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創世記 注解⑩ デナ事件及びユダとタマル

🔷聖書の知識67--創世記注解⑩--デナ事件及びユダとタマル


ヤコブがエソウと別れて、スコテからカナンを経てシケムに進み、その後ベテルに到着します。ベテルで神の祝福を受け、イスラエルの称号を得ることになりました。その間、シケムでデナ事件が起こります。


そうしてヨセフが兄弟に妬まれエジプトに売られていくことになり、そして今回の最大の論点、ユダとタマルの物語が続きます。以下、デナ事件の真相、ヨセフの受難、そしてタマルとユダについて考察していきたいと思います。


【デナ事件とは】


デナ事件は、創世記34章に記録されているシケムでの出来事です。


<デナ事件の顛末>


デナ事件は次の聖句から始まります。


「レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが、 その地のつかさ、ヒビびとハモルの子シケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた。 彼は深くヤコブの娘デナを慕い、この娘を愛して、ねんごろに娘に語った」(創世記34.1~3)


ヤコブの子らは野から帰り、この事を聞いて、悲しみ、かつ非常に怒りました。シケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルに愚かなことをしたためで、こんなことは、してはならぬ事だからであります。(創4.7)


その地域の族長である シケムの父ハモルは、ヤコブとその子らと、デナのことで話しあい、デナをシケムの妻とすること、多くの結納金、贈り物、土地などを贈ること、互いの部族が婚姻し合うこと、などを約束し和解しました。


その上、割礼することまで約束し、全住民に割礼を施しました。しかし、ここで以下の通り惨劇が起こります。


「三日目になって彼らが痛みを覚えている時、ヤコブのふたりの子、すなわちデナの兄弟シメオンとレビとは、おのおのつるぎを取って、不意に町を襲い、男子をことごとく殺し、またつるぎの刃にかけてハモルとその子シケムとを殺し、シケムの家からデナを連れ出した。 そしてヤコブの子らは殺された人々をはぎ、町をかすめた。彼らが妹を汚したからである」(創34..25~27)


それにしても、このシメオンとレビのしたハモルらへの仕打ちは、妹デナを辱しめられたとは言え、過剰防衛、過剰制裁ではないか、あまりにも酷である、と思わざるを得ません。ましてや相手は最大限の譲歩をし、割礼まで同意したのですから。


これらの過剰な仕打ちは、イスラエル民族の純潔重視、雑婚することへの忌諱、そして選民思想の表れでしょうか、或いはそれを象徴した物語でしょうか。


<イスラエルの聖絶思想>


筆者は、上記のデナ事件が、異教徒的な思想を排斥するイスラエルの「聖絶思想」と共通性があるような気がしています。そこで、以下、聖絶思想をおさらいしておきましょう。


「聖絶する」という動詞「ハーラム」は旧約聖書で51回使われているそうです。特にヨシュア記の特愛用語で、ヨシュアの率いるイスラエルの民は、神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンに侵入し、そこを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されています。次のヨシュア記6章のエリコの戦いにおける聖絶は有名です。


「この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。また、あなたがたは、奉納物に手をふれてはならない。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした」(ヨシュア6.17~21)


聖絶とは、つまり、徹底的に破壊する、すべてのものを打ち殺すという意味であり、また、神にささげられた物、破壊のために取り分けられたもの、という意味もあります。


常識的に考えれば「なんと残酷な」と思われます。一体、神が「聖絶する」ことを民に命じたその意味は何なのでしょうか。その真意は「神の民が聖を失って、他のすべての国々のようになってしまわないため」だというのです。神は聖絶によってご自身の民がこの世のものと同じくなることを防ごうとされたのです。つまり「聖絶」とは、神の「聖」を民に意識させて、それを守らせる戦いだったというのです。


我々流に言えば、神とサタンの分離・分別、しかも徹底した分別です。


【タマルとユダ―血統転換の法理】


創世記37章から50章まではヨセフ物語が記述されています。途中38章で挿入句のようにユダとタマルの逸話が入り、再び39章から50章までヨセフを中心に展開されます。


ヨセフがエジプトに売られ、やがてエジプトの総理大臣になり、ヤコブ一族がヨセフの元に下っていく物語は次回見ていくことにして、この項では38章のユダとタマルについて考察することにいたします。


<神学上の難問>


数ある聖書の奥義の中で、この創世記38章ほど神秘に満ちた章はありません。何故なら、「罪ある女から、如何にして罪なきメシアが生まれ得るのか」という神学上の最大の難問を解く鍵がここにあるからであります。結論から言いますと、タマルは、罪ある血統の中から罪なきメシアが生まれるための道を開いた最初の女性であるというのです。


インスピレーションに導かれて、人間の堕落は天使がエバを誘惑したことから始まったので、その償いは逆の経路を辿って行うという償いの原理(蕩減復帰)により、逆にエバたるタマルが、天使長たるユダを誘惑する立場に立ったというのです。創世記38章14節~19節には、タマルが舅のユダを誘惑してユダの種(血統)を身籠る経緯が記されています。


「 彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。 ユダは彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたため、遊女だと思い、 道のかたわらで彼女に向かって言った、『さあ、あなたの所にはいらせておくれ』。彼はこの女がわが子の妻であることを知らなかったからである。彼女は言った、『わたしの所にはいるため、何をくださいますか』。 彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。 彼女は起きて去り、被衣を脱いで寡婦の衣服を着た」(創世記38.14~19)


この箇所は、伝統的キリスト教では、汚く恥ずべき箇所とされ、タマルは舅を誘惑した悪女であり、ユダは堕落した男として非難されています。特にタマルは、姦淫、それも近親姦淫をした女性だというのです。ならば、何故、このようにして姦淫から生まれた血統の中から、神聖なメシアが生まれくるというのでしょうか。


つまりこれは、このような異邦人にして罪深いタマルをさえ、神は許し祝福を与えるほどに人間を愛されたという見本だと言うのです。即ち、異邦人や罪人にも救いが開かれるという、神の救いの広さを示したものと解釈しています。しかし、果たしてそうでしょうか。


マタイ伝1章冒頭に、男性中心であるメシアの系図の中に、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバ(ウリヤの妻)の4人の女性が出てきます。彼女らは皆異邦人であり、普通でない結婚をした分けあり女です。これらの事例もまた、神の救いの広さを象徴するものとしています。また、マリアの普通でない身籠りを正当化するための、マタイが取った布石だとの見方もあります。


<奥義の新しい解釈>


歴史の二流は、アダム家庭では、アベルの供え物で交差しましたが、カインがアベルを殺害することにより転換できず、ノア家庭ではハムの失敗で交差も転換も不可でした。ヤコブ路程では、ヤコブとエソウの一体化で善悪の交差転換を成功し外的条件を立てることができました。しかし、当時ヤコブは40歳で、それまでの期間を分別しなければならず、胎中まで遡って元返すという責任を担ったのがタマルであったというのです。


ユダヤの国では、その昔、祝福を受けた血統は途絶えてはいけませんでした。また、女性が子孫を残せずに死ぬというのは、女性としての道理ではなかったのです。ですからタマルは、自分の一代において祝福された血族を残せないことに対して、命を失うこと以上に苦悩するようになりました。


タマルはレビラート婚(エル→オナン→シラ)によってユダの血統を残すことがかなわないと知り(創世記38.11)、天使がエバを誘惑したので逆にエバが誘惑するという型を取りながら義父のユダと関係しました。ちなみにレビラート婚とは、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚して子を残すという当時の慣習です。


当時タマルもリベカと同様、双子を産むという啓示を受け、遊女を装うことは天啓だったというのです。その動機は、私的性欲、ユダとの情関係、自己の栄光、などではなく、ただ選民の血統を残すという一念、完全無私の神への信仰のみだったと言われています。


<タマル、双子を産むー聖書の奥義>


そしてタマルは胎中で双子を身籠り、月満ちて双子を産みました。産道から兄のゼラが先に手を出しましたがこれをひっこめ、代わりに弟のベレツが兄のゼラを押しのけて生まれてくることになりました。 以下、聖書の描写です。


「さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。 出産の時に、ひとりの子が手を出したので、産婆は、『これがさきに出た』と言い、緋の糸を取って、その手に結んだ。 そして、その子が手をひっこめると、その弟が出たので、『どうしてあなたは自分で破って出るのか』と言った。これによって名はペレヅと呼ばれた。 その後、手に緋の糸のある兄が出たので、名はゼラと呼ばれた」(創38.27~30)


上記のように、ゼラが手を出したとき「産婆は緋の糸をゼラの手に結んだ」と記され、ゼラが手を引っ込めたあと「ゼラに代わって弟のベレツが出てきた」と聖書は描写しています。


この霊感によって書かれた聖書の記述の中にこそ「胎中聖別」と呼ばれる血統転換を解く奥義があるというのです。これは、カインがアベルを殺した(創世記4.8)立場を胎中から元返して血筋を正した、即ち、長子の立場を胎中から回復した事例であるというのであります。これがまさに血統転換の法理です。(周藤健著『成約摂理解説』)


これこそ、イスラエル選民の内的出発勝利圏でした。産婆が「ゼラに緋の糸を結んだ」ことは神の知恵で、もし聖書がこれを書き残さなかったら、胎中聖別や長子権回復を整合性を持って説明できなかったといわれます。このように、聖書の記述の背後に深刻な神の救済摂理が秘められているというのです。これらを知るにつけ、聖書が神の啓示の書であることを今さらに実感せざるを得ないものです。


このような内容が聖書の中に書かれていることは奇跡というしかありません。しかし、かってこの聖書の奥義を正しく解いた聖職者も神学者も誰一人いませんでした。タマルが(決死の覚悟で)ユダを誘惑した意味とは何か、何故兄のゼラを押しのけて弟のベレツが先に出てきたのか、などについて誰も説明することができず、久しく覆いを被されたまま封印は解かれることはありませんでした。


「このようなことが書かれてること自体、聖書が神の救いの経綸を記した神の言葉である証左である」とUC創始者は語られました。筆者はこの創世記38章こそ歴史を解く鍵であり、聖書最大の奥義がここにあると理解しています。


<タマルの信仰の勝利>


こうして神の血統を残さなければならないという生死を超えたタマルの絶対信仰によりサタンの讒訴を受けないメシアの血統基盤が形成されたというのです。伝統的なキリスト教が指摘しているように、タマルは決して悪女ではありませんでした。ましてや創世記38章は、汚い恥ずべき章であるどころか、濁から聖に血筋の転換がなされる奥義が秘められた、神聖な章であるというのです。


そしてこの章の奥義は原理によって始めて解明されました。「原理には、神の啓示にはるかに勝って、人間を造り変える力があり、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです」(御旨と世界ー創立以前の内的教会史P594)とあるように、私たちは今、驚くべき「真理の啓示」の体系を前にしているというのです。


ルツ記4章12節には「どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」とある通り、ルツも一切の体面を捨てて、ただ神の摂理に従いました。


これらを創始者は「罪なき本然のより聖別された血統的基準に接近するための運動である」と言われました。そして、このタマルの信仰と勝利圏を相続したのがイエスを産んだマリアであったというのです。


<タマルを相続したマリアと再臨>


マリアもタマルと同様、イスラエルの血統を残すという決死の信仰で、天使に告げられた通り急いで親戚のザカリアの家に入りました。エリザベツもやはり啓示を受けていて、マリアを自宅に招き夫ザカリアのもとに手を引いて導いたというのです。3ケ月過ぎて妊娠したことが分かってマリアはザカリアの家を出ていきました。この時の情景を描いたルカ1章39節~56節も聖書の奥義です。


これらは、失楽園において天使長が神とアダムからエバを奪っていったので、逆に天使長の立場にあるヨセフからエバの立場にあるマリアを善の天使長の立場(神側)にあるザカリアが奪うという逆の経路を辿って償っていく道といわれています。このように、濁から聖への血統の転換は、失ったものの逆の道筋を辿って取り戻していくという、蕩減的回復の道を辿っていくというのです。


マリアからメシアが生まれるとの啓示はマリアとエリザベツ双方が受けていたと言います。マリアとエリザベツとはラケルとレアの関係(母親側の従妹)であり、神と聖霊の導きでマリアを夫ザカリアの元に導いた行為はエリザベツの信仰の勝利と言えるでしょう。


レアがラケルから夫を奪ったので、逆にエリザベツがマリアを祝福しました。このエリザベツとマリア及びザカリアの勝利で、レアとラケルが一体化できなかった立場を回復しました。故にマリアはサタンの讒訴圏無く、胎中聖別を経ることなくイエスを産めたのであると言われています。


「歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地した」(周藤健著「成約摂理解説」P157)と言われます。


そして再臨主は、「イエスの時までに神側が勝利した根本基台の上に臨在される」ので、マリアがタマルを相続してイエスを産み、イエスが大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し出し真の父母になられるはずであります。タマルの勝利圏は現代においても生きているというのです。


再臨主の母親は、タマル、マリアの絶対信仰を相続した立場で、「命がけの絶対信仰で身籠る」という立場を通過するというのです。第三アダムとしての再臨主が、無原罪のアダムの立場で生まれ、原罪なき堕落前のエバを探し出して、子羊の婚宴をしなければならないのです。(黙示録19.9)


以上の通り、ヤコブがエソウと別れてから起こった出来事、デナ事件とユダとタマルについてみて参りました。私たちは、このようなヤコブ家庭の物語から、豊かな霊的な糧、重要な信仰上の教訓を引き出すことができるでしょう。


次回は、ヨセフがエジプトに売られ、神の導きの中で、エジプトの総理大臣にまでなっていく過程を見ていきます。(了)




*上記絵画:ユダとタマル(レンブラント工房作画)

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