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宗教改革と対抗宗教改革④ 信仰義認の検証と考察

🔷聖書の知識123 -宗教改革と対抗宗教改革④ 信仰義認の検証と考察


前回まで、ルターとカルヴァンの宗教改革及びその理念を見てきましたが、今回は、その宗教改革の理念、特に信仰義認の思想について、更に掘り下げて検証することにいたします。


【信仰義認論への問題提起】  


では、プロテスタントの信仰原理となっているルターやカルヴァンの信仰義認の思想は、それをそのまま疑問の余地のないものとして受け入れてもよいものでしょうか。


<カトリックの主張>


先ず、「信仰と行い」に関するカトリックの主張を見てみましょう。 


カトリックは、「義認は過程であり、真の信仰は必ず善行を伴う、即ち信仰と善行が相俟って救いをもたらす」として、信仰と善行は一体のものとしました。即ち、カトリック神学は、救いの実現は「神と人の協力」(神人協働説)によると明言しており、「救いは、人間が我儘勝手に自分は救われたと思い込む(Mind Cure)ことではなく、神の愛と人間の道徳的努力との交響楽」なのであるとし、プロテスタント神学の信仰義認による救いを主観主義と批判しました。


これに対しルターは、「義(正しさ)は神から一方的に与えられる贈り物であり、人間はこれを信仰によって受け取ることによって救われる。善行は救い結果に対する報恩のしるしであり、善行そのものに救いの効力があるのではない」としました。では何故命がけで宣教に赴くのか、それは救われた者の「必然的な愛の発露であり、また義務(使命)でもある」と反論し、善行は義認の原因ではなく「結果としてのみ作用」するとしました。

確かに聖書には、両面が記されています。ルターが強調するごとく、「行いによるのではなく信仰によって義とされる」(ローマ3.28、ガラテヤ2.16)という聖句がある一方、他方で、それと全く相反する「人が義とされるのは、行ないによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブの手紙2.24)という聖句もあります。更に、「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(2コリント5.10)、とあり、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(ルカ6.46)と、行いを強調する言葉も各所に記されています。


しかし、このヤコブの書簡の意味するところは、「よく神を愛するがためには、人をも愛せよ」と一般論として福音の実践を推奨したものだとし、信仰による善業の必要を力説するヤコブの書簡に関して、ルターは「藁(わら)の書簡」と呼んで軽んじました。


<責任分担論と成長期間>


さて原理には「成長期間」と「責任分担」という教理があります。神の創造目的を完成するという「み旨」は、人間がその責任分担を全うして、未完成の成長期間を完成していくという思想で、この点カトリックの神人協働説と類似しています。ただ、カトリックには「成長期間における責任分担」という明確な考え方はなく、似て非なるものと言えなくもありません。


即ち、被造物ははじめから完成された状態で生まれたのではなく、「未完成の成長期間」を経て完成するという創造の原理があり、み旨成就には、宇宙創造という神の責任分担に対して、「取って食べてはならない」(創世記2.17)という成長期間における人間の責任分担を要したというのです。このように、カトリックの神人協働説は、救いにおける人間の行いの必要性を一般論として唱えているに過ぎず、何故行いが必要なのかの根拠や内容を説明していません。


原理は、神のみ旨、即ち創造目的の完成について、神の「み旨」は絶対であり完全に予定されていますが、「み旨成就」には未完成期間における人間の役割、即ち責任分担を必要とし、責任を果たせない場合は完成出来ないというのです。これを教理的に位置づけており、この点にカトリックと大きな差異があります。 つまり、神のみ旨は不変であるが、み旨成就は責任分担の如何によって可変的であるというのです。


では、何故、何のために万物の中で人間だけに責任分担が付与されたのでしょうか。原理では、第一に創造の偉業に加担し自ら創造の一翼を担うことによって「神の創造性に似る」ようになるため、第二に万物が通過しなかった責任分担を果たすことにより、万物より優位に立ち「萬物を治める(主管する)資格」を付与せんがため、第三に原理自体がそのように創造されたという「原理の絶対性と完全無欠性」のため、との3つの理由を挙げています(原理講論P79~80、P114、P129~ 132)。


即ち、責任分担は、人間にただ負担として課されたのではなく、人間が人間らしくあるために、神の愛、神の恵みとして人間に付与されたもので、「責任分担は神の恩寵」であるというのです。これを人間側から見れば為すべき信仰行為、即ち人間の責任分担ということになります。従って、責任分担は単なる善行ではなく自己創造であり責務であり、そして恩寵であります。


ある神学者は、「神が全てをなし給うのなら、人間は神のロボットに過ぎなくなる」と指摘し、人間側の行為や自由意思を主張しました。UC創始者は次のように語られ、責任分担という思想を明らかにされました。


「人間の責任分担というこの明確な思想的根拠によって、蕩減復帰という最も嫌な怨恨の述語がでてきました。有史以来、責任分担を完成した人はいない、そもそも責任分担自体を知らなかった」(天聖経第四篇)


<贖罪と蕩減>


罪の清算について、贖罪と蕩減には「償い」という共通項がありますが、贖罪思想には明確な責任分担という考え方が有りません。ここに贖罪と蕩減の違いがあります。ユダヤ・キリスト教の贖罪思想は、神の贖いの恵みを強調し受動的ですが、蕩減は罪の清算に際し、より能動的に人間の役割、即ち責任分担を強調します。蕩減とは、人間の堕落により生まれた復帰摂理上の概念で、贖罪を包摂した言葉であり、他方贖罪は蕩減の重要な構成要素であると言えるでしょう。


しかし、人間の責任分担と言っても、神の創造の偉業から比べれば極小さな取るに足りないものですが、人間から見ればそれが全てなのです。従って、責任分担割合からすれば、神100%、人間100%ということになるでしょう。


アダムにとって、成長期間において「食べるな」と言われた善悪の実を食べないこと、即ち神のみ言を(戒め)を守るという信仰(=信仰基台)が必要であったのであり、その上でみ言の実体になるという責務(=実体基台)があったというのです。み言の実体とは、創造目的の完成、即ち三大祝福の完成であり(創世記1.28)、そしてこれは人間の責任分担であります。


これを信仰義認の思想に当てはめると、イエスの十字架の贖罪と復活による救いを信じるという信仰、即ち、「信じる」という信仰行為(信仰義認)と、そして救いに預かった人間には、更に切磋琢磨して聖化・栄化して、み言の実体になっていかなければならないということになります。


ルターは、その信じるという信仰行為自体も神の賜物なしにはなし得ないとし、神の不可抗力的な恩寵を強調しています。親鸞の絶対他力と同様で、筆者もこれに異存はありません。 なお、カルヴァンの予定説は、神の全知全能性、神の主権の絶対性を強調したもので、それに比べれば人間の行為など取るに足りないものだということを強調したいのがその趣旨であって、人間側の信仰行為まで否定しているものではないと筆者は理解しています。


<行いは不要か>


では、信じて救われて何もしなくていいのでしょうか。ルターが「善行は、救われた者の感謝のしるし、救われた者の愛の実践であり使命である」と言ったとおり、救われた者の当然の義務として善行があるというのです。また、救われた者が、さらに聖化(善化)・栄化していくためには、善行や修行は欠かせません。我がUCにおいて祝福結婚の一連の儀式を通じて原罪が清算されたとしても、残存している悪い性質(堕落性)や蕩減問題を解決して、み言の実体になっていくためには、さらなる切磋琢磨が必要であるのと同様であります。


また、あくまでも義と救いは信仰によるものであって、善行自体が救いの要件ではないにしても、善行が信仰にいたらせる下地になることは言うまでもありません。パウロも、「律法は福音に至らせる養育係り」(ガラテヤ3.24)と言っている通りです。ルターが信仰義認の再発見に至ったのも、厳格な修道生活の努力があってのことであって、「求めもせず、尋ねもせず、探しもしない者」に与えられるものではありません。従って、善行(行い)は、信仰の導き手としても、聖化の養分としても、更には使命の実践においても、信仰者に不可欠であることは自明の理であります。


そして信じるか否かの究極的選択はひとえに人間側の責任分担に依拠していると言わざるを得ません。信仰と行いは主体と対象、コインの裏表の関係にあり、自由には責務が伴うように、信仰には義務(行い)が伴うというのです。


【信仰義認の救いは完全か】 


カトリックは信仰義認について、「我儘勝手に自分は救われたと思い込む主観主義」と断じていますが、果たして信仰義認の教理によって人間は完全に救われたと言えるかどうかが問題になります。

パウロは、ロマ書8章23節で「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と語り、ロマ書7章2節では「(自らが)罪の法則のとりこになっている」と内的葛藤を告白しました。この霊と肉の葛藤は決してパウロだけの問題ではありません。


そしてこの聖句は、パウロ自身が、キリストを受け入れることによってもなお罪の問題が解決されていないことを暗示しているもので、ここに十字架と復活による「救いの未完成」という問題が提起されています。信仰義認による霊的救いや十字架の贖罪がかけがえのない大きな恩寵であるにしても、あるいはクリスチャンは十字架の贖いで救いが成就したと信じているも、それで必要十分かという課題は残るのではないかということであります。


以上、宗教改革の中心理念である信仰義認を検証いたしました。これで、宗教改革の歴史と理念についての考察を終わり、次回はカトリックの対抗宗教改革について論じていくことにいたします。(了)



画像*聖パウロ(レンブラント・ファン・レイン画)

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