使徒たちは大胆に福音を語った - 今は大胆にキリストを証言する時
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🔷徒然日誌(令和8年8月26日) 使徒たちは大胆に福音を語ったー今は大胆にキリストを証言する時
「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。(使徒行伝4.29~31)

プロローグ
今回のテーマは「夢について」、及び「大胆にキリストを証言しよう」の2点であり、 キーワードは、「夢」と「大胆」である。
先日筆者は、明け方に意味深な夢を見た。それは、筆者が主礼で、悔い改めと赦しの祭儀を行っていた夢であり、 その夢で目が覚めた筆者は、いつになく爽やかで霊的に高揚していた。傍にカトリックの司祭が座っていたので、この夢はカトリックの秘蹟(サクラメント)だったのかも知れない。筆者は悔い改めの秘蹟を執り行っていたのであり、この夢は筆者に力を与えてくれた。
そして最近、何故か使徒行伝に何度も出てくる「大胆」という言葉が筆者の脳裏をかすめる。パウロは「主の名によって大胆に語った」(使徒行伝9.29)とある通り、復活のキリストと出会ったパウロは「大胆」に福音を宣べ伝えた。パウロの福音宣教は、旧約聖書の救済史の頂点として、十字架と復活のキリストを宣べ伝えるものである。
従って、今回、「夢」と「大胆」という二つのキーワードを手掛りに、以下、論を進めることにする。
【夢の神学】
さて聖書には、神が夢を通して御心を示される場面が数多く登場し、夢が神の摂理に重要な役割を果たすことがある。だが聖書は、「夢はすべて神から来る」とは教えていない。むしろ、夢には神からの啓示として与えられるものがある一方、単なる人間の夢、さらには偽りの夢、惑わす夢もあるので、吟味・識別が必要である。
<聖書に出てくる夢>
旧約聖書には、以下のように「夢」が神の啓示の手段になる場面が多々出てくる。

①ヤコブの夢(創世記28 .10~22)
ヤコブがエソウから逃れてハランに向かう途中、ベテルで石を枕に仮寝したとき、意味深い夢を見た。この夢は、神の臨在と契約の約束を象徴している有名な夢であり、ひとり旅を続けるヤコブに、神は「共にある」と励まされた。この夢は神の啓示に近い夢である。
「さてヤコブはハランへ向かったが、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。主は彼のそばに立って言われた、『わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう』」(創世記28.12~13)
②ヨセフの夢(創世記37章)
ヨセフは二つの象徴的な夢を見た。畑の束がヨセフの束を拝む夢、太陽・月・十一の星がヨセフを拝む夢。この夢は、将来兄弟や家族がヨセフを頼っていくことを暗示していた。兄たちはこの夢を憎んだが、後にエジプトで正夢になる。
③ヨセフ、ファラオの夢を解く(創世記41章)
エジプト王ファラオは、七頭の肥えた雌牛と七頭のやせた雌牛、七つの実った穂と七つの枯れた穂の夢を見た。ヨセフはこれを、七年間の豊作、七年間の飢饉と解き明かし、エジプトを飢饉から救った。ヨセフは夢の解き明かしにより、宰相にまで取り立てられたのである。
「パロは夢を見た。川から美しい、肥え太った七頭の雌牛が上がってきて葦を食っていた。その後、また醜い、やせ細った他の七頭の雌牛が川から上がってきて、川の岸にいた雌牛のそばに立ち、その醜い、やせ細った雌牛が、あの美しい、肥えた七頭の雌牛を食いつくした。.....再び夢を見た。一本の茎に太った良い七つの穂が出てきた。その後また、やせて、東風に焼けた七つの穂が出てきて、そのやせた穂が、あの太って実った七つの穂をのみつくした。」(創世記41.1~7)
その他にも、旧約聖書には、ソロモンの夢(1列王記3.5~15)や、預言者ダニエルが関わった夢(ダニエル2章)など有名な夢の話が書かれている。
⑤マリアの夫ヨセフの夢(マタイ1~2章)

新約聖書では、ヨセフは何度も夢で神の導きを受けている。「マリアを妻として迎えなさい」(マタイ1.2)、「エジプトへ逃げなさい」(2.13)、「イスラエルへ帰りなさい」(2.19~20)、「ガリラヤへ行きなさい」(2.22)。こうして神は夢によって幼子イエスを守られたのである。
➅東方の博士たちの夢(マタイ2.12)
博士たちは夢で「ヘロデのところに帰るな」とのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
以上の通り聖書には随所に夢の話が出て、神の意思を伝える場面がある。このように、聖書は神が夢を用いて語られることを認めている。 即ち、「わたしは預言者たちには、幻で自分を知らせ、夢で語る」(民数記12.6)とある通り、神が夢や幻で人間に何かを知らせる一つの方法として認識されている。
実は筆者にも過去何回かの印象に残る夢がある。その一つが20才代、韓国の水沢里中央修練院のセミナーに参加していた時見た夢である。即ち、筆者の内奥に内在する「深いしこり」を取り除かれるという印象的な夢だった。明くる朝、文鮮明先生はその夢のことを筆者に指摘され、言い当てられたことがあった。
『牢獄の救世主』を書いた那須聖氏によれば、文先生が「昨夜、こんな夢を見ただろう」と信者が見た夢を言い当てたという。夢とは、その人が眠っているとき、つまり身体的感覚が鈍化しているとき、霊人体の感覚が鋭くなって、「霊界との交流によって起こる現象ではないか」と那須氏は言う。(『牢獄の救世主』p.196)
<夢の分別>
一方で、すべての夢が神から来るわけではないとも教えている。「夢が多ければ空なる言葉も多い」 (伝道の書5.7)とあり、また、「わたしは偽りの夢を預言する者の敵となる。彼らは偽りと大言をもってわたしの民を惑わす」(エレミヤ23.32)とある通りである。
したがって、夢は神が用いられることがある一方で、その内容は神のみ言(聖書)に照らして吟味し、み言と一致しているのかという確認が必要である。
総じて、その夢が神や善霊から来たものか、そうではないかは、み言と共に、自らの本心に照して判別するのが望ましい。先日の筆者の夢のように、神が霊的に引き上げて下さっていると体感し、本心が心霊的な喜びを感じているなら、間違いなく神や善霊からの励ましであり、神が本心に示された霊感(インスピレーション)である。聖書は次のように言う。
「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。(ヨエル2.28)
<啓示、黙示、役事>
旧約聖書に、「預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかしモーセとは、そうではない。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない」(民数記6.6~8)とある通り、神は夢や幻で神のみ心を示唆されると共に、「口ずから」、即ち啓示として示されるというのである。
啓示、黙示、役事は神の霊の働きに関する概念である。神の神霊と真理との交わりを通して、私たちの心霊と知能が啓発される時、インスピレーション(暗示・夢・幻)→啓示→黙示→役事というように、段階的に霊的恩寵が深まっていく。ちなみに、神霊とは「神の愛の力」、真理は「神の愛のみ言」であり、神霊は祈りによって、真理は啓示によって与えられるという。
天聖経第七篇「地上生活と霊界」によると、私たちは、心の門(心門)に合わせて心田(霊性)を啓発し、神霊と真理で礼拝していくと、先ず始めに「暗示・夢・幻・直感」などによってインスピレーションを与えられるという。そして、啓示、黙示、役事というように段階が進んでいく。
①啓示
啓示(revelation)は神学の重要な要素と言われ、神は預言者たちに啓示を与えられた。ユダヤ人は啓典の民であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「啓示宗教」といわれている。啓示とは、人間には見えない隠された真理の「覆いを取り去って」示すことで、神は預言者、賢者、使徒たちを通して、神の言葉を啓示されてきた。
さて啓示は「一般啓示」と「特別啓示」に分けられる。一般啓示には、「自然」(神は自然を通して自らを顕されている)、「良心」(神は人間の良心に顕れる)、「歴史」(特にイスラエルの歴史に神の啓示が顕れている)、があり、神は自然、良心、歴史を通して自らを啓示されるというのである。
しかし、救いを伴う完全な啓示、即ち「特別啓示」は「聖書」であり、その頂点に立つのがイエスの受肉だといわれている。神は聖書を通し、イエスを通して特別啓示として自らを完全に顕されたという。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」(ヘブル1.1~2)とある通りである。
この点創始者は「原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造りかえる偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしているのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P594)と語っておられる。
②黙示
そして啓示の次に来るのが「黙示」である。黙示によって、四六時中霊界の中に入り、神の生活感情に触れるという体恤的信仰を体験する。ヨハネ黙示録はその典型で、エゼキエル書、ダニエル書にも黙示が書かれている。黙示とは、ユダヤ教やキリスト教では、神が特別の方法により、通常の才能や知識では測り知ることのできない「隠された真理を開示すること」 であると言われている。
神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録した書を黙示文学といい、黙示文学はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統において極めて重要な位置を占めている。
③役事
次に啓示、黙示の具体化として、癒しや再臨復活などの役事が始まる。人間が神の霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、癒しや悪霊の分立などその肉身に多くの変化を起こすようになる。またイエスの復活後、霊界で墓(霊形体級)で眠っていた先祖は、子孫に協助して自分たちがやり残したものを代理でやってもらうという「再臨復活現象」 の役事が起こってくる。
以上、夢、啓示、黙示、役事について見てきた。こうして、インスピレーション→啓示→黙示→役事という流れの中で、あるいは同時並行的に、私たちの心霊的背景は順次高められていくことになる。
【大胆にキリストを証言する】
上記の通り、筆者は夢という一種のインスピレーションによって大いに啓発されたが、最近、もう一つ「大胆」というインスピレーションを得た。
今や解散騒動のお陰で、良くも悪くも、UCの教義(原理)と教祖の存在がクローズアップされている。内村鑑三は「大悪人が現れたという噂を聞いたら注意して調べて見るべきである。その人は大善人(再臨主)である可能性がある」(西希悦著『キリストの再臨と日本』p.64)と言ったが、今こそ夫婦共に牢獄の人生を余儀なくされた文鮮明師と韓鶴子女史を研究する価値がある。そしてパウロが復活されたキリストを大胆に証言したように、今や統一信徒は、来たりたもうたキリストを大胆に証す時である。→ https://x.gd/zNAzs
<初期キリスト教の弟子たち>
初期キリスト教の弟子たちは、大胆に福音を宣べ伝えた。特に『使徒行伝』には、その「大胆さ」が初代教会の大きな特徴として描かれている。

ペンテコステ直後、ペトロは公然と説教した。イエスが十字架につけられた時、弟子たちはユダヤ当局を恐れていたが、聖霊降臨後、ペテロはエルサレムの群衆を前に、「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、キリストとしてお立てになったのである」(使徒行伝2.36)と大胆に語った。
また、「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい」(使徒4.29)と語り、そして祈りの後、「一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した」(使徒4.31)とある。
そして神殿でも、イエスの復活を大胆に宣べ伝えた。ペトロとヨハネは、エルサレム神殿で、「あなたがたは、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」(使徒3.15)と語った。ペトロとヨハネは逮捕され、最高法院(サンヘドリン)の前に引き出されるが、「この人による以外に救はない。わたしたちは、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒4.20)と答えたという。
こうして、イエスの逮捕のとき、ペトロはイエスを三度知らないと言い、イエスの十字架を前にして恐れて逃げた弟子たちだったが、復活したキリストに出会い、聖霊を受けて、死をも恐れず大胆に復活のキリストを宣べ伝えた。
<復活のイエスに出会ったパウロ>

復活のキリストに出会ったパウロもまた、迫害する側から、命がけで「キリストは復活した」と大胆に宣べ伝える側へ激変した。
パウロはダマスコで回心した直後、すぐイエスを宣べ伝えた。「ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた」(使徒19.20)とある。またエルサレムに戻ったパウロは、弟子たちから最初は警戒されるが、バルナバが彼を取次ぎ、「それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語った」(使徒9.28)とある。
そしてパウロは アンティオキアの会堂で、長い説教をし、「神はイエスを死人の中から、よみがえらせた」(使徒13.30)と宣言し、そして、「このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである」(使徒13.38~39)と、十字架と復活のキリストを宣べ伝えた。
またパウロはアテネのアレオパゴスでも、異教徒に福音を語った。パウロはギリシア哲学・宗教の中心地の一つであるアテネで、アレオパゴスの議員たちを前に、天地を創造された唯一の神について次のように大胆に語った。
「アテネの人たちよ、そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。.......すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒17.23~31)
コリントでは珍しくパウロ自身が恐れや弱さを感じていたところ、主が幻の中で、「恐れるな。語り続けよ。黙ってはいけない」と語られ、そして、「あなたには、わたしがついている」と励まされた。(使徒18.9~10)
こうしてパウロは、エフェソス(約3年滞在)、マケドニアなど反対や苦闘がある中でもひるむことなく福音を語り、ローマに囚われて自宅軟禁状態にあっても、大胆に福音を語り続けた。
【Xへ投稿】
筆者はお盆明けから10日間、以下のように「X」に投稿した。解散騒動で、UCの教義と教祖が注目を浴びている今こそ、ペテロやヨハネ、そしてパウロが復活されたキリストを大胆に証言したように、再び来られた救い主を大胆に証す時がきたと感じるからである。
🔷「大悪人の評判の裏に大聖人の姿あり」とは内村鑑三の言葉だが、イエス様と同様、UCの教祖ほど悪口を言われた人はいない。解散問題で注目を浴びる文鮮明教祖だが、いかに聖書を研究し、いかにイエスと一問一答したか、「文鮮明師の聖書観と聖書の弱者救済思想」を研究されたし。→ https://x.gd/KMgsN
🔷統一は反日団体だと左翼は喧伝するが、事実は真逆で、統一教祖は親日家・愛日家だ。そして民族主義者ではなく、純然たる世界人である。早稲田大学留学中に原理を最終的に解明し、誰よりも日本と日本人をこよなく愛した愛の記録がある。→ https://x.gd/hkoED
🔷統一は真性な愛国者。教義に反日思想も自虐史観もない。「日本は罪深いエバ国家だから、アダム国家の韓国に貢ぐべしという教義がある」という論は、教義を読んだことのない輩の妄想。真性なアダム国家・エバ国家論とは何か、いかに統一が国に献身したか、研究されたし。→ https://x.gd/D7Bgp
🔷統一の解散騒動は「教義とは何か」「文鮮明教祖とは何者か」といった、より本質的な事柄を問題提起するという趨勢にある。UCを擁護する多くの言論も出て、教義と教祖を言論の遡上に載せる効果が生まれた。今回、文鮮明師の日本観、韓国観、世界主義について考える。→ https://x.gd/dYyXR
🔷内村鑑三曰く「死にて活き、捨てて得る、基督教の逆説とはこの事をいう」と。国は全てを奪えても信仰は奪えない。全てを失った統一だが、神の言葉は奪えない。全てを失ったパウロだが、復活のキリストを大胆に証言した。今こそ福音を宣べ、キリストを大胆に証す時である。→ https://x.gd/ZdhHK
以上、「使徒たちは大胆に福音を語ったー今は大胆にキリストを証言する時」との主題のもとに、「夢について」、及び「大胆にキリストを証言しよう」という二つのテーマについて論考した。解散という未曾有の試練の只中にいる統一信徒だが、繰り返し述べてきたように、まさにピンチはチャンスであり、UCの教義と教祖がクローズアップされている今こそ、原理と教祖を大胆に証言する時である。(了)
牧師・宣教師 吉田宏



