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新約聖書の解説㉕ ヨハネの第三の手紙

🔷聖書の知識152ー新約聖書の解説25ーヨハネの第三の手紙


愛する者よ。あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。(1.5)


「ヨハネの第三の手紙」は、ヨハネの手紙1.2と並んで使徒ヨハネが書いた書簡とされ、公同書簡に分類されています。ガイオという人物に宛てたもので、15節の短い書簡で、執筆年代は85~-95年の間だと言われています。


【概観】


神学的内容というより、信徒同士が愛しあうことの大切さや、尊大に振舞うことへの戒めが説かれています。。


ヨハネがこの第三の手紙を書いた目的は次の3点でした。


一つ目は同労者である、旅をしながらキリストの福音を語る人々を、よくもてなして世話をしているガイオにねぎらいと励ましの言葉を送るというものです。長老ヨハネはガイオに対し、旅する「兄弟たち」を大切にするガイオに謝し、「兄弟たち」が旅を続けられるように支援することを勧めています。ちなみに長老とは職制というより、「家の教会」を統括する立場の精神的指導者であったと推測されます。


「愛する者よ。あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである」(1.5)


二つ目はアジアにある教会でかしらになりたがっているデオテレペスを非難し、警告する事です。デオテレペスは「長老」の権威を認めず、ガイオと違って、ヨハネによって派遣された「兄弟たち」を歓迎しません。ヨハネは、教会に向けて以前書き送った手紙が、デオテペレスによって握りつぶされたことに言及し、そして教会に赴いてデオテペレスと対決するつもりであると語ります。


「わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。だから、わたしがそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなくわたしたちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している」(1.9~10)


三つ目は模範であり良い証となっているデメテリオを称えるという物でした。


「デメテリオについては、あらゆる人も、また真理そのものも、証明している。わたしたちも証明している。そして、あなたが知っているとおり、わたしたちの証明は真実である」(1.12)


【イスラエルの弱者救済思想について】


ヨハネは、「旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである」(1.5) とガイオ評価していますが、見知らぬ旅人をもてなすというコンセプトは旧約聖書に多々見られます。 イスラエルでは、寄留者を家に迎え、食事、宿泊、そして保護を与え、大切にしました(創世記18.2~8)。


「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」(出エジプト22.21)


また神はエジプトを出てシナイの荒野でさまよった期間も導かれ、イスラエルの必要を満たされました。


「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8.2~4)


<弱者救済思想>


つまり、旧約聖書には、寄留者をはじめ、孤児、やもめ、貧しい人々など弱者を大切に扱う伝統があるというのです。この弱者救済思想はメシア思想や唯一神思想と並んで、ユダヤ思想の顕著な特徴であり、以下の聖句が示す通りです。


「あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない」(申命記14.29)


「寄留者や孤児の権利を侵してはならない。やもめの衣服を質に取ってはならない」(申命記24.17)


「あなたの神、主の前で言わなければならない、『わたしはその聖なる物を家から取り出し、またレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とにそれを与えました』」(申命記26.13)


「また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、同胞に助けをおしまない」(イザヤ58.7)


下記は、夫になるボアズの畑で、ルツが落ち穂拾いをしたくだりです。


「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた」(ルツ記2.3)


そして次は落葉拾いの根拠聖句です。


「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない」(申命記2419)


極めつけは、次のヨブ記です。


「わたしがもし貧しい者の願いを退け、やもめの目を衰えさせ、あるいはわたしひとりで食物を食べて、みなしごに食べさせなかったことがあるなら、もし着物がないために死のうとする者や、身をおおう物のない貧しい人をわたしが見た時に、その腰がわたしを祝福せず、また彼がわたしの羊の毛で暖まらなかったことがあるなら、もしわたしを助ける者が門におるのを見て、みなしごにむかってわたしの手を振り上げたことがあるなら、わたしの肩骨が、肩から落ち、わたしの腕が、つけ根から折れてもかまわない。(ヨブ31.16~22)


<黄金律>


そして上記の弱者救済思想は、「黄金律」と言われる道徳律に端的に顕れています。


黄金律とは、多くの宗教、道徳、哲学で見出だされる共通の道徳律であり、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7.12)に象徴される規範であります。


また、その裏返しの言葉として、「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするなかれ」というユダヤのラビ・ヒレルの言葉があり、孔子は「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語)と語りました。


そしてイエスがパリサイ人から試みられ、「律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのか」を聞かれた時に答えられた回答は、正に黄金律です。


「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22.37~40)


以上、「ヨハネの第三の手紙」を解説いたしました。次回は、「ユダの手紙」の解説です。(了)


良きサマリア人(エメ・モロー画)

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