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創世記 注解⑧ エソウ、ヤコブの誕生からヤコブがラケルに出会うまで

🔷聖書の知識65 創世記注解⑧ エソウ、ヤコブの誕生からヤコブがラルに出会うまで

一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。 (創世記28.11~12)


前回、イサク献祭後、不妊のリベカに双子が生まれるまでを見てきました。今回は、双子が産まれ、ヤコブが長子の祝福をうけ、ハランに出発し、井戸の傍でラケルに会うまでの歩みを見ていくことにいたします。


聖書は、名だたる大帝国の始まりを記録していません。しかし、この小さな家族の出来事は詳細に記録しています。後の時代の人々が、記憶に留めておくべき物語であります。


【リベカ、双子を産む】


前回、長く子がなかったリベカは遂に妊娠し双子を孕みました。しかし双子は腹の中で互いに押し合い争います。そして神は、生まれる前から兄エソウは弟ヤコブに仕えることを宣言され、ヤコブを愛しエソウを憎んだと言われました。


「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。 『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」(ロマ書9.11~13)


神の救済摂理は、先ず善悪分立から始まり、長子を悪の立場、次子を善の立場に立てて、兄が弟に従うという復帰の原則において展開されました。これは、エバの堕落の経緯に起因し、またサタンは長子を先に奪っていったという事情によるものです。アダムの家庭においてカインとアベルに分立されたのも同じ理由によるものです。


これが 歴史の二流であります。歴史は小さいものから大きなものまで、必ず、カイン型とアベル型、即ち二流に別れました。典型的な思想はヘレニズムとヘブライズムであります。


従ってイサクの家庭においては、ヤコブがエソウから、サタンに奪われた長子の立場(長子権)を取り戻し、エソウを屈服させることによって摂理が進展していくことになります。原理ではこれを実体基台と呼んでいます。


「彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。 さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。 その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。」(創世記25.2~26)


エサウとは、「毛深い」の意味で、ヤコブとは「かかと」または「追い出すもの」の意味だと言われています。


ヤコブは今後の路程において、a.エソウから長子の嗣業を復帰し、b.ハランで21年間苦労しながら家庭と財物とを復帰し、c.天使との組み打ちに勝利して天使に対する主管性を復帰することによって、「実体献祭」のための中心人物となっていく道を歩んで行くことになります。


【エソウ、ヤコブに長子権を売る】


「この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた」(創25.27)


エサウは「野の人」となりとありますが、これは家族の絆の外で生きることを選び、家族への忠誠を捨てた男と解されています。一方、ヤコブは、「天幕」、即ち家族と共に生きる人間として描かれています。また、「イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛していた」(創25.28)とありますが、リベカは既にヤコブの選びについて神から啓示を与えられていました。「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ」(マラキ1.2~3)とある通りです。


そしてエソウはヤコブに長子権を「パンとレンズ豆のあつもの」で売り渡すことになります。(創25.31~35)


長子の権とは具体的には、a.物質的祝福(申21.17、2倍の分け前)、b.霊的祝福(Ⅰ歴5.1~2、祭祀を仕切る権利)、c.メシアの系図に連なるという祝福(アブラハム契約に基づく長子の権利)、d.土地の所有、などであります。


「エサウは、『見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう』と言った」(創25.33)とあるように、霊的なものへの無関心さが表れています。こうしてエソウは、長子の権利をヤコブに売り、「誓い」によって、この取引は法的に有効なものとなりました。


「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである」(創25.34)とある通りです。


このように、たかが「パンとレンズ豆の煮物」くらいで長子権をヤコブに売り渡したという話しは、エソウが家族的紐帯に欠け、神に背を向けて生きる粗野な性質の持ち主だったことを象徴して語っている場面ではないかと思われます。


【ヤコブ、エソウからイサクの祝福を奪う】


かってアブラハムが二回に渡って、自分の妻を妹と言って王に妻を差し出し、再び取り戻した場面がありました。イサクもまたベリシテ人の王アビメレクに、妻を妹と偽りました(創26.7)。こうしてイサクの家庭は、図らずも本然のアダムたる家庭を復帰する象徴的条件を立て、イサクの家庭の実体献祭の摂理が始まりました。


その後ヤコブは、リベカの機転(母子協助)もあり、エソウに代わってイサクの祝福を受けることになります。この間のいきさつは創世記27章に記載されています。


「イサクはヤコブを見わけることができなかったので、彼を祝福した。 そして父イサクは彼に言った、『子よ、さあ、近寄ってわたしに口づけしなさい』。 彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った」(創27.25~27)


こうしてヤコブは「蛇のような聡き知恵」をもって、エソウからイサクの祝福を奪い取ることになりました。当然、騙されたエソウの腹の虫はおさまりません。殺意が沸いてきます。


「こうしてエサウは父がヤコブに与えた祝福のゆえにヤコブを憎んだ。エサウは心の内で言った、父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう」(創27.41)


上記ヤコブがイサクの祝福を受ける物語は、文言上、一見卑怯な騙し討ちに見えますが、リベカは既に神から啓示をうけており、ヤコブも自分への神の摂理を感じていました。その意味で母子が共同して、神の摂理を進めるために為された勝利だと言えるでしょう。


こうしてエソウはカナン人を娶り、子孫はエドム人と呼ばれるようになり、ヤコブはリベカの故郷の女(ラケル、レア)と結婚し、ハランに住むようなります。


【ヤコブ、ハランに逃亡する】


ヤコブは兄エソウの怒りから逃れるべく、リベカの助言もあり、叔父ラバンが住むハランに向かうことになりました。そして父イサクは、リベカの兄ラバンの娘を娶るよう命じました。


<ベテルでの一夜>


「一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た」(創28.11)


ヤコブが初めての劇的な霊的体験をする場所です。彼は知りませんでしたが、そこはベテルでありました。アブラハムが、初めて約束の地で祭壇を築き、公の礼拝をした場所です。


「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た」(創世記28.11~12)


地と天を結ぶ階段です。ヤコブは地におり、神は天におられ、この階段を、天使たちが上り下りしているという霊的体験です。


そして、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受けることになります。


「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう」(28.13~14) 。そしてヤコブは10分の1を捧げることを神に誓います。


さて、讃美歌の404番として有名な下記の曲「山路こえて」は西村清雄が作詞したもっとも有名な日本人の創作讃美歌の古典です。松山バンドの信徒らの、伝道の旅路、信仰体験を詩歌として謳ったもので、このヤコブの旅路を題材にしました。筆者も心引かれる讃美歌です。


 山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし。松のあらし、谷のながれ、みつかいの歌もかくやありなん。峯の雪とこころきよく、雲なきみ空とむねは澄みぬ。


 みちけわしくゆくてとおし、こころざすかたにいつか着くらん。されども主よ、われいのらじ、旅路のおわりのちかかれとは。日もくれなば、石のまくらかりねの夢にもみ国しのばん。(讃美歌404番).


【ラケルとの出会い】


ベテルで神の啓示を受けたヤコブは、新しい力を得て全身に霊がみなぎっていました。自分はアブラハム契約の継承者となった、神がともにいて、すべての必要を満たしてくださる、そして、必ずカナンの地に帰還することができる、と!


ヤコブは、アブラハムの僕が井戸のそばでリベカにあった話は父母から聞いていたはずです。井戸に行けば、土地の羊飼いたちに会い、何かが始まると感じていました。男女の出会いは、いつも井戸の水汲み場でありました。アブラハムの僕がリベカと会った時も、モーセがチッボラと会った時もそうでした。そしてヤコブもまた、井戸でラケルと出会うことになります。


ヤコブはその後旅を続けてハランに行きます。見ると野に一つの井戸があって、人々はその井戸から羊の群れに水を飲ませるところでした。井戸の傍でヤコブ羊飼いたちと話していると、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来ました。ラケルとの出会いです。


「ヤコブは母の兄ラバンの娘ラケルと母の兄ラバンの羊とを見た。ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。 ヤコブはラケルに、自分がラケルの父のおいであり、リベカの子であることを告げたので、彼女は走って行って父に話した」(創29.10~12)


神の霊妙な導きの中でリベカとの出会いが実現しました。ヤコブは、目の前にいる将来の妻になる女性に一目ぼれしたのです。なんという神秘的でロマンチックな出会いでしょうか。


ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけし、そして彼を自分の家に連れて行きました。ラバンの妹リベカが父ベトエルの家を出たのは、90年以上も前のことでした。 


以上、リベカが双子を産んでからヤコブがラケルと出会うまでのいきさつを見て参りました。これら族長物語の一つ一つに神の霊妙な導きがあり、背後に摂理があることを決して否定することはできません。


次回は、ヤコブの結婚、ハランでの21年、そしてエソウとの歴史的な出会いを見ていきたいと思います。(了)




*上記絵画:ヤコブの夢(フィリップ・リチャード・モリス画)

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