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『異邦人の体験的神学思想』の出版、及び出版記念会について

◯つれづれ日誌(令和4年11月23日)-『異邦人の体験的神学思想』の出版、及び出版記念会について


主を知る知識が、海をおおう水のように地を満たすからである(イザヤ11.9)


さて筆者はこの度、拙著『異邦人の体験的神学思想』を出版することとなり、また出版記念会を持つ運びになりました。そこで今回は、ここに至った今までのいきさつ、出版の目的、出版記念会の趣旨について述べ、皆様のご理解を得たいと考えております。


【出版のいきさつについて】


異邦人であり、また反キリストでもあった筆者が、こともあろうに、何故、聖書・キリスト教に関する本を出すにいたったのか、先ずはそのいきさつについて述べたいと思います。


<異邦人、そして反キリストだった筆者>


本のタイトルにある「異邦人」とは何でしょうか。異邦人とは聖書においてはユダヤ人以外の異教徒をさす言葉であり、神に選ばれた民(選民)との対比で使われる言葉です。従ってカナン人もペルシャ人もエジプト人もギリシャ人もローマ人も皆異邦人であります。


しかし、筆者がここでいう異邦人とは、UCに入信する前、非キリスト教、ないしは無宗教であったという意味で使っています。即ち筆者は特定の宗教に入信していない文字通り無宗教者であり、また、目的観を喪失した虚無的な一良心家でありました。


また加えて筆者は、「反キリスト」でありました。 反キリスト(Antichrist)とは聖書の定義によると、「イエスのキリストであることを否定する者」(1ヨハネ2.22)であり、或いはキリストに偽装して、「イエスを告白しない惑わす者」(2ヨハネ1.7)であります。

しかし、ここで筆者が言う反キリストとは、「聖なるものを忌避する内的性向」であります。平たく言えば世俗的性質でしょうか。それに筆者には聖書に加えてキリスト教に対する根強い抵抗感、違和感がありました。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5.28)とのイエスの言葉を耳にしたとき、この聖書の世界は自分の住むところではないと思ったものです。


こうして、異邦人、かつ反キリストだった筆者ですが、実は、聖書・キリスト教に対して、本心では一種の憧れを持ちながら、他方ではこれを拒絶するといったアンビバレント(二律背反)な感情を抱いていたのです。


<どん底で神の言葉(聖書)に出会う>


「つれづれ日誌(令和4年10月26日)-どん底からの復活」でも述べましたが、65才の時、筆者は、金の先物取引の失敗に端を発する「神の鉄槌」を受け、全てを失って心身共にどん底に落とされていました。以後3年間、イエス様が死後3日間、地獄の黄泉に行かれたように、暗黒の地獄の中でさ迷うことになりました。そしてこのどん底で、神の声と出会ったという訳です。


「聖書の言葉、神の言葉こそ唯一最大の財産ではないか!神の言葉に立ち還れ!」


そして神は「聖書を3回通読しなさい」と命じられました。筆者は、珍しくこの神の確かな「静かな細い声」(2列王記19.12)に素直に反応し、1回目(2017年3月9日~6月7日)、2回目(2017年8月1日~10月29日)、3回目(2018年1月1日~3月29日)と1年がかりで3回の聖書66巻の通読を終えることになりました。しかもただ読むだけではなく、大事だと思う箇所をパソコンに入力しながらの通読でしたので、正に精読でした。        


<新生聖書勉強会の主宰>


実は筆者は、40才代から、法律専門家として教会や信徒の「駆け込み寺」のように、よろづ相談を承っておりました。今でも「腕がいい」という評判をクチコミで聞きつけて相談にこられる方々がいます。


しかし還暦を過ぎたころ、そのような現実処理に明け暮れる生活の中で、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3.11)とある通り、筆者の本心の中で、目に見えないものへの憧れ、時空を越えた形而上的な神学への強いアフェクション(熱情)が沸き起こって、上智大学神学部に入り直して、本格的にキリスト教神学をものにしようと思ったことがありました。しかし、実際は現実がこれを許さず、結局、得意の「独学」で神学を研究し、そしてそのような中で、上記に述べたどん底に遭遇したというのです。


そして3回の聖書通読を終えた後、サムエルやダビデに注がれたような激しい霊の注ぎ(1サムエル11.6)ではないにしても、確かに「神の霊の注ぎ」を感じるようになり、友人の強い勧めにより、「新生聖書勉強会」と命名して聖書勉強会を主宰することになりました。


平成2018年5月20日、聖書通読3回完了の恩恵会を兼ねた聖書勉強会がもたれたのを皮切りに、その後2ヵ月に1回のペースで勉強会を行ってまいりました。そしてこの年、筆者の聖書と神学に関する見解を、原理との対比の中でまとめた論文「異邦人の体験的神学思想」(P110)をしたため、ささやかな論文披露を兼ねた聖書勉強会を開催することができました。そしてこの度出版する『異邦人の体験的神学思想』は、この論文を3年をかけて大幅に修正、拡充した続編ということになります。


またそのような中で、ラインの何であるかも知らなかった筆者でしたが、「吉田さんも、ライングループを作ればいいね」とのお勧めがあり、「令和リバイバル」と命名した聖書研究のライングループを立ち上げて、聖書研究の成果を文書で発信するようにした次第です。そしてその後間もなく、「もったいないからホームページを作って、文書を公開して欲しい」とのリクエストを頂き、知人の手を借りてホームページ「令和リバイバル」を作ったという訳であります。今、ホームページの掲載記事は、ここ3年間で305本を数えましたが、神は「400本をやりなさい」と言われていますので、あと100本は書き続けなければなりません。そして400本を達成すれば、「何かが起こるかも知れない」と感じています。


一方、神は聖書研究の成果を覚えて下さり、ユニバーサル福音教会の牧師に推挙され、今は、家庭連合ポーランド宣教師と、キリスト教会牧師という二足の草鞋(わらじ)を履く身となっています。


こうして振り返れば、目に見えない神が厳然としていましたまい、この神が不足な筆者をも導き、どん底から引き上げて復活させて下さったという、疑いの余地のない「神の働き」とその「導き」を実感しております。 出版記念会が終われば、この本を教材にして新生聖書勉強会を再開するのも一案だと考えており、また、チューチューブで動画を発信すればどうかという提案を受けていますので、この件も前向きに考えています。


我が内村鑑三も、1900年9月(39才)に雑誌『聖書之研究』を 創刊し、自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れ、それらは、25名くらいの「角筈(つのはず)聖書研究会」になりました。その後、新渡戸稲造の読書会の東大生グループが新渡戸の推薦で聖書研究会に入会し、「柏会」と命名されました。門下生として、田中耕太郎、塚本虎二、藤井武、矢内原忠雄、南原繁など、多くの著名人を排出して、さながら、明治の松下村塾でありました。


以上が、この度の出版に至るいきさつですが、次に本書のテーマと内容、そして目的について述べたいと思います。


【著書『異邦人の体験的神学思想』について】


前記に述べました通り、どん底で神の声を聞き、法律家から神学の徒へと大変身し、「聖書(神の言葉)の研究を以て天職とす」と相成った筆者ですが、この度、その総括とも言うべき神学本を出すことになりました。以下はその概要であります。



<テーマと内容について>


「キリスト教の本質とその課題」との副題を掲げた拙著は、「聖書と原理の橋渡し」及び「超教派・超宗教的なリバイバル」を全体のテーマとしており、聖書・キリスト神の基本知識と共に、筆者の信仰体験を加味しましたので、求道者の入門書、信徒の道しるべ、牧会者の教材になれば幸いです。加えて、信仰のリバイバル、即ち、霊的覚醒の起爆剤として一石を投じることが出来れば、望外の喜びであります。今回、発刊をお願いしているグッドタイム出版の武津文雄氏の読後感によると、「読みごたえがあった。この本は牧会者の教材として最適だ」ということでした。


目次は以下の通りです。


第一章 聖書と神学の意義と特質 

第二章 使徒信条からキリスト教の本質を読み解く

第三章 キリスト教の起源と三大特徴―殉教、異端、リバイバル

第四章 プロテスタントの成立とカソリックの対抗宗教改革

第五章 極東アジアのキリスト教を考えるー環太平洋の時代

第六章 代表的キリスト教徒の信仰と思想


筆者は、聖書が「神の言葉」であることを信じ、イエスがキリストであることを信じる者であり、何よりもキリスト教の歴史と伝統をこよなく愛する者であります。そうして聖書と原理、キリスト教とUCという二足のわらじを履く身として、この神学本がこの二つの壁を打破する橋渡しの一助になるとすれば、これに過ぎたる喜びはありません。 正に「主を知る知識が、海をおおう水のように地を満たすからである」(イザヤ11・9)とある通りです。


宗教改革者ルターは「信仰体験は神学を伴う」と言い、また内村鑑三は「自分自身を注意深く観察の材料としました」と自書への動機について語っています。浅学な筆者ではありますが、自らの神体験を交えた拙著『異邦人の体験的神学思想』により、生きた神の言葉を身近に感じて頂けるものと信じております。


なお、本書は、「聖書的霊性の相続」を標語に、「聖書と原理の橋渡し、全教派・宗派の一致」という一つの統一したテーマで書かれてますが、各章ごとに完結した構成にもなっていますので、先ず、関心のある章から読まれてもいいのではないかと思います。


【出版記念会の趣旨について】


そしてこの度、以下の通り、出版記念会を開催する運びとなりました。この場を借りて、皆様全員を、謹んでご招待したいと思います。特に首都圏の方々のふるってのご参加をお待ちしています。


1.日時-令和5年1月21日(土)午後1時半~4時半(1時開場)

2.場所-アルカディア市ヶ谷(JR中央線市ヶ谷、有楽町線市ヶ谷九段方面1番1分)

3.プログラム

一部記念会(1時半~2時半)

二部記念講演(2時45分~4時半)-「聖書の奥義とは何か」

4.テーマ-「神に還れ、神の言葉に還れ!」

5.歌-君が代、長崎の鐘、アメージンググレイス、他

6.会費5000円(本代含む)


上記の通り、当日の講演で、「聖書の奥義とは何か」という題目にて、持論を述べたいと思っています。筆者は、原理講論は「聖書の新しい解釈論であり、聖書の奥義を解明した神学書である」と理解しております。UC創始者は、16才で神に召され、その後10年余の歳月をかけて、神と一問一答し、命がけでサタンと戦い、遂に七つの封印(黙示録5.1)、即ち重要な部分が比喩や象徴で暗示されている聖書の奥義を明らかにされ、聖書を完全に解釈されました。この創始者の聖書解釈は、聖書を否定するものではなく、むしろ聖書を完成させるものであり、唯一の正統な解釈として、キリスト教の復興にも寄与するものと信じるものです。イエス様も、「律法を廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5.17) と言われている通りです。


また、この出版記念会のテーマとして、「神に還れ!、神の言葉に還れ!」の標語をかかげました。この会を、単なる一個人の出版記念会に留まらず、新しいキリスト教信仰の復興、即ち成約的、かつ超宗教的な福音信仰の「リバイバル宣言」の機会になることを希望しています。


アメリカのキリスト教史において、信仰が沈滞し、教会が形骸化したとき、周期的、必然的に何度か勃興したリバイバルは、教会の改革と信徒の霊的覚醒をもたらし、それが信者の劇的な増加、教会の成長につながりました。そしてリバイバルには一つのパターンがあり、リバイバル運動は、例外なく1人又は数人のキリスト者の回心、無名の牧師の回心から草の根運動として始まっています。その思想の根幹は、①悔い改め(repent) ②回心(convertion)、③新生(born again)、の3つであります。 聖霊に導かれ、悔い改めの祈りから始まり、回心体験を経て、遂には贖われて新生の高嶺に導かれるというものです。


では、最終的な、そして最良のリバイバルの日とは何でしょうか。それこそ黙示録が預言している通り、7つの封印を解かれる方、「王の王、主の主」の名を付した白い馬に乗って来られる方(黙示録19.11)、我らをして子羊の婚姻に招かれる方、即ち再臨の主が来られる時であります。この再臨のみ言によって、深い悔い改めを通じての贖ないと共に、完成的な新生、重生のリバイバルが勃興するはずであります。


今やUCは、未曾有の艱難(かんなん)に直面し、マスコミと社会と政治が一団となったバッシングにさらされています。しかしこういう時ほど、イエスの預言「あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう」(マタイ24.9)を思い起こし、あのマルティン・ルターの言葉、「たとえ明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える(=神の言葉を学びみ旨にいそしむ)」を想起したいと思います。


創始者は、1969年4月27日のみ言選集「理想の基準」の中で、次のように語られました。


「神が弁明の歴史を教えたことがない。聖書で弁明の歴史を教えたことがあるか。真なるものは神以外にない。神を否定する者に、真なる者は弁明、弁解は不要である。迫害されながら我々は発展する」


そして、讃美歌404番「山路超えて」のテーマである詩篇の言葉をお送りいたします。


「これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである」(詩篇91.11)。(了)



出版記念会のご案内


日時:2023年1月21日(土)

 13:00開場(13:30~16:30)


会場:アルカディア市ヶ谷

(JR・有楽町線・市ヶ谷駅から1分)


会費:5000円(書籍代含む)




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