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セカンドチャンス論の検証

○つれづれ日誌(令和4年1月12日)ーセカンド・チャンス論の検証


こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。(1ペテロ3.19)


今回は、いわゆる「セカンド・チャンス論」について論考いたします。

【セカンドチャンスの考察】


実は筆者は、年末に書棚のかたずけをした際、たまたまアメリカの宣教師であるウィリアム・ウッドが書いた著書『大川牧師著「永遠と復活」に対する聖書的検証』という冊子を見つけました。興味深く急いで読んだところ、この冊子は大川牧師(大和カルバリチャペル)のセカンドチャンス論に真っ向から反論したものでした。


前に筆者は、知人から送られてきた大川従道著『永遠と復活』という本を読み、既にその感想文をまとめていましたので大いに関心がありました。そして大川牧師のセカンドチャンス論は、キリスト教の中でも色々議論のある少数派の神学理論であることをまざまざと再認識させられたものです。つまり、キリスト教において、いわゆるセカンドチャンス論は、神学上いまだ定説のない厄介な論点であるというのです。


そこで再度、セカンドチャンス論とは何かを考え、そしてセカンドチャンス論への賛否を検証した上、筆者から見たセカンドチャンス論を述べたいと思います。


【セカンドチャンス論とは】


セカンドチャンス論とは、「キリストの福音を地上で聞くことなく死んだ人々も、死後、黄泉(よみ)の世界で福音を聞き、回心の機会が与えられる」、という考え方であります。つまり、先祖も霊界で福音を聞いて救われるという神学です。


これは、1ペテロ3章19節の「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」を根拠にしています。つまり、イエス・キリストは、十字架で死んだのち、3日間黄泉に下り、そこで福音を宣教されたと言うのです。


キリストの地獄降りのイコン画(キリストがアダムとエバの手を取り、地獄から引き上げる情景)


しかし、伝統的なキリスト教では、罪が赦される唯一の方法は、イエス・キリストを「地上にいる間に信じること」であり、キリストを信じ受け入れた人は、死後天国に行き、自殺した人や信じることなくして死んだ人は地獄に行くとしています。1ペテロ3章19節の解釈も、イエスの伝道とは認めず、「救いの業が完成したことを宣言しただけである」としているようです。


そうすると、日本の先祖たちは、ほぼ全員地獄にいることになり、これは愛なる神がなさることではない、いかにも無慈悲で理不尽であります。 かってザビエルが日本人から、次のような質問を受けたといいます。


「神は先祖らを地獄から救い出せないのか、何故死者の罪は決して終わることがないのか、キリストを信じないで死んだ先祖は、今どこにいるのか、その救いはないのか」


ザビエルはキリスト教の教説にしたがって、「その道はない」とやむなく答えるも、到底納得させることはできなかったといいます。 結局キリスト教は、これら日本人の素朴な疑問に適切な回答を与えることは出来ませんでした。 従ってザビエルは、この質問にはあまりふれることなく、福音信仰の本筋であるキリストによると「贖罪と復活」を中心に宣べ伝えたと言われています。


大川牧師は、「イエスを信じることなく、罪が消されないまま死んでいった人は皆、地獄へいく」というキリスト教会の本来の教理に納得できず、「キリストを知る機会さえもなく、死んでいった魂を容赦なく地獄へ投げ捨てる方、それが、私が70年も命を捧げてきた神であるはずがない」と断言されました。聖書に「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(べテロ3.9)と記録されている通りです。  


筆者もまた、愛なる神は、全ての魂を救われる神、地獄まで撤廃される神、最終的にはサタンをも救われる神と信じます。問題は、死者(先祖)の魂は如何にすれば救われるのか、ということであります。


【賛否両論】


前述の通り、このセカンドチャンス論については、賛否両論があります。


<反対論>


セカンドチャンス論に対しては反対論も根強く、前述のウィリアム・ウッド、尾形守、尾山令仁、その他が反対論を唱えており、キリスト教界で論議となっています。 反対派の多くは、「もしセカンドチャンスがあるなら、多くの人は(地上でなくても)死後に回心すればよいと思い、伝道の妨げになる」という点や、死後の救いについて、聖書に明確な記載が無いことを問題にしています。 即ち、セカンドチャンスによって懸念されることとして以下の4点を挙げ、セカンドチャンス論が危険な教理であると述べています。


a.聖書の主題や文脈を考慮しない教えが蔓延していくこと、b.伝道への熱意を失うこと、c.死者への祈りがささげられること、d.信じる決心を後回しにすること。


この点、聖書キリスト教会牧師であり、福音系の東京神学校を設立した尾山令仁牧師は、著書『死への備え』(いのちのことば社)の中で以下のように述べています。


「死ねば天国か黄泉かいずれかに行き、救われるチャンスは地上の一度だけで、地上で救われなければ、あとは永遠の報いと刑罰とが待っているだけ」(P86)


「キリストを信じないで死んだ人は、自分の罪のために、黄泉に下り、体の復活を待って地獄に入り、永遠の神の呪いのもとにある。死後の有り様は、生前に決定しており、死後、生きている者たちの願い(執りなし)などによって変更できない」(P87)


「死後、救いの機会があることを、聖書は教えていません。人間は死ぬ時にあったままの状態で、永遠に存在し続けるということです」(P107)


この尾山牧師の、死者にとって非情に見える見解には、福音宣教は地上でこそ行われるべきで、死者のことは全権の神に委ねることが賢明であり、死後救いがあるなどとの安易な教えは、地上人の回心の機会を遅らせるだけ、との福音理解があると思われます。


また、大川牧師のセカンドチャンス論を名指しで批判しているウィリアム・ウッドは、著書『大川牧師著「永遠と復活」に対する聖書的検証』の中で、次のように指摘しました。


イエスによる救いを受けなかった人はすぐに地獄に行くのではなく、地獄ではなく黄泉(よみ)に行くという大川牧師の主張を是とした上で、「セカンドチャンスはある」とする1べテロ3章18節の大川牧師の解釈は間違いであり支持できないとし、また、「死者の世界にも希望がある、魂が永遠に生きる道がある。そして彼らのために祈ることができる」との大川氏の主張は、感情的な希望的観測に過ぎず、「聖書に死人のために祈りを勧める箇所はどこにもない」と明言しました。(『永遠と復活』に対する聖書的検証』P20)


そしてウッドは、「セカンドチャンス論は、今イエスを信じなくても、死んだあとでも間に合いますよ」というメッセージになり、伝道の大きな妨げになると断言しました。


<肯定論>


一方、肯定論者としては、大川従道の他、イギリスの聖書学者ウィリアム・バークレー、東京神学大学元学長の熊澤義宣、月刊『レムナント』主筆牧師の久保有政、などです。


上記尾山牧師の見解に対して、久保有政牧師は、著書『聖書的セカンドチャンス論』(レムナント出版)において、次の通り持論を述べています。


「地獄は終末的な場所であり、最後の審判で有罪となった人か行く永遠の火の池であり、天国は神の王国であり、クリスチャンは死ぬと天国に迎えられる」 とし、「黄泉(ハデス)は、未信者が死後いくところで、最後の審判までの一時的、中間的な場所」(以上、P14~15)、で、黄泉にも上流、中流、下流と段階あるとしました。


また、「悪人だけが黄泉に行ったのではありません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモンなど、旧約聖徒らを含む全ての人が死後は黄泉に行きます」(P17)とも述べています。


つまり、死後の霊界の世界には、天国と地獄だけでなく、黄泉という中間的な霊界の三層構造になっており、死者は先ず(地獄ではなく)黄泉に行くというものです。ザビエルが悩んだように、「人間は死後、天国と地獄のどちらかに振り分けられる」のではないというのです。


そして久保牧師は次のように語っています。


「地上に生きている間になす回心は、他の何にも優って尊い」、としながらも、「福音は黄泉に行った人々のためにも存在すると聖書は語っている」としました。(P45)


これは、「生きているもにも、死んだものにも恵みを惜しまれない主」(ルツ2.20)とあり、また「死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る」(ヨハネ5.25)とある通りです。また、イエスは、「(黄泉に)捕らわれた霊たちのところに行って宣教されました」(1ペテロ3.19)と明記されています。


この点、イギリスの著名な聖書学者であるウィリアムバークレイも、前記聖句は、キリストの黄泉における福音宣教を述べた箇所だと言っています。


かくして久保牧師は、「キリスト者以外の死者は、地獄に行っているのではなく、黄泉に行っています」とした上、「死者にも回心の機会がある」と主張しました。この見解は、大川従道牧師と軌を一にしています。 また、「神の導きのもとに地上の人生を真摯に歩み、生きているときにイエスを信じることが最大の幸福だということをしっかり説くなら、回心を伸ばす懸念は不要であり、死後のセカンドチャンスは伝道の妨げではない。それはまた聖書の教えである」と主張しました。


大川牧師もまた著書『永遠と復活』の中で、「自殺した人の魂は、地獄には行っていないこと、黄泉に行っていること、そして復活と永遠の命を得るチャンスがあること」を主張しました。そして、「みんな黄泉の世界にいて、イエス様から福音の伝道を受ける時がきます。そのために祈ることが、私たちにはできるのです」(著書『永遠と復活』P143)と明言しました。 そして、「地上で私たちが救われている姿を先祖に見せること」が何よりの祈りになり供養になるとも語りました。


筆者はこの大川牧師の主張には大いに共感するものがあります。 イエス様が死んだのち、三日間地獄の底に行って救いを宣言し、死者の魂が死亡の世界から生命の世界へと行ける道を開いたと思料いたします。


【セカンドチャンス論の新しい見解】


筆者は大川牧師らのセカンドチャンス論、即ち死者にも救いのチャンスがあるという主張を、基本的に支持したいと思います。では、死者の救いはどのようになされるか、そして地上人はそのために何ができるのでしょうか。


<先祖供養>


死者の救いのために地上人がする行為には、先ず「先祖供養」というものがあります。先祖供養とは、先祖を慰霊、鎮魂し、祈祷・供え物・布施・法要、などをもって、死者に対して鎮魂・畏敬するための代償的行為であり、日本では広く行われています。前記の久保牧師は、キリスト教が否定的な先祖供養を肯定、評価し、霊界の父母、先祖の救いのために、思いを馳せ、地上で祈ることができると主張しています。


大川牧師も祖先のために祈ることができるとし、そして前記した通り、先祖への最大の供養とは、自分自身が救われることであり、「救われた姿を祖先に見せること」に他ならないとしています。これこそ真の追善供養というわけです。


またカトリックでは、煉獄のクリスチャンの霊魂のために、地上人の祈祷や代償行為を認め、死者のための「祈りの日」があり、一部のブロテスタントにも黄泉での伝道を促す死者への祈りがあると言われています。 特に日本には、死ねば皆神仏になるとの考え方があり、死者を手厚く葬り、供養する伝統があるというのです。


<再臨復活と先祖解怨・先祖祝福>


では霊界にいる先祖の救いは、如何になされるのでしょうか。原理は次の3点を指摘しています。


第1に、UCは霊界の先祖のために祈り祭ることを認めており、霊界人が地上人間に協助し、地上人と共に恩恵に預かる霊人の「再臨復活摂理」という考え方があります。


原理講論の復活論「霊人の復活」の項には「地上の肉身生活において、完成されず他界した霊人ちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである」(P225)とある通りです。


これは、霊人体の完成はあくまでも地上の肉身をもってなされるという原理観から来ています。人間の霊人体は神から受ける生素と、肉身から供給される生力要素との授受作用によってのみ成長するように創造されたので、霊人体は肉身を離れては成長することも、また復活することもできないという創造の原理があるというのです。(同P225)


第2に、昨今UCにおいて盛んに行われている先祖解怨・祝福の役事があります。これは、UC創始者の勝利圏を土台に、1999年から清平で始まった役事です。この先祖解怨・祝福は、より直接的な先祖救霊の道であります。これは、大きくは先祖供養の一種と言え、また霊人の再臨復活思想に含まれる祭祀であると考えても大きく外れてはいないでしょう。


ただ、普通の先祖供養と違うところは、創始者の権威のもと、原理的な再臨復活思想に基づき、地上人を通しておこなわれる祭祀であり、ただ慰霊するだけに留まらず、先祖の怨念や罪まで解放し清算するという踏み込んだものであるという点であります。これは成約時代における恩恵であり、新約時代にはありません。


そうして、この祭祀を通じて地上人も様々な恩恵を受けることになります。即ち、復活して善霊となった祖先が、異言、病気の癒し、啓示、黙示、役事、奇跡など、「聖霊の代理」をすることによって、地上人の信仰と生活を協助するようになるというのです。


しかし、ここで気をつけなければならないのは、先祖解怨・祝福の役事を偏重し、過度に傾斜することです。これが救いの本筋だと錯覚して、み言に基づく悔い改め、回心、新生、復活という救いの本道から外れかねないことに留意しなければなりません。 昨今、UCが「先祖解怨教になってしまった」という汚名を返上しなければなりません。


あくまでも人間の救いは、福音による救いが本筋であり、先祖解怨・祝福は、その補完的な役割を担っているものと言えるでしょう。原理講論にある通り、救いは蕩減復帰であり、悔い改め、回心、新生、復活、永遠の命という救いのプロセスにあることを確認したいと思います。創始者が、重生復活、祝福復活、永生復活と言われている通りです。


第3に、霊界における霊界人が、直接み言を聞いて救われるチャンスがあるということです。当にこれが、大川牧師らのセカンドチャンスでありましょう。


UCによると、解怨された霊人にはみ言の修練会(100日間)があり、修練会を終えた霊人たちは、その後、挙行される祝福式に参加して聖酒式をすることによって、原罪が清算され、絶対的な善霊に変わると言われています。 また先祖祝福を受けた善霊たちは、再度、「霊界修練所」で40日間の修練を受け、祝福家庭としての教育訓練を受けると言われています。


そして創始者は、霊界におけるみ言の修練会を開始され、多くの聖人・義人や霊界人が参加し救いに預かっているといいます。このように、霊界において、「み言の修練会」が持たれているというのです。使徒パウロも霊界で李相軒先生から「メシア降臨と再臨の目的」の講義を受け、原理教本を学び回心しました。(李相軒メッセージ『使徒パウロの手紙』光言社P98)


これらの事実は、死後に福音を聞いて復活することができるというセカンドチャンス論と同じ脈絡にあります。このようにUCでは、死後にみ言を聞いて救われる機会があることを認めており、これは成約時代の恩恵であります。 ここに至ってようやく、いわゆる大川牧師らが唱えるセカンドチャンス論は正式に実現したということになります。


以上で、セカンドチャンス論に端を発した死者の救いとその方法について考察してきました。皆様、どのように感じられたでしょうか。賛同、異論、反論、是非お聞かせ下さい。(了)

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