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新約聖書の解説⑩ エペソ人への手紙

🔷聖書の知識137ー新約聖書の解説⑩ーエペソ人への手紙


あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、新しき人を着るべきである。(エペソ4.22~24)


『エペソの人への手紙』は、紀元62年ごろ、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアのエペソ(エフェソ)のキリスト者共同体にあてて書いた、いわゆる「獄中書簡」の一つと言われています。


獄中書簡とは、パウロがローマ皇帝の裁判を受けるためにローマに行き、ここで拘束されていた時に(61年~63年)書かれた書簡のことで、エペソ人への手紙の他に、『コロサイ人への手紙』『ピレモンへの手紙』『ピリピ人への手紙』があります。


【執筆の経緯・目的】


パウロはエペソに二度滞在しています。第二次伝道旅行の最後、エルサレムへの途上、エペソを訪問し3ヶ月ほど滞在し(使徒18.19~21)、翌年、第三次伝道旅行で、2度目にエペソを訪ねたとき、同地に「3年間」滞在しました(使徒20.31)。


エペソは、アジアとヨーロッパを結ぶ重要な港であり、世界の七不思議のひとつであるアルテミス神殿がありました(現在はトルコ領内にある)。パウロは会堂でユダヤ人たちに語りかけましたが、良い反応を得、その結果、生涯で最大の成果を上げました。


パウロはエペソの共同体について「大きな門が開かれている」(1コリ16.8)として重視し、パウロや仲間たちの熱心な働き(使徒20.20)によって、この共同体は発展しました。エペソから「アジア全域に」福音が伝わったと聖書は記しています(使徒19.26)。なおエペソ書は、テキコが現地に届けたとされています(6.21)。


エペソ書は、ローマ書とは異なり、パウロの救済に関する思想が書かれているわけでも、また特定の問題や状況を解決するために書かれたというわけでもなく、パウロが自発的にエペソの共同体への愛情を示す励ましの書として書かれたとされ、キリストにあって一つになる(一致)という視点が重視されています。


【構成】


エペソ書は、1章~3章が、教会論などのいわゆる「ケリュグマ」(宣教)が書かれ、4章~6章は信仰実践の教え(ディダゲー)が書かれています。


1章-頌栄、パウロの祈り、キリストは教会の頭、教会はキリストのからだ。


「彼をかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、満ちみちているものに、ほかならない」(1.22~23)


2章-死から命へ、新しい人、隔ての壁の和解、神の御住まいである教会


「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、キリスト・イエスにあって、共によみがえらされたのである」(2.5~6)


3章-異邦人にもたらされた救い(奥義について)、パウロの第2の祈り


「わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。この奥義は、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に約束にあずかる者となることである」(3.3~6)


4章-共同体の一致(キリストの体は一つ、御霊は一つ)、 古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る、信仰生活の戒め

「からだは一つ、御霊も一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(4.4~5)


「以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、新しき人を着るべきである」(4.22~23)


5章-日々の生活における歩みの教え(愛のある歩み、光の子らしい歩み)、調和ある歩み(夫婦・親子・主従)


「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」(5.18)


6章-悪に霊的戦いで勝利する、結びの言葉


「神の武具を身につけなさい。立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい」(6.13~17)


【注目聖句】


以下において、注目すべき聖書箇所について解説いたします。


a.教会論について


「彼をかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、満ちみちているものに、ほかならない」(1.22~23)


この聖句は、いわゆる教会論であります。使徒信条に「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」というフレーズが出てきます。これは神学では「教会論」に属するテーマであり、教会論とは、教会に関する議論で、「キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだ」(エペソ1.22)という位置付けにあります。


エクレシア、即ち教会とは「(召し出された)信徒の集まり」であり、その信徒の集まりたる教会には、キリストに与る全てのクリスチャンの目に見えない共同体としての「普遍的教会」と、各個具体的な地域の信徒の集まりである「地域教会」という概念があります。キリストを受け入れた時点で、私たちは先ず普遍的教会に属することになります。そして、三位一体の教理を宣言した4つの世界公同信条(使徒信条、ニカイア信条、アナタシウス信条、カルケドン信条)を受け入れている教会・信徒の群れはすべからく「公同の教会」といえるというのが伝統的教会の立場であります。


普遍的教会とは「ホーリー・カトリックチャーチ」と呼び、目に見えない教会として、初代のペンテコステ以降、終末携挙までの全ての信者から構成されます。キリストが普遍教会の所有者で、み名をもって呼び集められた普遍的な信徒の集まりであります。


そして、その見えざる普遍教会が各個別教会として具体的に現れるのが地域教会で、見える教会としてそれぞれの地域教会に所属する具体的な信徒の集まりであります。例えば横浜海岸教会、銀座教会、大和カルバリチャペルというように...。この地域の各個の教会は、礼拝・教育・儀式の執行、信徒の交わり(互助互恵、帰属意識)、信仰の励ましや迫害に耐える力、利便性、神の国実現に不可欠であるとされています


教会は正に「信徒の集まり」であり、二人三人でもキリストに与るところは、すべからく教会であります。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)とある通りです。従って内村鑑三の無教会主義教会も「信徒の交わり」であり、立派な教会であります。


教会には、メシジスト派とかバプテスト派といったいわゆる「教派教会」の他に、どの教派にも属さない「単立教会」、或いは「スモールチャーチ」と呼ばれている教会もあります。UCのホームチャーチ(家庭教会)は形の上では無牧の単立教会と言えるでしょう。また一人教会(ワン・パーソン・チャーチ)も教会であります。ある牧師が、「あなたの居るところ、あなたの居る場所が教会です」とし、教会は各人の心のなかにあると語りましたが、正にアーメンです。


札幌農学校のクラーク博士は牧師ではありませんでしたが、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝しました。この家庭教会の流れから新渡戸稲造、内村鑑三など多くの著名なクリスチャンが出ています。1コリント3章16節には、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っているこつとを知らないのか」とあります。 私たちの心は神の神殿(教会)であり、一人ひとりはその神殿の祭司であり牧師であるというのです。


b.奥義について


「わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されている。それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである」(3.3~6)


この聖句は、聖書には「奥義」があることを述べています。旧約イスラエル時代には隠されていたが、新約教会時代を迎え明らかにれる福音を奥義と呼び 、本書簡では異邦人もまたイスラエル人と同じ祝福に与るようになったという奥義が明らかにされています。


同様に、旧約・新約の聖書時代には隠されていたが、来るべき時代(成約時代)に、「七つの封印」(黙示録15.1)を開いて明らかにされる奥義があるというのです。


ここではその代表的な奥義を3つ挙げておきたいと思います。


第一は、なんと言っても、創世記3章のいわゆる「失楽園」の物語です。つまり、人類始祖が堕落したといわれる原因とその真相、即ち「原罪とは何か」という問題です。これは聖書最大の奥義と言えるでしょう。


第二は、何故神は、兄を憎み弟を愛したかという聖書の記述です(ロマ書9.13)。カイン・アベル、エソウ・ヤコブ、ゼラ・ベレツ、マナセ・エフライムなど、聖書は須く兄よりも弟を先に祝福されました。「神は何故兄を憎み弟を愛されたのか」これらは、未だ如何なる聖職者、神学者と言えどもきちんとした説明ができていません。


第三は、「罪ある血統から如何にして無原罪のメシアが生まれ得るか」という問題、即ち、ユダとタマルに象徴されるいわゆる血統転換の問題です。これと関連して、マダイ書1章18節「母マリヤは聖霊によって身重になった」という記述をどう解釈するかと言うことに関わってくる問題です。


この血統転換の問題は、創世記38章のユダとタマルの奥義に象徴されています。タマルは、罪ある血統の中から罪なきメシアが生まれるための道を開いた最初の女性であるというのです。


双子を孕んだタマルの胎中から、兄のゼラが先に手を出しましたが、ゼラはこれをひっこめ、代わって弟のベレツが兄のゼラを押しのけるようにして生まれてくることになりました。そしてゼラが手を出したとき、産婆は緋の糸をゼラの手に結んだと聖書は描写しています(創世記38.27~30)。この霊感によって書かれた聖書の記述の中にこそ「胎中聖別」と呼ばれる血統転換を暗示する奥義があるというのです。


この時、産婆がゼラに緋の糸を結んだことは正に神の霊感で、もし聖書がこれを書き残さなかったら「胎中聖別」「長子権回復」「血統転換」という聖書の奥義を整合性を持って説明するのが困難であったというのです。文先生は、「このようなことが書かれてること自体、聖書が神の救いの経綸を記した神の言葉である証左である」と語られました。


このように、聖書の記述の背後に深刻な神の救済摂理が暗示されていることを知るにつけ、聖書が神の啓示の書であることを今さらに実感せざるを得ないものです。


その他、十字架と復活の真相など、聖書には、未だ隠された重要な奥義が多々あり、 かってこれら聖書の奥義を正しく解いた聖職者も神学者も誰一人いませんでした。そしてこれらは、正に原理によって明快に解明されているというのが筆者の確信であり、文鮮明先生が、この聖書の奥義を明らかにされたことこそ、何故文先生が、「見よ、わたしは、すぐに来る」(黙示録22.7)と預言された「来るべきメシア」であるかの、揺るがない証左であると信じるものです。


以上、エペソ書について解説しました。エペソ書は「使徒書簡の女王」とも言われ、パウロの円熟した書簡です。次回は、やはり獄中書簡であるピリピ人への手紙を解説いたします。(了)



上記絵画*使徒パウロ(レンブラント・ファン・レイン画)

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