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新約聖書の解説⑦ コリント人への第一の手紙


🔷聖書の知識134ー新約聖書の解説⑦ーコリント人への第一の手紙


このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である(13.13)


『コリント人への第一の手紙』(以下、「1コリント書」と呼ぶ)は、使徒パウロからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙であり、続編に『コリントへの第二の手紙』があります。


【パウロへの批判】


前回、ユダヤの一民族宗教を世界宗教に脱皮させ、エーゲ海、ギリシャ・ローマ世界、即ち異邦人世界への宣教を成功させ、一方では、行義の時代から信義の時代への産婆役を果たした使徒パウロの働きを述べました。


このように文句無しに偉大な使徒パウロですが、しかし、一方では自由主義神学などの立場からは、パウロ神学への批判も見られますので、参考に少し述べておきます。


例えば東洋大学の講師を務められた野村健二氏は、著書『誤解されたイエスの福音』(光言社)の中で、パウロの神観と十字架の贖罪観について、問題点を指摘されています


パウロは、コロサイ信徒への手紙1章15節~17節で、「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」(1.15)と述べ、「 万物は、みな御子にあって造られたからである」(1.16)、「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(1.17)と記して、「キリストの先在性」を主張し、イエス・キリストを「万物の創造者」(神)の立場に立てました。(但し、コロサイ書はパウロの真筆ではないとの有力説があります)


しかし野村氏は、マルコによる福音書には、「イエスは言われた、なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」(マルコ10.18)、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14.36)とある通り、福音書は、神一人が神であることを明らかしているとし、パウロは福音書の内容をよく知らなかったため、ナザレの大工の息子イエスを神の座にまつりあげてしまったと指摘しました。


では何故パウロはイエスを神としたのか。野村氏は、パウロがキリストの迫害者であったことの負い目や、復活したイエスとの「神秘的な出会い」が強烈だったことがあるのではないかとしました。そして、使徒たちとの交わりが希薄であり、イエスの自己証言や福音をあまり知らず、新約聖書の非神話化を唱えたブルトマンの「パウロはイエスの言葉を二回しか引用していない」をあげ、従って、イエスの福音への軽視があったと述べています。


また野村氏は、「基督教とはキリストを天的な神の子と信じる信仰であり、このようなキリスト教を創始したのは、主としてパウロだった」(アルノルト・マイヤー)の言葉を引用し、イエスの福音への不理解と、霊的召命という神秘体験が、イエスを神と同一視してしまったと指摘しました。


このようにパウロは、イエスを神格化して、後のイエスの神性を強調する三位一体の教理の土壌となったとして、三位一体論を批判する立場からは、苦言を呈されています。


確かに次の一見非合理的に見える聖句は、パウロのキリスト観・再臨観、終末観を端的に示すものと言えるでしょう。


「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(1テサロニケ4.16~17)


【著者・年代・場所・執筆目的】


さて1コリント書ですが、この書はパウロによって書かれた書であり、54~57年ころ、パウロの第三回伝道中、エベソ滞在中にコリントの教会に宛て書かれたものであると考えられています。コリントはパウロが第二回宣教中に、一年半かけて宣教し教会を立てたところであり(使徒18.11)、このころ、パウロはマケドニアの信徒を訪ね、コリントへも回わろうとしていたと考えられます。


パウロは、協力者アポロやクロエの家の人を通じて、コリントの共同体に争いがあるという話を知らされ、愕然としました。当時のローマ帝国には一般市民が利用できる郵便配達システムは存在しなかったため、手紙は旅行者によってもたらされました。


コリントは、アカイア州の首都で、東西の要衝の地であり、ローマ帝国内で4番目に大きな町でした。商業都市、港町であり、偶像礼拝が横行し、風紀が乱れた都市でもありました。


この教会の土台を築いたのはパウロですが、多くの問題があり、パウロがこの手紙を書いた執筆目的、即ちコリントの共同体の人々に伝えたかったことは「信仰によって一致してほしい」ということであります。


「あなたがたの間に争いがあると聞かされている」(1.11)とあり、「あなたがたがそれぞれ、わたしはパウロにつく、わたしはアポロに、わたしはケパに、わたしはキリストに、と言い合っていることである」(1.12) とある通りです。


つまり、教会の中は、パウロ派(異邦人伝道派)、アポロ派(雄弁に惹かれる人たち)、ペテロ派(ユダヤ人伝道派)、キリスト派(優越感を覚える人たち)などに分裂していたというのです。


分派があるのは、「肉に属する人」が多くいるからであり、キリストという土台の上に人生を建てるべきこと、一致して、同じ心、同じ判断を保つように勧めました。


そして、この書簡を利用してコリントの人々からの幾つかの質問に答えています(5章~6章)。


【構成・内容】


この手紙の内容は、ともすれば聖人の集まりのようにみなされ、美化されがちな初代教会であっても、現実にはさまざまな問題や困難があり、パウロのような情熱的な人物であっても悩みや苦しみがあったことが本書から読み取れます。


<1章~4章>

1章~4章で、最初の挨拶に続いて、パウロがコリントの共同体で起こっていた深刻な分裂について嘆き、戒めを与えています。 パウロは、コリントの教会に争いがあることを、クロエの家の人たちから知らされていました。(1.11)


パウロは、アポロでも、ケファ(ベテロ)でもパウロでもなく、神につくよう戒め、「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」(3.6)と述べて、全ての栄光は神とキリストに帰されるべきことを訴えました。


また、「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(1.22~23)述べ、この世の知恵ではなく、隠されていた神秘としての「神の知恵」を語ると宣言しました。(3.7)


そして、私たちの体は神の霊が住む「神の神殿」であり、キリストを土台として、自らの内に神殿を建てるべきであるとし(3.9~16)、私に倣うものになりなさいと諭しました。


<5章~6章>

5章と6章で、パウロがコリントの共同体で起こっているといわれた不道徳な行いについて改めるよう忠告しています。


「あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである」(5.1)


そうして、外部の人たちではなく、内部の 兄弟(信徒)と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があり、食事を共にしてもいけないと戒めました。そして裁くのは内部の人たちに対してであり、外の人たちは、神がさばくので裁いてはならないと語りました。また、信仰のない人にもめ事を訴えないで、むしろ聖なる者(信徒)に訴えるべきだと戒めました。


そうして、聖霊が宿っている神殿たる自らの体を、娼婦と交わるようなことをして、汚してはならないとも戒めています。(6.16~19)


<7章~14章>

7章~14章では、コリントの信徒からの幾つかの疑問点にパウロが答えています。


質問に対する回答は多岐に渡り、結婚について(7.1~40)、偶像に捧げた肉について(8.1~11.1)、礼拝における女のかぶり物について(11:2~34)、聖霊の賜物につい(12:1~14:40)、などが書かれています。


先ず7章には、パウロの結婚観が示され、基本的に結婚を是としています。


「男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい」(7.1~2)


しかし、「みんなの者がわたしのように独りでいてほしい。しかし、神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている」(7.7)と述べ、神のみ旨に献身できるように、できることなら独身を勧めています。そして原則、離婚は否定しました。


また、「妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る」(7.39)と述べ、但し、「そのままでいたなら、もっと幸福である」(7.40)とも語りました。


9章には、使徒の権利と義務について述べています。パウロは、「あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。」(9.11)と述べ、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかるのと同様に、「主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」(9.14)と語りました。しかしパウロは、これらの権利を一つも利用しなかったとも言っています。


そして福音を無条件で述べ伝えることこそ、最大の権利であるとし、そしてパウロの宣教観、即ち「人々に寄り添う伝道」の在り方を披瀝しました。


「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった」(9.20~22)


とりわけ特筆すべきは、12章の「霊的な賜物」についてのパウロの言葉です。


パウロは、聖霊の賜物について述べ、人にはそれぞれ神から賜物を与えられており、その賜物によって神と教会に奉仕するようになっていると強調しました。


例えば、知恵や知識の賜物、信仰の賜物、いやしの賜物、力あるわざの賜物、預言や、霊を見わける力、異言の賜物、などであります。(12.8~11)


また、使徒、預言者、教師、力あるわざを行う者、いやしの賜物を持つ者、また補者、管理者、種々の異言を語る者がいて、それぞれの賜物によって教会に奉仕します。(12.28)


しかしそのような賜物も、「例え山を移すほどの信仰があっても、愛がなければ虚しい」と述べ、愛がなければ意味がなく、虚しいとパウロはいいます。


これが次に続く、有名な「愛の賛歌」と言われる13章で、結婚式などで、よく引用される箇所です。


「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」(13.2~3)


「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を尊ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(13.4~7)


「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(13.13)


またパウロは、 愛はいつまでも絶えることがないが預言や知識はすたれると述べ、「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(13.10) と新しい真理の到来を示唆しました。


<15章~16章>

結びの部分となる15章と16章は死者の復活や献金についてのパウロの考えが記され、最後の挨拶が述べられています。


パウロが最も大事なこととして、キリストの復活について語っています。


「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、三日目によみがえったこと」(15.3~4)という、いわゆる「福音の三要素」について述べ、「ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」(15.5~8)と復活を証言しました。


左・キリストの蘇り、中・キリストの復活(ともにカール・ブロッホ画)右・ パウロの回心(ジャン・レスツー画)


そして、キリストが復活したように、死者の朽ちないものへの復活があること、即ち、「肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(15.44) と述べました。つまり、肉の体は「変えられて」復活の体(霊のからだ)に甦るとしました。 このように、パウロは、肉の体に対応する「霊の体」について言及しています。


「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(15.51~52)


そしてキリストの復活に続く信者の復活は、キリストの再臨の時に起こり、それに続いて、キリストの支配、即ち地上における千年王国が実現します。


「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となる」(15.20~23)


以上、1コリント書を概説いたしました。本書には、13章の「愛の賛歌」に見られるように、実に多くの示唆に富む言葉が散見され、神がパウロを通して霊の糧を語られました。


神は「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(10.13)とある通り、ひたすら神とキリストを信じる信仰を貫いていきたいものです。次回は、「コリント人への第二の手紙」の解説になります。(了)









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