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死を考える 聖者最後の言葉、他

○つれづれ日誌(令和4年3月23日)-死を考えるー聖者最後の言葉、他


われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ(ルカ17.10)


最近、関東在住の同郷の同級生から久方の電話があり、ある同級生の訃報が入りました。故人は住友商事で長年勤めましたが、膵臓癌で息を引き取ったということでした。享年75才。そして、やはり親しかった同郷の同級生が4人も他界していたということを知らされました。


筆者は「信仰者の特権は老いないこと、信仰者には老いはない」が持論であり、事実、青年のような気持ちで日々を送っていますので、かの友人の訃報を聞いても、なかなか自分のこととしてピンとこないところがあります。しかし、3年前心臓バイパス手術を行い、心臓冠動脈に5本のステントが入っていますので、実際は他人事ではありません。


丁度今、聖書の知識の連載で、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書を読み直し、イエス・キリストの「十字架の最後の場面」、即ちイエスという一人のユダヤ人の「死」について論考しているところであり、またこの2月1日には、一世を風靡した石原慎太郎が亡くなったこともあり、今回、「人間の死」及び「人間の最後の言葉」について考察することにしました。何故なら、最後の言葉には、その人の生き様の集約が現れているからです。


【十字架最後の言葉】


ローマへの反逆者として十字架刑で殺されたイエスの死について、残された弟子たちにとって、「この死の意味とは何か、これをどう解釈すべきなのか」ということは、深刻な問題でした。 そうして、イエスの死に続いて起こった「復活」と相俟って、「イエスは人類の罪の贖いの供え物として十字架に捧げられ、罪と死に打ち勝って甦られたのだ」という解釈に至りました。


先ずは、福音書におけるイエスの十字架上の最後の言葉を見ていきましょう。


「マタイ書」はイエスの最後の言葉を、次のように記しています、


「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ27.46)


十字架上のイエス・キリスト(ウジェーヌ・ドラクロア画)


「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた」(マタイ27.50)


また「マルコ書」には、次のようにあります。


「そして三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコ15.34)


そして、「ルカ書」は次の通りです。


「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカ23.34)


「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」(ルカ23.43)


「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた」(ルカ23.46)


最後のヨハネ書は次の通り記しています。


「イエスは母にいわれた、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』。それからこの弟子に言われた、『ごらんなさい。これはあなたの母です』」(ヨハネ19.26~27)


「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、『わたしは、かわく』と言われた」(ヨハネ19.28)


「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた」(ヨハネ19.30)


以上の通り、イエスは自らの死に際して、マタイ、マルコでは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、自らの死が不本意な死であることを神に訴えられましたが、ルカでは、「父よ、彼らをおゆるしください」と迫害する者のために祈り、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と我が身を神に委ねられました。


更に進んで、ヨハネでは、「すべてが終った」と宣べ、事の成就を宣言して肉体の死を遂げられたというのです。つまりイエスの死は、罪なき者が冤罪を背負って十字架にかかり、贖罪のみ業を成就された信仰行為であり、イエスにとって死は最後の「み業」だったというのです。その死はイスラエルの不信から出た神の予定せざるものとは言え、サタンへの内的、霊的勝利を意味し、復活への布石になりました。


今日まで、イエスの死ほど、価値ある崇高なものとして意義付けられ、全地で繰り返し語られて、人類史に長く記憶された死はありません。 そして、自らの運命に疑義を訴えられながらも、殺害する者たちを許し、最後に神に一切を委ねる場面は、「ゲッセマネの祈り」にも表れています。マタイ、マルコ、ルカのいずれにもゲッセマネでの祈りは言及されており、それは次のようなものでした。


「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」


そういえば、『長崎の鐘』を書いた永井隆の最後の言葉も、「イエズス、マリア、わが魂をみ手に任せ奉る」であり、駆けつけた息子の誠一から十字架を受け取ると「祈ってください」と叫んだ直後に息を引き取ったと言われています。一切を「全能なる神に委ねること」、ここに、死に際して私たちが取るべき模範的な姿勢が端的に言い表されています。


ちなみに、文鮮明先生は、2012年8月13日、ソウルで行われた世界文化体育大典において、「最終的な復帰摂理を完成、完結、完了した」と最後の言葉を残され、「全てを成し遂げました」との最後の祈りを捧げられました(天一国経典『天聖経』P1645)。 そこには、イエス様でさえ成し得なかった霊と肉の重生の道、十字架に架かりながら、なお生きて越えられたキリストの姿がそこにありました。イエス様の死が「聖なる死」とすれば、文先生の死は、正に「凱旋死」でした。


【それぞれの死の情景】


さて、それぞれの死については、実に様々な情景があります。殉教者の死は長崎天主堂訪問記でも詳しく書きましたが、ここでは、筆者が「死とは何か」について深く考えさせられた3人の著名人の死、即ち、石原慎太郎、西部邁(すすむ)、朴元淳(パク・ウォンスン)の死と最後の言葉について考察いたします。


<石原慎太郎の場合ー納得死>


去る2月1日、遂に石原慎太郎は逝去しました。政治家にして作家石原の大往生と言えるでしょう。享年89才。


彼ほど、自由奔放に生きた人間は、そうざらにはいないと思われます。しかし石原は、奔放な中にも、石原ならではの矜持があり、正に「愛国」と「愛自」の人生でした。メシアには、王・祭司・預言者の3つの顔があると言われますが、さしずめ石原は、「預言者」として生き、預言者として幕を閉じたと言えるでしょう。


石原は、法華経に親しみ『法華経を生きる』(幻冬舎)という本まで書いていますが、その中でこう告白しています


「法華経に関してもお前の宗派はいったい何だと問われれば、石原教とでもしかいいようがない。俺は俺の教祖だと自惚れてみても、私の信者は私しかいない」(P50)


三男の衆議院議員石原宏高氏は、「オヤジは法華経だが、実際は『石原教』であり、職業は『石原慎太郎』だった」と語りました。石原は、哲学者のように「自分とは何か」という実存的な課題を真面目に探求し、法華経の中にそれらしき解答を見いだしたかに思われますが、彼はあくまでも求道者、あるいは哲学の徒であって、信仰者ではありませんでした。


文藝春秋4月号に、令和3年10月19日に書いた「死への道程ー余命宣告を受けて」と題する遺稿文が掲載されていますが、石原はこの日、肝臓癌が再発して余命3ヶ月を宣告されました。もともと石原文学の主題は「死」でしたが、フランスの文学者ジャンケレビッチ著『死』を愛読し、ジャンケレビッチの言葉「死の先にあるもの、虚無は歴然として存在する」にいたく共感していたということです。


四男の石原延啓(のぶひろ)氏は、文藝春秋「父は最期まで『我』を貫いた」の中で、「父は法華経の現代訳を出し、宗教各派との交流も深かったが、しばしば宗教は信じていない、神もいない」と言っていたと証し、「人は死んだら、自分にとっての神と出会うんだ」といいながら、「いや、死後の世界は存在しない。虚無だけだ」と言っていたと述懐しました。


石原は遺稿文の中で、「死は全てを奪う。しかし死は個人にとって完璧な所有であり、私は誰はばかりもなく死んで見せる。出来ることなら、私は私自身の死を私自身の手で慈しみながら死にたいものだ。死、そんなものはありなしない。ただ俺だけが死んでいくのだ」と奇々怪々な言葉を残しました。


こうして石原は、神にまでは至ることは出来ず、ましてや贖いや救いという彼岸を知るよしもなく、最後まで「死」を哲学し、さ迷いつつ、自己流のそれなりの納得感を持ってかの国に旅立ったと思われます。


しかし、石原は日本的な「預言者」だったことは確かです。預言者は「ぶれない、群れない人種」、いわば一匹狼であり、王からも民からも憎まれ役でした。個性に恵まれ、自己が強すぎた石原でしたが、最後に「人に憎まれて死ぬんだ」とテレビて言い放ち、「虚無は歴然として存在する」これが作家らしい最後の言葉になりました。


語るにたる人生、「愛自」の石原の真骨頂です。ただ、89才で死ぬ一週間前まで原稿を書いていたそうで、これは筆者も模範としたい姿です。


<西部邁の場合ー自裁死>


次に、保守の論客だった西部邁(にしべすすむ)の死について論評することに致します。


2018年1月21日早朝、西部邁が亡くなりました。享年78歳。多摩川の橋からの飛び込み自殺だったそうで、遺書がしたためられていました。衝撃です。


西部は保守陣営の異色の論客で、独立の精神を忘れて米国頼みになった日本のふがいなさを嘆く愛国者でありました。自主独立の象徴としての核武装の必要性を公言してはばからなかった人物でもあります。東大時代には東大教養部自治会委員長、全学連副委員長として唐牛健太郎などと共に60年の安保闘争を戦った行動派であり、東大教授の時には助教授選任に関し筋を通して辞表を出した熱血漢であります。


その彼は、2014年に妻が他界し、死への思索をさらに深め、著作などでも死について言及しました。最後の著作『保守の真髄』の中で、「自然死は偽装だ、実体は病院死だ。生の最期を他人に命令されたり振り回されたりしたくない」と語り、「自裁死」を選択する可能性を示唆していたといいます。


彼は、死ぬ直前に行きつけのスナックのママにこう語ったといいます。「特攻隊で敵艦に突っ込んでいった彼らの1000分の1でも勇気があったらなあ」と...。「今日はどうしてウオッカを飲むの。珍しいわね」といったママとの会話があったそうです。西部と言えども死を前にしての恐怖があったのでしょうか、45度もあるウオッカをあおらなければ飛び込めなかったのかもしれません。それにしてもこの西部氏の自殺は多くの推測と議論を呼び起こします。彼の死の動機や原因は一体何だったのでしょうか。


4年前の奥さんの死による孤独感、咽頭癌を病み自分で字も書けなくなって肉体の限界を感じていたこと、生に伴う虚無感から少々精神を病んでいたのか、といった個人的事情による原因が先ず考えられます。


しかし、西部は、哲学者ホセ・オルテガの「生きながら錆ついていく人生は醜い」との言葉や、小林秀雄の「人間、生きるためには一度死ななければならない」といった言葉を好んでいました。また西部自身、「死んでみせる」「死ぬという解決法がある」「もうこれくらいでいいだろう」といった言葉を残しています。言葉を変えれば西部流「死の美学」です。生への未練は強く、死は確かに怖いものですが、それを放棄しても守り得うるものがあると信じたのかも知れません。人間の尊厳、矜持、思想信条といったものでしょうか。


西部氏は、「生に伴う虚無感が常に付きまとう」と率直に告白し、人間は所詮「一人で生まれ、一人で生き、そして一人で死ぬのだ」と語り、「言論は虚しかった。結局人生はほとんど無駄だった」と呪い、「全学連の仲間は次々と死んでいったが自分はまだ生き残っている」といった自虐的心情を吐露しています。


彼は「自分はかなり若いときから死について考える性癖が強かった」(保守の真髄)と述べ、大学を辞めて最初に書いた批評は三島由紀夫論だったといいます。三島を論じることを通じて、自己の人生に「自裁をもって幕を閉じる」決意がほぼ固まったと語っています(虚無の構造・死生論)。


筆者は、西部の死は、自裁死であり、単なる自殺ではないと考えています。追い詰められていたことは確かですが、追い詰められ切って自己を失った絶望的限界状況の中での死ではなく、追い詰められ切る一歩手前での、自らの主体的意思で選択した思想死、いわば最後の自己主張であったと考えています。即ち生き方の美学を、ぎりぎりのところで死をもって示したと言えるでしょう。


ただ西部は、石原慎太郎と同様、ついに神とは会えませんでしたし、またあえて会おうともしませんでした。西部は、オルテガやバークやヤスパースなど多くの碩学者の古典を引用しましたが、ついに古典の最高峰たる聖書からの全うな引用はありませんでした。


彼の言う「生に伴う虚無感」は一体どこから来るのでしょうか。伝道の書3章11節に「神は永遠を思う心を人に与えられる」とありますが、虚無は永遠を知りえないところに発するというのです。しかし彼は、あえて永遠を拒んだのでした。「神や仏を持ち出して永遠について語るのは詐話にすぎない」といい放ち、「超越的な真理は探究すべきものであっても、そこに到達しうることもそれを信仰することも叶わぬものである」(保守の真髄)と述べているとおりです。


即ち彼の根底には悟りを得る前のコレヒト(伝道の書)のように、底知れぬ人生の空しさ、ニヒリズムが横たわっていました。そしてそのニヒリズムの世界こそ自らの住処として甘んじて受け入れ、あえてこの絶望を脱して永遠の世界へ飛翔しようとなどとはしませんでした。


キリスト教では、「神が与えし命を自ら断つことは神への冒涜。汝、自ら死すことなかれ」といった教えがあります。作家の曽野綾子さんは、サンケイ新聞コラムで「人間の生涯には、最期まで当人すら自由に扱えない未知の部分が用意されていることに対して、人は謙虚にならなければいけない。人間の誰もが最後の日まで意外な運命の展開を持っている」と、クリスチャンの曽野さんらしいコメントを出しました。模範解答です。


つまり、生死は人間の判断の彼方にあり、「一切を神の意思に委ねる」ことにしか選択の余地はないと彼女は語りました。しかし今の筆者には、西部の自裁死を肯定も否定もできません。何故なら、筆者の中に、それが真理に叶うか否かは別として、一種の共感があるからであります。娘の智子さんは、「父は安らかな死に顔だった。本人は満足していて死んだようです」と語っています。


<朴元淳の場合ー無念死>


2020年7月9日、朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が自殺しました。享年64才。


遺書らしきメッセージを家族に残して失踪していた朴氏は、7月10日、ソウル市内の山中で遺体として発見され、その後、韓国警察により自殺と断定されました。


その瞬間、朝鮮半島に衝撃が走りました。 そして筆者も、何故、どうして、という疑問と共に強いショックを禁じ得ませんでした。次期大統領の有力候補であった朴氏は、なぜ自殺しなければならなかったのでしょうか。その瞬間、やはり自殺した盧武鉉元大統領(62歳)や日本の自民党議員だった新井将敬(50才)の顔が浮かんできました。


辣腕の弁護士出身で、3期目の現役ソウル市長の彼は、2年後の大統領選挙の有力候補でもあり、政治家としてはこれ以上ない実績と経歴の持ち主でしたが、実は朴氏は、元女性秘書から「2017年からセクハラの被害を受けてきた」と告訴されていたのです。


彼は、美濃部都知事のようなリベラルで、文在寅大統領より左との観測がある反日のリーダーで、慰安婦運動の影の黒幕だと言われていました。女ぐせが悪いのも美濃部と同じで、今回の自殺は、セクハラ告訴が主な原因だとされていますが、慰安婦支援の市民運動で集めた募金の流用問題や左翼団体に公金を流したという噂もありました。


1956年、慶尚南道昌寧郡に生まれた朴氏は、1975年ソウル大学に入学するも、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の独裁に反対する民主化運動に参加し、4か月間投獄された後で大学を除籍となったという経歴を持っています。その後、檀国大学史学科に再入学するかたわら、1980年に司法試験に合格しました。司法研修院の同期(12期)には、文在寅大統領や、韓国随一の人権弁護士として活躍した趙英来(チョ・ヨンレ、1990年没)氏がいました。


このように、自殺した朴氏は著名政治家であると共に、韓国市民運動の歴史に輝くスーパースターであり「伝説」といっても差し支えない人物だったと言われています。即ち朴市長は、人権派弁護士のシンボル的な存在であり、女性の人権を売り物にしてきただけに、セクハラで訴えられたということ自体、ことの深刻さ、衝撃度の大きさがあると言うしかありません。つまり、カソリックの教皇や枢機卿がセクハラスキャンダルを告発されたようなものであるからです。


捜査が進む場合、こうした英雄的な印象とかけ離れた真逆の裏の実像が明らかになる可能性がありました。朴市長は「すべての方々に申し訳ない」との心境を綴った遺書を残したと言われていますが、これが最後の言葉になりました。


それにしても、未来を嘱望された現職市長というだけに、その死の代償があまりにも大きく、無念だったと思われます。そして、この度の朴元淳ソウル市長や盧武鉉元大統領の自殺、更には朴正煕大統領暗殺や朴槿恵(パク・クネ)元大統領の収監などを見るにつけ、そこには一人の人間の生死を越えた朝鮮半島の歴史そのものの宿命的な何かが、背後に色濃く関わっているのではないかと感じられて、深刻にならざるを得ませんでした。


【それぞれの死に思う】


こうして、イエス・キリストの十字架から始まり、著名人の「死に様」を見て参りました。


死については様々な有様があります。仏教では、空海が体系化した「即身仏」と言う修行僧の死に様があります。一方、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成、江藤淳などの著名作家も自殺し、中川一郎、新井将敬、松岡利勝などの名だたる政治家も自殺しました。いかなる因果あってのことでしょうか。


武士は切腹が名誉の死であり、忠臣蔵の47人は、大石内蔵助から始めて、皆「お先に」と言って従揚として腹を切りました。特攻隊は片道の燃料で大空に飛び立ち、敬虔なクリスチャンは「殉教」を信仰の証しと考えて嬉々として死に赴きました。人にはそれぞれの「死に様」があり、いかに死ぬかは、いかに生きるかよりも難しい人間の最後の課題であります。


筆者自身は、決して手放しで褒められたものとは言えない今までの生き様や、自らの異邦人たる性向からして、とても天国に行ける自分とは思えないし、来生のことは正に神のみぞ知るの世界ですが、せめて死に際して「悔い無し」との一言を残して神に身を委ねることができれば、それで本望だと心底思っています。そして、その一言を残さんがために、語るべきことを語り、なすべきことをなせれば、これに過ぎたる幸いはありません。


かの『長崎の鐘』の永井隆が、墓碑銘に残した聖句を、この際、我が身に刻んでおきたいと思います。


「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカ17.10)


(了)




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