キリスト教神学と統一神学-神明忠昭氏の神学講座レジメを読んで
- matsuura-t
- 8月13日
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更新日:8月16日
◯徒然日誌(令和7年8月13日) キリスト教神学と統一神学-神明忠昭氏の神学講座レジメを読んで
その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。この真理は宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。(原理講論総序)
最近筆者は、統一神学校(UTS)の元総長である神明忠昭氏による統一神学に関する「講義レジメ」を知人から頂き、一読した。筆者のような荒野で叫ぶ者とは違って、神学校で正規の神学を修めた神学者であると共に、敬虔なUCの信者でもあり、キリスト教神学と統一神学の共通性、違い、優劣など神学上の論点を21のテーマに端的にまとめられていた。
即ち、キリスト教を中心としたあらゆる宗教の教理や哲学の特徴を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理としての統一神学へのいざないである。以下はそのテーマであり、既に公開されているレジメは15番目の「神義論」までである。
①初めに
②神学とは、統一神学とは
③聖書的解釈法
④特殊啓示と一般啓示
⑤信仰と理性
⑥神を知る二つの方法
⑦「神のかたち」とは
⑧神の心情における二種類の愛
⑨神の二性性相と被造世界
⑩神の全能性と完全性
⑪創造論
⑫三位一体
⑬堕落の性的解釈
⑭アダムとエバの実在性
⑮神義論ー悪の問題の解決
⑯神の苦しみ
⑰キリスト論
⑱贖罪論
⑲近世400年とその後の神学思想の流れ
⑳霊人体の「霊性」と聖書の「肉体復活」
㉑終末は黙示的でなければならないのか
今回この徒然日誌で、上記の全ての項目について論じることは紙面が足りないので、筆者が強く関心を持った最初の5項目までの内容、即ち、a.神学、統一神学とは何か、聖書的解釈法、b.特殊啓示と一般啓示、信仰と理性、について論考する。やや理論的になり小難しいかも知れないが、お付き合いのほどをお願いしたい。
実は、このレジメに目を通して実感したことは、キリスト教神学と統一神学、聖書と原理講論に対する基本的姿勢が、アプローチの仕方や表現方法こそ違うものの、筆者と一致していたことである。そして、レジメの項目(テーマ)が、拙著『異邦人の体験的神学思想』のテーマと大半が同じであり、筆者の神学上の問題意識が御門違いでなかったことを確認でき、大変安堵した。また、文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)が「ユダヤ教は長男、キリスト教は次男、UCは三男」と言われたように、神の摂理を担ってきたユダヤ教、キリスト教への敬意が滲み出ており、「聖書と原理、キリスト教とUCの橋渡し」を意識した拙著の思いと共通するものであった。
【神学とは、統一神学とは、聖書解釈とは】
以下において、神学とは何か、統一神学とは何かを論考し、聖書解釈の方法について述べる
<神学とは>
神明氏は、神学とは「神についての自分の表現の言葉」であるという。神学は、人間世界の状況に横たわる諸問題に答える崇高な役割を持つが、神学は神そのものでも、また神の永遠の真理そのものでもなく、神または神の真理を、この世界の状況において「人間の有限な言葉で表現したもの」に過ぎないとした。ここには神学に携わる人間のへりくだり(謙虚さ)の大切さが強調されている。そしてこの謙虚さが神の恩寵を受けとる手となり、神学は絶え間なく神のレベルに引き上げられるという。
この点、原理講論総序には「真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書である」とあり、また169ページには「聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではなく、一つの過渡的な教科書」とある。
筆者は神学について、拙著『異邦人の体験的神学思想』(P98)において、「科学が自然を研究の対象とし、哲学が人間を研究の対象としているとすれば、神学は神を研究の対象とする学問である。即ち、キリスト教的見地からなされる『神についての体系的な学び』、言い換えれば、聖書の神観、世界観、救済観を論理的、体系的にまとめたものと言える」と記した。 その際、心掛けなければならないのは著名な神学者の次の言葉である。
「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である」
つまり、理性は神学に、神学は信仰に、信仰は神に奉仕しなければならない。世界宣教センター所長の奥山実牧師は、「神学校を卒業して60%の学生が神が分からなくなる」と嘆いておられた。神について学ぶはずの神学校で逆に神を見失うというのである。この点、内村鑑三が神学嫌いであったことは有名である。つまり信仰あっての神学であり、神学は信仰に奉仕しなければならないということ、つまり「神学の目的は信仰にある」ことを肝に命じることが肝要である。
<統一神学とは>

また、神明氏は統一神学の役割について、「キリスト教神学の伝統を踏まえたうえで原理を再発見し、原理的解決法をキリスト教神学に提示する」とした。原理講論総序に、「この新しい真理は、キリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない」とある通りである。
その上で、「統一神学は、神または神の永遠の真理を、この時空世界のキリスト教の状況に向けて、人間の有限な言葉で表現したものに過ぎない」とした。従って統一神学は、キリスト教の神学的諸問題に答える崇高な役割を持つが、人間の有限な言葉で表現したものであり、謙遜であるべきという。原理講論総序に「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである」とある通りである。
レジメによれば、原理講論は、1960年代の韓国におけるキリスト教に向けて(特にキリスト教根本主義に向けて)書かれたものと言われ、今日のキリスト教の新しい状況と要望に対応して、書き直されるべきであり、従って、「新しい原理講論を作るプロジェクト」が既に開始されているという。何故なら、原理講論にも(勿論、聖書にも)、人間から来るエラーが散見されるからである。
しかし、原理講論の唱える、「授受作用」「正分合作用」「四位基台」等は秀逸な普遍的原理で、著名な神学者も絶賛し、原理講論のコンパクト性、包括性、組織性に関しては、カルビンの『キリスト教網要』に引けを取らないという。キリスト教神学は、完全な超越神と不完全な被造世界とを分離して考えるので、両者の整合性、一体性が確立されていないが(キリストの神性と人性)、しかし、原理を土台とする統一神学は、心情、二性性相、授受作用、四位基台などの新しい概念によって、神と被造世界の完全一体化を理論と実践で確立するので、キリスト教神学のさまざまな難題を解決できるという。また、超越神を強調する保守神学と人本主義的なリベラル神学が現れたが、統一神学はその両者を愛で統一する(頭翼思想)方向に向かうとした。
なお筆者は、徒然日誌「原理講論は聖書の新しい解釈論であるー劉孝元元協会長と原理講論」(→ https://x.gd/KltgK ) において、原理を解明された創始者の指導と主管の下に、弟子の劉孝元氏が原理講論を書かれたいきさつを詳述している。
<聖書の解釈法>
イギリスの神学者アリスター・マクグラスは、キリスト教神学は、啓示と信仰がその源泉になり、「聖書」「伝統」「理性」をその要素としているという(マクグラス『神学のよろこび』キリスト新聞社P22)。このように、キリスト教神学は、特に「聖書」をその要素としている。従って聖書をどのように解釈すればよいかが問題になる。神学レジメの中で、古典的聖書的解釈法として、①字義通りの解釈法(聖書の一字一句は誤りなき神の言葉であると見る)と、②霊的解釈法、があり、更に霊的解釈法には、a.寓意的解釈法(ある出来事を、それと類似した別のもので暗示的、象徴的に表現。例→紅海を渡る出来事をキリストの勝利と見る)、b.道徳的解釈法(聖書は道徳的行動を促す)、c.神秘的解釈法(永遠の故郷に向かわせる)があるとした。
しかし、これらの解釈法は、主体としての解釈者の主観的観点を考慮せず、また客体としての聖書のテクストの歴史的状況や相対性を考慮していないという。 この点、近代的解釈法では、主体としての解釈者の主観的観点を考慮しないが、客体である聖書のテクストのみに集中し、そのテクストの作者が本来何を言わんとしていたかを歴史的状況などから再構築するというものがある(客体的アプローチ)。一方、主体である解釈者の主観的観点と、客体である歴史的状況などの双方を考慮し、相互授受作用により再構築され融合されるアプローチがあり(主体的アプローチ)、この往復運動が解釈学的循環であるという。
この点、神学者のハンス・ガダマーは解釈者とテクストの「地平」の融合と見た(ガダマーによれば、地平とは、ある地点から見える全てのものを含む視野の範囲である)。即ち、良い解釈者とは、自分の地平の有限性を謙虚に認めて、自分からテクストの地平に向けて正しい質問を投げ掛けて、最終的にテクストを「こじ開ける」ことができる人だという。その際大切なのは、無知の知を自覚し自分の見解を押し付けないことである。
UC創始者の地平には聖書に記されている歴史、韓国民族の苦難の歴史、イエスとの出会いなどが背景にあり、この創始者の特別な地平から、正しい質問が投げかけられ、その地平と聖書の地平の解釈学的循環により、両者は融合し、創始者の聖書解釈としての統一原理が出てきたという。 かって筆者は「原理講論は聖書の新しい解釈論である。そして、聖書の奥義を解明した神学書である」とのインスピレーションを受けた。つまり原理の源泉に聖書があり、原理を正しく深く理解するためには聖書を征服・理解しなければならないと悟り、以後「聖書の研究を以て天職とする」との人生が始まった。
確かに創始者ほど聖書を研究された方はいない。アメリカのある神学者は、創始者は8つの分野、即ち「神」「サタン」「人間」「霊界」「イエス」「聖書」「人類歴史」「真の家庭」に精通したチャンピオンだと指摘したが(平和経P1587~1591)、その中でも聖書の奥義を解明し、聖書を完全に解釈されたことは特に抜きん出た業績である。
1935年4月17日早朝、イエス・キリストが16才の創始者に顕現され、直接使命を託されたのである(神の召命)。その後10年余、聖書の奥義の解明に投入された創始者には、断続的に新約聖書に基礎を置く啓示があり、その中で原理を明らかにされていった。聖書全体を反復して読破し、新たに発見された原理と照らし合わせて聖書の奥義を検証されていかれたのである。
創始者の友人の建築家の厳徳紋(オム・ ドンムン)氏は、日本留学時代に文先生の下宿で、次の事実を目撃したと証言した。
「下宿した私の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、聖書はすっかり真っ黒になってしまいました」(自叙伝『平和を愛する世界人として』P79)
また、1946年5月27日、創始者は啓示により北に行かれたが、平城での初期の弟子である金オンピル氏の証言によると、「先生が使っておられる聖書の全てのページに赤線が引かれており、行間には小さな文字で書き込みがあった」ということだった。更に、創始者がダンベリー刑務所で聖書を通読された事実を目撃したという、世界日報記者の証言がある。彼は、創始者の北朝鮮訪問に同行した時、たまたま創始者のカバンの中にある聖書を開いたところ、その表紙に次の文言が記載されていたという。
「開始1984年12月11日日午前 0 時、読了 1985 年 1 月 13 日 3 時 33分 34 秒、読むのに要した期間、33 日 3 時間 33 分 34秒。神の御旨をすべて明らかした」
なお創始者自身は聖書の奥義について、次のように語られた。
「数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義(奥義)について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのようでした。盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類の歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P593~596)
しかし、創始者は、聖書自体から原理を悟ったのではなく、霊界のイエスや聖賢、神との一問一答の中で見出だされた原理を、聖書と照合し、その整合性を確認されたのである。天聖経には次のようにある。
「文鮮明先生は、長きにわたる祈りと瞑想の生活の末、ついに実在する神様と出会い、絶対真理を伝授されました。それは、宇宙と人生と歴史の背後に隠されたあらゆる秘密を明らかにする、驚くべき内容でした。これはかってなかった新しい世界観、宇宙観、人生観、歴史観です。また、あらゆる宗教の教理や哲学の特徴を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理(統一神学)でもあるのです」(天聖経P23)
【特殊啓示と一般啓示及び信仰と理性】
さて、「特殊啓示と一般啓示」「信仰と理性」であるが、これらは相互に関連しているので、一括りで論考する。
<特殊啓示と一般啓示>
私たちは、神を如何にして知ることが出来るのであろうか。神は二種類の啓示、即ち特殊(特別)啓示と一般啓示という方法で自らを啓示されているという。特殊啓示は人格神から直接的に来る救いの摂理に関する啓示で、信仰で認識する(啓示神学)。即ち、特殊啓示は神の啓示の書である聖書に啓示されている。神は聖書を通し、イエスを通して特別啓示として自らを完全に顕されたというのである(ヘブル1.1~2)。
一方、一般啓示とは、神は自然、良心、歴史を通して自らを啓示され、専ら理性で認識する(自然神学)。 即ち、「自然」(神は自然を通して自らを顕されている)、「良心」(神は人間の良心に顕れる)、「歴史」(特にイスラエルの歴史に神の啓示が顕れている)を通して自らを啓示されることである。
バルトは啓示神学を重視し、自然神学を否定するが、ブルンナーは自然神学を肯定し、二人は激しく論争した(ブルンナー著『自然と恩恵』対バルト著『否!ーエミール・ブルンナーへの回答』)。しかしトマス・アクィナスは両方を重視し、啓示神学と自然神学は分離してはならない、一般啓示は特殊啓示への準備であり、特殊啓示によって一般啓示は高められるとした。
ギリシャ哲学では、神は「純粋形相」の一極構造で、被造世界のみが形相と質量の二極構造と理解しているので、神と被造世界の完全統一は困難であるという。しかし原理では、内的真理と外的真理を神霊と真理、即ち特殊啓示と一般啓示で認識するとし、二性性相が完全に授け受けすれば、完全な授受作用をなし、神と被造世界の完全統一が可能とする。そしてその授受の原理は、完全な自己否定、自己犠牲、愛、奉仕であり、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の存在となるとした。(レジメ ④特殊啓示と一般啓示)
なお筆者は「聖書の知識57-創世記1章の注解 神について⑥ 神認識及び神体験について」において、神は「自然・ 良心・歴史」を通して自己を現されており、これを通常「一般啓示」と呼び、また、聖書や個々人の神体験の中に神は自らを啓示され、これを「特別啓示(特殊啓示)」と呼ぶと定義した。
<信仰と理性>
人間は信仰によって救い(贖罪)のプロセスの賜物である特殊啓示を認識し、人間に備わる理性(知的能力)によって一般啓示を認識するという。いわば信仰と理性は二つの翼である(パウロ2世)。汎神論者のアインシュタインは「科学(理性)なき宗教は盲目であり、宗教(信仰)なき科学は不具である」と述べた。
しかし、パウロ、テルトリアヌス、ルター、カント、初期バルトらは、信仰のみを強調した。パウロは信仰による義を唱え、テルトリアヌスは「アテネとエルサレムと何の関係があるのか。アカデミーと教会には何の一致があるのか」と述べ、ルターは信仰義認を宣言し、理性は悪魔の最大の娼婦だという。カントは純粋理性を批判して、信仰(実践理性)に座を譲り、初期のバルトは自然神学を否定しブリンナーと論争した(レジメ ⑤信仰と理性)。
だが、アウグスティヌス、アンセルムス、後期バルトらは、理性は信仰に到達するためのよい準備で、信仰は理性の基礎をなすとした。中世最大の神学者トマス・アクィナスは、信仰と理性の調和を目指した第一人者であり、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した総合的な体系を構築し、理性は「神学の伴侶」乃至は「神学の侍女」であるとした。即ち「啓示は理性に優り、信仰は啓示に優る」というのである。「哲学は真理を求め、神学は真理を見出だし、宗教(信仰)はこれを所有する」という言葉は、これらの関係をよく言い表している。
原理講論に、「我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ4.24)と言われた理由はここにある」(P191)とある通りであり、原理は心霊と知能、即ち神霊と真理は完全に一致するとした(原理講論P168)。即ち、原理は信仰と理性の完全一致を教え、創始者は、「課題を信仰的に受け止めてつづければ、後ほど論理的に理解できるようになる」と言われたという。
【さいごに】
宗教には大きく「神への宗教」と「神からの宗教」がある。神への宗教とは人間側から神(真理)を求めていく宗教で、ギリシャ哲学や仏教や自然神学はこの範疇に入る。また神からの宗教とは、神から人間側に下ってくる宗教で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など啓示宗教がこの範疇に入る。一方は理性から信仰へ(帰納的アプローチ)、他方は信仰から理性へ(演繹的アプローチ)と言ってもいいかも知れない。 原理講論の創造原理は帰納法を用いて神を説明しているが(原理講論P42)、基本的には演繹的アプローチであり(原理講論P38)、帰納法と演繹法の両者の総合と言ってもいい。
当該神学レジメは、先ずキリスト教神学や従来の哲学が、それぞれの神学上の論点についてどう考えているかを説明し、その長短を指摘した上、原理観を示すという構成になっているので、専門用語があるとは言え分かりやすい。同様に、拙著『体験的神学思想』も、諸論点についてキリスト教などの中心宗教がどのように考えているかを述べた上、持論や原理観を示すという構成を取っている。
しかし、理性と神学の力でギリギリまで突き詰めても、なお認識できない宗教的真理(神秘)がある。では、人間は如何にして理性の彼方にある神秘、即ち究極的な宗教的真理を認識することができるのだろうか。それが信仰告白である。「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」(韓国牧会者団宣言)というのである。聖書は次のように語っている。
「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10.9~10)
以上、神学レジメにそって、a.キリスト教神学・統一神学とは何か、聖書的解釈法、b.特殊啓示と一般啓示、信仰と理性、について論考し、更に持論を述べた。統一神学は、キリスト教の状況に横たわる神学的諸問題に充分答えるという役割を持ち、キリスト教の数多くの難解な問題、特に聖書の奥義を明白に解いてくれるものであると筆者は思料する。(了)
牧師・宣教師 吉田宏