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キェルケゴール試論② 愛よ、永遠なれ!

○つれづれ日誌(令和2年9月16日)-キェルケゴール試論②ー愛よ、永遠なれ!

永遠に女性的なるものがわれらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく(ゲーテ『ファウスト』のテーマ)


さて、前回キェルケゴールについてまとめましたが、今回更に踏み込んで、愛と結婚の問題について考えたいと思います。


[永遠の恋人レギーネ]


キェルケゴールに最も影響を与えた人物はいうまでもなく恋人レギーネであります。レギーネとの出会い、婚約、そして婚約破棄、ここにキェルケゴールの思想と著作の源泉があります。



<婚約と婚約破棄>


キェルケゴールは、婚約が決まってすぐに自分の行いを「悔いる」ことになったことを日記に記しています。

「しかし内面はどうかと言えば、その後数日して、私は過ったということが分かった。私のような懺悔者、私の経歴、私の憂愁、それだけでもう充分だった」(日記)

彼は婚約してすぐに、それを「後悔」したのです。それは決して彼女のことが嫌いになったからではなく、むしろ彼はレギーネのことを誰よりも愛し、なお地上的なもののうちで最も大事な存在でした。しかし婚約から11ヶ月後の1941年8月11日、手紙とともに、婚約指輪をレギーネに送り返します。勿論レギーネは、納得せず、自暴自棄になり、自殺までほのめかすようになりました。娘の姿を憐れむ父もキルケゴールに彼女と別れないでほしいと懇願しますが、それでも彼は彼女との復縁を口にすることありませんでした。

<神と罪に囚われた人>

では、何故婚約したあと、すぐ後悔し何故破婚したのでしょうか。これには多くの研究者によって「宗教的か、通俗的か」等々、色々論議されてきました。しかし、彼は「神の抗議があったのだ」と告白しています。キェルケゴールは、神の怒りを恐れ、不安の中に投げ出されたのです。

前回も述べましたが、レギーネを愛すれば愛するほど、自分が彼女にふさわしくないという思いに襲われました。父の罪の呪いと死の予感、父譲りの憂愁な性格、身体的欠陥、放蕩生活と一度の娼婦との間違いなど、結婚は彼女を不幸にするのではないかとの思いです。自分が呪われた家系に生まれた憂愁を、彼の本心は深く感じていました。そうして父の罪を知ったいわゆる「大地震」によって父の苦悩を理解し、その罪を自分のものとして引き受け、キリスト教への信仰を取り戻していきました。工藤綏夫氏は著書『キェルケゴール』(清水書院)の中で次のように記しています。


「憂鬱な性格に悩み、罪深いわが身をいだきながら、恋愛の喜びにひかれてレギーネと結婚することは、恋人をあざむき、傷つけることである。そのような不真実な生を断念することこそが、恋人に対する真の愛である。このような良心の要求に忠実であろうとしてキェルケゴールは、婚約破棄を敢行したのであった」(P113)


キェルケゴールにとって、真のキリスト者とは、常に罪の意識を持って神の前に立ち、おそれおののき(2コリント7.15 )ながら生きることであり、世間の非難や迫害を恐れずに虚偽と戦って信仰をつらぬく困難を、わが身にひきうけることでありました(工藤綏夫著『キェルケゴール』P101)。「神を恐れ、その命令を守れ」(伝道の書12.13)とある通り、神を恐れる感性は天性のもので、この天性こそ神の賜物でした。神はこのキェルケゴールの天性を用いて、歴史的な著書を書かせ、キリストの証人として使われたのです。

そして前回筆者は、結婚によって愛を完結出来なかった根本的理由として「堕落の原因が、性的問題にあることを、繊細で天才的なキェルケゴールの感性は直感的に知っていた」と述べました。確かに、著書『不安の概念』では、アダムとエバの堕罪(原罪)を不安の原因として論じ、原罪の背後に性的衝動があることを感じ取っていました。こうして、性的問題に起因する原罪とそこから来るレギーネへの罪悪感、そして神を恐れる感性、これらは図らずも許されざる結婚としてレギーネを遠ざけたのでした。

キェルケゴールは、正に神に捕らわれた囚人でした。それはまた、神に召された人でもあります。「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる者の義務)という言葉がありますが、召された人には祝福と同時に不幸と苦難を背負うというのです。もしレギーネとの愛が結婚という完結をみていたなら、キェルケゴールの名著も神学的な実存哲学も生まれることはありませんでした。愛が不幸な愛に終わることは哲学者が背負う運命、神に召された者の宿命であります。しかしキェルケゴールは1849年の日記に「私の秀でた所は、人生のさまざまな葛藤に際して、それを(神の)試練として常に受け取る点である」と記しています。

[ある女性らの数奇な運命とUCの結婚観]

さて、筆者にキェルケゴールの古本を送ってくれたかの知人の婚約者はその後どうなったのでしょうか。なんと彼女は、UCに献身したこの知人の後を追って、彼女もまた献身の道を選択しました。UCに入れば、いつかかっての婚約者と結婚できるのではないかという希望があったからというのです。しかし結局、彼女が伝道した男性と深い関係になり、UCを出て同棲し子を孕むことになります。当時のUCの献身生活は、お嬢様の彼女にとって耐えきれない過酷な環境でありました。この知人はただ祈るしかなく、キェルケゴールに救いを求めたというのです。

筆者は、似たような道を余儀なくされた女性を何人か知っています。清純なAさんもその一人です。彼女はUCで祝福結婚しましたが、相手に耐えきれず、やはり伝道していた学生と結婚してUCを出て行きました。聖書に疎かった筆者に、マタイ福音書を親切に読み聞かせてくれたクリスチャンでした。またB女史も同じ人生を辿りました。神が定めた夫を受け入れ切れず、夜のスナックで働くようになり、そこで出会ったサラリーマンの男性と結婚していきました。しかしこの二人は、神を忘れられず、後日教会とつながっていることを風の便りに聞いたことがあります。

キェルケゴールは自らが定めた婚約者を拒否しましたが、上記の女性らは神が定めた相手を受け入れることができなかったのです。そして去っていったこれらの女性を、誰も非難することなどできません。それにしても、結婚とはなんと難しい、またなんと過酷なものでしょうか! このように考えると、筆者を含め、私たちがこうしてみ旨の道に留まっているのは一種の奇跡であるというのです。


さて原理は、人間の堕落の根本原因を、天使とエバ、エバとアダムの身勝手な不倫の愛による結婚、即ち姦淫による間違った結婚にあると指摘しています。そこから血縁的に堕落の血統、即ち原罪が引き継がれてきたというのです。これが創世記3章の失楽園の物語の真相であります。従って、これを償って清算し、堕落をもと返して本然の位置に回復するためには、男女の二人が必要だというのです。


堕落が二人の間違った結婚で起こりましたので、逆に復帰は二人の正しい結婚でなされなければなりません。つまり神と関係なく身勝手に結婚したので、今度は「神の許諾と祝福」の中で行われなければなりません。 即ち、二人で原罪を背負いましたので、その清算も二人でなされなければならないというのです。そして祝福結婚は蕩減復帰に基づく結婚でありますので、恩讐同士の結婚が多々あり、祝福結婚を全うするためには往々にして犠牲的な愛が伴います。そしてこれが蕩減原理に基づくUCの結婚観です。


UC創始者が、「天国は一人では入れません。二人で行くところなのです」と言われた理由がここにあるというのです。ちなみに「蕩減」とは、失ったものをもと返すためには、逆の経路を辿って償いの条件を立てて本然の立場に戻っていくことであります。


[愛よ、永遠なれ!]

キェルケゴールにとって、実存から神へという道筋の中で、エロース的なレギーネとの愛を、永遠のアガペーの愛にまで高めていくことが課題となりました。その道程の中で、深い宗教的な思索の世界を切り開き、そして「憂愁・不安・絶望」からの解放をもたらす神への道筋を開拓することになります。イサク献祭を題材にした著書「おそれおののき」は、「愛するものを突き放すことによって、愛は宗教的な領域にまで高められる」ことをテーマに書かれました。愛は失われることによって永遠になるというのです。

そしてキェルケゴールのよって立つ立場は、抽象的な人間を考察するものではなく、あくまで具体的な自分自身の存在を問いつめ、自己超克の体験をもとにして語った人間の実存的な在り方でありました。キルケゴールは、実存という言葉を「今ここに私がいる」という意味で初めて用い、人間性の実存の個別主体性を重視し、「あれか、これか」を主体的に自分で選択する「自分にとっての真理」を大切にしました。このように、キルケゴールが実存主義の創始者とされるのは、それまでの哲学が一般的、抽象的な概念としての真理を探究していたのに対し、人間一人一人の個別具体的な存在としての真理を追究したことがその理由です。

さて、「そのために生き、そのために死んでもいいというものを見出だすこと」、これに賭けたキェルケゴールの42才の短い人生でしたが、果たしてそこに行き着くことができたのでしょうか。


それを一つ挙げるとすれば、それは有神論に立つ実存主義の創始者としてのエキスが詰まった「名著」でありましょう。ただ一人の読者レギーネに捧げられた審美的著作、『あれかこれか』『反復』『それとおののき』』不安の概念』などは、レギーネを歴史に記憶させることになりました。また、神に召された人としてキリストへの道筋を示した宗教的著書、『人生行路の諸段階』『愛のわざ』『死に至る病』『キリスト教の修練』などは、求道者とクリスチャンに頼りになる指針を与えました。

こうしてキェルケゴールの全ての著作は、神を見失った現代人の生が、結局は虚無と絶望に終わることを指摘して、人々の魂の内面に真の宗教性を覚醒させ、神と和解させることを願って書かれたもので、正に「キリスト教会のソクラテス」たらんとしたものでした(工藤綏夫著『キルケゴール』P4)。


 永遠に女性的なるものがわれらを高みへと引きあげ、昇らせてゆく (『ファースト』)

(了)



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