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詩篇に見るダビデの悔い改め

○つれづれ日誌(令和3年11月3日)-詩篇に見るダビデの悔い改め


そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。(詩篇32.1)


【総選挙が終わって】


この10月31日、小選挙区289、比例代表176、総数465議席で争われた鳴り物入りの総選挙も終わりました。選挙結果は、自民党261、立憲民主党96、公明党32、共産党10、日本維新の会41、国民民主党11、れいわ新選組3、社民党1、無所属10議席となりました。


結果はマスコミの予想に反して、 自民党が告示前の276議席に届かなかったものの、過半数の233を大きく上回る261議席を獲得し、共産党と組んだ立憲が公示前の110議席を下回る96議席で惨敗しました。そして自民党は、国会を安定的に運営できる絶対安定多数(261)を確保しました。


当初自民は過半数に届かないのではないか、立憲は40議席くらい増やすのではないか、と喧伝されていましたが、今回、マスコミらの選挙予想は全くあてにならないことがよく分かりました。また、維新の会が大幅に躍進し(41議席)、維新などの改憲勢力を合わせると、改憲発議に必要な3分の2の310議席を越えました。


そしてこの選挙を総括して、色々な議論はあろうかと思いますが、筆者は次の3点を指摘したいと思います。


第一に、国民の節度ある分厚い保守的土壌を再認識させられたことです。この土壌は、いわゆる「日本的霊性」が育んだ賜物で、最もこの土壌に馴染み体現した政党が自民党ということになります。


このお陰で、他の海外諸国にみられる政党の乱立や少数派政権による政治の不安定といった事態は避けられ、多数党の自民党による安定した政治が担保されてきました。それが戦後の経済の発展を保証してきたのです。


第二に、健全な野党の欠如が明確になったことです。 健全な民主主義の発展には、健全な批判勢力の存在が欠かせないと言われ、従って健全な野党が必要だと言われています。堕落人間が構成する社会にあっては、「権力は常に肥大化し、必ず腐敗する」という鉄則があり、このような権力を絶えずチェックする必要があるからです。憲法の三権分立の制度は、このような文脈の中から生まれました。


つまり、健全な与党が育つためには、健全な野党が必要な所以であります。問題は日本の野党があまりにも「だらしがない」ということで、とても共産党と組むような野党に政権を任せることなどできません。アメリカやイギリスのように、どちらが政権をとっても、細部の政策は違いはともかく、基本的な国家の在り方は変わらない、という与野党の関係が望まれます。つまり、与野党が切磋琢磨してチェックしあって行くことが望ましい訳です。


筆者は、日本維新の会などが音頭を取って、国民民主党や立憲民主党の良識派を取り込んで、「新生維新の会」というような「健全野党」ができることを期待しています。


第三は、公約通り岸田政権は、自らの任期中に、9条を含む憲法改正をやり遂げ、名実共に戦後の総決算をして頂きたいと思います。色々な意味で改憲は、文字通り新しい日本のスタートとなるでしょう。


【再び詩篇を論ずー悔い改めの詩篇】


さて、先だって福音派の中川健一牧師が発行されている会員レターの「月間ハーベスト・タイム」が、「詩篇32篇の味わい」と題して送られてきました。このレターの内容が、最近筆者が考えていたこととぴったりで、我意を得たりと感じて、この詩篇32篇「ダビデの悔い改め」にちなんで一筆したためるものです。


詩篇については、「聖書の知識93 詩篇注解」において、既に解説しましたので(サイト→https://www.reiwa-revival.com/post/詩篇註解神への祈りと賛美の詩)、これを参照してください。今回、「悔い改めの詩篇」について再度考えて見たいと思います。


<清平ー祈りと悔い改めの聖地>


前回筆者は、清平役事について、少し論評いたしました。やはり先祖解怨・祝福役事は、皆さん関心があると見え、「色んな点で、とてもよく整理された」とのメールを複数頂きました。


それにしても清平は、何という深い祈りで清められた聖地でしょうか。私たちが生まれる前、既に神は清平を予定され、そして半世紀以上前から文先生が選らばれて、祈りと汗の精誠を捧げてこられた地であります。当にこの地は、「霊界」を象徴し、重生の「子宮 」を象徴する人類の聖地です。「清平の地は、世界の祖国の地、全人類の心情的故郷の地にならなければなりません」(『真の父母様の清平摂理』成和出版社P5)とある通りです。


筆者もまた、この地で神の言葉を聞き、祈りを覚え、み旨の絆を深め、多くの霊的恩恵を受けました。 早晩、この地は、世界の「祈りと悔い改めの聖地」となることでしょう。地上人も霊界人も、悔い改めこそ唯一の救いの道であり、悔い改めなき解怨も祝福もあり得ないからです。浅川勇男氏著『先祖を幸福に導く先祖解怨・祝福』には、先祖が救われるためには「先祖の懺悔が必要です」と明記され、また役事には「悔い改める心」が大切であることが指摘されている通りです。(P38~41)


<愛唱される詩篇>


この10月16日に他界された鈴木真吉さんが遺された著書『イスラムに宗教改革は起こるか』によると、イスラム教では、コーラン以外にモーセ五書、四福音書、そしてダビデの「詩篇」が教典とされていると記載されています。(P19)


ユダヤ教徒は詩篇を毎日、節に分けて一週間で一巡りするように朗読し、またシナゴーグにおける礼拝では、定められた詩篇が朗読されます。この習慣はキリスト教の諸教派にも継承され、カトリック教会、プロテスタントの伝統的な教会などでは、「教会の祈り」で詩篇の読む所を選び、礼拝の中で朗読される場合が多いようです。


ルターが修道した聖アウグスチノ修道院では、毎日7回、時間を決めて詩篇を朗読するのが日課であり、ルターも毎日詩篇を朗読して丸暗記していたと言われています。かくも詩篇は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教で貴重視されて愛唱され、信徒を励まし、叱咤し、慰め、多くの教訓を与えてきました。


<悔い改めの詩篇>


詩篇には、その内容によって、メシア的詩篇、悔い改めの詩篇、歴史的詩篇、預言的詩編篇、などに区分されると言われていますが、今回は「悔い改めの詩篇」について見ていくことにいたします。


即ち詩篇には、「7つの悔い改めの詩篇」があり愛唱されてきました。詩篇6篇、32篇、38篇、51篇、102篇、130篇、143篇がそれであります。特に詩篇32篇と詩篇51篇は、ダビデの深い悔い改めを歌った詩篇として有名です。


第二サムエル記11章~12章には、ダビデがウリヤの妻バテシバと不倫し、ウリヤを激戦地に追いやって戦死させ、姦淫と殺人の罪を犯した有名な物語が記されています。ダビデは1年間、その罪を隠しましたが、その間、自責の念にさいなまされ心身共に疲弊しました。そして預言者ナタンに指摘され、遂に悔い改め、罪を告白して神に許されました。詩篇51篇は正にダビデの悔い改めの歌であり、修道院では皆暗証されています。


「神よ、あなたのいつくしみによってわたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。わたしは自分のとがを知っています」(51.1~3)


「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(51.7~17)


そして詩篇32では、罪を許された感謝の祈りが記されています。


「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇32.1~5節)


上記のように、ダビデは詩篇32篇で、許された感謝の歌を捧げていますが、罪を告白しなかった時は「ひねもす苦しみうめいた」(32.3)と語り、罪を告白して「罪を許された」(32.5)と喜びを歌っています。


パウロは新約聖書のロマ書4章で、上記聖句を引用しています。


「ダビデもまた、神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである』」(ロマ4.6~8)


【救いとリバイバルは悔い改めから】


キリスト教の伝統の一つに、周期的に繰り返される「リバイバル」(霊的覚醒)があります。特にアメリカでは、教会や信仰が形骸化して沈滞した時、必ずリバイバルが起こって信仰の回復がなされました。詳しいアメリカのリバイバルについては、HP歴史編「聖書の知識19 アメリカのリバイバルに学ぶ」を参照下さい。


そしてそのリバイバルは、例外なく「悔い改め」から始まっています。即ち、リバイバルは草の根的な無名のクリスチャンや牧師の「悔い改めの回心」から生まれました。


洗礼ヨハネもイエス・キリストもベテロも、宣教の第一声は「悔い改めよ」でした。(マルコ1.4、マタイ4.17、使徒2.38)


「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」(マルコ1.4)


「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4.17)


「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい』」(使徒2.38)


一体、救いとは何でしょうか。それは先ず悔い改めること、そして悔い改めの告白をすることから始まります。真に悔い改めて告白した者は、神が必ず許されるというのです。ダビデも「その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇32.5)と言い、エレミヤ書にも「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31.34)と記されている通りです。


即ち、救いとは、神の霊・聖霊に導かれて、神とキリストの前に罪を悔い改め、告白して回心し、そして許されることであります。


以上、今回は悔い改めの詩篇、特にダビデの懺悔について論考いたしました。(了)



モーツァルト/オラトリオ(懺悔するダビデ) ワルシャワでのコンサートポスター

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