傘寿に思う -「清算」「再献身」「大胆に証言」
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🔷徒然日誌(令和8年9月2日) 傘寿に思うー「清算」「再献身」「大胆に証言」
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きるのである(ロマ6.6~8)
プロローグー別人となって

本日9月2日、筆者は傘寿(80才)を迎えた。実は、筆者はこの歳まで元気で生きておられるとは思っていなかったのである。40才代で胆嚢を取り、今まで2回の心臓冠動脈狭窄手術をしているからである。だが、神はこの歳まで健康を与えたもうた。故に筆者は、この神の恩寵に応えるためにも、もう一度神に献身しなければならない。即ち、「Rededicate」(再献身)である。
筆者は人生の最終章で、「聖書を研究しなさい」との神の声を聞き、以来、聖書とキリスト教神学に取り組み、3年前には『異邦人の体験的神学思想』という560ページの神学本を出すことができた。この本は、聖書と原理の橋渡しを意識した本である。今、つくづく思うのは、旧約聖書、新約聖書、原理講論は三冊の本ではなく「一冊の本」であるという実感である。
神の救済摂理は旧約から新約を経て成約に至るが、旧約時代を導いて来たのが旧約聖書、新約時代を導いて来たのが新約聖書、そして成約時代を導くのが原理講論(正確には原理講論に加えて、天聖経などのみ言)である。筆者はこの三者を一括して「神の言葉」と呼ぶ。そして神の言葉は三冊ではなく一冊なのである。
筆者の理解では、神が根っ子であるとすれば、旧約聖書は幹、新約聖書は枝、原理講論は果実ということになる。従って果実の味を深く味あうためには、即ち原理を深く理解するためには、原理に至るまでの、神を起点とする旧約聖書、新約聖書、キリスト教史、即ち神の救済史の霊的核である「聖書的霊性」を相続することが不可欠である。
ちなみに原理は、文鮮明師(以下、「創始者」と呼ぶ)が文字通りサタンとの死闘を経て(生涯6度の牢獄)、神とイエス様との命がけの一問一答の中で見出だされた真理である。原理は、聖書の奥義をことごとく明らかにし、あらゆる宗教経典の本義を解明した最終真理であると筆者は確信している。そしてこの業は、サタンの讒訴条件のない無原罪で誕生されたメシア(独り子)にしか出来ない。
筆者は、傘寿を前に、「神と神の言葉の前に、再献身」(Rededicate)しなさい」という本心に響く声を聞いた。聖書に、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)とあるように、過去の失敗や悪癖の一切を清算すると共に、「別人となって以後の人生を生きよ」と神は言われる。
【清算・再献身・大胆に証言」
「清算」「再献身」「大胆に証言」、この3つの言葉は、傘寿に際しての標語としたい。前述したように傘寿まで生きれるとは思っていなかった筆者は、以後の生はある意味でプラスアルファの神のプレゼントと言えなくもない。故にこれからの筆者の人生は、「神からの預りもの」と認識したいと思う。
創始者は、「肉体を持った人生というものは、ふと一瞬たってはたちまちかき消えてしまう朝もやのごとく、束の間のはかないものです。」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史p.605)と言われ、聖書にも、「あなたの目には千年もきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」(詩篇90.4)とあるように、永遠という尺度から見れば人の一生などまばたきのような一瞬と言えなくもない。
しかし、一瞬は永遠でもあり、永遠の生の基礎になるのが有限な肉体を持った地上の生である。そしてこの世には試練と艱難がつきものである。しかし聖書に「人もしこれを得んと欲せばまずこれを捨てざるべからず」(マタイ16.25)とあり、内村鑑三が「死にて活き、捨て得る、基督教のパラドックス(逆説)とはこの事をいう」(『基督信徒の慰』岩波文庫p.25)というように、有限な地上の生には試練は付きものであり、永遠に至らせる訓練場として、重要な意味を持つ。
では、神から預かった命をいかに管理すればいいのだろうか。為すべきことを為すためにも、また回りの負担にならないためにも、健康を保つことは不可欠である。この健康管理については、どの本を読み、どの専門家の話を聞いても、結局、健康管理の大原則は、①食の管理、②適度な運動、③生き甲斐を持つこと、この3点に尽きる。そして筆者は、目下、食生活の大改革を実行中である。(参照-健康寿命を考える→ https://x.gd/CWdSI )
ところで、厚生労働省の最新の「健康寿命」の公表値を基準にすると、日本人男性の平均寿命は81才(女性87才)、健康寿命は72才(女性75才)だという。健康寿命とは介護が必要になる年齢というより、健康上の制限を抱えて生きる期間だという。その基準から言えば、筆者はまだ健康寿命を更新していることになり、神と両親に感謝したい。
<清算>
過去は人によってかなり景色が違っている。栄光の過去を持つ人もあれば、筆者のように、苦節と悔恨の過去を背負う者もいる。思い返せば悔い多き人生だった。とりわけ物心両面において世話になった両親に、一度の旅行、一枚の服も買えず、人生の晴れ姿を見せることが出来なかった悔いが深く残る。だが先だって、夢で品のよい和服姿の晴れやかな母と出会って筆者は安堵した。聖書に「うしろをふりかえって見てはならない」(創世記19.17)とあるように、もはや後ろを振り返ることは決してするまい、然り、「先ず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6.33)とある通りである。創始者は次のように言われた。
「アダム、エバ、そしてカイン、アベルから始まった聖書史は、初めから失敗の記録であるといえます。そのあとに続くノア、アブラハム、モーセ等の預言者たちもすべて、歴史の上に失敗を残し、洗礼ヨハネも取り返しのつかない失敗をしました。そしてイエス様の使命でさえ、第一次摂理としては失敗だったというのですから、聖書全巻を通じて失敗の記録だというわけです。」
そして、「先生によって、過去に失敗したすべてを寄せ集めて蕩減し、清算し尽くすことによって、歴史の糸のもつれのすべてを解いて、再びより合わせて勝利へと結ぶ時である」と言われる。(以上、『御旨と世界』創立以前の内的教会史p.595)
筆者もまた、傘寿を前に、過去の失敗や悪習慣をを悔い改めて清算し、純白の無垢な体として再出発したいと切望する。
パウロが、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きるのである」(ロマ6.6~8)と語ったように、過去の過ちや執着を清算し、 贖われて古い自分と決別し、キリストによる新しい命を得るべきである。まさに「死にて活き、捨て得る」とはこのことである。
<再献身>

さて、「Rededicate 250」(リディディケート250)とは、トランプ政権が2026年のアメリカ建国250周年を機に行った、全国的な祈りと礼拝の集会であり、2026年5月17日、ワシントンD.C.のナショナル・モールで開催された。
アメリカ建国250周年を記念して、全国のキリスト教徒が集まり、アメリカの歴史を神に感謝し、悔い改め、アメリカを「神のもとにある一つの国」として再奉献するという趣旨の大規模な集会だった。つまり「 rededicate」とは「再奉献(再献身)する、もう一度神にささげる」 という意味である。
そしてそれは、1776年5月17日、独立宣言(7月4日)直前の第二次大陸会議が「謙遜・断食・祈り」の日を設けた歴史を記念し、また、250年前に建国の父祖たちが神に祈った祈りを想起することでもあった。トランプ大統領自身も2026年を「Celebration and Rededication(祝賀と再奉献)」の年として位置づけ、アメリカの歴史を振り返り、神の祝福に感謝し、国と国民のために祈り、「One Nation Under God(神のもとにある一つの国)」として再び自らを奉献するという趣旨を打ち出したのである。
筆者もアメリカの「Rededicate 250」にちなんで、傘寿を期に、神と神の言葉に自らを「再奉献・再献身」をしたいと思料する。然り、傘寿の誕生日は、過去を清算し、悔い改めて出直し、もう一度献身を誓う日である。(参照-全信徒は再献身(re-dedicate)を→ https://x.gd/knoFp )
<大胆に証言>
内村鑑三は著書『一日一生』(教文館)の 9月2日 の箇所で、「私に閑寂な時間と明るいランプ、辞書と地図と数巻の書があれば、私に王者の快楽があり、私は他に求めるところはない。」と述べた。この言葉は、単なる「本が好きだ」という意味ではなく、社会的には決して安定した人生ではなかった内村鑑三が、物質的な富や誉れから自由になり、神の真理を探究できることの喜びを吐露した実感である。筆者もまた同様であり、神の言葉を研究することに無上の喜びを感じている。

そして筆者は、内村鑑三の著書『求安録』(岩波文庫)の末尾にある鈴木俊朗氏の「解説」を読んで、目から鱗の出会いをし、大いに啓発された。即ち、1919年(大正8年)1月24日の内村59才の日記に、『求安録』を読んだ支那人の回心について、次のような一文がある。(『求安録』岩波文庫P135~136)
「神戸在留広君の言に依れば、東人◯◯君は日本語を能く語り得る支那人であるが、彼は今より三年前、或る古本屋にて金五銭にて『求安録』の古本一冊を買い求め、これを読みて自己の罪を悟り、悔い改めて基督信者と成り、続いて他の同国人を導き、今や一小教会を設立するに至りしとのことであった。」
つまり、内村鑑三の一文がこの支那人に霊感を与え信仰に導いたというのである。そして内村鑑三は、「此の一人を得ば足りるのである。ああ神よ、今より二十六年前、熊本市外、託磨ヶ原槇樹(たくまがはらまきのき)の下に於いて、古き支那鞄を台にして書きし此の書が、今日此の果を結ぶに至りしは如何なる恩恵ぞ。感謝、感謝。」と記している。
ちなみに『求安録』は、キリスト教思想家である内村鑑三が、自らの逆境体験と信仰的実験を通じて、いかに「平安」(安らぎ)を探求し、また得られたる平安の理由を究明せんとした組織的な信仰論である。そして、キリストの贖罪の福音に平安を見出し、人類救済の道について論じた書であり、日本の近代において、神学を個人的、主体的なものとして定着させた先駆的な書とも評価されている。
但し、内村鑑三が『求安録』で追い求めた「平安」とは、一般にいう「何事もなく、波風がなく、穏やかに暮らせる楽な状態」という意味ではなく、内村にとっての平安は「神との和解」であり、「死にて活き、捨てて得る」ところから来る魂の安らぎである。
また真言密教の大成者空海は、仏教・儒教・道教の比較宗教の書である『三教指帰』(さんごうしいき)の序で、「文章は、人が心に感動し、その感動を紙に書き記す」と記し、文章は心の感動から生まれ、人を変える力を持つという。一方、文章(言語)は不完全で真理を完全には表せないとも述べ、だがそれでも「人を真理に導く縁になる」とした。
かようによき文は人の心に響き、人を変えるきっかけになるのである。筆者もまた同様に、文書啓蒙に余生を賭け、大胆にキリストを証言したいと思う。
かって筆者は、日本でも一、二を争う大教会「大和カルバリチャペル」の牧師である大川従道氏の著書『永遠と復活』というセカンドチャンス肯定論の本の論評をしたことがある。その一文を読まれた大川牧師から丁重な電話を頂き、交流を深めるきっかけになった。また、執行草舟著『超葉隠論』(実業の日本社)を論評したところ、いたく共感され、半蔵門の会社で執行社長とお会いし、色々意見を交換することができた。執行氏には、冒頭、筆者がUC(旧統一教会)の熱心な信者でもあることを告白した。かように文書は人と人をつなげる架け橋になるのである。
ところで、福音宣教には、大きく路傍伝道、訪問伝道、渉外伝道(因縁伝道)、文書伝道がある。筆者の旧知の友人は、毎週日曜日の午後、駅頭に立って路傍伝道をかれこれ7年以上実践しているが、納得の上、韓鶴子著『平和の母』を400名以上の人に手渡したという。人にはそれぞれ持ち味、即ち神から与えられた「賜物」があり、それぞれの賜物を生かしてみ旨に同参する道があるというのである。
内村鑑三は「口をきく者」(説教者)でもあるが、何よりも「筆をとる者」、即ち文筆家であり、これこそまさに内村流の文書啓蒙であり、『求安録』を読んで、導かれた前述の支那人の証は、その好例で心を打つものがある。
筆者は神の霊に導かれて、内村鑑三の年齢に遅れること40年、古稀を過ぎて二冊の宗教本を出版し、ホームページに532本の文書(現時点)を書き記した。今、「X」、「Facebook」、「note」にも投稿しているが、筆者はこれを以て文書による福音宣教と考え、時宜に応じて発信し、神とキリストの証言者たらんと、微々たる奉仕をしているものである。まさにSNSは神が与えたもうたよき伝道のツールというしかない。ちなみに筆者の「note」のプロフィールには、「後世のためにnote投稿記事を遺言として残す」としたためている。
内村鑑三は、「大悪人が現れたという噂を聞いたら注意して調べて見るべきである。その人は大善人(再臨主)である可能性がある」(西希悦著『キリストの再臨と日本』p.64)と言ったが、今や解散騒動のお陰で、良くも悪くも、UCの教義(原理)と教祖の存在がクローズアップされている。まさにこの騒動はキリストを証すための神が与えたもうた霊妙な摂理なのかも知れない。キリストと福音を大胆に証言しなさいと、神が言っておられると筆者には感じられる。
初期キリスト教の弟子たちは、復活されたイエス・キリストを大胆に宣べ伝えた。『使徒行伝』には、その「大胆さ」が初代教会の大きな特徴として描かれている。
ペトロとヨハネは、エルサレム神殿で、「あなたがたは、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」(使徒3.15)と大胆に語り、復活のキリストに出会ったパウロもまた、「ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた」(使徒19.20)とある。(参照-使徒たちは大胆に福音を語ったー今は大胆にキリストを証言する時→ https://x.gd/RSRek )
以上、「傘寿に思うー清算、再献身、大胆に証言」とのテーマで傘寿を迎えた筆者の率直な抱負を述べた。創始者は『御旨と世界』の中で次のように言われている。まさに「時来たれり」とはこのことである。
「今後、先生の教えがさらに綿密詳細になり、より分析、整理されて、直接的、字義的に表されてくる時、そこまで実体的に真理を知ることのできるあなた方は、何と大いなる時に、黄金のごとく貴重なる時に生きているあなた方でありましょうか。....今、私たちは、神の歴史の登場人物となり、創造者ともなって、神の歴史の最後の一章を書き下ろしてフィナーレを告げんとする、まさに復帰歴史の頂点に生きているのです。」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史p.603) (了)
牧師・宣教師 吉田宏



