top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

死と葬り、そして復活 神の臨在は、我が内に、信徒の交わりの中に!

  • 29 分前
  • 読了時間: 11分

🔷徒然日誌(令和8年7月29日)  死と葬り、そして復活ー神の臨在は、我が内に、信徒の交わりの中に!

 

すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。(1コリント15.3~5)

 

プロローグー二つの問

 

それにしても家庭連合(以下、「UC」と呼ぶ)の理不尽極まる解散決定は、その背景といい、高裁・最高裁の決定文といい、ひどいものだった。この裁判は、小川榮太郎氏、花田紀凱(かずよし)氏、福田ますみ氏らの言論人も指摘されている通り、いずれ歴史の審判を受けるだろう。  現に小川榮太郎氏は、「安倍元総理暗殺事件は何故旧統一教会事件になったのか」について25項目の問題点を挙げ、民間組織をつくって追求するという。

 

このように、UCは国家と世論と裁判所により、冤罪で葬られたが、この事件は、心なしか筆者には、キリストが人類の罪を背負って葬られたあの歴史的事件とダブって見える。果たしてUCは、キリストのように復活できるのであろうか。あるいは如何にして復活すればいいのだろうか。この二つの問いが今回の主題である。

 

ところで、最近筆者は、内村鑑三著『一日一生』(教文館)と、執行草舟著『人生のロゴス』(実業之日本社)に改めて目を通した。この両著の中から、「復活とは何か」「神の臨在とは何か」について、即ち上記二つの問いについて、示唆に富むヒントを得た。

 

ちなみに内村鑑三著『一日一生』は、内村の13の著書、即ち、「所感十年」「研究十年」「研究第二之十年」「旧約十年」「感想十年」「基督教問答」「復活と来世」「洪水以前記」「独立短言」「基督信徒の慰」「求安録」「宗教座談」「伝道の精神」の中で、示唆的と思える365箇所を抜粋し、次にこれらの箇所に相応する聖句を選んで一ページ以内に併記して編集されたものである。内村は冒頭、「本書は聖書中の重要な節句を熟読味読してもらうために編纂されたもの」とし、朝起きてまず第一に神の言を読んで神に祈ることを奨励している。

 

また執行草舟著『人生のロゴス』は、これまで執行氏が読破した膨大な古今東西の古典の中で、「座右の銘」として人生の指針としてきた190の言葉と、その簡潔な解説をしたためた本である。執行氏は本書の冒頭で、「六十年以上に亘って呻吟し慟哭し続けた私の魂が求めたものの記録である」と述べている通り、この本は名言の解説というより、著者自身の魂の履歴書である。

 

以下、この二つの書から、筆者が共感した箇所を、各1ヶ所を抜粋して論じ、上記二つの問いに応えることにする。

 

【一度も葬られなかったものが、どうして復活できようか(ハンス・カロッサ)】

 

死の哲学たる『葉隠』の武士道だけで生きてきたという執行草舟氏は、『聖書』を座右の書の一つとし、自らも聖公会で洗礼と堅信礼(けんしんれい)を受けたキリスト者でもある。故に『人生のロゴス』には、キリスト教に関連する「座右の銘」も幾つかある。例えば、「不合理ゆえに我れ信ず」(教父テルトゥリアヌス)、「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した」(詩篇137.1)、「愛は死よりも強い」(雅歌8.6・ソロモン王)、「地上に平和をもたらすために、私がきたと思うな」(マタイ10.34)、「わたしは火を地上に投じるためにきたのだ」(ルカ12.49)、「神の恩寵は、人間すべてに与えられるものではない」(カルバン・キリスト教綱要)、「墓に入る日まで、独立であらねばならぬ」(内村鑑三・独立自尊)等々。

 

だが筆者が食い入るように目を止め、深く共感した言葉がある。それがドイツの詩人で医者のハンス・カロッサ(1878~1956)の言葉「一度も葬られなかったものが、どうして復活できようか」だった(『人生のロゴス』P304)。キリスト教の復活思想の影響を受けたハンス・カロッサのこの言葉の背景には、カロッサ著『ルーマニア日記』に見られる、第一次世界大戦の極限状況下で、医師・軍医として生死と向き合った体験があったと言われている。

 

<執行草舟氏の復活思想>

 

執行氏は、カロッサの上記の言葉について、「カロッサのもつ夢に、私の魂は震えていた。それは苦悩と絶望が生み出す、真の人類的希望のように思えたのだ」とした上で、次のように語っている。

 

「生きることは、死ぬことである。死ぬことを経験せずして、どうして生きることが出来るのか。生きることは、生まれてきたことではない。死んで、復活することなのだ。復活した生こそが、本当の生を司る。復活の思想に支えられたキリスト教が、私の肌にことのほか合うのもその理由に与るのだろう。(カロッサの言葉は)このような私の思想に寄り添ってくれた思想である」(『人生のロゴス』P305)

 

そして「この世に殺された者だけが、真の人生を手に入れることが出来る」と強調した上、「その生をひっさげて、我々は復活するのだ。そしてキリストのように、永遠の生を手に入れなければならない」と結んだ。この執行氏の言葉は、まさにキリスト教の復活思想そのものである。

 

<死と復活>

 

キリスト教とは、十字架と復活の教理に支えられた宗教であり、このカロッサの言葉はキリスト教の「復活」の思想を人生に重ねた、深い比喩として理解されている。復活は「死と葬り」が前提となった概念であり、死がなければ復活はない。従ってカロッサは、「古い自分が死ぬことなく新しい自分は生まれない」、「何かを失い、手放し、葬ることなしに本当の再生はない」、「苦難や自己放棄を経ない生は、本当の意味での復活ではない」、といった人生の根源的な真理を語ろうとしたのである。聖書に「キリストと共に葬られ、またキリストと共によみがえらされた」(ロマ書6.4章、コロサイ2.12)とある通りである。故にこのカロッサの言葉は、キリスト教の「十字架なくして復活なし」という真理を、人生全体に当てはめて表現した名句として理解される。

 

即ち、絶望や死の淵をくぐり抜けた経験だけが、人間を新しく生まれ変わらせる源になり、大きな挫折や精神的な「死」を自覚することが、再起のための土台になるというのである。また、古い自分や過去の執着をきれいに終わらせなければ、新しい生は始まらないという深い霊的な真理を表している。

 

<UCは死して甦るー福音の三要素>

 

さて、文字通りUCは解散という十字架に架かって死に、そして劣化した世論という泥沼の中に葬られた。だがこの死と葬りは以下の「福音の三要素」に見られるように、復活と永遠の命への合図でもある。それは、上記した小川榮太郎氏、花田紀凱氏、福田ますみ氏らに象徴される「著名な言論人の叫び」を見ても明らかである。このUC弁明の叫びは、やがて多くの国民を巻き込む怒涛の流れになるだろう。

 

さて聖書には、「最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは、キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、そして三日目に復活したことである」(使徒行伝15.3~4)とあり、あえて「葬られた」という言葉を死と復活の間に挟んでいる。それは、死が現実であったからこそ、復活もまた現実であることを強調するためである。

 

このパウロの言葉、①キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、即ち罪を贖うための供え物(贖罪の羊)であり、この十字架によって神と人との和解が成し遂げられたこと、②墓に葬られたこと、即ちキリストが本当に死なれたこと、③三日目に復活したこと、即ち、甦って死と罪に対して勝利されたこと、この3つはキリスト教では「福音の三要素」と呼ばれ、キリスト教の教理を要約したものとされている。ちなみに「福音」とは文字通り「良い知らせ(Good News)」という意味で、具体的には上記の福音の三要素を指す。

 

特に「葬られたこと」は一見すると地味だが、これはイエスが確かに死なれたことを示し、そして、本当に死なれたからこそ、復活は真の復活となるというのだ。つまり、パウロにとって福音とは、十字架による罪の贖い、葬りによる死の確証、復活による死への勝利 という一連の出来事なのである。

 

ちなみにUCを創立した文鮮明先生は、み言集『イエス様の生涯と愛』(光言社)の中で、「本来、キリスト教の教理は、十字架ではなく復活の教理です。イエス様が復活することによって救いが成立したのであって、死ぬことによって成立したのではありません」(同書P256)と語られている。(参照-文鮮明著『イエス様の生涯と愛』(光言社)を読み解く→ https://x.gd/nHeXw )。なお原理では、イエスの復活を霊と肉の実体復活ではなく、霊的復活と解釈している。イエスの肉体はサタンに奪われたからである。

 

そしてこの出来事が「良い知らせ」と呼ばれるのは、復活によって罪の赦しと永遠のいのちが、信じるすべての人に無償で与えられるからである。ヨハネ書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある通りである。

 

確かにUCは、文字通り解散という十字架に架かって死に、そして世論という泥沼の中に葬られた。だがこの死と葬りは、「この世に殺された者だけが、真の人生(復活)を手に入れることが出来る」(『人生のロゴス』P305)とあり、また上記の福音の三要素に見られるように、復活と永遠の命への合図でもある。それは、前記した「著名な言論人の声」を見れば明らかであり、このUC弁護の叫びは、やがて多くの国民を巻き込む怒涛の流れになるだろう。そうしてUCは必ず復活する。(参照-決定版-最高裁、戦後最悪の汚点ー十字架からの復活を期す→ https://x.gd/VGBrn )

 

筆者は改めて、ハンス・カロッサの言葉「一度も葬られなかったものが、どうして復活できようか」に深く想いを馳せ、そうして図らずも、全てを失った末に与えられた筆者の回心聖句「私はキリストのためにすべてを失ったが、それはキリスト(真理)を得るためである」 (ピリピ3:8)を想起した。そして文鮮明先生の「神のみ業は、常に衝撃的、革命的な逆転の業である」との言葉が甦る。

 

【しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない(使徒行伝7.48)】

 

今やUCとその信徒は、礼拝堂を失い、祈りの場を失った、謂わば人生の大海に投げ出された孤児のようである。だが果たして信徒は本当に礼拝の場を失ったのだろうか。内村鑑三は著書『一日一生』の中で使徒行伝7章を取りあげ、欧米のキリスト教の形骸化に警鐘を鳴らした。(『一日一生』P101)

 

「けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである。『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』(使徒行伝7.47~50)

 

このステパノの語る使徒行伝7章は、イザヤ書「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどんな家を建てようとするのか。わたしの安息の場所はどこか。これらはみな、わたしの手が造ったものではないか」(イザヤ66.1~2)からの引用である。

 

上記使徒行伝7章でステパノが語っている内容は、「神は人間が造った神殿や建物に縛られるお方ではない」という旧約・新約を貫く重要な思想であり、神は宇宙の創造主であり、人間が建てた神殿に閉じ込められる存在ではないことを宣言している。即ちソロモン自身が神殿奉献の祈りで、「しかし、神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、わたしが建てたこの宮など、なおさらです」(1列王記8.27)と告白している通りである。

 

またパウロは、「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない」(使徒行伝17.24)と語り、そしてイエス自身も、「この山でもなく、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4.21~24)と語って、礼拝は特定の建物ではなく、神との霊的交わりにあることを教えている。

 

即ち、パウロが「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(1コリント3.16)と言い、「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮である」(1コリント6.19)と言うように、我が内こそ神が住む神殿であり、聖霊の宮である。神はキリストを信じる者のうちに住まわれ、 信者一人ひとりが聖霊の宮であると教えている。そして信者の交わり、信仰共同体こそ「神の神殿」となるのである。 

 

従って、外形的な礼拝堂が失われても、もっと良い礼拝堂が我が内に、そして信徒の交わりの中にある。教会とは建物そのものではなく、キリストを信じる人々の共同体こそが「神の家」、「神の神殿」であり、まさに真性なる「教会」である。

 

然り、神は教会堂の中だけでなく、信徒の交わりにいまし、家庭にいまし、我が内にいまし、そして大自然の中にいまし給う。そしてこの信徒による「神の神殿」は、あらゆる罵詈雑言にも係わらず、逞しく成長するだろう。

 

以上、「死と葬り、そして復活ー神の臨在は我が内に、信徒の交わりの内に」との主題で、死んで葬られてこそ復活があること、もっとよい礼拝堂が我が内に、信徒の交わりの中にあることを、執行草舟著『人生のロゴス」と内村鑑三著『一日一生』を引用して論考した。

 

改めて私たちは、「一度も葬られなかったものが、どうして復活できようか」とのハンス・カロッサの言葉、「しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない」との聖書の言葉を噛みしめようではないか。そして死と葬りには復活が伴うこと、神の臨在は信徒の交わり(信徒共同体)の中にあることをしかと確認したい。(了)

 

牧師・宣教師     吉田宏

R.jpg

​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

090-3504-6430

〒226-0025
横浜市緑区十日市場町1258
​十日市場ヒルタウン1-3-507

​トップページ

​プロフィール

​記事一覧

​お問い合わせ
​コメント欄

bottom of page