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アメリカの超教派・超宗派活動について 宗教一致への夢

◯つれづれ日誌(令和5年5月3日)-アメリカの超教派・超宗派活動について-宗教一致への夢


すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである(エペソ4.6)


先般、つれづれ日誌令和5年4月12日号において、「万教帰一・万教同根思想を考えるー超教派・超宗派の理念と実践」と題して今後の超宗教活動の展望を論考しました。その中で、いわゆる幕末維新から勃興した「新宗教」について概観しました。新宗教には、例えば、天理教、大本教、PL教団、霊友会、生長の家、創価学会、世界救世教、真如苑、立正佼成会、世界真光文明教団、GLA、阿含宗、幸福の科学、キリスト教系のものみの塔、旧統一教会が挙げられます。


現代日本において一定規模で持続的に宗教活動を展開している新宗教の教団は、350~400教団もあると言われており、新宗教の信者は、日本人のおよそ1割以上を占めるという統計もあります。


そして「新宗教」の際立った特質として、一人のカリスマ的な創始者の強烈な神体験が基礎になっていること、谷口雅春の万教帰一に象徴されるように他宗教に排他的態度を取らず宗教間対話に前向きであること、の2点を指摘することが出来るでしょう。従って、日本における超教派・超宗派運動は、キリスト教を中心としつつも新宗教との共働は不可欠であると思われます。「すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4.6) とある通りです。


【アメリカのACLC報告と質疑応答】


さて、この4月24日、小山田秀生氏を座長として、Y女史によるアメリカにおける超教派・超宗派活動、即ちACLC(米聖職者指導者協議会)の活動報告があり、筆者も参加いたしました。当日の参加者は、クリスチャン出身でキリスト教に何らかの形で関わりのある方々で、正に筆者だけがいわゆる異邦人でした。


いうまでもなくACLC、WCLC(世界キリスト教聖職者指導者協議会)は、宗教間の葛藤を超え、聖職者たちが一つの神のもとに人類一家族世界を目指す運動であります。特にACLCはUC創始者のダンベリー獄中受難に起源を有するものです。


彼女は、ラスベガス在住45年で、ACLCラスベガスのリーダーであり、ACLCの発展に寄与されてきましたが、この度、日本に還故郷されました。筆者もラスベガスが宣教地であったこともあり、現地で色々便宜を図って頂いたことがあり懐かしい再会でした。


Y女史は当日、平和と開発のための宗教者協議会(IAPD)北米議長のジョージ・スターリングス大司教、グラミー賞を受賞したヘゼカイア・ウォーカー牧師、シカゴのT.L.バレット牧師、ロシア正教会のウラジミール・フェドロフ大司教、金起勲(キム・ギフン)WCLC推進委員長、ルオン・ルースACLC共同議長、トランプ大統領の宗教特別顧問のポーラ・ホワイト牧師、シティー・オブ・レフュージ教会のノエル・ジョーンズ牧師、エバンジェル大聖堂のドン・メアーズ牧師などのACLCリーダーの活動ぶりを、力強い迫力で紹介しました。


その中でも筆者が刺激を受けた証は、「5000名の祝福を成功させた教会があること」、「現在400カップルもの牧師カップルが40日聖別と3日儀式を経て、自分の信徒達を祝福に導き教育していること」、そして「これからはUC信者が原理を語るというより、牧師自身が原理講義をする時代」と指摘されたことであり、実際自らが伝道した牧師が堕落論を語っている動画を紹介されました。



【質問と問題提起】


筆者はこの日の集会で、いくつかの質問と問題提起を行い、またキリスト教に関する本質的な内容が議論されましたので、以下、この集会で論議された要点について紹介したいと思います。


<黒人は成約時代の選民>


先ず筆者は、「ACLAの有力牧師や大会参加者に、黒人が目立ちますが、白人牧師のACLC参加についてお聞かせください」との質問をいたしました。


Y女史曰く、「白人牧師で代表的な方にボーラ・ホワイト牧師がいますが、何人かの有力な白人牧師も活動しており、更にあとに続く白人牧師が導かれるようお祈り下さい」と。


筆者は、WCLCの一周年記念大会(2020年12月6日)を視聴して、アメリカに対する神の希望、キリスト教に対する神の期待を強く感じたものですが、それ以上にブラックパワーの力、蕩減が晴れた黒人こそ主を証す「新しい選民」であるということを強く感じる時間になりました。即ち、黒人は激しい奴隷労働の中で、歴史的に償いの条件を立てており、霊通し、ご父母様が誰であるかを直感的に感じる智慧と謙虚さがあるというのです。黒人こそ成約時代の選民であり、主を証すパワーであると強く感じた次第です。


UC創始者は、「神は、よくぞ黄色人種の文先生を選びたもうた。白人であれば黒人が来ないし、黒人であれば白人がこない」と言われたことがあります。神はあえて、白人ではなく黄色人種を選ばれたというのです。


<キリスト教は再臨のために準備された群れ>


小山田氏はこの集会の中でも、拙著『異邦人の体験的神学思想』を信者の教材によいと評価して頂きましたので、筆者は、今回出版した動機について述べることにしました。


筆者がこの本を書いた大きな動機は、キリスト教こそ神が再臨のために特別に準備された群れであり、また実績もあることを心底理解したことであります。冒頭に述べました日本の新宗教も、それぞれの分野と範囲において神の救済摂理の一旦を担う群れでありますが、その中でもキリスト教は摂理の中心に立つ特別な群れであります。


しかし、このようなことは、今まで何度も聞かされてきたことであり、「あなたは今頃気がついたのですか」と言われそうです。確かにその通りですが、10年ほど前、この事実を心の底から実感した瞬間があり、遅まきながら改めてキリスト教の研究を始めたものです。ここに至って、何故UC創始者が超教派・超宗派活動にこれ程投入されたのかの意味が分かりました。


従って、ACLC、WCLC、ひいてはJCLC(日本聖職者指導者協議会)、KCLC(韓国聖職者指導者協議会)の活動ほど重要な神の摂理はありません。再臨につながるキリスト教を中心とした全宗教の一致、これ程緊急かつ致命的に必要な運動はないと言っても過言ではないでしょう。親なる神のもとにある「天の父母様聖会家庭連合」、「天の父母様聖会キリスト教会」 、「天の父母様聖会生長の家」、「天の父母様聖会幸福の科学」....こそ神の理想であります。


一体、クリスチャン・牧師の唯一最大の願望はなんでしょうか。それは、再臨のキリストに出会うことだというのです。聖書の奥義とその解釈、神学上の論争、これらは再臨によって解決されると信じ、また内村鑑三にみられる通り、キリスト教徒の完全な救いは再臨によって成ると信じています。私たちは再臨を知り、出会いましたが、キリスト教徒にとって、再臨との距離がなんと遠いことでしょうか。この距離をなんとしても縮めなければなりませんし、私たちはキリスト教徒と再臨、イエスと再臨の橋渡しを買ってでなくてはなりません。


<史的イエスとケリュグマ(宣教)のイエスー新イエス伝構想>


さてイエスとその再臨を橋渡しするためには、イエス・キリストの実像について正しい知識が必要になります。果たして福音書に描かれているイエスは歴史的事実としてのイエスでしょうか。

イエスの実像について、「史的イエス」と「ケリュグマ(宣教)のイエス」という異なったアプローチがあります。つまり、福音書に書いてあるイエスは歴史的事実に基づたイエス像というより、あくまでもマタイやマルコなどの福音記者の信仰的観点から見たイエスであるので、イエスの実像を知るためには史的イエスの観点が必要だと、主に19世紀の自由主義神学者から問題提起されました。


そして「史的イエスの問題」は、ドイツの代表的な新約聖書学者ルドルフ・ブルトマンが、1921年の『共観福音書伝承史』のなかで「原始キリスト教の信仰において本質的なことは、『宣教のキリスト』すなわち原始キリスト教団によって宣教(ケリュグマ)されたキリストなのであって、必ずしも『史実のイエス』ではない」という学説を唱えたことが拍車をかけ、聖書学だけではなく神学一般にとっても20世紀最大のテーマとなっていきました。


史的イエスとは、イエス・キリストについて、信仰や宣教の観点を排除し、歴史学的な手法を用いて探究される歴史上のイエス像のことであります。即ち、ケリュグマ(信仰)のイエス・キリストと対比される概念で,歴史上の地上の人物としてのイエスを指します。福音書にはイエスを救世主キリストとするキリスト教信仰の視点からその生が描かれていると言われていますが、これと歴史的実像を区別して検証・構成する試みが 19世紀からヨーロッパで盛んになり、さまざまなイエス像が提唱され、多くのイエス伝が書かれました。遠藤周作も『イエスの生涯』(新潮文庫)を書いています。


しかし、イエス自身が自叙伝を書き残した訳でもなく、またイエスの史実の資料はほとんどないのが実情であります。イエスの生涯について、新約聖書に描かれているイエスについての各挿話が史実かどうかは学者間で見解が異なり、学者の見解がほぼ一致するのは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことと、ローマ属州総督ピラトの命令で磔(はりつけ)にされたことだけであると言われています。従ってそもそも史的イエスを書くことには無理があり、今、出ている著名神学者によるイエス伝も限界があると言わなければなりません。


史的イエスに関するキリスト教以外の資料には、ヨセフスなどのユダヤ人の資料やタキトゥスなどのローマ人の資料がありますが極めて限界があり、近年、新約聖書の「非神話化論」で話題となったブルトマンは、著書『イエス』の中で,「われわれは今やイエスの生涯と人格についてほとんど何も知ることはできない」と明言し、また『イエス伝』を書いた評論家の若松英輔氏は「歴史的人物としてのイエスの実在は確かであるが、資料的にイエスの伝記を書くのに十分な情報はない」(『イエス伝』中央文庫P11)と言っている通りです。


従って「史的イエス」の研究は、福音書に頼るしかなく、福音書そのものの歴史的な価値をどう評価するかに大きく左右されることになります。


筆者が現時点で言えることは、イエスについて一番詳しく書かれている記録としては、内外を含めて、光言社の『イエス様の生涯と愛』だと思われます。 この本はUC創始者のみ言で構成されており、再臨にしか知り得ないイエスの秘密が天啓によって明らかにされています。


従って、今まで誰も書けなかった、そしてキリスト教神学者も一定程度納得できる『イエス伝決定版』をUC信徒の誰かが書き残す責務があると思われます。(若手神学者よ、出でよ!)。そしてこれは、キリスト教とUCの橋渡し、イエス様と文鮮明師の太い架け橋になると信じます。そういえば、故石井光治氏が、イエス伝を映画化するという創始者の指示で、成約版イエス伝の脚本に挑戦しましたが、結局幻の脚本に終わりました。


<原理の正統性について>


さて、当該集会でもう一つ議論になった話題があります。UCの教義は韓国の神霊的神秘宗教からのパクリだという批判についての議論です。


即ち、一部の宗教学者や反対派は、原理が韓国の聖主教や金百文のイスラエル修道院など、いわゆる神霊的神秘宗教から拝借したパクリだと主張し、また伝統的キリスト教も原理を非聖書的な異端の教えとして排斥しています。最近、世界史講師の茂木誠氏も、原理がパクリだとの動画を流しました。


筆者は「つれづれ日誌(令和5年3月15日)」で、UC教義は、聖主教、金百文などの模倣ではなく、正真正銘の神の啓示に依拠するオリジナルなものであることを主張しました。


確かに金百文は、自ら悟ったことを、1954年に『聖神神学』に著し、1958年『基督教根本原理』を著しました。反対派は、『原理講論』と金百文が書いた『基督教根本原理』を示し、酷似していると批判し、パクリだとしています。しかし、創始者が1945年に金百文に会う前には、既に堕落論を含む原理の解明は終わっていること(1936年~1945年)、『基督教根本原理』より前に文師が書かれた『原理原本』、及び弟子の劉孝元氏が書かれた『原理解説』が出版されており、批判者の言説が間違いであることは明らかです。ちなみに、原理原本は1952年、原理解説は1957年、原理講論は1966年にそれぞれ出されています。


そして何よりもUC教義は、創始者がイエス様から直接的な啓示と承継を受け(16才)、その後聖書を精査探求し、神とイエスとの一問一答に基づいて真理を見出された100%オリジナルなものであり、聖書に霊的源泉を持つ宗教教義であることは明らかです。むしろ創始者は金百文とは決別し、天命により1946年6月(26才)、ソ連占領下の平壌に向かい、そこで聖書の教理に基づく教会を設立されています。 それに金百文の教理には、歴史観が欠如しているのに比して、原理には神の救済摂理歴史(復帰摂理歴史)が極めて大きな比重を占め、また姦淫原罪説の堕落論についても、金聖道のお告げが断片的なのに比し、精緻に体系的に聖書的に依拠して解かれています。原理講論が「聖書の奥義を明らかにした神学書」とされる所以であります。


つまり、原理が旧約聖書と新約聖書の霊統(伝統)の上にしっかり立ち、創始者がイエスの召しの上に厳然と立っていることは明らかであり、このことこそ、UC教義が由緒正しい宗教教義であることの正統性の根拠であります。


日本最古の書物である『古事記』は、天皇統治の正統性を立証する書であると言われていますが、平家、源氏、徳川を始め、日本の武士は、いかに天皇の直系であるかを主張するのに腐心しました。これは統治の正統性を証明するためでしたが、UCにおいても、創始者と原理の正統性を立証・主張することの重要性を感じています。即ち、UCの正統性を聖書的視点から明らかにすること、これこそ正に統一神学の重要な使命分野であります。


以上、今回のACLAに関する報告会において論議された要点骨子をまとめました。即ち、ACLAの現況と希望、黒人が成約時代の選民であること、キリスト教が決定的な摂理的意義を有していること、成約時代のイエス伝が必要であること、UC教義の聖書的正統性を立証することの必要性と緊急性、そして超宗教活動の重要性について論じました。小山田氏もJCLCへの抱負を述べられ、超教派・超宗派活動の意義を強調されましたが、正に「我が意を得たり」とはこのことでした。(了)

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