激動の神無月 補償委員会設立の意義と聖書的視点から見たUCの試練
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◯徒然日誌(令和7年11月5日) 激動の神無月ー補償委員会設立の意義と聖書的視点から見たUCの試練
そしてエテロは言った、「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトびとの手と、パロの手から救い出し、民をエジプトびとの手の下から救い出された。 今こそわたしは知った。実に彼らはイスラエルびとにむかって高慢にふるまったが、主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを。」(出エジプト18.10~11)
プロロークー激動の神無月
日本の戦後政治史において、この神無月(10月)ほど劇的な1ヶ月はなかった。日本史上初の女性首相の誕生は、過去4年の政権で荒れ果てた日本が、文字通り何もかも創り変えられる感がした。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(1コリント5.17)とある通りである。ちなみに「神無月」とは、文字通り神が無い月と読めるが、実は通説は「神の月」と解釈しているという。まさに10月は神の月なのである。
さて中国の故事に「小事は智によって成し、大事は徳によって成し、最大事は運によって成す」とある。この点、高市早苗首相は智も徳もあるが、なんと言っても強運の持ち主だ。それは、ここ1ヶ月の政治の変転を見れば一目瞭然である。

即ち、10月4日、自民党総裁選での劇的な逆転勝利を皮切りに、労せずして自公連立解消(10日)、迅速な自維連立(20日)、そして10月21日に日本初の女性首相に選任された。更に、ASEAN首脳会議出席(26日)、トランプ米大統領との日米会談(28日)、李在明(イ・ジェミョン)大統領との日韓首脳会談(30日)、APEC首脳会議出席(31日)、そして、習近平中国国家主席との日中会談(31日)と、強行な外交日程を首尾よくこなした。
そしてすべての会議・会談で大きな成果と世界の信頼を獲得し、まさに世界に咲き誇る日本を演出したのである。とりわけ習近平主席との会談において、高市首相は、「戦略的互恵関係」を包括的に推進するという日中関係の基本的なあり方を述べた上で、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調し、また、南シナ海、香港、新疆ウイグル自治区等の状況に対する深刻な懸念を表明した。岸田・石破首相にはとうてい出来なかった発言である。
まさに何か高市首相の背後に、目に見えない力が働いていることを実感する1ヶ月であった。このように、この神無月は目に見えない神が、高市首相の上に働かれた月であり、この短期間の間に日本の空気は一変し、日本は世界の中に立ったのである。このような高市首相に、日本国の運命を一身に背負う国士の姿を見、何かが大きく変わるのではないかと感じたのは筆者一人ではあるまい。
高市首相は著書『日本を守る- 強く豊かに 』(ワック出版)の中で、安倍元総理が肝心なところで夢にたびたび出てくるとした上で、「安倍元総理がやり残した仕事は、憲法改正であり、自分の国は自分で守る防衛力の強化であり、コロナで頓挫したアベノミクスによる力強い経済成長です」と述べ、「同志議員の力を総結集し、ともに私たちが目指してきた日本の創生に向けて働き続けることが、安倍元総理への唯一の恩返しになることだと、決意を新たにしています」(P23)と明言した。そして高市首相は「もはや自分には失うものは何もない」とも言った。
なお、内閣支持率は80%を越え、株高も過去最高を記録して、高市政権はこれ以上ないスタートを切った。然り、神共にあれ!
【山上裁判と補償委員会設立について】
さてそのような激動の中、10月28日、安倍晋三元首相銃撃事件(2022年7月8日)で殺人などの罪に問われた山上徹也被告(45)の裁判員裁判(田中伸一裁判長)の公判が奈良地裁で始まった。当該事件は、3年以上経ているが一度も公判が開かれなかった異常な裁判である。
またUCへの解散命令の適否を審理している東京高裁は、21日、教団側が求めた信者2人の証人尋問を実施した。解散命令を請求した文部科学省と、教団側の双方が11月に主張をまとめた書面を高裁に出し、審理が終わる見通しで、高裁は年明けにも解散命令の適否を判断するとみられている。このような中で、UCは新たに補償委員会を設置した。
<山上被告の裁判>

28日、山上被告の公判が初めて開かれた。今後18回の公判が開かれ、12月19日結審、来年1月21日には判決だという。
山上は、「母親が旧統一教会に献金し、家庭がめちゃくちゃになった」として、旧統一教会に恨みがあり、安倍元総理が旧統一教会の関連団体にビデオメッセージを寄せていたことから、殺害を決意したという。だが 山上徹也被告の妹は、「私達の家庭は教団に壊されたわけじゃない」とはっきりと証言し、母親は、「事件が起きたのは献金が原因ではない。それじゃなく愛の問題、家族での愛の問題」と語った。また安倍元首相暗殺への責任転化も荒唐無稽である。
果たして山上被告の単独犯なのか否か、山上の真の動機は何かについても、多くの識者から疑義が呈されている。ジャ―ナリスト山口敬之氏が音頭を取る「安倍元首相暗殺の真相究明の会」には 学者も弁護士も医師も作家も いるという。
その「真相究明の会」が27日、記者クラブで記者会見を開き、会長の南出喜久治弁護士が、山上被告の動機に強い疑義を表明した。南出会長は、「2009年5月22日、UCが山上家に計5000万円を支払うことで、UCと山上家全員が合意し円満解決した」としてその合意書(写し)を示した上、山上被告もこの合意書に署名押印し、実際山上は毎月10万円をもらい続けたという。
即ち、支払い済みの1760万円と残り3240万円の計5000万円を2014年10月に完済したのである。円満に合意し、完済してから8年も経っているにも係わらず、なお統一への怨恨を抱いていたというのは不可解で、あり得ないと指摘し、山上の動機に疑義を述べた。また、裁判の進め方にも強い疑問を呈し、これは出来レースだとした。
なお山口敬之氏は、「山上の単独犯なのか」という問題提起し、真相究明のために、弾道位置の解明や医学的、物理的、法律的側面など6つの分科会を設け鋭意検証し、随時公表するという。然り、真実が解明されんことを祈念する。
<補償委員会の設立>
さてUCは新たに「補償委員会」を設置した。教団は被害を訴える人々に、民法上の時効を経過したものでも、法律の枠を超えて返還請求に対応するとし、返金するか否かの判断を、独立した補償委員会が行い、UCはその判断に従うというものである。
補償委員会は、元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏が代表を務める橋下綜合法律事務所の弁護士4人が委員や事務局長を担当し、元東京地検特捜部副部長で弁護士の若狭勝氏が参与を務める。また元自民党参院議員で弁護士の丸山和也氏も補償金の管理などで関わるという。
既に全国弁連により、献金返還を求める集団調停が係属しているが、今回の新たな返金基準を適用し、39人の調停が27日、東京地裁で成立した。このように法律の枠を超えてまで返金に対応することで、教団改革の熱意と誠意を示し、問題の早期解決をはかるものである。
今年3月25日、東京地裁(鈴木謙也裁判長)はUCに解散決定の判断を下した。この決定は、左傾化したオールドメディアと全国弁連が一体となって誘導した裁判だが、裁判所はこれらの目に見えない力に忖度した「先ず、解散ありき」の決定を下したのである。 即ち、解散決定を出した鈴木裁判長のロジックは「相当に根深い」「相当程度存在することが想定される」「問題が残存しているのが合理的」と憶測と想像を連発し、しかも「見えない被害」「隠れた被害」を推測、想像で事実認定する、法律上、あり得ない判定であった。
だが百歩譲ってこのたびUCは、補償委員会を設立して、裁判所がいう「見えない潜在的な被害」にも対応する覚悟を示したのである。29日、教団は次の通り表明した。(世界平和統一家庭連合広報渉外局)
「当法人では、過去に多くの民事裁判を抱えたことなどに対する反省から2009年にコンプライアンス宣言を行い、それ以降一貫して教会改革に取り組んで参りました。安倍元首相の事件以降は、献金受領時に一定の手続きを定めるなど更なる改革に取り組んできました。これらの努力により献金に関する裁判やクレーム等は激減し現在に至ります。
しかし、①いわゆる「集団調停」に参加して被害を訴える方々が存在することや、東京地裁の解散命令決定において「顕在化していない被害の存在が否定されない」と述べられたことに加えて、②補償委員会の先生方からの提言も受けて、国民の皆様に安心と信頼を頂ける、社会に対して開かれた宗教として発展するべく、これまでの方針を転換することと致しました。
具体的には、法と証拠に照らして行ってきた従来の対応を転換し、法の枠を超えて集団調停で被害を訴える方々と向き合い、早期解決を図ることと致しました。また、上記地裁決定にも対応すべく、当法人とは独立した視点から公平・公正にご判断いただける弁護士の先生方にお願いし、補償委員会を立ち上げて問題解決を図る取組みを始めることと致しました」
現在文化庁は、「指定宗教法人」解散の清算に関する指針案として、「信教の自由への配慮として、宗教活動に利用しない財産を優先した処分が望ましいとし、清算に支障のない範囲で礼拝施設の使用を認める判断もできる」ことなどが示され、文化庁は今秋をめどに指針を公表するという。表面上「信教の自由」に配慮しているから解散も問題ない、信者に大した影響もないなどとして、決して解散を正当化してはならない。
【出エジプト記は解放と贖いの書】

こうしてUCは、未曾有の試練に際し、補償委員会を設立して問題解決への誠意を示したが、一方、私たちは内的・信仰的に如何なる心構えと信念を持つべきなのだろうか。今回筆者は、世界最高峰の古典でもある旧約聖書の「出エジプト記」(エクソダス)の壮大な物語からその答えを得ることにした。
<贖いの書>
カナンの激しい飢饉を逃れて、ヨセフが待つエジプトに移住したイスラエルの民が(創世記46.5~29)、ヨセフを知らないファラオの時代に奴隷状態になる。出エジプト記はそうした奴隷の虐げられたイスラエルの民を、神が如何にして解放されたか(贖われたか)を記した書である。
出エジプト記は、創世記のヨセフ物語を踏まえた書であり、奴隷からの「解放の書」、束縛からの「贖いの書」である。また民族として始めて神と契約を結んだ「契約の書」でもある。このように出エジプト記は「贖い」と「契約」が中心思想になっており、イスラエル民族に深く刻印され、民族のアイデンティティーとなった旧約聖書の心臓部である。高倉徳太郎伝を書いた小塩力牧師は著書『聖書入門』の中で、「モーセ五書の主題は一つである。主題は、出エジプトにおける神の救いであり恵みである」(P23)と述べている。 神はモーセを召して次のように言われ、イスラエルを贖い出すことを宣言された。
「主はまた言われた、わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」(出エジプト3.7~10)
即ち、出エジプトの物語は、歴史的に起こった出来事の記録というよりは、イスラエルの民の歴史の起点を語り、その信仰の原点を伝える民族の伝承である(月本昭男著『物語としての旧約聖書』NHK出版P172)。そして解放者たるモーセは、イスラエル最大の預言者であり、新約聖書に出てくる人物の中でも「モーセ」は一番多く引用され「イエスの予型」であるとされている。
それにしても、アブラハムの召しから始まり、モーセで基礎づけられるイスラエルの歴史とその起源は、他のどの民族・国家の歴史的起源よりも鮮明である。歴史は偶然の出来事の連鎖ではなく、意味と目的があり、まさに神のグランド・デザイン(大計画)の展開である。神がいかに不正義や圧迫からの贖い主(救い主)であるか、いかに偉大な解放者であるか、出エジプト記は未来の贖い主の範例(モデル)となった(河合一充著『出エジプト記の世界』ミルトスP14)。
<イスラエル民族の希望>
神が奴隷から解放されたという出エジプトの民族の記憶は、その後のイスラエルの過酷な受難の中にあって、常に励ましとなり希望となった。「わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である」(詩篇81.10)とあり、また「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたを贖い出された事を記憶しなければならない」(申命記15.15)とある通りである。
そしてその記憶は、新約時代・成約時代の信徒においても共有できる共通の記憶として、生きた信仰の羅針盤になる。
イスラエルはこの民族の記憶を「イスラエル3大祭」として長く歴史に留め想起してきた(出エジプト23章) 。今や国家の祝日となっているイスラエルの三大祭、即ち「過超しの祭」「七週の祭」「仮庵の祭」は、窮地から救われた出エジプト記にある民族の記憶を記念したものである。
「過越しの祭」(ペサハ ) は、出エジプトの際、戸口に小羊の血の印を付けた家は初子を打つという災いが「通り過ぎた」ことを記念する最も重要な祭であり、聖書に次のようにある。
「もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」(出エジプト12.26~27)
「七週祭」(シャブオット)は、イスラエル民がエジプトを脱出してから紅海を渡って50日目にシナイ山に着き、そこで神ヤハウェと出会い、ヤハウェから十戒のみ言を授かったことを記念した祭である(出エジプト20章)。そして仮庵の祭(スコット)は、ユダヤ人の祖先がエジプト脱出後、荒野で40年さまよい、放浪の民として天幕(仮庵)に住んだことを想起し、これを記念するものである(レビ記23.34~43) 。
以上のように、今もなお行われているユダヤ三大祭は、全て出エジプトに関連した祭であり、これを見ても如何に出エジプトが民族の記憶に深く刻まれた大事件であったかが分かる。イスラエルは毎年、出エジプトにちなんだ三大祭を挙行し、贖いの神を心に刻んできたのである。
<贖われる神と歴史の希望>
筆者は前回10月29日の徒然日誌で、ヨセフ物語の霊的意味について論考し、「 ヨセフをエジプトに売り渡したのは、ヨセフに嫉妬し、彼に憎悪を抱いた兄たちだったが、それはしかし、一族を飢饉から救うために、神があらかじめヨセフをエジプトに遣わしたことに他ならない」と述べた。
また、「この物語の背後には、人智を越えて働く神の計画と導きが洞察されている。目に見える出来事の背後には、人間の悪しき企てでさえも良い結果にいたる道筋となるように、目に見えない神の摂理が働いているという信仰が語られている」(月本昭男著『物語としての旧約聖書』NHK出版P165)とも述べ、「そうであれば、我がUCの大艱難も、ヨセフ物語のように、見えざる神の深謀遠慮と言えなくもない」とした。
そして出エジプト記は、更なる神の救いの確かさを劇的に述べている。イスラエルは、歴史的に過酷な受難を余儀なくされてきたが、出エジプト記に示された神の強い贖いの御手を想起し、神がモーセを通してイスラエルを解放された民族の記憶を拠り所に、苦難の歴史を乗り越えてきたのである。イスラエルは、「三大奇跡と十災禍」の奇跡を見、「雲の柱、火の柱」で導かれ、海が割れる「紅海の奇跡」を体験し、「うずらとマナ」「水の奇跡」で養われ、シナイ山で十戒のみ言を付与されるなど、多くの奇跡と神の強い導きを体験した。そして紆余曲折はあったものの、約束の地、カナンに到達したのである。無論、聖書の記述通りの史実であったかどうかは別途検証するとしても、「超自然的な神の介入」があったことは疑いの余地がない。
こうしてイスラエルは、出エジプトの出来事に、奇跡によって奴隷の家から民族を導かれ、強い御手で贖われた神をしかと記憶に刻んだのである。そこには贖いの神への信頼、天地を創造し、歴史を司られる万能の神への絶対的な信仰があった。ヨセフ物語にせよ、出エジプト物語にせよ、イスラエルはこれら民族の解放物語を想起し、神は必ず民族の苦難を解放して下さるという希望を失わなかったのである。
ヨセフ物語は人智を越えて働く神の霊妙なご計画を教えてくれたが、出エジプト記では神の強い救いの御手を目撃した。そうであれば私たちも、モーセ五書の記録の如く、このUCの受難の背後に深い神の計画があり、天地を支配される神の確かな贖いの摂理があることを信じようではないか。「エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている」とある通り、全知全能の神は、私たちの受難のすべてをご存知である。然り、我ら為すべきことを為すのみなり!
いみじくも筆者は、このモーセによるイスラエルの解放が、1950年10月14日未明、UC創始者が地獄の興南刑務所からマッカーサー率いる国連軍によって解放されたあの出来事と重なって感じられた。マッカーサーによる創始者の解放は、モーセによるイスラエルの解放とダブって見えたのである。まさにこの日「以北出監日」は、十字架に架かりながら、死を乗り超えて霊肉の復活を遂げられた日であり、「成約のイースター」である。
以上、「激動の神無月ー補償委員会設立の意義と聖書的視点から見たUCの試練」とのテーマで、高市首相の1ヶ月を振り返り、補償委員会の意義について述べると共に、出エジプト記を私たちへのメッセージとして論考した。神がイスラエルを贖われた民族の記憶は、この出エジプト記の他に、前述したヨセフ物語とペルシャのクロス王によるバビロン捕囚からの解放がある。
然り、イスラエルの受難からの解放は、第3イスラエルたる私たちにとっても、遠く無縁な歴史の残滓ではなく、現代にも通じる生きた歴史の希望である。然り、神がモーセと共にいたように(出エジプト3.12)、私たちと共にあらんことを!(了)
牧師・宣教師 吉田宏
