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「平和の母」特別コメント② 韓鶴子女史への批判に答える

○つれづれ日誌(令和2年8月30日)-「平和の母」特別コメント(2) 韓鶴子女史への批判に答える

子羊の婚宴に招かれた者はさいわいである(ヨハネ黙示録19・9)

前回、聖書の知識-「平和の母」緊急コメントをまとめましたが、更なるコメントを希望するリクエストが結構寄せられ、また韓鶴子女史(以下、「韓女史」という)にネガティブな有志の会などと称する人々などによる批判が相次いでいますので、「平和の母」特別コメント(2)をしたため、これらに答えることにいたしました。

先ず最初に、前回、「平和の母」の冒頭と最後の箇所に、独立宣言、安重根、祖国解放と言った日本人としては触れて欲しくない場面があり、「違和感を禁じ得なかった」と率直な感想を述べましたが、誤解を避けるために、もう少し深掘りをしておきたいと思います。

3・1独立宣言については、「平和の母」のみならず、文鮮明先生(以下、「創始者」という)の自叙伝にも印象深く描かれておりますが、この記述は、単なる日本統治への「恨や非難」を述べたものではなく、もっと深い摂理的事情から来ているということであります。

1919年3月は、丁度創始者が忠母様(金慶継)の胎内に身籠られた時であり、ローマの支配下にあったイエス様誕生の時のように、激動の時代でありました。日本統治によって主権を失っていた当時の朝鮮において、再臨主を迎える基台として、どうしても神側の主権がなくてはならない、そのために、霊的、条件的にでも神の主権を宣言しなければならなかった摂理的事情があったというのです。そして、それが3・1独立宣言であり、形だけのものとは言え、上海の大韓民国臨時政府でありました。

こういう摂理的事情に我知らず呼応して、韓女史の祖母(趙元模)、創始者の大叔父(文潤国)も親族・血統を代表して独立運動に同参されたというのです。従って、独立運動は霊的、条件的な「摂理」として捉えるのが正解であると思われます。これが、「平和の母」冒頭と最後に出てくる意味で、決していたずらに日本を弾劾したものではないと思料いたします。

さて、今回の本題である、「韓鶴子女史批判に答える」に入りたいと思います。前にも述べましたが、韓女史への主だった批判は次の通りです。a独生女問題、b文先生原罪説、cみ言改竄説、の3点であります。それに加えて「第四アダムとは誰か」、「後継者とは誰か」、について混乱があるように思いますので、これも明確にしなければなりません。

[第四アダムとは誰か]

先ず、「四アダム」とは何でしょうか。顕進氏を後継者に押している人たちは、顕進氏こそ第四アダムだと主張しているようですが、結論から言えば、第四アダムとは、四大心情圏と三大王圏を完成した祝福家庭を意味し、顕進氏を限定的に指す言葉ではありません。我々自身がそうならなければならない目標であるというのです。このことは、次の創始者のみ言で明確に示されています。

「第四次アダム圏時代とは、アダムとエバが堕落しないで完成し、理想家庭を築いたという、そのような時代圏を言います。地上では祝福を受けた家庭が、真の父母と縦的な関係における第四次アダムの資格を持ちます。真の父母は第四次アダム圏時代をつくられましたから、祝福家庭として生きる人は皆、第四次アダムになります」(主要儀式と宣布式Ⅲ第四次アダム圏時代宣布1997年9月11日イーストガーデン)

[後継者とは誰か]


次に後継者とは何でしょうか。これは、次のみ言で明確に語られています。

「私(創始者)と韓鶴子女史は人類の真の父母・救世主・再臨主でありメシアであると宣布します」「真の父母というのは二組はありえません。唯一、ただ一組です」(他にみ言多数あり)

上記創始者のみ言の通り、真の父母が再臨のメシアであること、そして、真の父母は、後にも先にもなく、ただ一カップル、一組だけです。子女様と言えども、再臨主たる資格としての「真の父母」になり得ないことは明らかです。従って真の父母の後継者などはいません。時が来れば、血統を受けた適当な方が、真の父母の代理人として立たれることでしょう。

創始者亡き後、第二の教主(『平和の母』P219~P220)であり、女性メシアたる韓女史が「真の父母」として統べるのは、創始者のみ言を待つまでもなく、原理であり、摂理であり、また自然の道理です。即ち、位置的後継であるというのです。そもそもこのような問題を人間側であれこれ論議するのは、高慢で過分なことと言わねばなりません。全ては、神と真の父母の主権の中でなされていくことであります。

「先生が霊界に行くようになればお母様が(自動的に)責任を持つのです」とみ言で何度も明言されている通りです。


[無原罪の独生女]

韓女史が無原罪の独生女であることに関しては、前回の論評で述べた通りであり、いわゆる「独り子」に関する論議は言い古された過去の遺物であり、ここで取り上げるまでもありません。ただ、独生女という単語は、創始者のみ言に180回も出てくること、最終的には各人の信仰告白と聖霊体験が決め手であることを、念のため申し添えておきます。

また、韓女史は著書『平和の母』の中で、自らの若き日が「天の独り娘として、天の独り子に出会うための準備だった」(P100)と告白され、「私は文総裁を(無原罪の)独り子として迎え、神様のみ旨を成してさしあげると決心しました」(P114)と明記され、1960年を「神様の最初の息子、娘である独り子と独り娘の聖婚がなされる祝福の年でした」(P117)と明記されています。この、紛れもない公式の著書での「文先生無原罪宣言」こそ、他の何ものにも優る証言と言えるでしょう。

韓女史が完全に神から召された摂理的な女性であったこと、創始者と韓女史の出会いが、如何に神の導きの中で為された宿命的な出来事であったかということ、この結びつきが紛れもなく黙示録19章9節に書かれた「子羊の婚宴」であること、これらは疑う余地のない事実であり、前回の述べた通り、このことは『平和の母』P46~P118、及び「真の父母経典第二篇第二章、第四章」に詳細に書かれていますので、熟読されるようお薦めいたします。

批判者は、「洗礼ヨハネの妹も、第一、第二のお母様も無原罪というのだろうか」という疑問を投げかけました。この問題は、復帰摂理の三段階完成の法理によって解決できるでしょう。神の摂理は、人間の責任分担の失敗によって、第一次、第二次と延長しましたが、結果として、全体としては三段階で完成するようになっているということです。イエスの時代でもなく、第一の妻、第二の妻でもない、創始者、韓鶴子女史のカップル、即ち「真の父母」で完結するということです。これが歴史的現実であります。

復帰摂理が6000年も要したことは、人間側の責任分担の喪失に原因があると言えますが、一方では、復帰摂理の完成は元々6000年必要だったというように言えなくもありません。その意味で、真の父母において、三段階による復帰摂理の完成は,、神の予定だったとも言えるのです。歴史上、初めて地上に完全な無原罪の男女のカップルが生み出されたということです。

従って、洗礼ヨハネの妹が無原罪であったか否かなどは、人間側で詮索するようなことではなく、専ら神の主権的領域に属する問題であります。要は、復帰摂理完成者としての創始者・韓女史という男女のカップルが、無原罪のメシアであり、それは1960年の聖婚によって「真の父母」として確定したという事実が重要だということであります。

[み言の改竄(かいざん)はない]

創始者のみ言には、多面性を持つという一面があります。一つのことについて正反対とも取れる内容で語られている場面が多々あるのです。私たちは、神の言葉について、一節一句だけを極端に強調したり、意図的に勝手な解釈・引用をするのではなく、前後の脈絡や全体を俯瞰し、総合的でバランスの取れた解釈をしなければなりません。

キリスト教で何百という教派が分かれたのは、ひとえに聖書の解釈の混乱に主たる原因があることを直視しなければなりません。聖書の「付け加えてはならない、削ってはならない」(申命記4・2、黙示録22・18)を文字通り解釈し、結果的に文字崇拝者、文字の奴隷になって異端に陥った事例が多々あることに留意したいと思います。

エホバの証人は、創世記 9章4節の「肉を、その命である血のままで、食べてはならない」を極端に解釈して、「輸血拒否」という社会問題を起こしました。またある教派では、神の宇宙創造を、創世記に記載がある「6日間」であると文字通り信じています。私たちは、このような両極端を避け、神霊と真理に照らして賢明な解釈をしなければならず、これが正しい聖書の奥義の解明ということであります。

分派らがよく言う「み言改竄説」はその典型です。八大教本を付け加えてはならない、削ってはならない、一点一角を守れというのは、律法学者や上記教条主義者の典型です。原理講論総序の最後に次の言葉があります。

「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである」

一書完全無欠主義、文字絶対主義に陥らず、講論のように常に謙虚で柔軟な姿勢が肝要です。勿論、韓女史が、み言の取捨選択はあるにしても、勝手にみ言を捏造したり、書き換えたりしておられないことは言うまでもありません。


【夢体験と家庭への批難について】


筆者は、古稀を過ぎてから、韓女史について生まれて始めて夢を見ることになりました。先ずこの夢の話をしておきたいと思います。


今まで創始者とは、生前色々と出会いがあり、親しみもひとしおでありましたが、お母様、即ち観鶴子女史とは今までほとんど接触がなく、創始者の配偶者としての認識しかありませんでした。 ところが、3~4年ほど前、ある奇妙な夢を見ることになりました。


ある日、筆者は韓女史と一緒に山道をドライブしていました。 横に座っておられる韓女史の髪をさわりながら、「素敵な髪ですね」とじゃれていたのです。 ふと横を見ると、左側に細いほら穴がありましたので、一人車から降りて興味本意にその窮屈な洞窟にもぐり込んで行きました。


行き止まりまできたとき、そこには広い空間が広がり、滝のようなものが流れていました。「なんと美しいところなのか」と見とれていたその瞬間のことです。なんとその空間は、お母様の子宮の中だと分かったのです。びっくりした私は、あわてて外に出た次第です。これが始めて見た韓女史の夢の顛末です。


さて、この奇妙な夢をどのように解釈すべきか、その夢の解き明かしを、ある神学に強い食口に聞いたところ、次のようた解答がありました。


「吉田さん、それはとてもよい夢ですよ。重生の夢です。一旦お母様の子宮に入って重生され、生まれ変わりを象徴する夢です。お父様のみ言の中にそういうことが書いてあります」


もしそれが事実であれば、大変ありがたいことです。まあ、それはともかく、この夢を通じて、一挙に韓女史との距離が縮まったことは確かです。


さて次に、韓女史と子女様との関係について、筆者の考え方を述べておきたいと思います。


「無原罪の真の父母様なのに、その家庭に何故子女様の不品行や反乱があるのか」「真の家庭とはほど遠く、バラバラではないか」等々です。これらの批判は主にいわゆる分派と呼ばれる方々からよく出される決まり文句です。 以下、この家庭問題について筆者の見解を述べておきたいと思います。


先ず、それが子女様であろうとなかろうと、すべからく人間には5%、即ち責任分担があると言うことです。エデンの無垢のアダム、エバにも責任分担がありました。これは子女様と言えども免れるわけではありません。


そして真の父母と子女様は別人格であり、子女の行状で真の父母の価値が左右されるわけではありません。前述したように、真の父母という単語は唯一無二であり、後にも前にもただワンカップルのみだと言われています。


旧約聖書のサムエル記を見れば、祭司エリの息子ホフニとピネハスは、主の前によこしまであり、打たれて死ぬことになりました。またエリの息子と同様、サムエルの息子ヨエルとアビヤも「利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた」(1サムエル8.3)とあります。つまり、この有名な二人の預言者の息子たちは、父親に背いて別の道を歩みました。息子の行状が悪いからと言って、エリやサムエルの預言者としての価値が損なわれるというのでしょうか。


筆者のような世俗的な人間は、真の父母の子女様が、みんな揃って、非の打ち所のない聖人君主であれば、かえって居場所がなくなり、救われることはないでしょう。むしろ 、色々な子女様がいて、内心ホッとしていることを告白いたします。


真の父母の家庭は完全無欠であるべきだと考えないほうがストレスがたまらないと思います。むしろメシアの家庭は人類の坩堝として、色々な場面があり、背負うものも大きいと考えたほうが正解だと思われます。


しかし、長男孝進様、次男興進様、そしてその子女らは、お母様に従って信仰の見本を示されているようです。また、特に女のお子様は信仰的にも光るものがあります。子女様らは、皆さんそれぞれの優れた個性と能力をもたれており、流石に創始者、韓女史の子供さんだと驚嘆せざるをえません。

以上、韓女史への批判に対する取り敢えずの回答であります。まだ、不足なところは多々ありますが、足りないところは後日述べることにいたします。最後までお付き合いして下さりありがとうございました。異論・反論は歓迎いたします。(了)

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