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新約聖書の解説④ ヨハネによる福音書

🔷聖書の知識131ー新約聖書の解説④ーヨハネによる福音書


よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない(3.3)


ヨハネによる福音書(以下「ヨハネ書」と呼ぶ)は、4福音書の中では最後に書かれた書であり、マタイ・マルコ・ルカの福音書とは毛色が異なる福音書と言われ、ルターはヨハネ書を極めて高く評価しました。


ヨハネ書はイエスが、神の子であるとの立場から、大胆にキリストを証しています。


【著者・成立年代・構成】

著者は、伝統的には、文書中にみえる「イエスの愛しておられた弟子」即ち、「使徒ヨハネ」であると伝えられてきました。「イエスの愛しておられた弟子」(=ヨハネ)は、過越の食事を共にした弟子のうちの一人で、復活後のイエスがガリラヤ湖に現れた際に漁をしていた七人の弟子のうちの一人であります。執筆年代は、最後に書かれた福音書であり、紀元95年~100年であろうと思われます。


ヨハネ書は、イエスの誕生物語など私生涯は記載がありません。 前半の1章から12章が、洗礼ヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活、即ち、天から下って地上の働きをするイエスを描いています。後半の12章12節から21章は、エルサレム入場・新しい掟・弟子たちに語った訣別の教訓(14.1~16.33)・イエスの受難と復活(18.12~20.29)、即ち、父の元に上がっていくイエスが描かれています。


【特徴について】


マタイは、読者対象をユダヤ人とし、キリストを「ユダヤ人の王」として描き、マルコは、読者対象をローマ人とし、キリストを「しもべ」として描き、ルカは、読者対象をギリシャ人とし、キリストを「人の子」として描いたと言われています。


そしてヨハネ書では、全人類を読者対象とし、キリストを「神の子」として描いています。


<神の子イエスの論証>

共観福音書は、キリストの生涯の出来事について記録していますが、ヨハネ書は、それらの出来事の「霊的意味」について解説しています。即ち、単なるイエスの伝記にとどまらず、神の言葉の人格化としてのイエス=キリストの論証にあります。


とりわけイエスが「神であり人である」とのキリスト論に関心を集中しました。「そして言は肉体となった」(1.14)と受肉を述べ、「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」(8.58) とキリストの先在性を語り、「世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光」(17.5)と証して、生まれる前からイエスが神と共にいたことを宣言 しました。


そして、次の通りイエスが神として述べられています。


「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(1.18)


共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、イエスの生涯について詳しく記し、重複記述が見られますが、ヨハネ書は重複記述が少なく、「イエスの言葉」がより多く記述されています。


即ち、ヨハネはイエスの父なる神とのかかわりについて重点的に説明し、他の3つの福音書よりも鮮明に神から遣わされた「神の子たるイエス」(父の愛する一人子)を強調しています。


また、神の霊である聖霊を「助け主・真理の御霊」(14.16、16.13)として強調していること、キリスト教の特徴である「愛を前面に押し出している」ことなどの特徴があります。特に愛 (神の愛・キリストの愛・キリスト教徒の愛) が一層強調されており(13.34、15.12)、「愛の福音書」とも呼ばれています。


執筆目的としては、伝道目的として「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子メシアであると、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(20.30)とある通りです。


<7つの神性宣言>

ヨハネは、イエスについて7つの表現で、その神性性、即ち「神の子たるるイエス」を証言しています。


①わたしはいのちのパン


「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(6.35)


②わたしは世の光


「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(8.12)


③わたしは羊の門


「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」(10.7)


④わたしは良い羊飼い(牧者)


「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(10.11)


⑤わたしはよみがえり、いのち


「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(11.25)


⑥わたしは道であり、真理であり、いのち


「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(14.6)


⑦わたしはまことのぶどうの木


「わたしはまことのぶどうの木」(15.1)


<7つのしるし>

またイエスは、無知なる民に、自らが神の子キリストであることを証明するために「しるし」(奇跡)を数多く行われました。


「しるし」(サイン)とは、神学的意味を持った奇跡のことであり、福音書には、イエスは、処女マリアから生まれ、病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を甦らせ、水を葡萄酒に変え、わずかな食べ物で大勢を満腹させ、嵐を鎮め、水上を歩き、十字架につけられても復活し、その墓は空だった、といった奇跡物語が多々記載されています。(4福音書には35の奇跡が記録されている)


神学者の八木誠一氏は著書『イエス』(清水書院)の中で奇跡について論考し、「聖者は異常な能力を持ち、不滅であるという信仰、即ち、宗教の本質をヌーメン(神の意思・威力)的なものに帰す信仰が奇跡物語を生む」と指摘しています(P51)。


実際、奇跡には、病気の癒しのように事実に基づくものと、神的な伝承に基づく「信仰的事実」とがあると思われます。ちなみに文鮮明先生は「イエスは奇跡に頼りを過ぎた」といった趣旨のことを言われたことがあり、自らは行われませんでした。


ともあれヨハネ書には、イエスをキリストと信じさせるために、下記の通りイエスが行ったとされる「7つのしるし」(奇跡)が書かれています。


①水がぶどう酒に変わった奇跡


「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかった」(2.9)


②王室の役人の息子の癒し


「王室の役人が、息子が死にかかっていたため、イエスに助けを求めに来た。(イエスが声をかけたその時間に、息子が直った」(4.46~54)


③ベテスダの池での病人の癒しす


「彼は、長い間(38年間)病気にかかっており、絶望していた。イエスは、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。彼は、すぐに直って、床を取り上げて歩き出した」(5.1~9)


④5千人のパンの奇跡


「そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた」(6.11)


⑤嵐を静める奇跡


「イエスは彼らに、「わたしだ。恐れることはない」と声をかけた。イエスを舟に招き入れると、湖は静まり、舟はすぐに目的地に着いた」(6.16~21)


⑥生まれつきの盲人の癒し


「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った」(9.7)


⑦ラザロの蘇生


「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた」(11.43~44)


<イスラエルの不信の強調ー反ユダヤ主義>

またヨハネ書では、イスラエルの不信について強調されています。


イスラエルの民は、少数の人々を除き、メシアとして来られたイエスを受け入れませんでした。


「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(1.11)


ユダヤ人のほとんどがイエスが行ったしるしを認めず不信はがますます強くなって行き、その極みが、「十字架につけろ」という叫びであります。


「すると彼らは叫んだ、殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」(19.15)


これについてアメリカの神学者らの中には、新約聖書の他の書物よりも反ユダヤ主義の傾向があり、キリスト教徒の反ユダヤ主義を助長したと言った見解があります。


また他の聖書学者 は、結果的には、異邦人の反ユダヤ感情を刺激するレトリック(技法)となっている、つまり読者にとって、自分たちとイエスの敵であるユダヤ人たちという対立軸があるかのような錯覚を与えかねない表現がみられると指摘しました。


左・ラザロの蘇生  右・トマスの懐疑 (共にレンブラント・ファン・レイン画)


<トマスの疑義>

そしてヨハネ書にしか記載がない話しとして、トマスの懐疑の場面があります。


他の福音書では名前しか出てこない使徒トマスですが、ヨハネ書では、復活に懐疑的姿勢を見せたことを記述し、「不信のトマス」と呼ばれることに繋がりました。キリスト教トマス派を非難するために行われたものだったと主張する神学者もいます。


「トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』」(2.25)


その一方で、トマスはイエスを目の当たりにして、直ちにその復活を信じました。


「それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』」(20.27~28)


【親しまれている聖句】


以下は、クリスチャンなどの間で、よく読まれ、説教の題材にもなっている聖句です。ヨハネ書には、実に多くの示唆に富む真理が、端的に示されています。


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた」(1.1~3)


「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1.14)


「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1.29)


「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(3.3)


「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(3.16)


「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(4.24)


「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(5.39)


「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(8.7)


「そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(8.32)


「そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(10.38)


「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(11.25~26)


「その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた」(12.3)


「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶ」(12.24~25)


「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(14.6)


「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(15.12~13)


「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(16.13


「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(16.33)


「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることです」(17.3)


「イエスは彼女に『マリヤよ』と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で『ラボニ』と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、『わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから』」(20.16~17)



以上、ヨハネによる福音書を論述したしました。今回で福音書を終え、次回は「使徒行伝)の解説になります。(了)




上記絵画*使徒ヨハネ(グイド・レーニ画)


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