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聖書はメシア待望の書 - クリスマスの月に考える

  • 執筆者の写真: matsuura-t
    matsuura-t
  • 12月16日
  • 読了時間: 15分

○徒然日誌(令和7年12月10日)  聖書はメシア待望の書-クリスマスの月に考える 

 

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。(イザヤ9.6)


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 羊飼いの礼拝(カール・ブロッホ画)


プロローグ 

 

今年もはや師走。年末は、クリスマス、大晦日、お正月と伝統的宗教行事が続く。日本人は、教会でクリスマスを祝い、大晦日には寺院の除夜の鐘に思いを馳せ、お正月には門松を立てて歳神様を迎える。それぞれキリスト教、仏教、神道の行事であるが、日本人にはそんな宗教の垣根はない。山本七平によれば、それらは日本教キリスト派、日本教仏教派、日本教神道派であり、あるのは「日本教」であるという。 

 

山本七平は、日本には、日本人の内に無意識に染み込んでいる霊性、即ち精神の奥に潜在している宗教意識があり、これを「日本教」と呼んだ。日本人には、無意識にインストールされている日本教という宗教が存在し、「それは血肉となって日本人自身も自覚しないほどになっている」という。信仰する宗教は仏教であり、キリスト教であっても、それは「日本教仏教派であり、日本教キリスト教派」である、つまり、現住所は仏教でありキリスト教でも、本籍は日本教であるという。 

 

仏教学者の鈴木大拙は、山本七平がいう日本教を「日本的霊性」と呼び、著書『日本的霊性』の中で始めてこの言葉を使った。即ち、日本的霊性とは日本人の基層にある特有な精神性を言い、大拙は、これを仏教学者らしく 「禅と浄土教の他力思想が核となった超倫理的、超精神的宗教意識」と定義した。そして大拙は、精神の意思力は霊性に裏付けられて始めて自我を超越したものになり、霊性の直覚力は精神よりも高次であると語った(『日本的霊性』岩波文庫P30~31) 。 つまり霊的直観(インスピレーション)は人間の理性や精神を超えるというのだ。

 

このように、日本人の根底には独特の精神性、見えざる宗教的意識があり、これを日本教(=日本的霊性)と呼ぶことにする。即ち日本教とは、日本人の基底にある宗教意識であり、「自然を崇め、先祖を尊び、和を重んじ、清浄を好む」という古来からの精神性がその核をなし、仏教の無常観や武士道的な忠孝の規範性が加味されて形成されている「無意識的な宗教意識」と一応定義できる。

 

そして日本教は、神道、仏教、儒教、即ち、仏教の無常観・死生観、武士道の儒教的規範性(五倫)、そして神道の自然観・先祖観・和の思想を源泉とする一種の混合宗教とも言え、その内、縄文・弥生時代以来の「古神道」の影響を最も強く受け、これが日本教の基層をなしていると思われる。なお古神道とは、仏教などの外来宗教が渡来する以前に、日本にすでにあったとされる固有の信仰や儀礼の総称で、自然崇拝、祖先信仰、神意判断などをそのおもな内容としている。そしてその日本教(日本的霊性)は、古事記冒頭に一神教の神である「アメノミナカヌシ」(天之御中主神)が出てくるように、その深いところで一神教への郷愁がある。

 

ちなみに、アメリカには、宗教社会学者ロバート・ベラーが命名した「市民宗教」、即ち「アメリカ的霊性」があり、アメリカ的霊性は「ピューリタニズム、聖書的選民観、愛国的心情などが源泉となって融合した見えざる国教」であると考えられる。 

 

ともあれ、このような年末年始の行事の中でひときわ目立つのがクリスマスにちなんだ風景である。街には青や緑のイルミネーションが幻想的な雰囲気を醸し出し、ジングルベルなどクリスマスソングが溢れて気持ちを駆り立てる。子や孫にどんなクリスマスプレゼント送ろうかと思いをめぐらし、百貨店はまさにかき入れ時である。先日、いつもの市営バスに乗ったところ、バスいっぱいにクリスマスの飾りつけがあったので、運転手に聞いたところ、クリスマスシーズンには飾りつけバスを随時運行するという。 

 

では一体、クリスマスの本質的意味とは何であるのだろうか。 

 

第一には、いうまでもなくクリスマスとはイエス・キリストの誕生を祝う宗教行事である。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた」(イザヤ9.6)とあるように、聖書は随所にメシア誕生を預言している。クリスマス(Christmas)は「Christ」(キリスト)と「Mass」(ミサ)が合わさった言葉、即ちキリストのミサで、「イエスの誕生を記念するミサ」という意味である。しかし、あくまで誕生を祝う日であって、イエス・キリストの誕生日ではない。つまりイエス・キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、確定していない。 

 

古代ローマの宗教のひとつ「ミトラ教」では12月25日は「不滅の太陽が生まれる日」とされ、「太陽神ミトラを祝う冬至の祭」があった。冬至を境に、太陽の時間が長くなるので太陽の復活という訳であり、これをキリスト教が取り込んで12月25日をクリスマスにしたと言われている。 

 

第二はキリストの再臨を待望し、再臨に思いを馳せる日でもある。聖書に「 見よ、わたしは、すぐに来る」(黙示録22.7)とある通り、イエス・キリストの再臨はキリスト者の確信であり、万人の待望である。キリストの来臨を預言するメシア思想は聖書全体を通じる最大のテーマであり、そして新約聖書は再臨待望の書でもある。中川健一牧師は12月の月刊ハーベスト・タイムの中で、「クリスマスで救いの物語は終わったのではありません。聖書が語る救いの物語は、キリストの初臨(クリスマス)と再臨で一つとなっています。イエス・キリストは必ずもう一度来られます」と語っている。 

 

従って今回、キリストの初臨と再臨の聖書預言について考察する。クリスマスをキリストの来臨に思いを馳せる機会にしたいからである。 

 

【クリスマス豆知識】 

 

ここで、キリストの初臨と再臨の聖書預言について考察する前に、もう少しクリスマスにまつわる知識を整理しておく。 

 

①サンタクロースの由来とは何か。 

 

サンタクロースは、キリスト教の聖人である聖ニコライ(ニコラウス)の伝説が起源とされている。4世紀に東ローマ帝国小アジアのシュラ(現在のトルコ)に実在したカトリック教会司教セントニコラウスだというのが定説である。 

 

ある時ニコラウスは、貧しさのあまり娘を身売りしなければならなくなる家族の存在を知り、真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったという。この金貨のおかげで家族は娘の身売りを避けられたという逸話が残されている。 

 

このニコラウスの話が元になり、ゲルマン土着の風習と相まって、クリスマスイブに良い子達はプレゼントがもらえるという話が出来上がった。サンタクロースは、クリスマスの夜にだけ現れる人物で、全身「赤と白の服装」をしてヒゲを蓄えた老人で、トナカイに乗って現れると言われているが、どこの誰かはわからない。 

 

②サンタクロースは、何故、白と赤の服を着ているのか。 

 

白は純潔、赤は犠牲(殉教)を意味する。カトリックの枢機卿は赤い服を着るが、それは、神と信者のために血を流す覚悟を象徴していると言われている。また、白色は教皇の着る色で、これは純潔の象徴である。即ち、サンタクロースの白と赤の服は、キリスト教の最も重要な徳目である純潔と犠牲の象徴だったのである。 

 

ちなみにポーランドの国旗は白と赤で、やはり純潔と犠牲を象徴する。日本の日の丸も白地に赤だが、赤い日の丸は日の出の太陽を象徴すると言われる。また紅白は日本の伝統色で、めでたいものとされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われている。 


 

③クリスマスツリーは、何故モミの木なのか。 

 

モミの木は、常緑樹で年中緑であり、緑は「永遠のいのち」を象徴する。つまり、キリストにあっての永遠の命を象徴している。なおクリスマスツリーに飾りつけやイルミネーションを施す風習は、19世紀以降のアメリカ合衆国で始まったものだと言われている。 

 

④クリスマスには、何故ケーキを食べるのか。 

 

クリスマスケーキは、本来イエスの誕生を祝うために用意するものだが、また家族、友人、信者の「よき交わりと愛」を象徴している。キリスト教圏では、クリスマスには主に家族と過ごし、クリスマスツリーの下にプレゼントを置き、プレゼントを贈る気持ちである「愛」の日でもあるという。故にクリスマスにはクリスチャンでなくてもケーキを食べ、今や大衆文化になっている。 

 

以上がクリスマスについての豆知識である。即ち、クリスマスには、純潔、犠牲、永遠の命、愛といったキリスト教のエキスが詰まっている。 

 

【聖書はメシア来臨の預言書】 

 

さて聖書の根幹はメシア思想である。文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)は、「聖書は1600年に渡り40人余の記者によって書かれた書だが、一貫した背骨、メシア思想がある。これら聖書記者の背後に、真の著者である思想的核心の存在(神)があるからです」と言われ、また「聖書には神の救援摂理の奥義がある。聖書は神の創造理想、堕落、復帰の道が隠された秘密の啓示の書であり、重大な内容が比喩と象徴で描写されています。比喩と象徴は、来るべきメシアによってのみはっきりと明らかにされるのです」(『平和経』神様のみ旨から見た環太平洋時代の史観1)と語られた。 

 

即ち、聖書には一貫した思想性があり、メシア思想、唯一神思想、贖罪思想はその代表思想である。 他にも契約思想、選民思想、弱者救済思想などの特徴ある思想があるが、今回、クリスマスにちなんで「メシア思想」(預言)について論考する。

 

<聖書のメシア預言>

 

前述したように、クリスマスは初臨のイエス・キリスト誕生の祝日であるが、聖書にはメシア誕生の預言が随所に記され、特に旧約聖書には100を超えるメシア預言があるといわれる。このように聖書は救世主を待望する書であり、メシア思想が聖書の根幹であるといわれる所以である。

 

アウグスチヌスは旧約と新約の関係について、「旧約の中に新約が隠れており、新約の中に旧約が現れている」と解釈した。即ち、旧約が初臨のキリストを預言しているとするなら、新約はその成就(顕現)だという。 更に新約聖書は再臨預言の書とも言えるのであり、内村鑑三は「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその頭脳である」と指摘した。

 

①以下は旧約聖書における代表的な初臨のメシア預言である。

 

a.モーセ五書 

 

「おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」(創3.15) →この句は原福音と言われ、最初の福音(メシア来臨)の約束である。

 

「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う」(創世記49.10)→ヤコブは遺言で、メシアがユダ族から出ることを預言した。 

 

「私は彼らの同胞の内からお前のような一人の預言者を立ててその口に私の言葉を告げる」(申命記18.18)→モーセのような預言者、即ちメシアがイスラエルに来ることが預言された。

  

b.歴史書・預言書 

 

「わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の王座を堅く据える」(2サムエル7.12~16) →ダビデの家系から出るキリストによる王権を謳う。

 

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、霊妙なる義士、とこしえの父、平和の君と唱えられる」(イザヤ9.6)→栄光の主としてのメシア預言。

 

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53.5)→受難の主の預言。

 

「私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め栄えこの国に正義と恵みの業を行う」(エレミヤ23.5~6)→エレミヤのメシア預言。

 

「エフラタのベツレヘムよ、お前の中からイスラエルを治めるものが出る」(ミカ5.2)→ベツレヘムにメシアが生まれるとの託宣。


 羊飼いと天使、   聖なる夜   (カールブロッホ画)


②以下は新約聖書に見る再臨のメシア預言である。旧約聖書が初臨を預言しているとすれば、新約聖書は再臨を預言している。

 

a.あからさまに来る 

 

「人の子は栄光のうちに来る」(マタイ16.27)

「いなずまのように現れる」(マタイ24.27、ルカ17.24)

「ラッパのうちに天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)

「雲に乗ってこられる」(黙示1.7)

 

b.思いがけない時に来る。 

 

「思いがけない時に来る」(マタイ24.44)

「その日は不意に襲う」(ルカ21.34)

「主の日は盗人のようにやって来る」(2ペテロ3.10)

 

c.黙示録の再臨預言 

 

「見よ、私はすぐに来る」(黙示22.12)

「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22.20)

 

<メシア観について> 

 

次にメシアとは何かについて論考する。創始者は、「世界は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教に分かれて鋭く対立していますが、実際の根は一つです。問題は、イエス様をめぐる解釈です」(『平和を愛する世界人として』創芸社P246)と指摘された。この言葉に象徴されている通り、現下のキリスト教の「冬の時代」にあって、正しい「イエス様をめぐる解釈」、即ち真正なイエス観・メシア観が今ほど必要な時はない。 

 

前記した通り、聖書はメシアを預言した書であるが、ではメシアとはどのような方であるのか、また初臨だけでなく、何故再臨が必要になったのか等、以下、メシア観について論考する。 

 

a.メシアは原罪がない神のひとり子 

 

宗教改革者のジャン・カルバンは「メシアは役割において祭司的、預言者的、王的機能を有す」と述べたが、「祭司」「預言者」「王」はメシアの3つの側面と言われている。しかし、最も本質的なメシアの役割は「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1.29)に象徴されるように、大祭司として「人類の罪を贖うメシア」である。そして罪を贖うためには罪なき方でなければならない。

 

イエスは、清められたマリアの腹中を通して「原罪がない神の独り子」として誕生された。即ち、第二アダムたるイエスは「生まれる時にサタンが讒訴し得る立場を抜け出した立場で生まれたので、原罪がない方なのである」(『イエス様の生涯と愛』光言社P50~52)とある通りである。従って、イエスの血統的勝利の基盤の上に立たれる第三アダムたる再臨主は、やはり原罪なきメシアとして誕生される。「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22.20)

とある通りであり、創始者は次のように言われた。

 

「イエス様は、蕩減復帰の原則によって、タマルの腹中で天側のペレツが勝利した血統的な基盤の上で、マリアの腹中を通して生まれました。従ってイエス様は、腹中に宿った時からサタンの讒訴条件がなかったのです。イエス様と一般宗教の指導者たちとの違う点がそこにあります。生まれた根本が違うのです」(『イエス様の生涯と愛』P50)

 

このことはキリストの再臨についても同じことが言える。再臨主は、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種、原罪なき堕落前のアダムの立場で来て、既にイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在される。即ち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、イエスが果たせなかった堕落前(無原罪)の新婦(エバ)を探し出し、真の父母になられ、万民を救って下さるのである。(周藤健著『成約摂理解説』P190~192)。 

 

そして来るべき新婦について、次のように語られている。 

 

「それでは、アダムの代わりとして来られたイエス様が、この地上において探し出さなければならないものは何でしょうか。正に堕落していないエバを探すことです。清い血統に生まれたエバのような新婦を探さなければならないのです」(同書P73)

 

イエスは、十字架で死んだために、本然のエバを探して結婚できず、肉体はサタンに奪われた。しかし霊的勝利をして霊的に復活され、霊的真の父になられたのである。人類を新生させるためには父と共に母が必要であり、霊的真の母として復帰されたのが聖霊である。創始者は「キリスト教はイエス様が(霊的)復活した土台の上からキリスト教が始まったので、キリスト教は霊的であり、それゆえキリスト教は、十字架の道理ではなく復活の道理によって出発した」と言われた。 

 

「本来、キリスト教の教理は、十字架ではなく復活の教理です。イエス様が復活することによって救いが成立したのであって、死ぬことによって成立したのではありません」(イエス様の生涯と愛』P50)

 

b.メシアは創造目的を完成したアダム

 

多くのキリスト教徒は、「アブラハムが生まれる前から私はある」(ヨハネ8.58)、「世界が造られる前に、みもとで持っていた栄光」(ヨハネ17.5)などの聖句を根拠に「イエスは神」であると認識している。またパウロは「キリストは永遠に褒めたたえられる神」(ロマ書9.5)と告白している。 

 

しかし創始者は、「メシア(救世主)とは、真の人間の原型、即ち『創造目的を完成したアダム』であり、人類で初めて、神の愛を中心として生まれた愛の先祖である」(『イエス様の生涯と愛』P22)と言われた。即ち、イエスは被造物であり、しかも神性を有する人間であるというのである。(参照「イエスは何故神になったか」→ https://x.gd/cZUB3 )

 

またキリスト教徒は、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.10)との聖書箇所を根拠に、十字架で亡くなったイエスその人が再び天から来られると信じている。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)とある通りである。 

 

この点内村鑑三も、「イエスが身体を以て復活し給ふた」と信じ、「キリストの再臨とはキリスト御自身の再臨である。又之と同時に死せる信者の復活があり、生ける信者の携挙があり(1テサロニケ4.17)、天国の事実的建設が行はる」(聖書之研究211号)という。 

 

だが、再臨主は女の腹から生まれてくる。預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、既に昇天したエリヤがまず来るであろうと預言した(マラキ4.5)ので、イエス当時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていたから、当然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していた。ところが意外にも、イエスも洗礼ヨハネを指して、「彼こそがエリヤである」と、明言されている通り(マタイ11.14)、ザカリヤの息子として生まれてきた(ルカ1.13)。この事実は、エリヤと洗礼ヨハネは、使命的に見て同体であるということであって、エリヤその人が下って来るという意味ではないことを意味している。

 

同様に、使命的に見れば、洗礼ヨハネがエリヤの再来であったように、イエス自身がまた来られるというのは、あくまで使命的に見た見方であるというのである。従って再臨は、イエス自体が下って来られるのではなく、イエスと同じ使命を持ち、イエスが果たし得なかった使命まで果たす方が来られるというのである。 

 

以上、クリスマスの月にちなんで「聖書はメシア待望の書-クリスマスの月に考える」とのテーマで聖書の初臨と再臨に関するメシア預言について論考した。然り、再臨は全クリスチャンと万民の待望であり希望である。今こそ地上に永遠の平和と繁栄を打ち立て、神の国をもたらす再臨待望の時である。内村鑑三にあやかって、令和の再臨運動が切望される。(了)

 

                          牧師・宣教師  吉田宏

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​ユニバーサル福音教会牧師
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   吉田 宏

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