(1章)

b.モーセの物語(2章 ~ 4章)

cファラオとの交渉と十の災い(5章 -~11章)

d.民のエジプト脱出と葦の海の奇跡(12章 ~15章)

e.シナイ山への旅(16章 ~19章)


<神との契約>


f.十戒の授与(20章)

g.契約の書(20章 ~23章)

h.契約の締結(24章)


<幕屋祭儀の規定>


i.幕屋建設指示とその規定(25章 ~28章)

j.儀式と安息日の規定(29章 -~31章)

k.金の子牛事件(32章 ~ 33章)

l.戒めの再授与(34章)

m.安息日と幕屋の規定(35章 ~ 39章)

n.幕屋の建設(40章)


【モーセ五書について】


最後に、モーセ五書(律法)について簡単に述べておきます。何故なら五書はもともと「一つの書」として書かれたものであり、出エジプト記を、神の救済摂理を司どる五書全体の中で位置付けることが大切だからです。


五書は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書からなっています。このモーセ五書(律法)は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典となっており、世界に一神教を広めた最も影響力を持つ経典です。アメリカの最高裁判所にはモーセの十戒が掲げられています。


創世記後半のヨセフ物語でエジプトに入ったヤコブ一族は、エジプトで民族を形成していき、モーセによって出エジプトを果たして、契約の民となっていきました。(出エジプト記)


次に「レビ記」において、出エジプト記の幕屋建設を踏まえ、幕屋祭儀に関する諸規定の詳細が書かれています。レビ記は、聖なる神との交わりを維持し、幕屋と祭儀法を正しく運用するための「祭司のマニュアル」とも言うべき書です。


「民数記」では、シナイから移動し、荒野で放浪し、ヨルダン川近くのモアブに着き、カナンを目前にするまでの旅路を描いています。 また、世代交代の書でもあります。


そして「申命記」は、新しい世代への律法の解説書であり、カナンを目の前に、モーセが再度律法を読み聞かせて確認します。申命とは繰り返し命じるという意味で、モーセの遺言とも言うべき演説が行われ、そしてヨシュアにバトンタッチです。


以上、今回は出エジプトの時代背景、出エジプトの意義、出エジプト記の全体構造について見てきました。これを踏まえ、次回から、イスラエルの解放者モーセ、出エジプト、シナイ契約、幕屋.祭儀の規定について、順次出エジプト記を解説していきます。(了)



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