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宋家の三姉妹 長女靄齢、次女慶齢、三女美齢

○つれづれ日誌(4月14日)-宋家の三姉妹  長女靄齢、次女慶齢、三女美齢


最近、福岡の世界平和女性連合から、機関誌「Our Story」4月号が送られて来て、その中に「時代に咲いた花」と題して「宋美齢女史の物語」が載っていました。この評伝の中に、美齢はキリスト教徒であり、蒋介石との結婚に際して「キリスト教の洗礼を受けること」を条件にしたことが記載されていました。そして実際、蒋介石は約束を守って洗礼を受けたというのです。


今回筆者が「宋家三姉妹」をテーマに選んだのは、この「Our Story」の記事に刺激されると共に、長女靄齢(あいれい)、次女慶齢(けいれい)、三女美齢(びれい)の宋家三姉妹がそろって、孔祥熙(財閥)、孫文(国父)、蒋介石(総統)という当時の中国における最高実力者の妻になり、近代中国に大きな影響を与えたことで「一体この宋家とはいかなる家系で、近代中国にどういう意味を持つのか」との強い関心を持ったからであります。


筆者は本項をまとめるに当たり、この三姉妹が、両親のキリスト教的霊性を色濃く受け継いだ女性であることに注目し、従って、この三姉妹にキリスト教が、直接間接、どのような影響を与えたのか、この点が最も関心事でありました。更に、男三兄弟は、そろって政府の高官になっています。特にハーバード大学出身の長男宋子文は、中国南京政府の財務部長となり、国家の財務を一手に引き受けて手腕を発揮しました。実に父宋耀如(そうようじょ)の6人の子供が、そろって近代中国の立役者であるとは驚きという他ありません。


【宋家三姉妹の父宋耀如】


三姉妹の父親宋耀如(宋ようじょ、1863~1918))は、1863年客家出身海南島の商人の家に生まれました。一族の多くはアメリカ東海岸の都市で中国産の品々を商う華僑となっていました。耀如は9才でボストンで茶と絹を扱う叔父の養子となり、商売を見習いました。


しかし向学心に燃えた耀如は、13才で養父の家を飛び出し、ボストンの港から南部に向かって密航を企てました。そこで幸運にも船長のジョーンズの好意で船で働くことになり、そこでキリスト教の教えを受けることになりました。そしてこの縁で、ウィルミントンの南メソジスト教会リカード牧師から洗礼を授かることになります。チャーリーの通称で呼ばれました。


この宋耀如の家出とキリスト教との出会いこそ、その後の耀如と中国の未来を方向付ける出来事でありました。これは宋耀如にとって、神の召しだったと言えなくもありません。


耀如は、マサチューセッツ州のメソジスト・トゥリニティ・ガレッジに学び、さらにテネシー州のバンダービルト大学に転学し、なんと神学を修め牧師となったというのです。(伊藤純・伊藤真著『宋姉妹』角川文庫P11)


1886年上海に帰り、南メソジスト教会の牧師として伝道に励みました。上海で同じメソジスト信徒の倪桂珍(げいけいちん)と結婚し、三女(靄齢・慶齢・美齢)、三男(子文・子良・子安)の子宝に恵まれます。


妻の倪桂珍の倪家は、明代の高官で西欧科学の紹介者であり、また中国で最初にキリスト教信仰を受容したと言われています。


結婚後は、会社経営に集中していき、聖書の印刷・出版で成功し、やがて浙江財閥となります。この時、教会が取り持つ縁で、国を憂う「孫文」と出会い、福音による中国の救済と共に、革命による中国の救済を志向し、孫文の強い支援者になりました。「宋耀如は、孫文の秘書であり、革命運動のオルガナイザーであり、資金面のスポンサーでもあった」とある通りです(『宋姉妹』P12) 。そしてこの父親の「福音と革命」という二つの思想は、三姉妹に色濃く受け継がれていくことになります。


また耀如は、この三男三女の子供たち全員を、アメリカの大学に留学させています。上海でも指折りの財力を誇る父に、子供のために費やす金を惜しむ必要などなかったのです。


長男と三男はハーバード大学、次男はバンダールビルド大学、また長女と次女はウェスレイアン大学、三女はウェスレイアン大学を経由しウエルズレイ大学を、それぞれ卒業しています。


ウェスレイアン大学は、キリスト教に基づいた伝統的教育がなされ、多くの卒業生がアジア、アフリカに宣教師として出かけていきました。近くには、三姉妹が日曜礼拝に通ったメソジスト派教会が建っています。三姉妹はこれらのキリスト教精神と共に、完璧な英語と洗練された教養を身につけたというのです。なお、美齢が卒業したウエルズレイ大学は、ブッシュ大統領夫人、クリントン大統領夫人の母校として知られています。


まさに三姉妹は、父親の威光のもと、洗練されたアメリカ的伝統を身に付けました。「この父ありて、この娘あり」ということでしょうか。後述いたしますように、この三姉妹の夫は、全て父宋耀如の縁者であり、父が取り持つ縁での結婚でした。この敬虔なクリスチャンの父こそ、宋一族の要であり、ある意味で神に召された人物でした。


なお宋耀如は、1918年55才で、中国革命の成就を見届けることなく他界いたしました。


【宋家三姉妹の結婚】


実際、靄齢、慶齢、美齢の宋家三姉妹ほど、激動の20世紀において、燦然と輝く数奇な運命を辿った姉妹はありません。「一個愛錢、一個愛國、一個愛權」という毛沢東思想の言葉に象徴されているように、「一人は金と、一人は国家と、一人は権力と結婚した」と言われています。


「金を愛した」と言われる長女靄齢は,孔子の子孫を称し、金融で巨富をなした山西省の富豪の息子、孔祥熙(こうしょうき)の妻となり、靄齢は金銭的な抜け目のなさで名高い女性でした。しかし彼女は、宋一族の運命の操縦者でもあったというのです。「もし彼女が男に生まれていたら、きっと中国を支配しただろう」とまでいわれたことがあります。


次に「中国を愛した」とされる次女慶齢は、辛亥革命の指導者で、国父と称される孫文の伴侶となりました。慶齢は、美貌であり、夫・孫文の理想に忠実に生き抜き、後に、毛沢東の人民共和国の副主席になりました。


そして「権力を愛した」と言われる三女美齢は、革命指導者として頭角を現し権力を握った蒋介石と結婚し、中国歴史上、最も政治的影響力を持つ女性の一人となりました。


左:宗家三姉妹(三女美麗・長女靄齢・次女慶齢)、中央:孫文と慶齢、右:蒋介石と美麗


<宋靄齢の結婚>


父宋耀如(チャーリー)のお気に入りだったのは靄齢(1888~1973)でした。彼女はおてんばで、素朴でしたが、しかし同時に頭がきれ、さらに洞察力がありました。やがて父の事務所に入り浸るようになっていきました。


ある日、チャーリーは亡命中国人たちがよく会合に使う、東京の中国人YMCAを訪れ、そこで山西省出身の孔祥熙という33歳の青年を紹介されました。孔家は孔子の直系としての家系を誇っており、さらに大変な富豪でした。また、東京に滞在していたときには、中国人YMCAの総幹事を務めていました。


チャーリーは孔祥熙を自宅での夕食に招き、そこで靄齢と出会いました。そして意気投合し、1913年春、二人は横浜で結婚式をあげることになったものです。こうして宋一族と孔一族、二つの財閥は揺るぎなく結びつき、そして孔は後に、中国革命の父孫文の義兄という栄誉をも獲得したのです。


靄齢は、祖国の近代化を渇望して、孫文の革命運動を援助する父親の教育を直接受け、意志が強く、行動力もありました。靄齢は、アメリカからの帰国後、1911年の辛亥革命による中華民国成立式典には臨時大総統孫文の英文秘書として、父親と共に列席していました。しかし、第2革命の失敗を聞き、日本に亡命中の家族と孫文に合流するために横浜にきていたのです。


<慶齢と孫文の結婚>


慶齢(1893〜1981)は、結婚した靄齢に代わり、孫文の英文秘書になりました。このころの孫文(1866~1925)は、袁政権を打倒し、共和国を再建しようとして、革命化の強化・再編に余念がなかったのです。小柄て優美な慶齢は、孫文の傍らで秘書として働くうちに、彼の革命事業の先に自らの描く中国を重ねてみるようになり、中国を救えるのは彼しかいない、そんな彼と人生をともに生きたいと思うようになったのであります。


しかし、慶齢の両親は、孫文との結婚に大反対でした。親子ほどの年齢差、しかも孫文には当時妻も子供もいました。中国革命という志は共にしてはいたものの、敬虔なクリスチャンだった耀如にとって二人の結婚は認めがたいものだったのです。


しかし、慶齢は孫文を除いては誰とも結婚しないと宣言し、駆け落ち同然で家を出、1915年、両親の反対をおしきり、二人は結婚しました。孫文49才、慶齢22才の秋のことでした。結婚の世話をしたのは、孫文の友人、梅屋庄吉とその妻でした。この間、宋家で唯一美齢だけが慶齢に同情と理解を示したといいます。しかし、この結婚はやがて宋一族にとって大きな財産になりました。


孫文は1924年、国民党第一回全国代表大会で、「国民党と共産党の合作(容共)」、「ソ連との連携(連ソ)」、「労働者・農民運動への援助(扶助農工)」を三大政策として革命運動の基本路線としました。慶齢はこれを支持し、このために積極的に働きましたが、孫文は1925年、肝臓ガンのため、革命の道半ばで他界しました。孫文が59才、慶齢が32歳のときです。


「革命はいまだ成らず。同志は努力しなければならない」という夫の遺言は、このあと数十年間にわたり継承する慶齢の活動を、絶え間なく鼓舞することになりました。


<美齢と蒋介石の結婚>


美齢(1898~2003)は、1927年に蒋介石(1887年~1975年)と結婚しました。美齢 は、1920年に蔣介石と上海市内の孫文の旧家で出会い、約7年の交際を経て1927年9月にプロポーズされ、11月には日本に滞在していた宋美齢の母親に結婚の承諾を経て12月1日に結婚しました。


孫文を継いだ蔣介石と、中華民国の名家の出身で、アメリカへ留学し、洗練され気品に満ちた立ち振る舞いと流暢な英語で、欧米でもよく知られた宋美齢の結婚は、中華民国内のみならずアメリカや日本、イギリスなど世界各国で大きく報じられました。一部には「政略結婚」と揶揄する向きもありましたが、実際は普通の恋愛結婚でした。


12月1日に行われた結婚式は、宋家の客間においてキリスト教形式で行われました。美齢は、中国の「ファースト・レディ」になる誘惑には抵抗できなかったし、蒋介石は孫文の後継者を自称していたので、孫家と親戚関係になることを求めていました。


なお蔣介石は、宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻や複数いた愛人と別れ、宋美齢とその両親と同じキリスト教に改宗することを約束しなくてはなりませんでした。蔣介石は実際に結婚後の1929年に上海のメソジスト教会で洗礼を受け、キリスト教徒となっています。


しかし、姉の慶齢は、蒋介石の性格や素行の悪さがわかっていたので、蒋介石の反共の政治姿勢が明確になる前から、美齢と蒋介石の結婚には反対していました。しかも慶齢は、夫孫文の「連ソ容共(ソ連との協力、共産党の容認)」政策を堅持する立場を採っていましたので、なおさらショックでした。


実はこの結婚の仕掛け人は靄齢でした。孫文と直接のつながりを持ち、宋子文と孔祥熙という金融の手腕家を擁して、外国からの資金援助をも手に入れうる宋一族が、さらに蒋介石に婚姻関係を提供して、南京政権に対する影響力を確固たるものとすることは、靄齢にとってはきわめて自然なことでした。


ある人びとは靄齢にすっかり気を許し、彼女を優しい人間と考えていますが、靄齢こそがすべてのことがらの支配者であったというのです。


【辛亥革命から中華人民共和国成立まで】


辛亥革命は、1911年から1912年にかけて、清(中国)で発生した共和革命であります。10月に孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧し、黎元洪を都督として中華民国軍政府が成立を宣言しました。


<三民主義と辛亥革命>


1912年1月、孫文は南京で中華民国大総統に選出され、1912年2月、清最後の皇帝溥儀が退位し、清国は滅亡しました。この結果、アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生しました。それは革命運動に献身してきた父耀如の悲願でもありました。そしてこの三年後、慶齢は孫文と結婚することになります。


孫文が掲げる三民主義とは、満州異民族支配の打倒を目指す「民族」、君主制を打倒し民主制を目指す「民主」、富の公平な分配を目指す「民生」から成っていました。(伊藤純・伊藤真著『宋姉妹』P24)


しかし、その一年後、孫文は日本への亡命を余儀なくされました。北京の実力者袁世凱に敗れたのです。日本に向かう船上には宋耀如と宋靄齢の姿もありました。


<蒋介石の南京政府>


1925年に革命半ばにして孫文が亡くなった後、国民党の実権を握ったのは蒋介石でした。1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧し、党および政府の実権を掌握して、1928年、南京国民政府国家主席となりました。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交であります。美齢とはこの最中、1927年に結婚しています。


そうして蒋介石は、孔祥熙を工商部長に、宋子文を財務部長に任ずるなど、南京政府の要職を宋家、孔家の一族が示め、人々はこれを「宋王朝」と呼びました。但し、この孔祥熙には賄賂の横行があり、かなり批判されました。


蒋介石は、国内統一を優先し、共産党打倒を主張しましたので、孫文の遺志を継ぎ、共産党と協力して日本の侵略と闘おうと主張する慶齢とは真っ向から対立しました。慶齢は、孫文の三大政策を堅く守って、孫文の意志に背いたものに協力できないと宣言し、モスクワに赴きました。こうして慶齢は、蒋介石の政策を支持する美齢とも対立していきました。


1932年に満州事変が勃発し、事態は急を告げていました。


<西安事件と宋美齢>


1936年12月、前線に赴いた蒋介石が、西安で張学良に軟禁される事件がおきました。共産党撲滅作戦より一致団結して抗日に当たるべしとの要求を突きつけられたのです。


上海でこの知らせを聞いた宋美齢は、西安に飛ぶ決意をしました。夫の救出だけでなく、国家の危機への対処に関わることと認識して、一直線に動いたのです。美齢は自身の身を捨てて、反共第一だった蒋介石を抗日のため、国共合作にするよう説得したのです。


西安事件における美齢の協力もあり、国民党と共産党が協力して抗日戦に当たることになりました。自らの危険を顧みず西安に赴き、夫を救い中国の危機を救ったファーストレディ宋美齢、彼女の名声は一躍国際的なものとなりました。ただこの国共合作は、戦後の蒋介石に禍根を残すことになりました。


姉妹は世界に向かって「中国をたすけよ!」と呼びかけ、三姉妹揃って募金、孤児救済、貧民救済等の先頭に立ちました。ちなみに孤児や貧民救済事業はメソジスト派教会の伝統であります。


更に美齢は、アメリカを訪問し、得意の英語を使って、アメリカ人に抗日への協力を求めましたが、この際において、美齢が敬虔なクリスチャンだったことは大いに欧米の共感を呼びました。美齢の抗日キャンペーンはアメリカの世論を大いに盛り上げたのでした。


1939年6月26日の「.タイム」誌は、こう伝えています。


「蒋介石はたぐいまれな勇気と決断の人である。西安で軟禁されたとき、死をも恐れないことを実証した。彼はメソジスト派の信徒であり、聖書の苦難の物語によって心を慰め支えている」(伊藤純・伊藤真著『宋姉妹』P124)


宋王朝は、そのキリスト教徒としての顔によって、アメリカに力強い守護者を獲得したのでした。ファシズムの横暴と戦うキリスト教の戦士のイメージが多くのアメリカ人の心を捉えていきました。


そして1943年のカイロ会談は、美齢の政治生活の絶頂であり、蒋介石の没落の始まりでありました。同席した美齢は、ルーズベルト大統領、チャーチル首相を相手に通訳以上の活躍をし、政治家美齢の真骨頂でした。


戦後、再び国共内戦が勃発し、1949年、蒋介石と美齢は共産党に追われて、国民党と共に台湾に撤退し、中華民国台湾を建設しました。美齢は、蔣介石死去後、1975年アメリカに移住し、2003年10月23日、ニューヨークの自宅で死去しまでした。享年105歳。


<それぞれの道を行く姉妹>


1948年、靄齢は、ニューヨークに移住しました。靄齢は4人の子女に恵まれ、その子達が彼女の妹にも可愛がられていたので家庭も賑やかでした。しかし妹二人は、結局夫の子を儲けることはできませんでした。


宋家の中で、唯一慶齢だけが、中国にとどまりまることになります。1949年、中華人民共和国が成立し、慶齢は、中央人民政府副主席に迎えられ、新中国の建設に参加する傍ら、荒廃からの子供たちの救済と育成に奔走し、少年児童のための数々のモデル事業を興しました。彼女はどんな時でも一人でも多くの人が幸せになるように心を砕き、彼女の立つ処に中国の良心があるとも言われました。死ぬ直前、名誉国家主席の称号を得ました。


生涯を通じて、それぞれが自らの信念に基づき、宋靄齢と宋美齢は中国国民党を、また慶齢は中国共産党を支援し、思想的には分かれいきました。アベルとカインの物語のようです。


かって西安事件の際には、三人一緒になって戦災孤児や病人のために尽力したように、今はもう鬼籍に入った姉妹ですが、夫の三民主義に殉じて、結果的には共産主義を支持した慶齢と、やはり夫に従って反共主義を貫いた美齢が、霊的世界で一致して働いて下さることを祈るばかりです。それにしても、「クリスチャン宋三姉妹」恐るべし!


以上、今回は宋三姉妹をみて参りました。良くも悪くも、20世紀の中国と東アジアに大きな足跡を残した華麗な姉妹でした。そしてこの三姉妹の霊的背景が、両親に始まるキリスト教にあったこと、またそれ故に欧米の信頼を繋ぎとめたことに、何か目に見えない神の計らい、ないしは摂理的意味を感じるのは、ちょっと考え過ぎというものでしょうか。実際、蒋介石、美齢に始まる台湾総統のキリスト教的伝統は、蒋経国から引き継がれた李登輝によって一応の完成を見ました。(了)





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