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李登輝元台湾総統の思想と信仰② 後藤新平と新渡戸稲造から学ぶ

○つれづれ日誌(令和2年9月18日)李登輝元台湾総統の思想と信仰② 後藤新平と新渡戸稲造から学ぶ


生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである(ガラテヤ2.20)


[はじめにー愛国者李登輝]

前回、追悼文、「李登輝元台湾総統の逝去を悼む」を発信したところ、内外、結構反響があり、また中には、李登輝と新渡戸稲造との深い関係について触れて欲しいというリクエストもあり、追悼文②を出すことにいたしました。

今回は、第一に、李登輝の思想形成に決定的な影響を与えた新渡戸稲造との出会いと武士道について、第二に李登輝のキリスト教信仰と信仰が政治家李登輝に如何なる影響を与えたかについて、第三に、これからの日台関係とアジアの未来について、を順に考えていきたいと思います。

李登輝は、人民日報系の環球時報によって、「日本に媚びる『媚日派』であり、頑固に台湾独立を主張し両岸(台中)関係の発展を破壊した」と批判され、尖閣諸島に関する発言について国民党からも「売国奴」と非難されました。

しかし李登輝は、媚日派でも、台中の破壊者でも、売国奴でもありません。彼のアイデンティティーは、愛国者であり、キリストに属する者であります。即ち、何をすることが台湾の国益になるのか、そしてそれがキリスト者としての自分と矛盾しないか、この2点を常に考えて行動してきた愛国者であり信仰者でありました。

この思想は、新渡戸稲造や内村鑑三が誓った「二つのJ」に通じるものがあります。二つのJとは、人生を二つのJ、即ち、「Japan」と「Jesus」に身を捧げるという思想であり、李登輝もまた台湾とキリストに人生を捧げました。そして李登輝は、親日家として有名ですが、これは決して日本におもねっているわけでも、媚びているわけでもありません。李登輝の正直な気持ちの発露であります。李登輝は、心底、日本の台湾統治を高く評価し、感謝しているのです。

戦前は日本人として、戦後は台湾人として生きることを余儀なくされた李登輝でしたが、2018年6月、人生最後となる日本訪問で沖縄の「台湾出身戦没者慰霊碑」の除幕式に出席し、「台湾人としての私はわが国を強く愛しており、生涯学んできたことでわが愛する台湾の土地に貢献してきました」と台湾への愛情を示しました。

筆者は、其々の指導者に思想や立ち位置の相違があるにせよ、蒋介石に端を発し、蒋経国に引き継がれた台湾統治が、本省人である李登輝で一旦完結したことを、アブラハムに端を発し、イサクからヤコブで完結したイスラエル族長時代の歴史を見るような気がして感慨深いものが有りました。

[思想的原点としての新渡戸稲造]

李登輝は、後藤新平から台湾近代化の道を学びましたが、新渡戸稲造からは思想を学びました。この二人は李登輝の恩師であります。李登輝は、「新渡戸稲造と後藤新平。この二人は台湾近代化の恩人であると同時に、私の先生でもある」と語っています(李登輝著『新・台湾の主張』PHP新書P63)。

李登輝は、高校時代から多感な青年であり、「人生とは何か、生とは何か、死とは何か、自分とは何か」といった本質問題を深く考えて来ました。当時、哲学、歴史、倫理学、生物学、科学と、ありとあらゆる分野の本を読み、高校を卒業するまでに、岩波文庫だけで700冊~800冊は持っていた、と述懐しています。

その李登輝が、何故新渡戸稲造の著書『武士道』に関心を持ち、自らその解説書『武士道解題』を書くことになったのか、また何故東大法学部に行かないで、京大農学部に入ったのか、これらの疑問を解かなければなりません。

日本統治下の1940年(昭和15年)、旧制の台北高校に進んだ李登輝青年は、図書館で多くの書物を読み漁っているうちに、新渡戸稲造の『講義録』と出会いました。

新渡戸稲造は『武士道』を刊行した翌年の1901年(明治34)年、後藤新平に乞われ、台湾総督府の農業指導担当の技官として赴任し、台湾製糖業の発展に大きな貢献をしました。まだ、李登輝が生まれる22年前のことです。高尾市にある台湾糖業博物館には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれています。

そうして新渡戸は、台湾の製糖業に関係している若きエリートたちを集めて毎年夏に講義をしていたのです。それはイギリスの思想家トーマス・カーライルの哲学書『衣裳哲学』を解説した講義でした。その『講義録』を読んで李登輝氏は新渡戸稲造の偉大さに心酔するようになり、新渡戸の著書をすべて読んでいき、その過程で出会ったのが新渡戸の著書『武士道』でした。

実は李登輝は、当時カーライルの哲学書『衣裳哲学』と取り組んでいたのですが、難解で理解するのに苦労していました。そんなとき、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての前記講義録に出合いました。これに大いに助けられ、またその内容に感銘を受けた李登輝は、新渡戸稲造の書物を読み込み、遂に『武士道』を座右の書とするようになったというのです。

「私の青春時代の魂の遍歴に、最も大きな影響を与えた本を三冊あげよと言われれば、躊躇なく、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』、そして『衣装哲学』をあげます。そしてその三冊をアウフヘーベン(止揚)したところに、新渡戸稲造先生と武士道があったと言っても過言ではないでしょう」(著書『武士道解題』P71)

また、李登輝が京都帝国大学農学部に入り、「農業経済学」を学んだのも、農業経済学者であった新渡戸の影響を受けたことが決定的だったと言っています。こうして李登輝は、新渡戸から深く思想的、実践的な影響を受け、農業経済学を学ぶことになり、また解説書『武士道解題』を書くことになりました。そして李登輝は38才でキリスト教に入信しますが、敬虔なクエーカー派のクリスチャンであった新渡戸からもキリスト教の影響を受けました。

こうして李登輝は、思想、農業経済学、キリスト教という3つの分野において、新渡戸稲造から色濃く影響を受けました。李登輝にとって、さしずめ後藤新平が台湾近代化の恩師であるとするなら、新渡戸稲造は思想の恩師ということでしょうか。ただでさえ孤独で批判にさらされる12年間の総統時代、新渡戸精神が政治家李登輝を支えていたと述懐しています。

なお、カーライルの衣装哲学とは、イギリス人 トーマス・カーライルの自伝的著作で、ドイツの大学教授「トイフェルスドレック (悪魔の糞) の伝記」という形をかりて、カーライル自らの思想の発展段階を述べたものです。この世の人間的な制度や道徳は、すべて存在の本質がそのときどきに身に着ける衣装で、一時的なものにすぎない、即ち、「宇宙のあらゆる象徴、形式、制度は、所詮一時的衣装にすぎず、動かぬ本質はその中に隠れている」ということを多面的に例証したものです。

新渡戸稲造は衣装哲学によって救われた体験があり、「衣装哲学は命の恩人」といい、生涯34回も熟読したと語っています。また、内村鑑三の著書『余はいかにしてキリスト信徒になりしか』にも大きな影響を及ぼしました。

[李登輝が理解した武士道]

新渡戸稲造著『武士道』は、 アメリカの教育の原点にキリスト教的モラルがあるように、それに対応する日本の道徳が、実は武士道であるということを欧米人に伝えようとした書であります。 内村鑑三も日本の武士道精神は、アメリカのキリスト教以上にキリスト教的であると言っています。

また武士道とは、新渡戸によれば西欧の騎士道と類似概念で、武士が守るべき道徳律・規範であり、それはまた、目に見えない「日本人の道徳体系」でもあるとしました。即ち、新渡戸の武士道とは、副代に「日本精神」とあるように、武士を中心とする「日本精神一般を説いたもの」で、狭義における武士の道とは同じではありませんでした。李登輝は、「武士道などと言えば、戦後の自虐的価値観の影響で、非人間的、非民主的な封建時代の亡霊であるかのように扱われているが、決してそうではない」とし、「私は、新渡戸が説いた武士道こそ、日本人の精神であり道徳規範であると考える。それは単に精神、生き方の心得というだけでなく、『日本人の心情、気質、美意識である』と思う」と語っています。(李登輝著『新・台湾の主張』P45)

新渡戸は、武士道の淵源には、仏教、神道、儒教があり、儒教などが示す五常・五倫の道は「中国から輸入される以前から日本民族本能が認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない」(『武士道』P36)と指摘しています。

李登輝は「私が生まれ育った台湾という小さな島が、何故今日のような世界でも有数の豊かで幸せな国として急成長することが出来たのか」と問いかけ、「この根本的な疑問に明快極まりない答えを与えてくれたのも、新渡戸稲造先生が世界に向かって提示して見せてくれた『武士道』という本以外の何ものでもありませんでした」と明言しました(『武士道解題』P78)。

新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げています。しかし李登輝は、武士道で何より重要な点は、それらの「実践躬行」を強調していることであると理解し、「公」のために働くことの大切さや尊さについて『武士道』や『衣裳哲学』から学びました。

日本軍は、日露戦争で武士道に則った戦いぶりを見せ、世界を感動させました。乃木将軍や東郷元帥が日本古武士の典型として国際社会からの尊敬を受け、ルーズベルト大統領も日露講和の仲介を買って出たと言われています。中国からのミサイルの脅しに対して、敢然と立ち向かう姿は、いかにも勇ましい武士らしき姿ですが、新渡戸稲造が説き、李登輝が解説する「武士道」とは、そのような「勇」一辺倒のものではありません。新渡戸は、武士道の徳目の最初に「義」を挙げました。「義」とはすなわち「正義の道理が我われになすことを要求し、かつ命令するところ」と言い、孟子が「義は人の路なり」とし、キリスト教では正義が実現されること、即ち「神との正しい関係」と理解されています。

ちなみにパウロは義にもう一つの意味を込めました。それは、「神の救い」と結びつけられた救済論的な意味です。つまり、「義」は神によって無罪とされることであり、「救い・解

放・恵みの業」を意味し、「神の義」は、「神の救い・神の恵みの業」を意味しています。従って、「義とされる」とは、「救われる・解放される・神の恵みの業にあずかる」ことを意味します。いずれも、神からの救いと結び付けで用いられていますから、救済論的な意味と言われます。

李登輝は「義」は個人のレベルに閉じ込めておくべきことではなく、必ず「公」のレベル、すなわち「公義」として受け止めなければならないと説き、それは社会のために各人が為すべき事を指します。人の生き方として実践を重んずる武士道は、「義」について抽象的、哲学的にあれこれと論じたりはしませんでした。それよりも「義を見てせざるは勇なきなり」の一言で、武士としての生き方を表現しました。

また武士道の2番目の徳目である「勇」とは、あくまで「義」を実践する時の姿勢であって、義なき勇は「匹夫の勇」、即ち、思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない人間の蛮勇として、軽蔑されたのです。新渡戸稲造の生き方そのものに「義を見てせざるは勇なきなり」があった、と李登輝は次のように述懐しました。

「新渡戸稲造先生が台湾に来てくれるよう要請されたとき、彼はまだアメリカにおり、健康状態もかなり悪かった。しかし、『義を見てせざるは勇なきなり』の武士道精神に基づいて、総督府の一介の技官(地方の課長)という大して高くもないポストに従容として赴き、いったん現地に入ったからには命を賭して大事業の成就に向かって全力疾走を続けたのです。なぜなら、国家がそれを必要としていたからです。これこそ、武士道の精華であらずして何でありましょう」(著書『武士道解題』P80)

そして李登輝は、「私事にわたりますが、もともと学者か伝道者として生涯を全うしようと思っていた私が、思いがけなくも政治の道への足を踏み入れてしまったのも、いまにして思えば、『天下為公』(天下は公のもの)『滅私奉公』といった武士道精神に無意識のうちに衝き動かされてのことであったように感じられてなりません」とも述懐しています。

[内省を深める哲人李登輝]

李登輝は、「私は十五、六歳のころから人間の生死の問題を真剣に考えてきました。『人間とは何か』『死とは何か』『死に直面して、生死をさまよう人間とは何なのか』という大命題の思索に耽り、『自我の死』を理解して初めて真の肯定的意味を持つ人生の『生』がうみだされることに気づきました。カーライルのいう『永遠の否定』からの『永遠の肯定』です」と告白しています。そして次のように言っています。

「人間『死』という問題を考え抜いて、初めて『生』についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。そしてこの問題に一つの大きな鍵を与えてくれたのが『永遠の否定』であり、またそれをいかにして『永遠の肯定』に変えていくかという生の哲学だったのです」(『武士道解題』P72 )

そして、「ニーチェにせよ、ハイデガーにせよ、サルトルにせよ、いずれも『自我が死んだ後に誕生するもの』の意味を教えています。それを私なりの言葉で表したのが『私ではない私』ということなのです。それはつまり、人間のもつ自我を排除し、『神の御心のみを判断基準として生きていく私』という意味です」とも告白しました。

それこそ、ガラテヤ2章20節の有名な聖句「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」が言い表している境地です。言い換えれば、古い自我から解放されて、新しい自我、仏教でいう「真我」に目覚めることであります。

宗教改革者のルターは、自由とは「自分を束縛してたいるものから解放されること」と考え、著書『キリスト者自由』の中で、自由とは、信仰によって義とされることであり、それは「律法からの解放」であり、「教会(カソリック)制度からの解放」であると述べました(ルター著『キリスト者の自由』)。

李登輝にとって、自分を拘束しているものとは他ならね「自分自身」であり、その自分(自我)から解放されることが真の自由であり、「自分でない自分」を見出だすことでありました。自由とはなんでしょうか。自由とは解放に他なりません。即ち、罪と自分自身からの解放であり、哲学的に言えば「絶対否定の上に立つ絶対肯定」であります。


[李登輝のキリスト教と信仰]

さて李登輝は、自らの思想遍歴について、10代では戦前の日本教育の影響で「唯心論者」となり、大学時代は一時期「唯物論者」となり、そうして38才で「キリスト教徒」になったと語っています。そして李登輝は、「最高指導者の条件とは何か、それは信仰です」と明言しました。李登輝は、「武士道の台木にキリスト教を接いだもの、其の物は世界最善の産物であって、これに日本国のみならず全世界を救う能力がある」との内村鑑三の言葉を引用し共感しています。

<政治的信念を貫く上での力の源は信仰>


アメリカの基礎を造ったワシントンもリンカーンもアイゼンハワーも、皆、大統領である前に敬虔なキリスト者でありました。彼らは皆、政治的演説に、必ず聖書の言葉を引用しました。李登輝は、「哲学や政策など、政治をこえたところにある『何か』を自分の内に持たずに政治を行う人は、それがために使命感が希薄になり、実行するエネルギーも弱くなるように思う」と述べ、「自己の存在を超越した『何か』を信ずることは、あらゆる困難を突破する際、精神面での助けになります。『自己を離れた存在』、即ち『神』が私を助けてくれると信じていれば、どんな事柄であれ、恐れずに処理できます」とも語りました。

まさに李登輝の政治的信念を貫くうえでの力の源は信仰であり、指導者の条件とは何か、「それは信仰です」と明言しました。李登輝の政治的信念を貫くうえで、信仰は力の源泉だったというのです。「自らの倫理観を貫き、能力を十分に発揮するうえでも、信仰の存在は大きいのです」と言い、「私の場合は、聖書の強調する愛と正義の精神が力の源であり、主イエスは常に私と共にあると考えています。いわば、自分の体の中に、イエス・キリストが陣取り、その私は『私ではない私』なのです」と。

しかし、李登輝は、信仰的回心に至るまでに大いに悩んだといいます。

「かって私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。『何故マリアは処女にしてイエスを産んだか』『何故イエスが磔にされて、そして生き返ったのか』。どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです。5年間台北のあらゆる教会を回り歩き、これは何なのかと悩み続けました。

その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったというのです。そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、それが信仰なのです」(『武士道解題』P132)

それはまた、新渡戸が衣装哲学から引用した一節「神の存在と霊魂の不滅であるが、このことはただ信ずべきものにして何十年考えても解することの出来ぬものである」にも表されています。

<求道時代>


前述したように、李登輝は若いころから、人間とは何か、人生とは何か、死とは何か、など人生の根本問題をとことん考え、本を読むのが何よりも好きだった李登輝は、日本、西洋、中国の古典を読み漁る青春を過ごしました。鈴木大拙の仏教書、善の研究、漱石全集、三太郎の日記、出家とその弟子、愛と認識との出発、古事記、源氏物語、枕草子、平家物語、風土、衣装哲学、ファースト、若きウェルテルの悩み、白痴、純粋理性批判、マルクス資本論、聖書、易経、など手当たり次第に読み漁りました。


しかし小さい頃から強い自我に苦しみ、また「アイデンティティーの喪失」に葛藤する日々が続いたというのです。


特に戦後、台湾が日本の統治から離れ、日本人でも中国人でもない、新たな自分の立ち位置を探し求めざるを得なくなりました。そうして、アイデンティティーが喪失して空しかった自分に、「キリスト者」という新たなアイデンティティーを得ることができたというのです。李登輝は「心の虚しさを埋めてくれるものが信仰であり、キリスト教だった」と告白しました。


そして、李登輝がキリスト教に救いを求めるようになった背景には、心酔していた新渡戸稲造がクリスチャンだったことや、アメリカのキリスト教文化に触れたことも後押ししたと思われます。そして何よりも、クリスチャンの奥さんの導きがありました。


<キリスト教入信と信仰体験>


こうしてキリスト教の門を叩くことになった李登輝ですが、その信仰を心から受け入れるには、長い紆余曲折を要したことは前記した通りです。そうして聖書を読み尽くし、信じることを決断しました。即ち、「信仰告白」によって聖書的真理を認識するに至ったというのです。イエスは弟子のトマスに、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネま20.28~29)と言われましたが、李登輝は「見ないで信じる者になろう」と決断したのです。


こうして李登輝は、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信し、敬虔なクリスチャンになっていきました。李登輝は『愛と信仰―わが心の内なるメッセージ』を出版し、「日本精神」と「キリスト教」から最も大きな影響を受けたと述懐しています。


李登輝は、妻と嫁と孫娘の4人で観音山に登ったとき、その頂上で神秘体験をしました。心と体からなる自分の上に、より高次元の神的存在を体験し、そしてその存在との間にただ一人立つ自分を発見しました。この神秘体験以降は、世の雑音や批判・誹謗に耳を貸すことなく、先ず神との関係を最優先したと言うのです。


そして李登輝に、ようやく自我から解放される時がきます。前述の通り、自分を拘束しているものが、他ならね自分自身であり、その自分(自我)から解放されることが真の自由であるという真理です。「自分でない自分」を見出だすこと、即ち、自我が一度死んでこそ、真の自分の復活があるというのです。次の聖句が李登輝の回心聖句です。


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)


[これからの日本と台湾]

最後にこれからの日本と台湾のあるべき関係について述べたいと思います。

1999年に李登輝著『台湾の主張』の日本語版が出版された際、記念イベントが東京で行われ、李登輝はビデオメッセージで、「日本にとって台湾はただ南に浮かぶ島ではなく、日本の存続に関わる重要な防御壁だ」と訴えました。同書は日本人の台湾に対する理解促進に寄与したとして、第8回「山本七平賞」を受賞しています。

<台湾は日本の生命線>


李登輝は、「自由で独立した台湾なくして、自由で独立した日本はなく、また、同時に、自由で独立した日本なくして、自由で独立した台湾はない、両国は運命共同体なのだ」と語り、台湾は日本の生命線としました。


仮に、中共が台湾を併合するという野望が実現した場合、日本の安全保障は著しく損なわれます。南シナ海は中共の海になり、日本のオイルルートは寸断されるでしょう。日本に入ってくる石油の80%が台湾海峡を通ってきるからです。

中共の狙いは尖閣諸島を獲り、台湾を併合すれば、太平洋への門戸が開け、太平洋の覇権を握れば地球の半分は中国のものになるという野望であります。

李登輝は、総統退任後、残された人生を台湾人、そして日本人を励ますために「架け橋」として使うといい、日台が「運命共同体」「生命共同体」であることを叫び続けました。

「かつてのような智恵と勇気に溢れる日本という国を取り戻せ」と叱咤し、アメリカへの無条件の服従や中華人民共和国への卑屈な朝貢外交を批判した上、幕末に坂本龍馬が提示した近代日本の国家像に倣って、今後の日本のあるべき姿を語りました。

<台湾人の日本観>

台湾には、日本ではもう死語になった感もする「日本精神」(台湾語でリップンチェンシン)という言葉が今なお生きているといいます。日本精神とは、「規律・清潔・正義・勇気」であり、未開の地でこれといった歴史がない台湾にとって、日本精神こそ唯一の文明化された精神であり、これはもはや日本精神というより、台湾精神、即ち、李登輝がいう「新台湾精神」と言うべきものだというのです。


李登輝は、2007年6月7日、李登輝の兄が眠る靖国神社に参拝し、冥福を祈りました。そして靖国神社に兄が祀られていることに深く謝意を表したということであります。実は靖国神社に眠る台湾人の英霊は2万8000柱に上るのですが、多くの日本人はこの事実を知りません。著書『新・台湾の主張』の中で次のように書いています。


「兄は若い妻と幼い子供を残して出征しました。一体どんな気持ちだったのか、何故私ではなく兄だったのか、兄の戦死から70年たった今でも心の整理はついていない。兄は海軍陸戦隊隊員としてマニラでしんがりを務め戦死したのである。靖国神社で兄の霊の前に深々と頭を垂れ、仲の良かった兄の霊とようやく対面し、私は人間としてなすべきことが出来たと感じた」(P56)


しかし大陸中国の対日観には、「優越感」と「劣等感」と「復讐意識」が混在し、複雑な国民感情を持っているといいます。今なお中国においては、愛国教育イコール反日教育だというのです(藤井厳喜、林建良共著『台湾を知ると世界が見える』P76)。これに対し台湾は、今なお日本人を先生と仰いでおり、戦後の自虐史観を脱して、本来の武士道の国、日本精神の国に立ち返って、自信と希望を持って欲しいと念願しています。

<台湾と中国>

台湾人の構成は、一般的には、台湾漢民族(漢人・客家人・外省人)が96.7%、台湾原住民が2.3% とされていますが、これは中国が戸籍を捏造し漢族に組み換えた結果であり、間違いだと林建良氏は指摘しています。そして本来台湾は漢民族ではなく、山地に住む山胞族(高砂族)、平地に住む平埔族(へいほぞく)が87%を占め、遺伝学的にも明らかになっていると林氏はいいます。ちなみに平埔族とは平地に住む民族のことで、清朝以前からもともと台湾にいた主に南方系の台湾原住民であります。

今台湾は、中国人でもなく、また日本人でもない、「台湾人である」という民族の主体性、アイデンティティーの確立に懸命になっています。その精神的核になり得るのが日本精神(=台湾精神)だというのです。

現在の大陸中国は、政治的には共産党の一党独裁であり、国民には拝金主義、つまり「金」礼拝が横行し、貧富の差が鮮明になって失業者が激増しています。この国内の矛盾や不満を対外的膨張でそらしているのが実体だというのです。そして逆に、台湾の中国への影響は文化的、経済的、技術的に無視できないほどに高まっているといいます。これからの台湾と中華人民共和国との関係は、理不尽な膨張には断固として退けるという決意と、武者小路実篤の言葉「君は君、我は我なり、されど仲よき」という関係が求められるというのです。

<これからの日本と台湾>

これからの日台関係において、日本版「台湾関係法」の早期制定が急務です。

1979年、アメリカは国内法として台湾関係法を定めて台湾との関係を維持し、台湾防衛で中国を牽制しました。しかし日本では、72年の日中国交正常化にともなう日台断交以来、台湾交流の法的根拠を欠いたままであるのです。一部には、中国が反対するから難しいと囁く人がいますが、しかし李登輝は、「中国が口を出す権利がいったいどこにあるのか。台湾は中国の一部ではない、台湾は台湾人のものである」と断じました。

いまもなお、台湾は国連に加盟できていませんし、日本に正式な大使館も設置出来ない悲哀の中にあるのです。しかし前記しましたように、中共の独裁体制による脅威という点では、日台は運命共同体です。これに備え、万一の事態を乗り切るためにも、台湾関係法(日台基本法)の早期制定をはじめ、日台はあらゆる面で強固な関係を築くことが不可欠であり、日本国民はこれを全面的に後押ししたいものです。中国通として第一人者である長尾敬(たかし)前衆議院議員は、著書『永田町中国代理人』(産経新聞出版)の中で日台関係について次のように述べています。


「中国が『一国二制度』の台湾プランで絶えず台湾を威嚇していることは、自由民主の価値と世界秩序への強烈な挑戦です。いったん一国二制度を受け入れれば、台湾は生存空間を失うことは明白ですから、一国二制度の拒否は台湾人民の党派・立場を超えた最大の共通認識となっています。まさにその台湾こそが、『自由で開かれたインド太平洋戦略』の前線に位置し、民主主義の価値を守る第一防衛ラインとなります。日本と台湾は運命共同体、安倍晋三元総理が指摘したように『台湾有事は日本の有事』なのです」(P16)


1972年、田中内閣の日中国交正常化による台湾の切り捨てにより、「祖国日本に捨てられた」との台湾人の痛切な思いを償う意味でも、日本は、「台湾が中国の一部であると認めたことは一度もない」と世界に明言すべきです。


李登輝氏は著書『武士道解題』を次のような言葉で結びました。

「武士道は、我々の先人が700年の時間をかけて(台湾と日本の)国民精神の根幹として育て上げてきたものであります。それを戦後の70年ほど「お蔵入り」させていたわけだが、蔵にあるものは蔵から出せば良いのです。最後に、もう一度繰り返して申し上げておきたい。日本人よ自信を持て、日本人よ『武士道』を忘れるな」

まさしく李登輝は、台湾民主化の父であるだけでなく、台湾のモーセとして、長く思想的、精神的な父として崇敬されることでありましょう。啓典の民イスラエルがモーセの十戒から始まったように、台湾の真の歴史は、李登輝の武士道、李登輝のキリスト教から始まると言っても過言ではありません。(了)



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