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二つの自伝的書籍を読んで  内村鑑三著『余は如何にして基督教徒となりし乎』 、仲正昌樹著『統一教会と私』

〇つれづれ日誌(令和3年1月8日) 二つの自伝的書籍を読んでー内村鑑三著『余は如何にして基督教徒となりし乎』、仲正昌樹著『統一教会と私』


【はじめに】


筆者は新年、二つの自伝的書籍を読むことになりました。一冊は内村鑑三著『余は如何にして基督教徒となりし乎』の再読であり、他の一冊は、 金沢大学法学類教授仲正昌樹著『統一教会と私』(論創社)という本であります。仲正氏は東大原研出身の元UC献身者であり、色々な事情でかなり前にUCを離れました。


前著は 文字通り、内村がいかにしてキリスト教徒となり、いかにしてその信仰を深めていったかという経緯を語った本であります。内村は冒頭、この本は「いかにしてキリスト教徒となったかであって、『何故』ではない」と述べ、また次に出す時は「余はいかにしてキリスト教徒として働きしか」を書きたいと語っています。後書は逆に、何故UCに入信し、何故脱会するに至ったかを、率直に赤裸々に綴った本です。仲正氏(以下「著者」と呼ぶ)は冒頭で、「本書では、統一教会が邪教で悪徳宗教なのか否かと言った評価をするつもりはない。様々な原因で邪教呼ばわりされていても、救われたと思える経験が、少なくとも私自身にはあるからだ」と述べています。


内村については既に「内村鑑三の世界」という論評を4回シリーズで書いていますので(HPの人物編参照→reiwa-revival.com/all-news/categories/人物編?lang=ja)、今回は内村については、著者と比較して述べるに留め、主に著者の本を中心に論評することにしたいと思います。


それにしても上記二冊の本は対象的です。単純に信仰という尺度から見た場合には、内村の本は、信仰体験物語、いわば信仰の勝利の証であり、一方は、脱会物語、その意味ではいわば敗北の告白であります。しかし確かに敗北には違わないにしても、私たちは得てして、成功物語より、むしろ失敗物語から多くを学び、多くを鼓舞されることがあるというのです。


【批判本ではない】


筆者は新年、田園都市線青葉台駅近くにある書店にふらっと入り、宗教欄で最初に目に飛び込んだのが仲正氏の『統一教会と私』という本だったのです。


筆者は最初、たぶんこれもよくある背教者の批判暴露本だろうと思いましたし、この種の本としては少々高いなと思ったこともあり一瞬躊躇しましたが、タイトルがそのものズバリであり、大学教授が書いていることもあり、買うことになりました。


この本は、確かに脱会者の物語には違いありませんが、しかし私の杞憂は見事に外れました。この本は、やっと大学教員としとしての居場所を見つけた著者の、一種の宗教論、あるいは宗教団体論という一面があり、半自伝、半評論と言うべきものでした。批判本どころか、むしろ結果的には、UCを弁証しているような印象すら感じたものです。ただ、著者はUCに疑義を感じて脱会した人間であり、決してUCに賛同している訳ではありません。


つまりこの本は、良くも悪くも自らに決定的な思想的影響を与えた統一教会とその教義とは自分にとって一体何だったのか、そして教会への入信、献身、そして脱会とは何だったのか、また、今後も自分に影響を持ち得ち続けるのか否か、といった内心の実存的な自分を語ったもので、むしろ自らに語りかけ、自分自身の納得を得るためのものとも言えるでしょう。生い立ち、原理との出会い、信仰の日々、疑念、脱会、そして宗教論と総括という構成ですが、著者は最終章の「体験としての統一教会」に、次のように記しています。


「統一教会は、私が人生における最悪の選択をしないよう、防波堤の役割を果たしてくれた。統一教会の教義(原理講論・勝共理論・統一思想)などを読み込んだことが、マルクス主義や実存主義、キリスト教系の宗教哲学について学ぶきっかけになった」(P232)


「統一教会にいたことを、それほど後悔していない」(P236)


「いずれにせよ、そこで得た多くの体験は、私の記憶に今も残っており、私の思考に影響を与えている」(P241)



【何故UCに入信し、何故脱会したのか】


さて著者は、東京大学総合文化研究科博士課程を終了し、学術博士号を取得した上、現在金沢大学法学類教授の職についています。思想、哲学の分野で、ちょっとした論客として活躍しています。


では著者は、何故UCに入信し、何故脱会したのでしょうか。先ずこれを明らかにしなければなりません。そしてそのためには、著者の生い立ちから語らなければなりません。


<生い立ち>


著者は、1963年広島県呉市に溶接工の長男として生まれました。家は真言宗でした。3才の時、階段から転落し、以後後遺症で右足を引きずる羽目になり、いじめにあい、人付き合いも運動も出来ない「ドン」だったというのです。


従って、後日入信の動機ともなる、いわゆる「愛の減少感」と「コンプレックス」に襲われることになりました。幼少期にイエス伝を読みましたが、その倫理観の高さに共感しながらも「自分には無理だ」と感じたと告白しています。実は筆者も、若き日にマタイ伝5章28節の「情欲をいだいて女を見るものは、心の中ですでに姦淫をしたのである」を読んだとき、「ここは自分の住む世界ではない」と思ったものでした。


著者は地元の三津田高校に入りました。得意科目は英語であり、高校2年の時、アメリカのワシントン州ブレマトン市の一般家庭に1ヶ月ホームステイをしています。そして高校で一番をとるようになり、1981年東大理1に現役で合格しました。入学後、左翼の巣窟だった駒場寮に入りますが、東大では自分より優秀に見える周りの学生らを見て、例のコンプレックスに晒され、自信喪失と不安に落ち込みました。そしてそのような最中、東大原研の支部長をしていたA氏から勧誘され原理と出会うことになります。入学式の直後のことでした。


他人に認めてもらいたい、他人とうまく付き合えない、将来が見えない、という三大不安に直面し、3才の事故以来抱えてきた愛の減少感や劣等感も加わって、どこかに居場所を求めていたのでしょう。これが入信の動機になりました。


<入信>


こうして原理を聞くことになりました。著者は高校時代に読んだ聖書の中の、いわゆる「カインとアベルの物語」(創世記4章)に何か妙な引っ掛かりを感じていましたが、この箇所の原理の解き明かしには大変共感を抱いたといいます。著者は、カインは、「愛の減少感に耐えるという使命」があったとし、その意味では愛の減少感を抱き安いカインの方がむしろ重要な摂理的位置にたっていたと主張します。愛の減少感を感じやすい自分とダブらせて解釈したのでしょうが、確かに、この原理の解釈は当たらずとも遠からずです。そしてこの箇所の原理の解き明かしは著者には革新的であり、かって引っ掛かっていた聖書の疑問が氷解したと言っています。


ちなみにカイン・アベルの物語とは創世記4章に出てくるアダムの長子カインと次子アベルの葛藤の物語です。神はアダムとエバの堕落で善悪混沌とした中間状態にあったアダムを、悪の表示体としてのカインと、善の表示体としてのアベルに分けられ、弟アベルを祭司の立場、即ち、神に祭物をげる中心人物に立たせ、アベルを通して兄のカインが祭物を捧げるというサタン分立の摂理をなされたというのです。しかるにカインは、神が自分より弟アベルをより愛されてると感じ(愛の減少感)、結局、カインはアベルを野原で殺害するということになったというのです。聖書は次のように記録しています。


「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」(創世記4.3~8)


聖書には、兄と弟の葛藤が随所に記載され、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ロマ書9.13)とある通り、兄が弟に仕えるという系譜があります。カインとアベル然り、エソウとヤコブ然り、ゼラとベレツ然り、マナセとエフライム然りです。これをUC創始者は「歴史の二流」と言われましたが、「何故、兄は弟に仕えなければならないのか」、これは正に聖書の奧義であり、いかなる聖書学者と言えども解明できない神学上の最大の論点の一つであります。原理は、原理講論297ページ~300ページにおいて明快に解いています。


さて著者はその後、原理セミナーに参加し、なし崩し的に原研ホームに入り、入信、献身の道をいくことになりました。著者は原研で左翼と激しく戦うなどの活動したあと、1990年から世界日報で2年間働くことになります。


以上が著者の入信の経緯ですが、この点、内村の入信経緯はどうでしょうか。内村は札幌農学校の上級生から半強制的に「イエスを信ずる者の契約」に署名させられています。「ご覧のように、私のキリスト教への第一歩は、私の意思に反して強制されたものでした」(自伝P31)と告白しました。しかしその後は、あれほど崇めていた神社の多神教の神々にきっぱり別れを告げ、唯一にして創造主たる「父なる神」に忠誠を誓うことになりました。やはり、天性の宗教性があったのでありましょう。


【やはり、居場所はない】


しかし著者は、郷里でも、大学でも、そしてUCでも居場所がありませんでした。居場所を探す旅、それが著者の半生でした。原研での信仰生活でも著者は「落ちこぼれ」でした。いわゆる万物復帰と伝道はある意味で当時の公式路程とも言うべきものでしたが、いずれにも劣等生でした。また、人間関係を築くのが苦手だったこともあり、UC内においても著者の居場所はなくなっていきました。


著者は、UC教義の中で、前記のように特にカイン・アベルの原理観に強い関心を示しています。著者の考えによりますと、第一のカイン・アベル問題とは、他の信者との関係において出てくるカイン的な思い、即ち他の信者が自分より愛されている、あるいは他者が自分より幸福に見えることから来る劣等意識(愛の減少感)がそれであります。そして第二のカイン・アベル問題とは、組織上の上司との葛藤から出てくるもので、会社であれば上司と部下の関係、UCであれば目上の教会長と自分との人間関係の問題と言えます。


そして著者は、敢えてこれらの愛の減少感を「神の試練」として意味付けし、信者の信仰を更に深めさせるというやり方は、初期キリスト教が布教のために考え出した戦略であると解釈し、「愛の試練という逆転のキーワードで利用した」と主張しました。(P112)


どうやら、著者は、自らの敏感すぎる愛の減少感には閉口したようです。しかし組織上の上司は、決してアベルではありません。筆者の見解によると、アベルとは、神と共に歩もうとする神への性向を持った信仰姿勢をさす概念であり、アベルは組織上の上司ではありません。組織上の上司をアベルという呼び方は間違いであり、敢えて言えば職務上アベル的立場に立った存在であり、アベルそのものではありません。従って、教会には組織上の上司よりも、よりアベル的な信者がいるというのであり、この場合は、その信者こそがアベルだというのです。


ですから、著者のいう 「愛の試練という逆転のキーワードで利用した」というのは拡大解釈の謗りを免れません。どうやら著者は、教会で立てられた上司に絶対的に従うことがカイン、アベルの原則だと考えていた節があったのかも知れません。それにしても、大昔、天使長が抱いて堕落のきっかけになったという「愛の減少感」とやらは、厄介な存在ではあります。


結論からいえば、神と自分との縦的な確固たる一対一の関係があれば、この厄介な問題は解決できるというのが筆者の答えです。かってルターは、救われるためには人間が作った教皇を通さなくても、だれでも聖書を通して神と直結できると主張し、宗教改革を行いました。これが、信仰義認、聖書主義、万人祭司の思想であります。内村の無教会主義にもこの思想が現れています。彼らが作った札幌の独立教会はその走りと言えるでしょう。(内村自伝P121)


【遂に脱会へ】


著者は、万物復帰で大きく躓き、そして最初の祝福にも出遅れました。ふてくされた著者には祝福は時期尚早だとして見送られたというのです。これで著者の「ふてくされ」は度を増しました。そうしてこの頃から脱会の意思が芽生えていくことになります。(P130)


1988年、満を持して著者は祝福を受けることになりました。ちなみに祝福とは、原罪を清算して、神の許諾のもとに善男善女が結婚して神の家庭を築いていくための神聖な儀式であります。著者は、結婚の相手が3つ上の女性で、しかも容姿が気に入らない女性でしたので、祝福の感動はなかったと述懐しています。そして3年が過ぎ、いよいよ相手の女性と家庭を持つ日がやってきました。


しかしこの時、この女性から驚くべき告白を聞くことになります。曰く、「実は私は子供が産めない体なのです」と! なんということでしょうか。何故こんな重要なことを前もって言わなかったのか、教会は一体どう考えているのか、等々、今までの疑念が一挙に吹き出してきたと述懐しています。(P164)


今まで暖めてきたUCからの脱会意思は、この祝福問題での躓きで完全脱会の引き金になったというのです。そして祝福辞退の書類にサインし、名実共にUCを脱会しました。(P170)そしてこの頃、大学院も終え、学問の道で生きていけるかも知れないという自信も脱会を後押ししたと思われます。なお、著者は、まだ独身です。


【信仰観についての若干の問題提起】


「仲正さん!今やっと居場所を見つけましたね」これが筆者の率直な感想です。


この著者の本を読み終えて、この本がUCへの批判本ではなかった安堵と共に、著者に対する目に見えない神の配慮を感じたものです。そして、神への道は「狭き門」であることも....。著者は犠牲者であり、また一方では神に祝福された者でもありました。


<若干の問題提起>


そして敢えて助言するとすれば以下の二点です。


著書『統一教会と私』の傾向として、「万物復帰」、「伝道」、「左翼との戦い」、「カイン・アベル問題」「教会内での人間関係」、等々、主に成約摂理を進めていく上で起こる様々な組織上、摂理上の問題に関心が集中しているように見られます。


従って、ここには、「神と自分との関係」、即ち神理解と、「罪の贖いによる霊魂の救い」、即ち罪(原罪)理解という視点が欠落しているか、あるいは弱いのではないかと思われます。新約教会は救いを強調し、成約教会は摂理を強調すると言われていますが、摂理だけあって救いがないというのではやがて霊魂は枯渇いたします。


<内村の神観、贖罪思想>


その点、内村鑑三の著書『余はいかにしてキリスト信徒となりし乎』(自伝)には、「唯一の神との出会い」と、「キリストによる贖罪思想」が明確に書かれています。内村は、洗礼を受けて唯一創造の神を受け入れるまで、小さい時から自らが完全な多神教の信者であったことを告白しています。


「各神社の前を通る時には、それぞれの神々に祈りを捧げ、拝まなくてはならない神々の数は日増しに増えていき、もはや手におえなくなった」と証言しています。(自伝P26)


そして、内村がキリスト者になって最初の実益は、かって神社ごとに祭られている神々に、前を通る度に一々祈りを捧げる必要がもはやなくなり、「ただ一人の神だけを仰げばよくなった」ということだったと告白しています。こうして八百万の神々から解放されました。


「キリスト教の唯一神信仰が、私の迷信の根を、すっかり断ち切ることになりました。私はイエスを信じる者の契約に署名させられたことを後悔しませんでした。ルビコン川はこうして永遠に渡られたのです。私たちは新しい主君に忠誠を誓いました」(自伝P40)


このように、内村において、神との絶対的な関係が樹立されたのであります。


そして次に内村の贖罪思想です。内村は、最初の妻浅田たけとの離婚もあり、当時神、父母、主君への負債や離婚の痛手を抱え、そして誰よりも罪の意識に苛まされた人でした。自己中心という罪にです。内村には、人並み外れた潔癖症ともいうべき繊細な良心が備わっていたに違いありません。しかし、内村の魂を苦しめ、肉体をもさいなんでいた罪の問題は、尊敬するシーリー学長の次の言葉によって大転換することになりました。


「内を省みる事を止めて、罪を贖ひ給ひし十字架のキリストを仰ぎみよ」(1886年3月7日、シーリー学長)


「君の義(無罪とされること)は、貴君の中にあるにあらず、十字架のキリストに在る」というシーリー学長の言葉は内村を回心に導きました。霊的感性の豊かな内村は、神の声を聞くへりくだった耳を持っていたのです。その瞬間、彼は「贖罪」という霊的意味を理解しました。「贖罪の恩恵による罪からの解放」であります。爾来、「聖書の研究をもって天職とす」という人生が始まりました。(内村自伝212 )


そしてこのように、私たちは贖罪されるべき罪(原罪)を深く自覚し、思いを馳せなくてはなりません。そしてこの「贖罪されるべき罪」という観念が果たして著者にあったかどうかが問われなければなりません。 「神と自分の絶対的関係」、「罪とその贖い」、この二点です。この二点について真摯に向き合うことが著者には必要かも知れません。


以上の通り、こうして新年に読んだ二冊の自伝的書籍を対比し論評してきました。異論.反論は歓迎するところであります。(了)





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