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小川榮太郎氏の問題提起 - UCの解散はダンベリー事件と瓜二つ

  • 1 日前
  • 読了時間: 16分

更新日:21 時間前

🔷徒然日誌(令和8年8月5日)  小川榮太郎氏の問題提起ーUCの解散はダンベリー事件と瓜二つ

 

だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである(マタイ9.17)

 

プロローグー新しい葡萄酒は新しい皮袋に!

 

イエス・キリストの「新しい葡萄酒は新しい革袋に」(マタイ9.17、マルコ2.22、ルカ5.37) というたとえは、福音書の中でも人気のある教えである。

 

では「新しい葡萄酒」とは何か。キリスト教では、イエス・キリストがもたらした新しい福音(契約)、聖霊による新しい命、神の国の時代の新しい信徒を象徴している。但しイエスはイスラエル律法の律法を否定したのではなく(マタイ5.17)、律法を完成し、新しい契約をもたらしたのである。 

 

では「古い革袋」とは何か。これは 霊的には、形式だけの宗教、偏った律法主義や固定観念、古い価値観などを象徴する。つまり、新しい神の働きには、それを受け入れる新しい器が必要なのだ。従って「新しい革袋」とは、悔い改めた心、聖霊によって新しくされた信徒、覚醒した信仰共同体(新しい教会)を表している。

 

預言者エゼキエルが、「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授ける」(エゼキエル36.26)と言い、パウロが、「滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、新しき人を着るべきである」(エペソ4.22~24)と述べ、イエスが、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3.3)と言われた通りである。従って新しい革袋とは、「新しく生まれた信徒の教団」とも言える。

 

今や計らずも、今までのUCという古い皮袋は葬られたのであるから、良くも悪くも、きっぱりこの「古き皮袋」を脱ぎ捨て、速やかに「新しい皮袋」に脱皮するべきである。それこそ、「新しい信仰共同体」(新・宗教団体家庭連合)である。オールドメディアや霊感弁連は勿論のこと、如何なる者も、この新しい共同体を讒訴し、非難できはしない。もはや過去のものは過ぎ去ったからである。新しい皮袋である新しい信仰共同体に、新しい葡萄酒である「Born again」(新生)した信徒が入って盛り上げたい。

 

【二つの提案】

 

ここに筆者は二つのことを提案したい。一つは、安倍元首相暗殺を皮切りに、旧統一教会(以下「UC」と呼ぶ)問題にすり替えられてスケープゴートにされ、マスコミ、霊感弁連、左翼と、それに引きずられた世論・政府・行政・裁判所が、遂にUCの解散という前代未聞の暴挙に至ったが、そのプロセスを「検証委員会」(仮称)を立ち上げて精査し、その過ち(致命的欠陥)を言語化し、後世に残すことである。 

 

今一つは、上記「検証委員会」を中核に、信教の自由・人権擁護を旗印に言論戦を挑み、国民運動を起こして組織化することである。そしてこれには、小川榮太郎氏が提唱されている

「民間組織の結成」はよき見本である。 小川榮太郎氏は、講演や動画や月刊誌(Hanadaなど)の中で、「何故安倍元総理暗殺事件はUC事件になったのか」について、幾つもの問題点を挙げ、民間組織をつくって追求すると明言している。本来、安倍元首相暗殺事件であるにもかかわらず、メディア報道や政治の流れによって、いつの間にか「旧統一教会問題」へと論点がすり替えられたというのだ。 (参照-死と葬り、そして復活→ https://x.gd/dCvMO )。


そしてこのUC解散問題には格好なケーススタディがある。UC教祖の文鮮明師がアメリカコネチカット州ダンベリー刑務所に収監されたあの事件である。文師は、世論のひどい偏見、悪意の政治的圧力、行政・裁判所の機能不全に見舞われ、冤罪を着せられて十三ヶ月間収監を余儀なくされた。(1984年7月20日~1985年8月20日)

 

ディラン大月著『刻印』(グッドタイム出版)は、この問題の理不尽さを、政治的、宗教的、法的によく整理して暴いている。この『刻印』は、カールトン・シャーウッドの700ページに渡る著書『異端尋問』(Inquisition)の要点を整理して解説した本であり、また自らも取材して、日本の宗教・メディア・政治の文脈に位置づけて解説している。ちなみにカールトン・シャーウッドはアメリカのジャーナリスト(ワシントン・タイムズ記者)で、ピューリッツァー賞受賞歴がある。

 

シャーウッド氏曰く、「文師とその運動は、1970年代のアメリカで突出した標的だった。外国人であること、東洋(韓国)の宗教指導者であること(人種的偏見)、急速に拡大する組織と資金力(カルト的)、議会調査(フレーザー委員会)との対立、メディアの激しい敵意、これらが重なった時、政府機関が目を向けないことの方が不自然だった。」(『刻印』P127)

 

即ち、ダンベリー裁判は、「先ず、結論ありき」の仕組まれた裁判であったが、まさに 日本UCの解散問題と瓜二つであり、UC解散問題は、文字通り「日本版ダンベリー」である。このダンベリー裁判は、歴史が記憶する負の遺産として、永久に残るものであり、既に『異端尋問』など、数々の文書として記憶されている。UC解散の顛末も、「日本版異端尋問」として記録されなければならない。まさに「検証委員会」に期待されるところである。

 

【小川榮太郎氏の論点ー民間組織の設立を】

 

最高裁の決定は下り、UCは抹殺され、劣化した世論という泥沼の中に葬られた。だが、戦いは今からが本番である。それは、ダンベリーの顛末が語っているように、私たちは「解散」という戦後最大の宗教迫害を、逆によき福音宣教の機会とすべきである。そしてこれは歴史の必然である。


 

<小川榮太郎氏の論点>

 

前述したように、小川榮太郎氏は、「何故安倍元総理暗殺事件はUC事件になったのか」について鋭く問題提起し、民間組織をつくって追求すると明言した。小川氏は問題点を幾つか列挙しているが、主な内容は、概ね次のように整理できる。

 

①「安倍元首相暗殺事件」が「UC事件」に置き換えられた

 

小川氏は、事件の本質は「現職に近い元首相が白昼に暗殺された」という、日本の戦後史上極めて重大なテロ事件であるにもかかわらず、報道の焦点が短期間でUCへ移ってしまったと強い疑義を呈した。つまり、「安倍元首相暗殺事件」ではなく「UC事件」として社会に記憶されるようになったと批判した。

 

通常の刑事事件では、「被疑者供述」だけでは事実とは断定しないが、山上被告の供述が早い段階で「事実」として扱われた。即ち、「母親が献金した」 「家庭が崩壊した」という山上の供述が無批判に、非常に早い段階から社会全体で既成事実化し、犯行動機が単純化されてしまった。従って小川氏は、「安倍元首相暗殺事件そのものを、改めて徹底的に検証すべきだ」と主張する。

 

②事件の科学的検証が十分公開されていない

 

小川氏は、弾道、銃創、発射距離、映像解析など、事件について資料公開が少ないという。奈良県立医大の所見と警察発表の食い違いがあり、特に、銃弾の進入経路、傷の状態、死因の説明について「もっと医学的な説明が公開されるべきだ」と主張する。そもそも貧しい山上が、何故7丁もの銃を作れたのか、自作銃に殺生能力があるのかも問題である。

 

また事件は「警備失敗」が最大の問題なのに、UC問題が報じられるにつれ、警備問題への社会的関心が弱まったと指摘した。

 

③メディア報道の偏り

 

メディアの教団批判だけが横並びで突出した。暗殺事件の検証が退き、異なる見解を紹介する報道が少なく、献金問題、被害者証言、政治との関係だけが突出した。メディアの報道が一方的であり、右も左も同調圧力に屈して調べなくなって、日本の言論界全体が「村社会化」してしまったという。

 

④教団と自民党との関係報道が突出

 

教団は長年、野党を含む多くの議員と関係を持ってきたが、自民党への批判が突出した。また、「UCとつながってどこが悪いのか」「UCが自民党を応援して、どこが悪いのか」と、誰も言う国会議員がいないのは嘆かわしい。また岸田文雄氏が、 UCとの断絶を宣言をしたのを問題視した。この点は筆者も強く同感する。まさに恩を仇で返すとはこのことだ。

 

⑤事件によって政府の政策転換が左右された

 

事件以前は、政府はUCに対して解散命令請求を検討していなかったが、事件後、急速に教団への対応を変えた。事件後、世論に押されて、被害者救済法、教団調査(質問権行使)、解散命令請求と、短期間で進んだ。

 

また暗殺事件そのものについて、国会で十分な検証が行われなかった。例えば、警備体制、医学的検証、犯行経過などについて、超党派で検証委員会を設けるべきだった。

 

➅解散命令請求の法的根拠の脆弱性

 

そもそも刑事事件が一件もない宗教法人に対し、民事上の不法行為を根拠に解散命令を請求したことは大問題で、他の宗教法人にも影響を及ぼす前例になる。UCはコンプライアンス宣言以降、ほとんど献金問題でトラブルを起こしていないのに、献金に関する民事訴訟の合計金額を強調するだけで、「先ず、結論ありき」の裁判だった。 また、明らかに国と教団は争っており、公開裁判にすべきだったとし、公開に耐えられないような「屁理屈」で強引な判決を下した裁判官の判断は、人として問題で常識外れである。 つまり、法廷の外で、開廷の前から決定は下っていたのである。

 

更に曖昧な根拠で宗教法人格を取り上げ、礼拝も葬式もできず全財産を没収するような措置は「権力の乱用」、「人権侵害」であり、他の宗教団体が自分たちの問題でもあるのに声を上げないのはおかしい。

 

⑦宗教二世問題の一方的な位置づけ

 

宗教二世問題があたかもUCだけの問題であるかのように報道された。宗教二世の問題は、多くの宗教や家庭にも共通し得る課題であり、冷静な議論が必要である。

 

⑧日本は法治国家として適切に機能したのか

 

今回の事件は、世論や政治的圧力によって行政や司法が動いたのではないか、日本は本当に法治国家として判断したのか、という重要な問題がある。つまり、「法律よりも世論が先行した」、「空気が先にあって法は後付けだった」のではないかとの問題意識である。

 

事件後、異なる見解を述べるだけで「陰謀論」「教団擁護」などと批判される空気が強くなり、自由な議論がしにくい社会になったと小川氏はいう。 

 

以上が、小川氏が問題提起した論点であり、筆者も全面的に同意する。

 

<民間組織の設立を>

 

小川氏は、国家が十分な検証を行わないのであれば、「市民が真相究明組織をつくるべきだ」と訴えている。その目的は、証拠整理、専門家への聞き取り、裁判傍聴、情報公開請求、そして記録保存を継続して行い、警察だけではなく、政治的に独立した専門家による調査委員会を設置すべきだという。歴史に残る国家的事件である以上、少しでも疑問が残るなら徹底的に調べるべきである。海外では、重大事件について独立委員会が設置されている。

 

即ち小川氏は、この事件は「二・二六事件や五・一五事件に匹敵する歴史的事件」であると位置づけ、そのため、将来の研究者のためにも、映像、証言、公文書、報道資料などを体系的に保存すべきだと主張し、この問題を国会や既存メディアだけに任せず、有識者、法律家、ジャーナリスト、市民が参加する「民間組織」を設立し、資料収集や検証を進め、将来に歴史的記録を残す必要があると訴えている。無論、私たちも支援して盛り上げたい。

 

全体として小川氏が最も訴えていることは、「誰かを擁護したいのではない。日本という国家が真実を追究する力を失ってはならない。」という点である。小川氏は、安倍元首相暗殺事件を単なる一刑事事件ではなく、戦後日本の民主主義、司法、報道、宗教行政を考える上での歴史的転換点と捉えている。

 

まさに前記したカールトン・シャーウッドの『異端尋問』(Inquisition)のように、この事件を歴史的事件として記録・保存し、将来の世代に検証を委ねる姿勢が必要であり、検証委員会の立ち上げが必要な所以である。今まさに、安倍晋三元首相の霊が、義人(小川榮太郎)の口を借りて語り始めたという感がする。

 

【ダンベリー事件と瓜二つ】

 

さてこのUC解散問題は、ダンベリー事件と瓜二つというのが、筆者の実感である。ダンベリー事件とは、文鮮明師がチェース・マンハッタン銀行に預けた資金の利子約15万6650ドルの所得を申告しなかったという脱税の罪で起訴され、禁錮18か月と罰金2万5000ドルの判決が言い渡された事件である。

 

<教会本部をダンベリー刑務所に>

 

文師は、コネチカット州のダンベリー刑務所に収監されることになった前日(1984年7月19日)、ニューヨーク市マンハッタンの教会本部で記者会見し、今後教会本部をダンベリー刑務所に移すと宣言し、次のように語った。

 

「私はいかなる罪も犯していないにもかかわらず、政府権力の乱用と宗教的迫害の犠牲にされています。アメリカ全州の何千名もの牧師たちが、私に対する政府の迫害に反対し、宗教の自由の名にかけて、私と共に一週間入獄するという宣誓をしています。1971年、神は私をアメリカへ呼ばれ、キリスト教の信仰の熱情をよみがえらせ、アメリカの建国精神を復興するように命じられました。無神論と宗教的不寛容という闇の霊が、アメリカに見い出される時代に、神は劇的な精神復興を成し遂げるため、私をアメリカへ送られたのです。」

 

そして、アメリカの道徳性を高め、神の意思を果たす能力を増大する目的に向け、統一運動は「数億ドル」のお金をアメリカのために投資してきたと述べた上で、更に次のように語った。

 

「私たちは次の諸団体に資金を提供してきました。国際宗教財団(IRF)、国際文化財団(ICF)、教会と社会活動のため全国協議会(NCCSA)、国際救援友好財団(IRFF)、ボランティア事業(PV)、ワシントン・タイムズ社、および多数の他の事業。皆さまが私の仕事の範囲を理解されれば、どうしてアメリカ政府から、わずか『二万五千ドル』を脱税するために、私がアメリカに来たと本当に信じられるでしょうか。まさしく始めから、この裁判は脱税問題ではなく、政府による宗教の内部活動への侵害でした。私が有罪判決を受けたのは、私の宗教上の信念と実践による以外の何ものでもありません。」(文鮮明師の講演集・「為に生きる」第五章より)

 

この文師の言葉は、ダンベリー事件の真相の全てを語って余りある。アメリカのために数億ドルを投入した文師が、たかだか十数万ドルのために故意に脱税するはずはないのは明らかである。そしてこのダンベリー事件は、まさしくUC解散問題と驚くべき類似性を持つ。

 

<ダンベリー問題の本質>

 

ダンベリー問題は、表向きには「脱税」の裁判であるが、その本質は銀行の口座に貯蓄された資金が、文鮮明師「個人」のものか、それとも教会の「公金」(信託)かという問題であり、これが「公金」(信託)であることは明らかであった。キリスト教会の他の牧師たちも、教会のお金を個人名義で貯蓄することはよくあることであり、文鮮明師の公開書簡でも、「教会資金を牧師名義で信託管理する慣行は、少なくともジョン・ウェスレー以来見られ、当時のカトリック司教などにも例があった」と述べている。

 

まさにダンベリー裁判は、文字通り政治の力、行政の機能不全、一部のキリスト教やユダヤ人を含む世論の偏見などが相まって行われた「はじめに結論ありき」の魔女狩り裁判であり、まさに「法廷外で判決は下り、開廷の前から判決は下っていた」(『刻印』P25)のである。そしてそれは、UC解散裁判にもそのまま当てはまる。

 

<文鮮明師救出のうねりー超教派・超宗教運動へ>

 

だが、冤罪による教団教祖の収監という前代未聞の出来事は、逆に宗教人の怒りと同情を買い、特にキリスト教会が文鮮明師救出に立ち上がった。それはまさに、文師が、今まで強調し実践してきた「超教派・超宗教」の理想を実現する「贖罪の羊」となったことの証であった。著書『刻印』は、その情景を次のように語っている。

 

「1982年~1984年にかけ、アメリカ合衆国最高裁判所に異例の事態が起きた。30を越える個人・団体が、『アミカス・キュリエ』(法廷の友)として意見書を提出した。福音派の巨頭ジェリー・ファルウェル牧師、リベラルなアメリカ自由人権協会(ACLU)、ローマ・カトリック教会、南部キリスト教指導者会議、マルクス主義を掲げるスパルタカス同盟、ハワイ州、オレゴン州、ロードアイランド州等々。

 

彼らのほとんどが、文鮮明師の神学を支持していたわけではない。むしろ多くが、明確にその立場を否定した。何故なら、宗教の自由とは、好きな宗教を守ることではない。嫌いな宗教でも守り続けることで、はじめて意味を持つ。合計で約1億6000万人のアメリカを代表するこれらの団体が一致して問うたのは、『この裁判は公正だったのか』『今日、統一教会に起きたことは、明日、われわれに起きるかもしれない』だった。」(P160~161)

 

まさに福音派とリベラル派、カトリックとプロテスタント、黒人系市民権団体と白人保守派、これだけ異なる人々が同じ旗の下に立つことは、アメリカ法廷史上でも極めて稀なことだった。こうして宗教の自由を侵害したアメリカ政府に対して、ジェリー・ファウエル牧師やジョセフ・ローリー牧師ら聖職者7000人以上が文師の救出に立ち上がったのである。 

 

そしてこの波は超教派・超宗教運動である「ACLC」(米聖職者指導者協議会)、「WCLC」(世界キリスト教聖職者指導者協議会)に結実した。この聖職者協議会は、宗教間の葛藤や垣根を超え、聖職者たちが一つの神のもとに人類一家族世界を目指す運動であり、特にACLCは文鮮明師のダンベリー獄中受難、即ち「ダンベリー精神」に起源を有するものである。(参照-アメリカの超教派・超宗教活動について→ https://x.gd/GEGv4

 

<ダンベリー精神>

 

ちなみにダンベリーでの文師の仕事は、カフェテリアでのテーブルセット、食器洗い、ベッドの整頓であり、時には便器の洗いや床の掃除もしたという。そしてダンベリーでは、「黙って働く人」「本を読む人」「瞑想する人」と呼ばれ、囚人や看守とも親しくなった。まさに「ダンベリー精神」とは僕の僕・へりくだりの精神であり、何よりも「祭物」の思想である。

 


そして文師がダンベリー刑務所で聖書を通読された事実を目撃したという、世界日報記者の証言がある。彼はたまたま文師のカバンの中に入っていた聖書を見て、そこに次の言葉が記載されていたことを目撃したという。 まさに「本を読む人」であり、33日間で聖書66巻を通読した。

 

「開始1984年12月11日日午前 0 時、読了 1985 年 1月 13 日 3 時 33分 34 秒、読むのに要した期間、33 日 3 時間 33 分 34秒。神の御旨をすべて明らかした」(文師の韓国語聖書の表紙記載文言) 

 

また文師のみ言集『御旨と世界』は、その序文にもある通り、ダンベリー獄中で、何度も読み返し、多くの箇所に訂正や注釈を加えて厳選した言葉が編集された本だという。つまり膨大な説教の中から38編を慎重に選んだのが『御旨と世界』である。従ってこの本は単なる説教録ではなく、著者自身が獄中で内容を再検討し、自らの思想の核心として公認した「自己編集版」の説教集という性格を持つ。

 

さて、こうしてダンベリー事件が発端となって超教派・超宗教運動が大きく展開した。同様に、UC解散事件は信教の自由と宗教の一致を促す起点となり、リバイバルの源となるだろう。またそうあらねばならない。前述したように、奇しくも小川榮太郎氏が民間組織を創設して、「安倍事件・UC問題」を一から検証すると明言したが、この動きはその皮切りである。

 

日蓮が、「災いも転じて幸となるべし」 といい、またパウロも、「神は、召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ロマ8.28)と言うように、解散を転じて福となし、速やかに「新しい皮袋」を軌道にのせ、成約のリバイバルを起こそうではないか。

 

以上、「小川榮太郎氏の問題提起ーUCの解散はダンベリー事件と瓜二つ」との主題で、古き皮袋を脱ぎ捨て新しい皮袋に脱皮すべきこと、検証委員会を作って解散の致命的欠陥を精査し啓蒙すること、小川榮太郎氏の問題提起と民間組織結成を促進すること、UC解散問題はダンベリー事件と瓜二つであること、そしてダンベリー精神とは何か、などを述べた。願わくば、この解散という「供え物」が神に受け取られ、神の救援歴史を前進させる大きな一石になれば幸いである。

 

「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ」(詩篇128.1)     (了)

 

                          牧師・宣教師   吉田宏

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