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安倍事件 文藝春秋編『統一教会 何が問題なのか』に反論する

◯つれづれ日誌(令和4年11月30日)-安倍事件ー文藝春秋編『統一教会-何が問題なのか』に反論する


このような文明史の推移を、神様の摂理として理解すれば、今日、天運の中心的立場に置かれている島嶼国家は、正に日本であると考えざるを得ません。日本は神様の摂理を通して、人類歴史の舞台に立ったのです(平和経P1365)


最近、文春文庫から、文藝春秋編『統一教会-何が問題なのか』というタイトルで、旧統一教会のカルト・反社性を総合的に洗いざらい暴露したアンチ統一教会本が出ました。文春は前にも前科があるので、「またやってくれたか。どうせ同じことの繰り返しだろう」と思いましたが、一応目を通して検証することにしました。


7章の「教義から見た統一教会」は1992年12月号の文藝春秋に掲載されたものですが、他の8編は安倍元総理暗殺後の文藝春秋または週刊文春に掲載されたものということであります。


内容としては、正体を隠した伝道・組織的な献金強要・合同結婚式への勧誘などに違法性と反社会性があること、安倍家三代との癒着の問題、山上家の悲劇と暗殺のつながり、今でも続く献金の組織的強要、信者家族・二世の苦しみ、日本人妻の悲劇、文鮮明一族の真相、有識者の対談等々、正に洗いざらいとの感がいたします。しかし、流石に今新たに問題視されている養子縁組の問題には触れていませんでしたが....。


筆者の全体の読後感としては、鈴木エイトも投稿していましたが、今まで言い古されてきたことの繰り返しにしか過ぎず、思ったよりインパクトはなく、いちいち目くじらを立てることもないというのが実感でした。


しかし、政治評論家と称する伊藤達美氏の「教義から見た統一教会」については、あまりにも浅薄な教義理解で間違いも多く、教義の根幹に関わる問題でもあり、きちんと反論しておきたいと思う所存です。また、他にも、幾つかの気になった問題記事がありますので、あわせて言及することにいたします。


【教義への浅薄で悪意の曲解】


即ち、筆者が最も注目し、これは捨て置けない問題だと思ったのが、7章の「教義から見た統一教会」であります。細目には、「文鮮明こそ再臨のメシアが教義の結論」、「日本はサタンの国、・極端な韓国中心主義」、「民主主義の否定・全ての権力は文教祖に」、といったおどろおどろしい言葉が並んでいます。これらは伊藤氏のいい加減な教義理解から来る悪意の曲解であり、以下、幾つかの問題点を検証いたします。


問題点①ーイエスに失格者の烙印


伊藤氏は、原理講論は「イエスにメシアとして失格者としての烙印をおしている」(P140)と断定していますが、これは大変誤解を受ける表現です。文鮮明師は、イエス様を第二アダムとして降臨された罪(原罪)なきメシアであり、旧約聖書のメシア預言を成就したキリストと位置付けて、最大限の敬意を払っておられます。現に、文師が16才で神の召命を受けられた時も、「やり残したことをやって欲しい」との、イエス様からの直接の使命の継受でありました。以後、イエス様と二人三脚のように寄り添って、神のみ旨、即ち神の創造理想の実現のために献身されたのであります。


確かに、イエス様の救いの業は、イスラエルがイエスを旧約聖書に預言されたメシアとして受け入れなかったために、十字架という予期せぬ受難に遭遇して、霊肉の完全な救いではなく、第二次摂理としての霊的救いに終わったと解釈していることは事実ですが、聖霊の役事と共にキリスト教の創始者として2000年歴史を主導されてきた実績を高く評価しています。また、教会では「贖罪の羊」として悲惨な死を遂げられたイエスの恨みを解くための祈りを捧げています。


従って、失格者の烙印どころか、統一教会はイエス・キリストの土台の上に立っているのであり、それは、伊藤氏が頻繁に引用している原理講論が、正に聖書に基礎を置き、その奥義を解明した聖書の新しい解釈論であることを見ても明らかです。


問題点②ー原理講論は、文鮮明こそが再臨のメシアであることを宣布するための本


また伊藤氏は、創造原理や堕落論や復帰原理を自己流に少し説明した上で、原理講論は、「文鮮明こそが再臨のメシアであることを宣布するための本に他ならない」(P141)と決めつけていますが、これは極めて偏った独断です。


無論、原理講論が、文鮮明師が再臨のメシアであることを証言していることは言うまでもありませんが、本書の目的は、それだけではありません。むしろ聖書の奥義の解明を通じて、究極的な宗教真理を明らかにすることにこそ本書の核心があり、その結果として、この真理を解明された文師を証すことになっているのであって、伊藤氏の決めつけは主客転倒も甚だしいという他なく、大いに悪意の動機を感じるものです。


問題点③ー日本はサタンの国


次に伊藤氏は、「日本は『サタン側の国家』と規定される。これは、われわれ日本人が統一教会を知る上で最も重要な点だ」(P145)と強調し、長々と原理講論再臨論のフレーズを引用して、植民地統治時代に日本人がいかに韓国人を虐待したかを指摘しています。


実は伊藤氏の狙いはこの点にこそあります。つまり、宗教教義の中に反日思想が組み込まれていると強調することによって、統一教会が「反日団体」であること、従って日本と敵対する宗教であることを万民に植え付けることに主たる狙いがあるというのです。


この点、文藝春秋9月号に、「日本はエバ国家で、姦淫の原罪により、日本は韓国に尽くさなければならないという(自虐史観の)教えが根幹にある」と記載し、やはり間違った教義の解釈(曲解)によって、反日性を煽っています。いわゆる韓国はアダム国家、日本はエバ国家で、日本は韓国に貢ぐことが、教義として位置付けられているという誤った選民観です。


しかし、この韓国はアダム国家、日本はエバ国家、即ち父の国、母の国という構図はあくまでも相対的な概念で、神から付与された使命を果たせなければ、新しい国や群れ(宗教)に取って代わられるというのです。それは、イスラエルユダヤ教からキリスト教へと選民たる資格が代わったようにです。


統一教会は、神を「天の父母」と呼んでおり、父と母、あるいは夫と妻に上下主従関係はなく、価値的に対等であり、従って、日本が韓国に貢がなければならないといった思想は教義の中に一切ありません。文春のいう指摘は、教義を曲解して、反日団体とのレッテル貼りをしているに過ぎません。むしろ 日本は摂理的な母の国 として、 全世界を愛で抱く素晴らしい役割を持った国、即ち、日本の歴史上初めて、世界史的意義を担った国として位置付けられ、大きく用いられています。


文師の言葉に、「このような文明史の推移を、神様の摂理として理解すれば、今日、天運の中心的立場に置かれている島嶼国家は、正に日本であると考えざるを得ません。日本は神様の摂理を通して、人類歴史の舞台に立ったのです」(平和経P1365) とある通りです。


実際日本は、自虐史観に基づいて韓国に貢いだことなどなく、世界本部を通して世界宣教を支援し、またある時は直接的に世界を支援してきたというのです。ちなみに1972年から40年間はアメリカ世界本部を通して、ここ十数年は韓国世界本部を通して世界宣教を経済的に支え、また途上国へのボランティアを支援してきました。国内的にはスパイ防止法制定など勝共運動、反共運動を支援してきました。そしてこれらの世界貢献は非難されるどころか、誇るべきことであります。


さて、伊藤氏は、原理講論の546ページ「第二次世界大戦における天の側国家とサタン側国家」や、547ページ「天の側とサタンの側が各々三大国に対立した理由」を引用し、日本はヒットラーのドイツやムッソリーニのイタリアと並んで「サタン側」と位置付けているとし、これは統一教会が反日団体であることの証左であるというのです。(P145)


また、原理講論の587ページ「この国は蕩減復帰の民族的な基台を立てなければならない」を引用して、日帝が韓国に対して如何にひどい扱いをしたかが強調されていると指摘し、露骨な反日感情に満ち満ちていると非難しました(P150)。


しかし、これらは大きな誤解であります。確かに戦前の一時期、日本軍部の独裁があり、また非キリスト国家でもありましたので、アメリカ、イギリスなどの、より神に近いキリスト教を奉じる民主主義国家に対して、サタン側と位置付けられています。しかしこれはあくまでも戦前の一時期に限られた相対的概念であり、戦後は自由・民主・人権・法の支配といった普遍的価値を尊ぶ国家として、日本は明確に神側として位置付けられています。


原理講論をはじめ、文師や統一教会が、軍部の独裁で韓国を迫害した国と非難しているのは、あくまでも戦前の一時期に限定された日本であり、上記した通り、むしろ戦後は神の摂理上、重要な国として、高く位置付けられています。日本の統治時代、独立運動を担って弾圧されたのが主にキリスト教徒であり、その立場から日本の軍部の迫害を誇張して強調しているという一面は否めないにしても、非難だけでなく、日本の統治によって韓国の近代化が進み、生産力も向上したとの文師の評価もあり、一面だけを切り取って、統一教会が反日的だと断じるのは片手落ちです。


以上の点については、「つれづれ日誌(令和4年9月7日-UC教義に自虐史観はない」、及び「つれづれ日誌(令和4年9月14日)-UC教義に反日思想はない 」に詳しく言及していますのでご参照下さい。


問題点④ー極端な韓国中心主義


更に伊藤氏は、「原理講論には、極端な韓国中心主義が記されている」(P150)と主張し、この裏付けとして、596ページ「この国であらゆる文明が結実されなければならない」を引用して指摘しています。


この点、この一見、韓国中心主義とも思える記述には、その前提として、原理や文師の持つ、徹底した世界主義と全人類的な歴史観があることに留意しなければなりません。これらは以下の文師の言葉を見ても明らかです。


「私たちは世界主義が必要です。神様も世界主義であるに違いありません。統一教会は、共産党よりもキリスト教よりも世界主義であることを理解させなければなりません」(1983年6月5日ベルベディア)


「世界平和家庭連合の目的は、超民族的、超国家的、超宗教的理念に基づき、五色人種が永生を謳歌する人類一家族世界の歴史的聖業を成就することです」(平和経P1370)


そして、文師は、韓国の歴史を振り返って、受難の民、可哀想な民族との認識 を示され、「韓民族がこれまでに受難を経験してきた悲惨な歴史には、深い意味があります。韓国が世界平和の前進基地になる運命なので、そのように多くの苦難を経験してきたのです」(自叙伝P287)との歴史観を披瀝されているように、単なる偏狭な韓国中心主義ではありません。


また一方では、「先生の教える主義は韓国式ではない。先生は韓国人ではない。韓国で生まれたが、韓国から今まで迫害されてきたものである。先生の主張するのは韓国の歴史にない主義を唱えている。風習、風俗、みな韓国式でなく神様の願う方式である」(1972.4.23) とも語られています。


即ち、文師は「韓国人」としてではなく「平和を愛する 世界人として 」(自叙伝)生きられ、また世界史的立場から見ても、世界平和にとって 「日韓和合」と「韓半島の平和統一」が重要 だと考えておられることは確かで、韓国人に は「怨讐を許し、愛し、日本人以上に日本を愛せ」 と教え、 日本人には「韓国人の痛みに寄り添う努力を」 と指導されています。


以上、伊藤氏の教義批判に対して、問題点を指摘し、これらの悪意の教義の曲解について論評しました。


【正論を述べる月刊Hanada】


さて、上記の文春本による統一教会叩きに対して、月刊Hanada(12月号、1月号)には、現下の統一教会問題の本質について、極めて鋭い正論が語られています。ノンフィクション作家福田ますみ氏は、正確な資料の読み込みと丹念な取材に基づいて、統一教会バッシングの背景に、「左翼の教会潰し」の実体があることを明らかにされました。



12月号には、「新聞・テレビが報じない脱会屋の犯罪」と題して、いわゆる拉致監禁による強制脱会の手口が詳細に書かれています。強制脱会屋の宮村俊氏は、日本同盟基督教団の松永やすとも牧師や紀藤正樹弁護士、有田芳生氏らの左翼と組み、多額の金銭を父兄からせしめて、強制脱会請負人として「脱会ビジネス」に手を染めてきたというのです。


1966年から2014年まで、4300人以上の統一教会信者を拉致監禁し脱会させ、中には後藤徹氏のように、12年5ヵ月もの間、拉致監禁され、ひどい人権侵害にあった人もいます。


そして筆者が最も驚いたのは、1987年から行われた、いわゆる「青春を返せ裁判」において、なんと原告180人のうち、数人を除いたほとんどが、拉致監禁されて強制脱会された元信者だという事実でした。また東京裁判では、原告59人のうち、40人が元信者だというのです(P97)。


これらの強制脱会された元信者の「青春を返せ」裁判によって、2001年、2012年には、札幌地裁でおかしげな裁判官の屁理屈により、正体を隠した伝道方法が違法とされたことがありました。この訴訟に関しては、フリーライターの石井謙一郎氏が「文藝春秋編『統一教会-何が問題なのか』(P15)でも筆頭に取り上げています。


そしてHanada1月号には、「統一教会問題の黒幕」と題して事の本質について緻密な分析があります。


1986年、山口広など被害弁連の弁護士が所属する社会党の「社会文化法律センター」(社文)内に、統一協会対策委員会が設置され、「霊感商法の背後に国家機密法推進の勝共連合がいる。霊感商法の 資金がスパイ防止法制定運動に流れている」として、徹底的な統一教会潰し、スパイ防止法潰しに乗り出したというのです。


福田ますみ氏は、「霊感商法潰しの目的はスパイ防止法潰しという左翼勢力の不純な動機」(ゼンボウ1997年5月号)を引用して、この度の統一教会叩きの背後に「左翼という黒幕」がいることを指摘しました。即ち、「共産党系弁護士たちが、反共をはっきり標榜する宗教団体を潰したいと考えるのは、ある意味自然であり、統一教会がここまで叩かれる謂れはそこにある」と明言されました(P56)。


筆者は、この安倍事件に端を発する統一教会問題の本質は、「有神論と無神論との戦いであり、また一神教と多神教との相克である」と意義付けましたが、正に福田氏の指摘と軌を一にしています。


そして福田氏も指摘されているように、これらの見解が正しいことは、1978年日本共産党の宮本顕治委員長が、「自民党に対して、勝共連合と一緒になれば反撃をくって損だという状況を作ることが重要だ」と述べて勝共と自民党の分断を宣言し、また2022年11月6日、田原総一郎氏との対談の中で、志位和夫委員長が、「今回は統一教会との最終戦争だ。今度は決着をつけるまで、とことんやる」(サンデー毎日)と明言したことで証明されています。


【仲正昌樹氏に一言物申す】


さて「文藝春秋編統一教会-何が問題なのか」に話を戻しますが、その9章で、宮崎哲弥、島田裕己、仲正昌樹、小川寛大ら論客の対談記事がありますが、筆者は特に仲正昌樹氏の言論に注目しました。


何故なら、彼は現在金沢大学法学類教授ですが、東大原研出身の元UC献身者であり、かって筆者は、「つれづれ日誌(1月13日) 二つの自伝的書籍を読んで 」の中で、仲正昌樹著『統一教会と私』(論創社)について論評していたからです。彼は元信者ということもあって、最近たびたびマスコミに登場しています。


内村鑑三著『余はいかにしてキリスト教徒となりし乎』は、 文字通り、内村がいかにしてキリスト教徒となり、いかにしてその信仰を深めていったかという経緯を語った本であり、逆に仲正氏の著書『統一教会と私』は、何故UCに入信し、何故脱会するに至ったかを、率直に綴った本であります。


彼は著書の冒頭で、「本書では、統一教会が邪教で悪徳宗教なのか否かと言った評価をするつもりはない。様々な原因で邪教呼ばわりされていても、救われたと思える経験が、少なくとも私自身にはあるからだ」と述べています。


また、「統一教会の教義(原理講論、勝共理論、統一思想)などを読み込んだことが、マルクス主義や実存主義、キリスト教系の宗教哲学について学ぶきっかけになった(P232) 」と述べ、「統一教会にいたことを、それほど後悔していない(P236)。いずれにせよ、そこで得た多くの体験は、私の記憶に今も残っており、私の思考に影響を与えている(P241)」と語りました。


しかし一方で、今回の対談では、30年も前の、やや時代遅れの感がする認識に基づいた発言をしていますので、敢えて指摘しておきたいと思います。


対談メンバーの一人で、『宗教問題』編集長の小川寛大氏が「統一教会の右派的な保守思想は、自民党右派の歓心を買うために、調子を合わせたもの」との発言に対して、仲正氏は同感の意を表明し、「勝共連合に独自の保守思想を感じたことはない。自民党右派に迎合して、本来の教義に反するような主張が(世界日報の)紙面に並ぶことさえある(P191)」と述べています。


また、「統一教会の基本的発想では、あらゆる点において韓国は日本より上」(P191)と指摘し、いわゆる韓国アダム国家、日本エバ国家論を持ち出して、「統一教会が他の保守系宗教と決定的に違うのは、日本は韓国に対する植民地支配で大変な負債を負っている、と強調する点です」(P206)と明言しました。


この論調は上記した、伊藤達美氏の反日の教義認識と同じであり、残念ながら30年前の陳腐な認識から一歩も出ていない、この点については仲正氏は思考停止に陥っていると指摘しておきます。前記したように、神を天の父母と認識し、父と母は価値的に対等であり、役割が違うだけで韓国が上で日本が下などという教義はどこにもなく、仲正氏が指摘するいわゆる自虐史観は、遥か過去の一時期における、特殊な人々による誤った産物でしかありません。


世界日報も、一貫して日本の伝統と文化に寄り添い、皇室への厚い尊敬を独自の信念として表明しており、自民党右派に忖度して教義に反する記事を載せることなどあり得ないことで、これは仲正氏の完全な誤解です。


仲正氏は、コンプレックスと嫉妬心が強く、この性向に苦しんだと自ら告白しているように、これらの認識は、統一教会の歴史では先輩格の韓国教会に抱く曲折した個人的、主観的な感情と言えるでしょう。この嫉妬深い性向故、仲正氏の半生は居場所を求めて放浪した旅であり、今やっと自らの居場所に巡りあったと思われます。その意味で、彼は犠牲者であり、また成功者であります。


【結語】


ここで筆者は、『統一教会-何が問題なのか』の冒頭に記載されたフレーズを敢えて引用したいと思います。


「では一体、統一教会の何が悪いのか、政治家は何故統一教会を支援してはいけないのか、という声や疑問が多い」(P14)


この点、元武蔵野女子大学(現武蔵野大学)教授で、国際歴史論戦研究所会長の杉原誠四郎氏は、「自民党と統一教会及びその関連団体との接点も、信教の自由を定める憲法のもとで、自分たちの掲げる理想を実現するため政治家と接触するのは当然のことであり全く問題ない。また政治家も政策作成の為に宗教団体に接触しても何ら問題ない」と正論を述べられている通り、宗教団体が自らの理念に基づく政策を政治に反映すべく、政治家に接触して努力するのは当然の権利であります。


筆者は、繰り返し述べているように、この安倍事件は、究極的には霊妙な「神のご計画」だと信じるものですが、現実的には最悪を考えておくことが必要です。目下の最悪とは、政府が質問権を行使し、解散請求の要件である違法行為の組織性、継続性、悪質性を認定し、裁判所に解散請求をされることです。


文科省は、解散請求をすることを既に織り込み済みで、後は、その目的に沿って材料を後付けで集めるというキライがあるとも言われており、そのために、全国弁連から熱心に聞き取りをして、要件を満たす作業に入っているようです。もちろん、解散か否かは裁判所が判断するのですが(裁判で最高裁までいけば、5年くらいはかかると思われます)、解散請求がなされた時点で、政府は事実上、統一教会を反社会的団体と認定したことになり、この時点で統一教会は社会的に一層厳しい立場に立つことになりかねません。


但し、これら政府の解散請求は、世論目当てのパフォーマンスという見方もあり、果たして岸田政権の思惑はいずこにあるのでしょうか。はっきりしていることは、神を信じる敬虔な群れを打てば打つほど墓穴を掘ることになるということであり、これは歴史が示す道理であります。 (了)

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