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死者の霊人の救い① 大川従道著『永遠と復活』を読んで 

○つれづれ日誌(令和3年1月20日) 死者の霊人の救い① 大川従道著『永遠と復活』を読んで


神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネ3.16)


最近、ある知り合いのクリスチャンから、大川従道著『永遠と復活』という本が送られてきました。これを読んで感想が聞きたいということでした。この本は、「セカンドチャンス論」の宣言とも言うべきもので、この機会に「セカンドチャンス論とは何か」、そしてそれに関連して、「霊界の霊人らの救いは如何にしてもたらされるか」について論じたいと思います。


【大川従道牧師と大和ガルバリチャペル】


著者の大川牧師は、大和ガルバリチャペルの主任牧師です。大川牧師は、教派を超えたクリスチャンの一致を求め、「セカンドチャンス論肯定派」として知られています。大川牧師の愛用聖句は、ローマ書8章28節「神は神を愛するもののために、 すべて、万事を益にして下さる」であり、「マイナスは、必ずプラスになる」を信念としています。なんだか、トランプのポジティブシンキングと似ています。78才。


大川牧師が主任牧師を務める大和ガルバリチャペルは、大和市にある超教派的なプロテスタント教会で、もともとホーリネス系でしたが、今は単立教会となっています。2500人以上の信者を持ち、日本では最大規模の教会です。


筆者はこの教会の礼拝に参加したことがありますが、日曜日は何回かに分けて礼拝をやっており、日本の教会としては珍しく多くの信徒を抱え、大変明るい雰囲気の教会であります。病気の癒しもやっているようです。


【セカンドチャンス論とは】


著者が「永遠と復活」において、体を張って主張する「セカンドチャンス論」とは何でしょうか。


<定義>


セカンドチャンス論とは、「キリストの福音を地上で聞くことなく死んだ人々も、死後、黄泉(よみ)の世界で福音を聞き、回心の機会が与えられる」という考え方であります。


これは、1ペテロ3章19節の「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」を根拠にしています。つまり、イエス・キリストは、十字架で死んだのち、3日間黄泉に下り、そこで福音を宣教されたと言うのです。


しかし、伝統的なキリスト教では、罪が赦される唯一の方法は、イエス・キリストを地上にいる間に信じることであり、キリストを信じ受け入れた人は、死後天国に行き、自殺した人や信じることなくして死んだ人は地獄に行くとしています。ペテロ3章19節の解釈も、イエスの伝道とは認めず、「単に救いの業が完成したことを宣言しに行っただけである」としているようです。


そうすると、日本の先祖たちは、ほぼ全員地獄にいることになり、これは愛なる神がなさることではない、いかにも無慈悲で理不尽であります。そこでセカンドチャンス、即ち、キリストの福音を聞くことなく死んだ人たちにも、死後福音を聞いて救われるチャンスがあると言うわけです。ペテロ3章9節に「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている通りです。


<賛否両論>


しかし、このセカンドチャンス論については、賛否両論があります。


セカンドチャンス論に対しては反対論も根強く、ウィリアム・ウッド、山岸登、尾形守、富井健、尾山令仁、その他が反対論を唱えており、キリスト教界で論議となっています。反対派の多くは、「もしセカンドチャンスがあるなら、多くの人は(地上でなくても)死後に回心すればよいと思ってしまうだろう」という点や、死後の救いについて、聖書に明確な記載が無いことを指摘しています。


セカンドチャンスによって懸念されることとして以下の4点を挙げ、セカンドチャンスが危険な教理であると述べています。


即ち、a.聖書の主題や文脈を考慮しない教えが蔓延していくこと、b.伝道への熱意を失うこと、c.死者への祈りがささげられること、d.信じる決心を後回しにすること、などを挙げています。


一方、肯定論者としては、イギリスの聖書学者ウィリアム・バークレー、東京神学大学元学長の熊澤義宣、加藤常昭、月刊『レムナント』主筆牧師の久保有政、そして大川従道などです。


賛成派は、「神の導きのもとに地上の人生を歩むことが最も大切であり、生きているときに信じることが最大の幸福なのだから、それをしっかり説くなら回心を伸ばす懸念は不要」としています。久保牧師は「死後のセカンドチャンスは伝道の妨げではない。それはまた聖書の教えである」と主張しました。


【大川従道著『永遠と復活』より】


大川牧師は、トップ俳優の三浦春馬さんの自殺(享年30才)がきっかけとなって、持論のセカンドチャンス論を公表しました。三浦さんが、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフを演じるに当たって、大川牧師にキリスト教の見解を聞きに来ましたが、彼が公演の後自殺したことで、三浦さんを「救えなかった」自責の念から公表に踏み切ったものです。


つまり、「自殺した人の魂は、地獄には行っていないこと、黄泉に行っていること、そして復活と永遠の命を得るチャンスがあること」を宣言するためです。



実は大川牧師は20年前、「自殺した人、キリストを信じることなくして死んだ人は、地獄ではなく、黄泉にいく。そして福音を聞くチャンスがある」ことをある研究会で発表し、大騒ぎになったことがあり、その後控えていました。しかし今回、満を持して公表したというのです。


死とは肉体と魂が分離することで、魂の行き先は、天国と地獄だけではない、死人は須らく黄泉に行くとしました。イエスの贖罪で、罪が初めから無かったことになり、こうして罪が赦された人が行けるところが天国であり、罪を赦される機会が無かった人は黄泉に行くというのです。


この点、久保有政牧師も著書『聖書的セカンドチャンス論』で、「キリスト者以外の死者は陰府(黄泉)に行っています。地獄に行っているのではありません。陰府は一般的な死者の世界であり、一方、地獄は最終的な刑罰を宣告された人々が行く所です」(P51)と語っています。


黄泉とは、ヘブライ語でシェオール、ギリシャ語でハデスといい、天国へ行く前の段階の場所、あるいは最後の審判を待っているところだと言われています。従ってイエスの福音がもたらされる前の旧約時代の人々は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ、ソロモンなどを含め、皆黄泉に行くことになります。「黄泉に下って、我が子(ヨセフ)のもとに行こう」(創世記37.35)とヤコブが語っている通りです。原理観から言えば、旧約時代は楽園より低い「アブラハムのふところ」、または「墓」と呼ばれる「霊形体級の霊界」であります。


そして最後の審判で審判を受け、天国に行けるか、「永遠の炎の池」に投げ込まれるかが決まるというのです。この炎の池こそ地獄(ゲハナ)であり、サタンはここに永遠に投げ込まれることになります。


【死後の霊人の救いについて】


ここで、死後の霊人の救いは如何にしてなされるのか、そもそもそれは可能なのかどうかについて、大川牧師の主張の是非を考察し、原理観を加味して考えたいと思います。


<死とは何か>


先ず、肉体の死とは人間の霊魂(霊人体)と肉体(肉身)が分離し、肉体は朽ちて土に還り、霊魂は霊界で永遠に生きることであります。これが肉体の死の意味であり、この死についての認識は、大川牧師と違いはありません。


では、人類始祖が、エデンの園で善悪の果実をとって食べることによって生来した死とは何でしょうか。それは堕落によって生命の根源者たる神との関係が断絶し、サタンの支配下に入ったことを指すと言われています。従って死には2つの意味があるというのです。そして、ここで言う死者の救い(復活)とは、専ら後者の死からの救いをいうのであります。


「復活とは、人間が堕落によってもたらされた死、即ち、サタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである」(原理講論P213)とある通りです。


そして復活は、時代的な恵沢の上に立ち、自らの完成に人間自身が責任を負い、そしてあくまでも地上の肉身生活を通じて、初めて人間の霊魂が完成されるというのです。従って、死者の霊の救い(復活)は、肉体を持った地上人間を通してなされるのが原則となります。


<死者の霊に対する救いー再臨復活>


創造原理によれば、霊人は「肉身から供給される生力要素(善なる行為)」によって成長するように創造されました。従って、「霊人は肉身を離れては成長することも、また復活することもできない」というのです。


従って、いまだ完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して、「地上人を協助し、地上人の肉身を自分の肉身の身代わりに活用」して成し遂げるというのです。即ち、霊人の再臨復活です。成約聖徒への霊界のキリスト教徒の再臨復活はその典型でしょう。


では、再臨復活はどのように行われ、地上人は何をすればいいのでしょうか。


霊人に対する地上人の祈り、代償、布施、善行、その他の先祖供養に類する霊的な活動によって、霊人たちは地上人に再臨し、いろいろな霊的な業をするようになるといいます。即ち、異言、病気の癒し、啓示、黙示、役事、奇跡など、「聖霊の代理」をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助するというのです。


UCの霊的儀式である先祖解怨、先祖祝福は、地上人の霊人に対する代祷、代償行為であり、地上の人間の肉体を通してなされる先祖供養に類する霊的な活動ですので、これも再臨復活を促す一つの型と言ってもいいでしょう。


従って、「亡くなった人のために地上で祈ることができる」とし、「救われた喜びの姿を見せることが何よりの先祖への供養」とする大川牧師の主張はあながち間違ってはいません。


<キリスト教徒への再臨復活>


地上で旧約の律法を信奉して行った旧約時代の霊人(霊形体級の霊人体)は、地上のキリスト教徒を再臨協助し、そのことによって自らもその恩恵に与り、共に新生した霊人(生命体級の霊人体)を完成して楽園に入るようになるというのです。また同様に、成約時代においては霊界のクリスチャンらが、地上のクリスチャンや成約信徒に再臨復活して、再臨摂理に参与するよう協助するというのです。


例えば、エリアの霊はイエスと弟子に現れましたが(マタイ17.3)、イエスは洗礼ヨハネを指して、エリヤであると言われました(マタイ17.12)。これは、文字通りエリヤが洗礼ヨハネに輪廻転生したのではなく、霊界のエリアがヨハネに再臨協助し、再臨復活の目的を為し遂げるようになることを、イエスはこのように言われたのです。従って、使命的に見れば、洗礼ヨハネの肉身は、正に、エリヤの肉身の身代わりともなるというのです。


また、イエスが十字架で亡くなられるとき、「墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」(マタイ27.52)と記録されていますが、これは、土の中で既に腐ってなくなってしまった彼らの肉身が、再び原状どおりに肉身をとって生き返ったことをいうのではありません。


これは、霊形体級の霊人体として、霊界にとどまっていた旧約時代の霊人たちが、イエスの十字架の贖罪の恵沢圏内における地上の聖徒たちを、生命体として完成できるように協助することによって、自分たちも共に生命体を完成するために、霊的に再臨したのを見て記録したにすぎません。(原理講論P226)


しかし、伝統的キリスト教では、文字どおり死んだ人々が、墓の中から肉身をとって生き返ったと解釈しています。またイエスの復活も肉体を伴う甦りと信じていますが、これでは科学を重んじる現代人の理性を納得させることは出来ません。


<霊人への福音伝道>


しかし、死後の世界でも伝道することができ、霊人は福音を聞く機会があるとするセカンドチャンス論は、「当たらずとも遠からず」ではないでしょうか。


再臨の歴史的恵沢によって、霊界と地上界との垣根が撤廃され、地上の摂理が即霊界に反映されるようになったこと、また興進様を霊界の総代として40日修練会などが行われみ言を聞く機会があること、霊界に行った信徒が必死で他の霊人を伝道しているという事実、愛の神は一人も滅びないで永遠の命を与えたまうこと、などを総合的に鑑みて、筆者としては、霊界におけるみ言の学びのチャンスと、そのことによる救いの道はあるのではないかと考えるものです。そしてこれらは、地上人による先祖解放儀式など「先祖への代償行為」と相俟って(共同して)、より確かなものになると思われます。


四大聖人も霊界でみ言葉を聞き再臨主を完全に受け入れたと聞いています。そして霊界の修練会で語られ、見せられる神のみ業は、より具体的で生々しいものであると言われています。


勿論、このような霊界でのみ言宣布は、あくまでも再臨主による「地上における蕩減路程の勝利の賜物」であること、地上での勝利が霊界での復活につながるということ、を忘れてはなりません。そして地上での回心が何故重要なのか、それは先ず、死後霊界での永遠の生命を得る資格を得ることと共に、地上で永遠の命を得ることこそ最高の価値ある生き方であり、何よりもそれが神の創造目的であるからです。


【天国・楽園・地獄・黄泉・煉獄】


最後に、天国、楽園、地獄、黄泉、煉獄などの概念についておさらいしておきたいと思います。


霊界には、天国や楽園や地獄や黄泉といった特定された場所があるというより、喜びに満ちたところを天国と呼び、苦しみに満ちたところを地獄と呼んで概念化しているのだと思います。須らく人間は霊界に行き、自らにふさわしい居場所、即ち自らの心霊基準に見合うところを探してそこに留まるようになるというのです。


即ち、あるのは永遠無限の霊界であり、高きから低きまで、何段階もの霊的水準やグループがあるということだと思います。ただ、前述しましたように、み言の程度と範囲に応じて、アブラハムのふところ、楽園、天国といった区別はあるということだと思われます。


<天国と楽園>


楽園とは、地上でイエスを信じて霊的救いを受けた霊人(生命体級の霊人体)が行くところで、肉身を脱いで行った霊人たちが、天国に入る手前でとどまっている霊界をいうのであり、天国と楽園は異なる概念です。


イエスは右の強盗に、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23.43)と言われましたが、このようにイエスをキリストと信じて行くところが楽園(パラダイス)であります。


<黄泉、煉獄、地獄>


前述しましたように、黄泉(シェオール、ハデス)とは、未信者らが死後行くところで、天国へ行く前の段階の場所であり、いわゆる中間霊界であります。そして黄泉には、苦しく暗いとこともあれば、楽しく明るいところもあると言われています。


一方、カトリックには「煉獄」という教理があります。煉獄は、クリスチャンで天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところであり、ここで罪を清められた後、天国に入るとされています。そしてカトリックでは、クリスチャンの煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。生者が死者の救いのために祈祷や代償などの宗教行為をするというものです。この考え方は、前述の大川牧師の黄泉の霊人への祈祷と類似性があります。


上記で見てきたように、キリスト教内で地獄に対する捉え方が教派・神学傾向などによって異なり、地獄と訳されるゲハナと、黄泉と訳されるハデスの間には厳然とした区別があるとする見解と、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解など、両概念について様々な捉え方があるところです。


そして、最後の審判で審判を受け、サタンとその手下らは「永遠の炎の池」に投げ込まれるとされています。この炎の池こそ地獄(ゲハナ)であり永遠の苦しみを受けるところであります。しかし、再臨主は、最終的には地獄まで撤廃し、サタンも救われると宣言されました。キリスト教が言うように、サタンといえども永遠の炎の池に留まるわけではありません。


【最初の復活とは】


「最初の復活」というのは、再臨摂理によって、初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのであります。したがって、すべてのキリスト教信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにあると言われています。


再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、生霊体級の霊人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのというのです。(原理講論P223)

そして聖書に表示された14万4千人こそ、再臨主が降臨されて、全体摂理遂行のために立てられる信徒の象徴的な全体数、即ち、最初の復活であります(黙示録7.4、14.1)。私たちは、クリスチャンたちがあれほど願ってきた珠玉の「最初の復活」に与ることができるとするなら、これ以上の幸運はあるでしょうか。


以上今回は、大川従道著「永遠と復活」の論評を通じて、死者の救いについて考察いたしました。また、天国、楽園、地獄、黄泉、煉獄についておさらいをしました。引続き次回、死者の救いの問題を続編として論じる所存です。(了)


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