絶滅収容所における死生観 フランクル著『夜と霧』の世界
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🔷徒然日誌(令和8年6月10日) 絶滅収容所における死生観-フランクル著『夜と霧』の世界
われ苦難のうちよりヱホバを呼べり ヱホバはわれに應へて我を廣きところに置きたまへり(詩篇118篇5節)
プロローグー『夜と霧』
最近、フランクル著『夜と霧』を読み直した。この『夜と霧』は、オーストリアのユダヤ人精神科医であり心理学者のヴィクトール・フランクル(1905年~-1997年)が、ナチスの強制収容所での体験を心理学者の視点から書いた本である。それは前回の徒然日誌で、三島由紀夫の自決を検証し、「死とは何か」を考察していく中で、死と向き合って生きることを余儀なくされたアウシュヴィッツに代表される「ユダヤ人絶命収容所」の実態をより深く知りたいと思ったからである。(参照-令和8年6月3日徒然日誌「三島由紀夫自決の意味」→ https://x.gd/yw5MM )

『夜と霧』の著者フランクルは、ユダヤ人というだけで、ただユダヤ人であるという理由だけでナチスに拘束され、テレージエンシュタット強制収容所(1942年9月~1944年10月)、アウシュヴィッツ強制収容所(1944年10月)、ダッハウ強制収容所(1944年末~1945年)などの収容所に送られ(約2年半)、妻や両親、多くの親族を収容所で失い、自らも極限状態を生き抜いた。実は筆者は四半世紀前、ポーランドのアウシュヴィッツを2度訪問したことがあるが、あまりにも非人間的で残酷な収容所の実態を見て、吐き気を禁じ得なかった。
ヒトラーは、何故ユダヤ人を差別、迫害したのだろうか。ヒトラーは人類を「優秀な民族」と「劣った民族」に分ける人種思想を標榜し、その中で、ドイツ人を中心とする「アーリア人種」は優秀、ユダヤ人は有害であるという根拠のない人種差別思想を国家政策にした。さらにヒトラーは、ドイツの第一次世界大戦での敗戦、経済危機、社会不安の原因をユダヤ人に押しつけ、その結果、ユダヤ人は個人としてではなく、「ユダヤ人である」という理由だけで差別と迫害の対象になり、600万人の犠牲を余儀なくされたのである。それに、ユダヤ人は「キリスト殺し」という十字架を背負っていた。
なお著者のフランクルは、心理学者のフロイトに教えを受け精神医学を学び、ウィーン大学医学部神経科教授、ウィーン市立病院神経科部長となり、精神医学者として高い評価を得ていた。フランクルは当時、アメリカ合衆国への移住ビザも取得していたが、高齢の両親を残して出国することをためらい、ウィーンに残ることになったという。
この本は単なる体験記ではなく、フランクルは収容所の中で、「なぜ同じ地獄を生きながら、絶望して死んでいく人と、最後まで人間らしさを失わない人がいるのか」という問題を心理学者の眼で観察した。そして生き地獄の中にあっても、「人生に意味があると信じられる限り、人はどんな苦しみにも耐えられる」という結論に至る。
本書の有名な主張は、「ナチスは人間からあらゆるものを奪うことはできる。しかし最後の自由、即ち、人生の意味を求める自由、与えられた状況に対してどのような態度をとるかを選ぶ自由を奪うことはできない」である。
『夜と霧』全体の主題は、①どのような状況でも人生の意味を見いだすことが出きる、②人間の最後の自由としての態度を選ぶ自由、③絶望の中でも希望を失わないことであり、さらに付け加えるなら、第4の主題として、愛する人を思うことが人を支えるという愛の力、「愛こそ、人間が到達しうる究極の最高目標である」ということを強調している。
フランクルは、飢餓や病気や死は決して望ましいものではないが、しかし避けられない苦しみの中にも意味を見いだすことはできるという。収容所の中でも、愛する人を思い続ける人、他人を助ける人、為すべき仕事がある人、信仰を守る人は精神的に強かったと述べている。
ちなみにフランクルは、絶滅収容所の体験から「意味」を求める哲学を基礎に「ロゴセラピー」という意味による心理療法を開発した。「ロゴ」はギリシア語で「意味・理由」などを意味し、したがってロゴセラピーとは、「人生の意味を発見することによって人を癒す心理療法」と言える。
そして死の収容所から解放されて自由になった人々が到達した世界として、「あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償で贖った感慨によって完成するのだ」(フランクル著『夜と霧』みすず書房P157)という言葉で結ばれている。
これらを象徴する言葉が「この狭きよりわれ主を呼べり、主は自由なるひろがりのなか、われに答えたまえり」(『夜と霧』P151)という言葉である。これは詩篇118篇5節の句であり、文語訳聖書では、「われ苦難のうちよりヱホバを呼べり ヱホバはわれに應へて我を廣きところに置きたまへり」
となっている。
ちなみに「夜と霧」の由来は、1941年にアドルフ・ヒトラーが発した秘密命令「夜と霧令」から来ている。この命令では、ナチスに抵抗する人々を秘密裏に逮捕し、家族にも行き先を知らせずに収容所へ送ることが定められ、人々はまるで「夜と霧の中に消える」ように消息を絶ったのである。「夜」は絶望、苦難、死の影を、 「霧」は人間の存在がかき消される不安や不確実性を連想させる。フランクルにとって「夜」と「霧」は、人間が完全に無力に見える状況を意味する。しかし彼は、その最も暗い場所でこそ、人間の尊厳や生きる意味が試され、発見されると考えたのである。
【ナチスの絶滅収容所と北朝鮮の興南監獄】
それにしても、何故ここまでユダヤ人は迫害されたのだろうか。善なる神が造った世界に何故悪がはびこるのか、愛なる神は何故この悲劇をほっておかれるのか。この叫びはユダヤ人のみならず、すべての人々の深刻な問いである。
「神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。御覧ください、敵が騒ぎ立っています。彼は言います。あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように」(詩篇83.2~5)
そしてユダヤ人はシオンを思って泣いた。
「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしは泣いた。どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で」(詩篇137.1)
筆者は『夜と霧』を読みながら、文鮮明先生の興南監獄での約2年半の収容所生活 (1948年6月21日~50年10月14日)を想起した。文先生は平壌内務署の尋問により5年の刑を受け、平壌刑務所に移監されたあと、1948年6月21日、「興南徳里特別労務者収容所」に移監され、肥料工場で強制労働を強いられた。いわゆる 興南監獄である。
金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を激しい労働に動員し、死ぬまで働かせたのである。そこは1年以内にほとんどが死ぬという緩慢な屠殺場であり、想像を絶する環境下にあった。この収容所での状況は自叙伝『平和を愛する世界人として』創芸社(P104~116)、及び「真の御父母様の生涯路程2 第三節 興南監獄の受難」に詳述されている。筆者はこれらを読みながら、「これはナチスのアウシュヴィッツよりひどい」と絶句した。(参照-徒然日誌令和6年4月3日「 文鮮明先生の北朝鮮での受難・殉教路程を思う」 → https://x.gd/aV2G4 )
<絶滅収容所の生き地獄>
前記したように、『夜と霧』は単なる事実報告ではなく、常に死と隣り合わせであった被収容者と残酷な暴力を振るう収容所監視者を、被収容者の一人であったフランクルが心理学者の立場から観察して記述した書であり、三段階に分けて記されている。まず施設に収容される段階、次に収容所生活そのものの段階、そして収容所からの解放の段階で、段階毎に収容者の心の反応が分けて書かれている。家族と離れ離れになり、食事らしい食事も与えられず飢餓状態となり、極寒の中強制労働をさせられ、非人間的な扱いを受けた収容者は、一体何を感じたのか、想像を絶する極限状態での人々の心理が、冷静に描かれている。
そしてその前提として、ユダヤ人がどのような非人間的な扱いを強いられたか、以下に見るように、収容所の実体が具体的に記録されている。
①到着直後の「選別」(セレクション)
ユダヤ人が汚物にまみれた貨車に揺られて、長時間立ち通しでアウシュヴィッツ収容所に到着すると、親衛隊(SS)の医師による「選別」が行われ、指一本で左右に振り分けられた。労働可能と判断された者は右の強制労働へ、高齢者・病人・子ども・妊婦などは左のガス室へ送られた。生きるか死ぬかが、ほんの数秒で決まったのである。
「私たちの移送団の90%は死の宣告だった。それは時をおかずに執行された。左にやられた者は、直接、焼却炉のある建物まで歩いていった」(『夜と霧』P18)
②人間としての尊厳の剥奪
収容直後、囚人たちは、持ち物をすべて没収され、衣服を脱がされ。全身の毛を剃られて消毒を受けさせられた。フランクルは、自分の医学論文の原稿を持っていたが、それも没収されて焼かれ、名前ではなく「番号」で呼ばれた。こうして、個人としてのアイデンティティを奪われ、「一つの番号」に還元されることが行われた。
「収容所員が関心を示すのは、被収容者番号だけだ。自分はただの119104番でしかなかった」(『夜と霧』P6)
③極度の飢餓
食事は極めて貧弱だった。朝は黒い代用コーヒー、昼は薄いスープ、夜は少量のパン程度であり、そのため、囚人たちは常に飢えに苦しんだ。
「一日の食事は、日に一回与えられる水としか言えないようなスープと、ちっぽけなパン、それに20gのマーガリンか粗悪なソーセージ、チーズ一切れだった。重労働で極寒の野外で過ごすと、この食事ではカロリーがまったく不足していた」(『夜と霧』P48)
④過酷な強制労働
囚人たちは、道路建設、線路工事、土木作業などの重労働に従事させられた。しかも、凍える寒さ、不十分な衣服、飢餓状態、睡眠不足の中で働かされた。少しでも作業が遅れれば、殴打、侮辱、制裁
を受けることが多々あった。
「私たちはマイナス20度の森で、配水管を埋設しなければならないのだ。現場監督がやってきて、『この豚犬野郎、貴様にはたんまり仕事をさせてやる。貴様は生まれてから働いたことがないんだろう。顔に書いてあるぞ』」(『夜と霧』P40)
⑤常に死が隣り合わせの生活
収容所では、病気、飢餓、寒さ、暴力、処刑、自殺によって、多くの人々が亡くなり、フランクルは、死体が日常の風景になっていたと記している。そして極限状態のため、多くの囚人は感情が麻痺し、「無感動」(アパシー)の状態になったと分析している。これは、自分自身を精神的に守るための防衛反応であるという。
「そうなるともう、体には抵抗力など皆無だった。居住棟の仲間はばたばたと死んでいった。次は誰か、自分の番はいつ回ってくるか、誰でもかなり正確に予見できた」(『夜と霧』P49)
➅家族との完全な断絶と愛の想起
多くのユダヤ人は、到着時の選別によって家族と引き離された。フランクル自身も、妻、父、母、兄弟を失った。しかし彼は、妻の存在を心に思い描くことによって生き延びる力を得たと述べ、「愛こそ、人間が到達しうる究極の、そして最高の目標である」と記している。
「私は妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。愛は人と人として到達できる究極にして最高のものだ。人は、この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんの一時にせよ至福の境地になれるということを、私は理解したのだ。然り、『われを汝の心に置きて印のごとくせよ。愛は強くして死の如くなればなり』」(雅歌8.6)、『夜と霧』P60~63 )
こうして囚人たちは、「次の日に生きている保証がない」「いつ選別されるか分からない」「解放される見通しがない」という絶望的な状況に置かれていた。フランクルは、将来への希望を完全に失った人々が急速に衰弱していく様子を観察し、そして、「生きる意味を見失った者は、生きる力も失っていった」と述べている。
<興南監獄の惨状>
さて筆者はフランクルの『夜と霧』を読みながら、これは文鮮明先生の興南監獄の惨状と同じではないかと思わざるを得なかった。前記した通り、この収容所での状況は自叙伝『平和を愛する世界人として』創芸社(P104~116)、及び「真の御父母様の生涯路程2 第三節興南監獄の受難」に詳述されている。その惨状は、まさに『夜と霧』と瓜二つである。自叙伝には、「興南の実態は残酷の一語に尽き、囚人の半数が一年以内に死んでいく」とし、「いくら無慈悲で冷酷な政権であっても、それは明らかに人間としての限界を超えたもの」とある。(自叙伝P109)
興南監獄の経緯が次の通り書いてある。
「興南監獄とは、興南窒素肥料工場の特別労務者収容所のことです。そこで私は二年五ヵ月の間、苦しい強制労働に従事しました。ソ連は、世論と世界の目があるために、資本家や反共主義者をむやみに抹殺するわけにはいかず、新たにこの刑罰を考案しました。この制度をそのまま真似た北朝鮮の共産党は、すべての囚人に強制労働をさせました。過酷な労働をくたくたになるまでやらせて、自然と死ぬように仕向けたのです」(自叙伝P105)
興南収容所の重労働 興南収容所全景
また、アウシュヴィッツと同様、朝の点呼の厳しさが書かれている。
「興南監獄の一日は明け方四時半に始まります。囚人を全員起こして前庭に整列させ、不法な所持品がないかどうか、まず身体検査をします。優に二時間はかかりました。身体検査が終わると、粗末な朝ご飯を食べ、十里(約四キロメートル)の道を歩いて工場に向かいます。四列に並んで、顔を下に向けたまま、手をつないで歩きます。囚人たちの周りを小銃と拳銃で武装した警備員が付いて行きました。万一列が乱れたり、手が離れたりすると、脱走の意図ありとみなされ、容赦なく殴打されました」(自叙伝P106)
だが、「私は自分が天の人だという事実を繰り返し考えながら歩いて行きました」とある通り、文先生は為すべき使命、「人生(運命)から何を求められているか」を知っておられたのである。
「雪が道に積もった冬の日、寒い明け方の道を歩いていくと、頭がくらくらしました。朝ご飯を食べたといっても、元気は出ません。しかし、力の抜けた足を引きずってでも工場に行かなければなりません。道すがら意識が朦朧となる中で、私は自分が天の人だという事実を繰り返し考えながら歩いて行きました」(自叙伝P106)
フランクルの囚人番号は119104番だったが、文先生の囚人番号は596番だった。そしてフランクルが証言した強制収用所での食事のお粗末さは、興南監獄でも同じだった。
「一日にくれる御飯は、小さな茶わんで一・七杯ぐらいです。おかずは何もなくて、汁は味噌汁ではなく塩水です。それを食べて八時間労働をするのです。大きい口なら三口で終わってしまいます。汁として、大根の葉と塩を入れたものをくれます。それがすべてです。仕事に出ないと、御飯が半分になります。御飯を半分しかもらえないその悲惨さは、言葉にできません」(『真の御父母様の生涯路程2』第三節「興南監獄の受難」)
一年も経てば、千名のうち、40パーセント以上が死に、毎日、裏口から棺が出ていくのを見なければならない状況の中で、文先生は 精神力の重要性を知り、特別な決心をしたという。
「それで先生は『食べる食事の半分でも生きられる』と、心に確信をもちました。それでその次の日から、他の人たちに先生の食事の半分を与えることを始めました。それを三週間続けました。そして『食事は半分で、残りの半分は神様によって与えられたおまけだ』と考えました」(真の御父母様の生涯路程2 第三節 興南監獄の受難)
しかし文先生は、興南監獄で信徒たちのための祈祷は、日夜欠かさなかったといい、その監獄生活の中でも、霊界が協助して12名の弟子を伝道したという。
「そのようになって、先生が話さずにつくった弟子が、数十名になりました。ですから話をして弟子をつくったならば、どんなに多くできたことでしょうか。皆さんが知っているように、朴正華とか金元徳とかいう二十四名のメンバーたちが、獄中で天命によってひそかに結束して、出発したのです。私の言うことであれば命を懸ける、『脱獄しよう』と言えば脱獄もできる人々がいました」(真の御父母様の生涯路程2 第三節 興南監獄の受難)
以上の通り、フランクルの強制収用所での体験と思想は、文鮮明先生の興南監獄での体験と信仰と強い類似性がある。
【生きる意味、最後の自由、人間の尊厳】
一方『夜と霧』は、ナチスによるユダヤ人迫害の残虐さを記録すると同時に、「人間からあらゆるものを奪うことはできても、生きる意味を問う自由、与えられた状況に対する態度を選ぶ自由だけは奪うことができない」ということを伝えている。
つまり、ユダヤ人は、飢餓、強制労働、家族との別離、尊厳の剥奪、死の恐怖という想像を絶する生活を強いられたが、その中でもなお、他者を励ます人、最後のパンを分け与える人、人間としての尊厳を守ろうとする人がいたことを証言している。『夜と霧』は、人間の残虐性の記録であると同時に、人間の尊厳と精神の自由を問う書でもある。
フランクルは、強制収容所という極限状況においても、「人生が私に何を期待しているか」を問い続け、彼は、「人生の意味」を、a.誰かを愛すること、b.なすべき仕事や使命を果たすこと、c.避けられない苦しみに対して尊厳ある態度をとること、の中に見いだした。フランクルは、どんな時にも人生には意味があるが、「人生に何を期待するかではなく、人生から何を求められているか」を問うべきであり、「苦しみや死には意味があるかという問の前に立っている」という深い真理を語っている。それは、生き延びる見込みなど皆無のときに私達を絶望から踏みとどまらせる、唯一の拠り所であるという。
「私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ」(『夜と霧』P129)
本書の記述の中で、大半の被収容者は、人間らしい生活を奪われ、人間性を忘れ、感情を消滅させてしまったが、極限状態の中でも自分を見失わなかった人々がいた。 父親の帰りを待つ子供、やりかけた仕事など、自分を待っている仕事や愛する人に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられないという。フランクルは、フリードリヒ・ニーチェの「なぜ生きるかを知る者は、ほとんどあらゆるいかに生きるかに耐える」という言葉をしばしば引用したが、まさに「自分が『なぜ』存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えれるのだ」(『夜と霧』P134)という。
そして、通りすがりに思いやりのある言葉をかける者、なけなしのパンを譲る者がいた。また、収容所監視者の大半は嗜虐行為(サディスティックな行為)に慣れていたが、中には人間らしさを忘れなかった監視者もいたという。フランクルにとって「夜と霧」は、人間が完全に無力に見える状況を意味するが、しかし彼は、その最も暗い場所でこそ、人間の尊厳や生きる意味が試され、発見されると考えた。即ち、苦しみには意味があり、またどんな時にも生きる意味があるという。
確かに、待つ人がいて、為すべきことがあることは生きる励みだ。しかし、神への信仰、崇高なものへの犠牲、復活と永遠の命を信じることこそ絶望に勝つ最大の力であり、真に生きる意味である。フランクルもこのことを告白しており、ガス室に入っても運命を受け入れ、毅然として祈りの言葉を口にする人もいたという。絶滅収容所にもユダヤ教であれキリスト教であれ、敬虔な信仰者はいる。
ところで執行草舟著『人生のロゴス』の中に、ドイツ人医師で作家のハンス・カロッサの言葉として、「一度も葬られなかったものが、どうして復活できようか」と記載されている。執行氏は、「生きることは死ぬことである。死んで復活することなのだ」といい、「復活思想に支えられたキリスト教が、私の肌にことのほか合うのもその理由に与るのだろう。死ぬ経験のない者は、生の燃焼もない」という。(『人生のロゴス』実業之日本社P305)
かって統一神学校の学生が、一番大事なみ言を文鮮明先生に聞いたところ、「しっかり死ななければならない」と言われたという。然り、カロッサがいう通り、復活とは死が前提となった概念であり、復活するためには一度死ななければならない。そしてフランクルも文先生も死んで復活した。
以上、「極限における生きる意味とは-フランクルの『夜と霧』の世界」との主題で、文鮮明先生の興南監獄での体験と対比しつつ、極限における死生観を考察した。『夜と霧』 は、絶滅収容所のおぞましさを改めて知る書であり、またその地獄の中でも人生の意味を知り、毅然とした精神を保つ人もいたことを教えてくれる。
然り、私達は人生(運命)から何かを求められている。そして「われ苦難のうちよりヱホバを呼べり ヱホバはわれに應へて我を廣きところに置きたまへり」(詩篇118篇5節)とは真実なり。(了)
牧師・宣教師 吉田宏






