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聖書の奥義とは何か② 創世記3章の奥義

🔷聖書の知識174ー聖書の奥義とは何か②ー創世記3章の奥義


女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。(創世記3.6)


最も重要な聖書の奥義の一つは創世記3章の「失楽園の物語」です。この人類の堕落を描いた創世記3章ほど、人間の本性に訴えるものはなく、また人間の心の奥深くに刻まれている記憶はありません。聖書を読んだことのない人でも、この失楽園の話しは記憶のどこかにあるというのです。しかし、キリスト教では、この箇所の解釈について多くの議論があり、未だ確固たる定説がなく、各会派がそれぞれの解釈をしているのが現実であります。


人間の堕落を扱った創世記3章は、人類の罪の始まりであり、ここに暗示された堕落の真相は、聖書における奥義中の奥義と言えるでしょう。そもそも創世記3章がなければ、聖書は創世記1章、2章だけで完結していたはずであり、3章故に4章以下、ヨハネ黙示録までの膨大な救済摂理が必要になったというのです。


つまり、創世記4章から黙示録までの聖書66巻は、創世記3章で堕落人間となった人類を、堕落以前の創造本然の人間に復帰されんとした神の救済摂理を描いたものに他なりません。


以下、創世記3章が暗示する「堕落と罪の問題」を他宗教と対比しつつ考察したいと思いま

す。


原罪と楽園追放(ミケランジェロ画)


【初宗教の罪観念】


創世記3章が暗示する「堕落と罪の問題」は、多く宗教でも、程度の差や深浅はあるものの、重要な問題として取り上げられています。


<仏教の罪の観念>


仏教には「煩悩」という人間に内在する苦の原因があるという思想があります。


苦を表す表現に「四苦八苦」という言葉があります。生・老・病・死を四苦とし、この根本的な四つの苦に加え、「愛別離苦(あいべつりく」( 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ)、「怨憎会苦(おんぞうえく)」(怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、「求不得苦(ぐふとくく)」(求める物が思うように得られない苦しみ)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)」( 人間の肉体と精神が思うがままにならない苦しみ)の四つの苦を合わせて八苦と呼んでいます。


そして煩悩こそ、上記のような苦をもたらし、悟りを妨げる内在する性質で、これを「自己中心の思考」から生じる心の動きであると考えます。従って人間に苦をもたらす苦の原因を自らの煩悩ととらえ、これを克服する解脱・涅槃への道が求められるというのです。


煩悩の根本は、「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」の3毒と言われ、貪は貪り(むさぼり)とも言われ「欲しいものなどに対して執着する欲望」、瞋は「怒り、憎しみ、妬み」を意味し、痴(痴愚)は「真理を知らず、物事の理非の区別がつかないこと(無明)」を意味します。


こういった煩悩をもたらす貪瞋痴の原因は無明(真理を知らないこと)にあるとし、その克服は「八正道の実践」や「座禅・唱題」 によって悟りを開き、解脱してカルマ(業)と輪廻から解放されて涅槃の境涯に達することであるとします。


ちなみに八正道とは①正見 ②正思 ③正語 ④正業 ⑤正命(正しい生活) ⑥正精進 ⑦正念 ➇正定(禅定)の8つです。


しかし、煩悩が何故生じるか、貪瞋痴が如何に生じるかといった煩悩の原因については、仏教は明らかにしていません。本来、清浄な人間の心に「偶発的に付着した」などといいますが、やはり曖昧であります。つまり、罪はあるがその原因が不明だということです。


日蓮も「一切衆生はかの魔王の眷属(子孫)なり」と言いましたが、魔王(悪魔)とは天上界(霊界)の霊的存在か、内在する悪的要素か、悪魔とは何かについて説明していません。そして、釈尊の教えは、解脱の道を説いていますが、神の存在、霊界の存在、煩悩の原因、この3つについては触れていません。


しかしヒントはあります。釈迦は35歳で菩提樹で禅譲し悟りに至りますが、その悟りに達する直前、マーラ(悪魔)から3つの試練を受けました。その最初の試練が美しい女人の誘惑だったと言われており、これは失楽園の蛇の誘惑を連想させ、煩悩の真相を暗示しています。


マーラとは、釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる悪魔、魔神で、煩悩の化身であります。マーラにとって、釈迦が悟りを開く事は自身の破滅につながるので3つの試練

を与えたというのです。即ち、a.女性の官能的試練(愛欲)、b.栄耀栄華の試練、c.大軍による死の試練であり、釈迦はこれらを退けました。何か、イエス・キリストの荒野での三大試練を想起させられます。


<神道の罪の観念>


一方神道では、人間の罪穢れや不浄は塵や埃のように人間に外から付着するもので、禊(みそぎ)、祓い(はらい)によって払い除けるという思想があります。この点仏教やキリスト教では、煩悩や原罪は人間に深く内在し、修行や信仰によって克服していくものとされており、神道の罪観とは大きく異なっています。


神道は清浄を重んじ、穢れや不浄を忌み嫌い、上記のように、罪は外からやってきて体に塵や埃のようにとり憑くとし、これを禊、祓によって取り払うというのです。


しかし古事記の神話には、罪の根源が何であるかが暗示されている箇所があります。


ひとつは、イザナギとイザナミの聖なる結婚において、女性のイザナミが先に声をかけて、最初の交わりに失敗した記述です。即ち、イザナミが先に「まあ、素敵な男だね」と声をかけ、「女が男より先に誘ったのは良くない」となり、その失敗の結婚による子がかたわの水蛭子だったというぐだりです。これはダビデとバテシバの不倫の第一子も病弱で死ぬ(2サムエル12.18)という聖書の記述を連想させます。


つまり、これらの記述は罪の原因が男女問題に関係していることを暗示しています。


更に、古事記には、イザナミが火の神を産み、それによって「陰部(ほと)が焼けて死んだ」という記述があり、これも性的なものに関連しています。


<ギリシャ神話-パンドラの箱とは>


更に、ギリシャに「.バンドラの箱」という神話があります。神ゼウスはパンドラという美しい女性を地上に送りましたが、この女性が「災いの元」になったという神話です。


ゼウスは、パンドラを地上に送る際に、ある箱を持たせ、「この箱を絶対開けてはならない」と命じられました。しかし、遂にパンドラは、好奇心から禁じられていた箱を開けてしまい、中から「病気、盗み、ねたみ、憎しみ、悪だくみなどのあらゆる悪が、人間の世界に飛び散る」ことになったという話しです。ゼウスが開けてはならないと命じられたのは、この箱からあらゆる災悪がが出てくることを知っておられたからでした。


そしてゼウスから開けることを禁じられていた禁断の箱とは、実は女性の愛の器官、即ち性的な「貞操」だったといわれています。こうして、ギリシャ神話にも、人間の堕落の要因が暗示されています。



【キリスト教の罪(原罪)に関する従来の解釈】


ユダヤ・キリスト教には、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とするいわゆる「原罪」の概念があります。


「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ロマ5.12)


前述したように、創世記3章の失楽園の物語は、人間の堕落を描いた聖書の箇所であり、キリスト教における原罪観念の基礎になっている聖書箇所ですが、しかし、多くの議論がある厄介な論点であります。


<天使の堕落の時と理由>


例えば、従来のキリスト教の解釈では、蛇は文字通りの動物ではなく、堕落した天使(ルーシェル=サタン)を象徴するとし、アダム・エバが堕落する以前に既に堕落していた霊的存在と考えています。


キリスト教の伝統によると サタンは、元々「ルシファー」という名の、神に仕える御使いでありますが、 ある時神に敵意を示し、自分に賛同する天使達を集めて、大天使ミカエルの率いる神の軍団との戦いを開始し、最終的に敗北し、ルシファーと天使の三分の一は天から投げ落とされてしまったといい(創世記12.4)、このサタンが蛇として象徴されているとしています。


「年を経た蛇(サタン)は天から地に投げ落とされた」(黙示録12.9)、「罪を犯したみ使い」(2ペテロ2.4)、ユダ6~7節「おるべきところを捨てた御使たち」(ユダ6~7節)などがその根拠聖句です。


しかし天使がいつ堕落したかは不明とされ、ヘンリー.シーセンも「聖書はこの点について何も語っていない」とし、また、いつ堕落したかについて、「天使の堕落が人類の堕落以前にあったことは明白であるが、いつの時点かは断言できない」(シーセン組織神学P322)としています。


次に天使の堕落の原因とは何かという重要な論点について、天使は自ら神のようになろうとした「傲慢による」というのが典型的な見解になっています(イザヤ14.14)。これは伝統的解釈で、ラインホルド・ニーバーも根源的な悪(原罪)を自己中心性を持つ傲慢に見ていますし、シーセンも神のようになろうとした「傲慢と自己中心」に見ました。(組織神学P323)


また、神の支配権の正当性への疑問から神と敵対した(イザヤ14.13)、即ち「神への不従順」とする説もあり、ジェーコブズは過分の欲望による神の禁止に対する不服従の行為としました(キリスト教教義学P119)


更に、エバと戯れて幸福に見えるアダムへの嫉妬という説もあり、結局、天使の堕落の原因は「神学の深い神秘の一つ」とされています(シーセン組織神学P322)。


ジェーコブズは、天使の堕落について、先ず天使の頭が堕落しサタンになり、次に彼に同調する天使がそれに従ったとし、天使の堕落が悪の起源と関係していると見られるが、これについては説明できない、としています。(キリスト教教義学P100)


あと創世記1.1と1.2との間に天使の堕落が起こったとする見解(ギャップセオリー)もあり、シーセンはこの説を採用しています。


いずれにせよキリスト教では、創世記3章でエバを誘惑した蛇は、その時既に堕落していた堕天使と見ており、天使の堕落の原因とその時期については、実際のところ分からないというのが結論であるというのです。


<エバの堕落の原因とは何か>


エバの堕落の原因とは何かについても、過分な欲望、利己的愛、道徳的未熟性、自由意思などの諸説があります。


シーセンは、神に背いた自由意思の行為によって堕落したのではないかとし、「罪というものは、本質的に非合理なものであるから、理性に基づいて説明することは不可能である」(シーセン組織神学P409)と述べています。


こうして見ると、結局キリスト教では、原罪の本質について明確な答えはなく、漠然としたことしか分からないのが実態であります。


【原理による創世記3章の解釈】


では原理は創世記3章をどのように解釈しているのでしょうか。


<命の木、善悪を知る木とは何か>


先ずエデンの園の中央に生えていた「命の木、善悪を知る木」とは何かということですが、聖書では、木は人の象徴とされています(ヨハネ15.5、ロマ11.17)。そして命の木に至ることは、古来から人間の願望であり(箴言13.12、黙示22.14)、従って生命の木とは、神の創造理想を完成した男性(アダム)の比喩だというのです。


そして命の木と対で隣に生えていた「善悪を知る木」とは神の創造理想を完成した女性を象徴します。神は創造のペアシステム(二性性相)の原理によって、人を男と女に創造されたからです。


<蛇とは何を象徴するか>


次に、エバを誘惑した蛇とは何でしょうか。これはキリスト教も指摘している通り、堕落した天使の象徴であります。天(霊界)にあり、人間と会話ができ、神のみ言葉(意図)を知っている存在は天使しかありません。


この天使がエバを誘惑し、この時エバと共に堕落して悪魔(サタン)になったというのです(黙示12.9、2ペテロ2.4)。


つまり、天使はエバと関係することによって、その時エバと同時に堕落したのであり、キリスト教で言われているように、創造の初期に既に堕落していたのではありません。


またこの蛇(悪魔)は、宇宙創世以前から神と対立する存存として存在していたのではありません。もしそうであれば、マニ教やグノーシス主義のように善悪二元論に陥り、闘争歴史は必然のものとして永遠に続くことになり、聖書の神一元論と対立いたします。


即ち、もともと天使は善なる被造物として人間より先に創造された存在であり、天使の主たる役割は、頌栄、使い、仕える霊でありました。


<天使と人間(エバ)の堕落の動機と原因>


そして天使の犯罪は淫行であると聖書は暗示しています(ユダ書1.7)。


ルーシェル(イザヤ14.12)は、もとも天使長の位置にあり、天使世界の愛の基にあって神の創造の業を讚美し協助した存在でしたが、ブドウ園の譬えにあるように(マタイ20.1~15)、人間への愛の減少感(愛の比較)からアダムに嫉妬してエバを誘惑し、エバも惹かれて二人は関係して不倫の罪を犯すことになったというのです。原理では霊的存在である天使との性関係なのでこれを「霊的堕落」と呼んでいます。従って、「天使の堕落が人類の堕落以前にあったことは明白である」とするシーセンの説は間違っているということになります。


更に、霊的堕落したエバは、天使長がエバを誘惑したように、今度はアダムを誘惑し、アダムとエバは共に堕落することになりました。これが実体の「肉的堕落」であり、このようにエバは霊肉二重の堕落をしたというのです。従って善悪知るの実とはエバの貞操を意味しています。これが下記創世記3章6節の真相です。


「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(創世記3.6)


禁断の善悪の木の実を取って食べたこと、これが人間の淫行だったことを聖書は暗示しています。アダム・エバは裸でいることに気づいて恥ずかしく思い、下部をイチジクの葉で隠した(創世記3.7)と記述しています。従って善悪の実とはエバの愛、エバの貞操であることは明らかです。


その実を食べれば死ぬと戒められたにも関わらず、その死を乗り越える行為は、原理・原則よりもっと強い愛の力以外には無く、歴史的に、愛はもともと聖なる尊いものでしたが、転落して卑しいもののように看做されてきました。


こうして天使と人間の間に不倫の愛、淫行が成立しました。(ヨハネ8.44、マタイ3.7)


ちなみに人間と霊的存在との間における感性は、実体的な存在の間における感性と少しも変わるところろがなく、地上人間が霊人と結婚する例が多々あると言われています。聖書にも「町の民が天使をみて色情を起こした」(創世記19.1~5)とある通りです。


そしてすべての高等宗教は、姦淫を最大の罪と考えできました。仏教、ユダヤ・キリスト教、イスラム教、ヒンズーなど高等宗教は、姦淫、不倫、同性愛に厳しい刑罰を要求しています。モーセの十戒にも「姦淫するな」とあり、キリスト教は情欲を戒め、純潔を第一に掲げている通りです。この情欲の問題は、人間に最後までつきまとう、いかんともし難い最大の難問であります。


以上が原理観から見た堕落の解明であり、ヘンリー.シーセンが、天使の堕落の原因は「神学の深い神秘の一つ」と告白したように、数多の著名な神学者と言えども原罪の解明をなし得なかった事実を考えた時、この新しい福音の奇跡に驚くしかありません。


<責任分担と自由の問題>


ては神は何故禁断の木の実を置かれ、何故戒め(ルール)を置かれたのでしょうか。


それは、人間自らが神の創造に加担することにより、創造性を付与し、そして万物の統治者(主管者)の資格を付与するためであったと原理は言っています。


これこそ責任分担論の思想であり、この戒め(責任分担)は、成長期間を過ぎて完成するまでの時限律法であったといわれています。人間には「成長期間」(神の間接主管圏)があり、この成長期間において戒めを守るという「責任分担が」あったというのです。


この責任分担論は、神義論に終止符を打つ教理であり、原理創始者は次のように語られています。


「人間の責任分担というこの明確な思想的根拠によって、蕩減復帰という最も嫌な怨恨の述語がでてきました。有史以来、責任分担を完成した人はいない、そもそも責任分担自体を知らなかった」


また、人間は自由によって堕落したという自由意思論があります。しかし、人間は自由によって堕落したのではなく、むしろ本心の自由が間違った愛によって拘束されたことによるというのが原理観であります。


自由には責務が伴い、むしろ本心の自由は神の戒めを守ることを欲したというのであり、この自由に関する原理観は、上記責任分担論と並んで、従来の自由意思論を克服する偉大な思想であります。


そして堕落の結果、サタンが支配する人間と世界になり(ヨハネ8.44)、そして人間は堕落的性向を持つようになり、原罪(罪の根)を始め、遺伝罪(罪の幹)、連帯罪(罪の枝)、自犯罪(罪の葉)という4つの罪を持つことになりました。


【カトリックが原罪淫行説を否定した理由】


カソリックは「淫行堕罪説」を内心認めながらも、敢えて淫行堕罪説を否定しました。何故なら、解決策なき淫行堕罪説は、即ちキェルケゴールのように「結婚出来ない説」になるからであり、解決策なき原罪淫行論は、かえって人間を不幸にするという現実がありました。淫行説の論理的帰結として、結婚を否定せざるを得なくなるからであります。


キリスト教のマリアの処女懐胎説と同様の脈絡で、キリスト教の防衛、信徒の守護という側面があり、またグノーシス主義、マニ教など極端な禁欲主義への反論という側面もあったと言われています。


こうしてカソリックは、信徒の結婚を守るために、淫行堕罪説を否定し、聖職者、修道者、修道女のみ独身制を死守しました。その意味でも、神の仲介と祝福による解決の道が待たれるところであります。


この上記堕落と罪の解明は、キリスト教、仏教を始め如何なる宗教も明らかに出来なかった最大の奥義であります。たまたま道端を通りがかった私たちが、この人類史の最終章に遭遇し、かってだれも知り得なかった聖書の奥義を知る場面に出会えたことは奇跡中の奇跡というほかありません。


以上、創世記3章を多角的に論考し、その奥義を明らかにしました。次回は創世記4章の奥義を考察いたします。(了)

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