殉教者の画家村田佳代子個展に思う - 潜伏キリシタンの資料館澤田美喜記念館を想起する
- matsuura-t

- 11月12日
- 読了時間: 12分
更新日:11月13日
◯徒然日誌(令和7年11月12日) 殉教者の画家村田佳代子個展に思う-潜伏キリシタンの資料館澤田美喜記念館を想起する
こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた(使徒行伝7.59~60)
プロローグ
今まで繰り返し述べてきたように、今やUCは大艱難、即ち未曾有の「受難」に直面している。この受難に際して、イスラエルのヨセフ物語や出エジプト物語やバビロン捕囚物語を想起しながら、あるいはイエス・キリストやキリスト教徒の殉教の受難に思いを馳せ、あるいは天理教や大本教の受難に学び、あるいはUC教祖の生涯6度の牢獄を噛みしめつつ、受難の霊的意味とは何か、この受難を如何に受け止め、如何に克服すべきかを考察してきた。
即ち、①この受難は神の「霊妙なるご計画」(摂理)の中にあること(創45.5)、②神は必ず信仰者に強い御手を差しのべ「贖いの業」をされるということ(出エ3.10)、③神は試練を恵みに変え「万事を益」として下さるということ(ロマ8.28)、この3点を数々の歴史的事実と経験から実証した。従って、この3つの霊的確信を胸に刻んで、信仰の王道を走り抜こうではないか。文鮮明先生の人類歴史の実相を端的に要約した「救援摂理観」の次のみ言は、実に含蓄があり、この深い意味をしかと理解したい。
「神の人類救援摂理歴史を見ると、そこには必ず神様の摂理を担当する中心民族と中心宗教があります。歴史を導いてきたユダヤ教とキリスト教の核心は、第一に、唯一絶対の神様がいらっしゃること、第二に、人類始祖の堕落と罪、そしてその罪からの救いのためにメシアが必要であると主張すること、第三に、人類の罪悪史には必ず終末があり、その時に神の国が到来すると主張することです」(『平和経』21世紀における島嶼国家の役割P1366)
ところで、筆者はこの11月9日、鎌倉雪の下カトリック教会のミサに与り、その後、鎌倉芸術館で開かれている画家村田佳代子女史(以下、「村田さん」と呼ぶ)の個展を鑑賞した。村田さんは、雪の下教会に所属する信者であり、日本の禁教時代におけるキリスト教殉教者などをテーマにした作品で評価が高い。
そして同時に、この日筆者は、3年前訪問した潜伏キリシタンの資料館である「澤田美喜記念館」を想起した。この澤田美喜さんと、村田佳代子さんは「潜伏キリシタン遺物収集」と「殉教画」という違いはあるものの、同じ殉教者を主題にするという点で共通点があり、感慨深いものがあった。
【殉教者の画家村田佳代子個展】
ところで筆者は鎌倉という町が大変気に入っており、今まで何十回となく訪れた。今年の正月、藤沢家庭教会と大和カルバリチャペルの日曜礼拝に参加し、そして鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した。八幡宮の参道の右に見えるカトリック雪の下教会が大変気になっていたが、正月はパスしてしまった。
だがこの11月9日、知人信徒の縁で筆者は鎌倉雪の下カトリック教会のミサ(礼拝)に参加する機会を得、また午後鎌倉芸術館で開かれている村田佳代子さんの絵画個展を鑑賞する機会を得たのである。
<雪の下教会のミサ>
11月9日の雪の下教会のミサ(礼拝)のテーマは「ラテラノ教会の献堂」であった。ラテラノ教会とは、313年のミラノ勅令によりローマの禁教令が解かれた翌年の324年、ローマ教皇が司教を務める「ローマ司教座教会」としてコンスタンティヌス皇帝により建てられ、「すべての教会の母」と呼ばれている。11月9日はその献堂記念日に当たり、いわば献堂記念礼拝であった。
聖書朗読は第1朗読から第3朗読まであり、第1朗読では、エゼキエル書47章が読まれた。バビロンによって破壊された神殿だったが、新たに再建されたエルサレムの神殿(聖所)の中央から水が流れ出、「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(エゼ47.9)と預言された。ラテラノ教会の献堂の日に、このエゼキエルの語る言葉は、格別の響きをもっている。
第2朗読は1コリント3章が読まれた。「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」(1コリ3.6)とあるように、尊いのはパウロでもアポロでもなく神であるとした上で、パウロは次のように言う。
「神から賜わった恵みによって、わたしは土台をすえた。そして、この土台はイエス・キリストである。 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(1コリ3.10~16)
パウロが建物の「土台をすえ」、他の人がその土台の上に「家を建てた」といい、その大元の土台はイエスであるとした。そして人間はその土台の上に立てられた「神殿」であるという。
第3朗読はヨハネ福音書2章が読まれ、復活したイエスの体が神殿であることを伝える。先ず「宮清め」(ヨハネ2.13~16)があり、その後イエスは「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ2.19)と言われた。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
こうしてラテラノ教会の献堂の記念日に「神殿に係わる3ヶ所の聖句」が朗読され、神の家である神殿で清いいけにえがささげられ、豊かな救いの恵みが与えられるというのである。然り、神殿は神が住む家である。そしてイエスは完全な神殿であり、教会もまた神殿であり、そして私たちも神の宮である。神はイエスの内に、教会の内に、そして我が内にいましたまう。
今回の「ラテラノ教会献堂」のミサは、前記したみ言の朗読、会衆の応答祈願、聖歌、司祭の短い説教、使徒信条の朗読、そしてキリストの血と肉に与る聖餐式と約70分であったが、終始一貫霊的であり荘厳であった。筆者はこれまで何回かカトリックのミサに与ったが、その形式性や非現実性に今一馴染めない違和感を感じてきたが、今回、その長い伝統からくる洗練された荘厳さを感じると共に、「神を礼拝するとはどういうことか」を深く知る機会になった。感謝!
<村田佳代子さんの個展>
さてお目当ての鎌倉芸術館(JR大船駅10分)で開かれた村田佳代子さん(82才)の個展であるが、前記した通り、村田さんは一貫して聖書を題材にした絵を描き、とりわけキリシタン殉教の絵は圧巻である。今回の個展は新約聖書の黙示録がテーマの出展だったが、村田さんは絵を通してキリスト教の殉教の歴史を後世に残すと共に、絵を通して福音を宣べ伝えているのである。
村田さんは、聖心女子大学卒業(西洋史学科、村田良策教授ゼミ)の年、故H・チースリク神父から洗礼を受け、以後カトリック雪の下教会に所属し、鎌倉に在住している。1970年第一回個展を開催して以来、64回の個展歴、数回のグループ展、多くの国際展、団体展への出品、受賞歴を持つ。
大学卒業後、恩師村田良策氏の息子と結婚したが、長女を出産後、その成長の記録を絵にしたことで作品制作が始まったという。特に評価が高いのは、禁教時代のキリスト教殉教者をテーマにしたもので、岩手から沖縄まで取材に赴き、126人の殉教者を描いたという。「体験を通じて自身の血と肉になった事柄を描くが私の美術です」と言う村田さんの作品は、フランスやイタリアなどの国際展で大賞に選ばれ、2005年には紺綬褒章を受章した。
当日、村田さんは一つ一つの展示作品を、自ら屈託なく筆者に解説して下さったが、その記憶の正しさや的を得た説明は、とても80才を過ぎた女性には見えない底抜けの明晰さがあった。
今回の個展のメインは黙示録の各場面を聖書の記述通り正確に描いた作品だが、何度も海外に遠征しながら自らの目と足で史実を確認したとし、例えば、ヨハネが幻を見たという流刑地のパトモス島(エーゲ海に浮かぶギリシャの小島)にも現地視察したという。
『ヨハネの黙示録』は、イエス・キリストの愛弟子である聖ヨハネによって書かれたと伝えられている。西暦95年頃、ローマ帝国の迫害を逃れるためにパトモス島に流刑されたヨハネが、洞窟に身を隠しながら神の啓示(幻)を受け、『黙示録』を著した。迫害に苦しむキリスト者を励ます書として書かれたとされ、また、根底に流れる思想は、悔い改めて反省するなら、新しい輝く未来に生きることができるという希望のメッセージでもあるという。
特に筆者は、黙示録の「天上の礼拝」(黙示録4.1~5.7)と「新しい天と地」(黙示録21.9~22)の場面の作品が印象的だった。また村田さんは、日本の殉教者の絵も出品されていたが、「ペトロ岐部と187殉教者列福」の作品は筆者の胸に刺さるものがあった。この絵には実際187人の殉教者が描かれている。そして使徒行伝7章には最初の殉教者ステパノの記録が残っている。
村田佳代子さんには、どんな教派、どんな宗教であっても偏見無しに対話しようとする姿勢があり、この信念は、彼女の個人的な回心によるものであるという。
【澤田美喜記念館とエリザベス・サンダースホーム】
前記した村田佳代子さんは、殉教者や潜伏キリシタンの迫害の絵を書いたが、澤田美喜さんは、潜伏キリシタンの遺物を収集したことで知られている。彼女は澤田美喜記念館と児童養護施設エリザベス・サンダースホームを設立した。縁あって筆者は、令和4年7月2日、大磯にある澤田美喜記念館を訪問したが、この記念館には、1936年から約40年にわたって収集した、潜伏キリシタンの遺物や関連する品々874点が収蔵され、その3分の1が展示されている。
澤田美喜(1901~1980)は、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫娘であり、三菱財閥3代目岩崎久弥と妻寧子の長女として東京の本郷に生まれた。澤田さんは10才位の時、大磯の別邸で赤十字出身の看護婦が読んでいた聖書の一節「汝の敵を愛し迫害するもののために祈れ」(マダイ5.44)に衝撃を受け、以後、キリスト教と聖書に関心を深めていったという。(青木冨貴子著『GHQと戦った女』新潮文庫P93)
その後、1922年、外交官で敬虔なクリスチャンである澤田廉三氏と結婚してクリスチャンとなり、1926年、鳥居坂のメソジスト教会で洗礼を受けた。
<澤田美喜記念館>
澤田美喜が生涯で手掛けた事業として「福祉事業」(サンダース・ホーム)と「教育事業」(聖ステパノ学園)の2分野の他に、「 文化事業」(潜伏キリシタン遺物収集)がある。→ https://x.gd/vzZqv
澤田美喜は、熱心なクリスチャンであったが、1936年、ニューヨークからの帰国の船の中で、潜伏キリシタンの迫害に関する本を読み、「信仰深い日本人の血が自分にも流れている」と感銘を受け、帰国後潜伏キリシタンの資料を集め始めたと言われている。
筆者は、この目で、実際に踏絵として使用された「摩耗した踏絵」や、表面に光が当たるとキリスト像が浮かび上がる「魔鏡」などを拝見すると、当時の人々の信仰への強い思いを感じ、また、制作者の技術の高さにも感銘を受けた。阿弥陀如来像の背面に隠されたキリスト像、マリア観音の掛け軸、大黒天像や鬼子母神に見立てられた聖母子像からは、仏教を隠れ蓑に礼拝を守った、緊張感ある空気が伝わってきた。
その他、潜伏キリシタンがその信仰を隠すために工夫をこらしたキリスト像、十字架、マリア観音像、マリア地蔵、信仰の手引書「七つのさからめんと」、そして細川ガラシャの遺品まで、実際に目の当たりにすると、その受難の日々が想像され、身が引き締まる思いがする。まさに、神が澤田美喜という女性を召されて、日本にも見上げたキリスト教の信仰があったことを、後生に残すために為されたみ業に他ならない。美喜が潜伏キリシタンに励まされたことについて、青木冨貴子著『GHQと戦った女』に次のように記されている。
「そこに隠れキリシタンの遺物をおさめ、祭壇と祈りのための机をおいて、美喜は夜になるとひとり祈りを捧げた。ホームの運営に行き詰まったり、米軍の迫害や周囲からの白眼視など、あらゆる困難や苦しみに打ちのめされた美喜が、三百年もつづいた激しい弾圧の中で、死をも恐れず、命がけで教えを守り通した隠れキリシタンの苦難を思い、白磁のマリア観音へ語りかけ、自分を叱咤激励した場所でもあった」(青木冨貴子著『GHQと戦った女』新潮文庫P27)
<エリザベス・サンダースホーム>
澤田美喜記念館に隣接する「エリザベス・サンダースホーム」は、神奈川県中郡大磯町の「児童養護施設」である。
第二次世界大戦後、駐留するアメリカ軍兵士など連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、川や沼、トイレに無惨に捨てられる混血孤児が急増していた。両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たち(GIベビー)のための施設として、1948年、私財を投入し、募金を集めて設立した。
施設の名前は、ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダース(40年にもわたって日本に住んだイギリス人女性)にちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けられた。
では、美喜がこの孤児施設を作るに至った動機は何だったのだろうか。美善は、1931年(30才)夫・廉三の英国・ロンドンへの転任に伴い同行した時、孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」を訪問し、「捨てられた子を、引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい奇跡だ」という院長の言葉に感銘を受け、この時の体験が、日本で児童養護施設を設立する大きな動機になった。
そして決定的なきっかけになったのは、1946年のある日、たまたま東海道線列車内での驚くべき体験だった。美喜の膝元に棚から落ちてきた紫の風呂敷に、なんと黒人嬰児の遺体が入っていたというのである。美喜は、警察からこの遺児の母親と間違われ、逮捕されそうになるという体験をしたという。この時美喜の耳元に、「もし、お前が、たとえいっときでもこの子供の母とされたのなら、なぜ日本国中の、こうした子供たちの、その母となってやれないのか」という声がし、まさにこの出来事は「神の声」だと直感し、混血孤児の救済を決心したという。
青木冨貴子著『GHQと戦った女』 に「私の残る余生をこの仕事にささげつくす決心を、はっきりさせた瞬間でした」と記されている。美喜45才。こうして1948年2月、孤児院エリザベス・サンダース・ホームが設立され、美樹は持ち前のバイタリティーと信仰によって乗り越え、560名の混血孤児を含む2000人もの孤児を育て上げた。
聖書に、「やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない」(出エジプト22.22)、「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる」(申命記27.19)、「寄留者 、孤児、やもめを虐げず」(エレミヤ7.6)とあり、また「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14.18)とあるように、聖書は随所に寄留者、孤児、やもめ、貧しい人々を大切に扱うよう求めており、この「弱者救済思想」は聖書の顕著な特徴である。美喜の行動にはこうしたキリスト教の慈善思想が根底にあった。次の聖書の言葉は胸に迫るものがあり、深く心に留めたい。
「あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう」(出エジプト22.22~23)
以上、「殉教者の画家村田佳代子個展に思う-隠れキリシタンの資料館 澤田美喜記念館を想起する」とのテーマで、特に潜伏キリシタンの迫害と殉教の史実を辿り、またキリスト教精神で設立された 児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」について述べた。神の恵みが村田佳代子さんの上に、また澤田美喜さんの上に、そしてすべての信徒の上に、豊かに注がれますように。アーメン!(了)
牧師・宣教師 吉田宏











