日本キリスト教協議会の「天皇制終焉声明」を検証するー国のアイデンティティーとしての天皇
🔷徒然日誌(令和8年9月23日) 日本キリスト教協議会(NCC)の「天皇制終焉声明」を検証するー国のアイデンティティーとしての天皇
あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない(使徒行伝5.38~39)

プロローグー「note」事始め
筆者は、約6年前(2020年10月)、知人の協力でホームページ「令和リバイバル」を開設し、毎週2本の記事(論文)を投稿してきた(日曜日に聖書の知識、水曜日に徒然日誌)。今回の記事で537本目の投稿になる。「千里の道も一歩より」(老子)とあるが、いつの間にか、これだけの数になった。
本年7月に入って、9月2日に傘寿(80才)を迎えるに当たり、これらの記事を後々に残すことが出来ないかと考えていたところ、筆者にSNSの使い方を教えてくれている若い姉妹から、「それならnoteがいい、noteなら半永久的に投稿記事が残るから」ということを聞き、早速挑戦することにした。そもそもnoteというSNSのメディアプラットフォームが存在することすら知らなかった筆者であったが、とにかく始めることにした。
第一回目の「note」への投稿が令和8年7月29日の徒然日誌「死と葬り、そして復活ー神の臨在は、我が内に、信徒の交わりの中に!」だった。以来、1日2本弱のペースで投稿し、現時点で約90本になった。ではこんな短期間に、何故、ボリュームのある記事をこれだけ投稿できたのかと言えば、新規に作成する記事に加え、前記した既存のホームページの記事を、修正・加筆しながら、その「改訂版」を投稿してきたからである。いわば保存版として、ホームページ記事の「noteへの再投稿」である。
筆者は令和6年2月28日のつれづれ日誌「400本記念号」で次のように書いた。
「今までの『~です・ます調』から、新聞記事のように『~である調』にして、端的に要点をまとめ、ボリュームも今までの半分くらいを目安にしたいと思います。また、これまでの『つれづれ日誌』を『徒然日誌』と表記を変えることにします。時には、吉田兼好の『徒然草』や鴨長明の『方丈記』のようにエッセイ風のものも考えています。」
つまり、令和6年2月28日を期して、「つれづれ日誌」を「徒然日誌」に変更し、文体を「です・ます調」から、「~である調」にしたのである。ただ、ボリュームの方は、少な目にと努めているものの、与えられたテーマをきちんと書くためには、どうしても一定の枚数を要し、特に女性の読者には負担をかけている。
さてそのような折り、来年傘寿を迎えられるハーベスト・タイム・ミニストリーズを主宰されている中川健一牧師の、「80歳を前に、なぜ私はnoteを始めるのか」の一文と、たまたまnote上で出会ったのである。筆者とは一才違いで、事情が瓜二つであり、まさに我が意を得たりの感がした。中川牧師は、国際情勢など現実世界の動向などを聖書的視点から分析し、発信したいとして、次のように述べておられる。
「今、80歳を目前にして、noteという新しい場所で文章を書き始めることにしました。 これまで学んできたこと、考えてきたこと、そして次の世代に伝えておきたいことを、文章として残したいと思うようになりました。私にとってnoteは、新しい伝道の場であると同時に、次の世代に手渡すための『ことばの倉庫』になるのかもしれません。」
【日本キリスト教協議会(NCC)の「天皇制終焉声明」を検証する】
さて本題に入るが、2026年7月13日、日本キリスト教協議会(NCC)は、皇室典範改正法が衆議院を通過した機会に、「戦争責任と戦後責任の告白に立ち、天皇制の終焉を求めます」という衝撃的な声明を発表した。
NCCとは「日本キリスト教協議会」(National Christian Council in Japan)のことで、前身は1923年に設立された日本基督教連盟で、戦後の1948年に再出発した。NCCは一つの教派ではなく、日本基督教団、日本聖公会、日本福音ルーテル教会、日本バプテスト連盟、在日大韓基督教会など、複数の教会・教団・キリスト教団体による協議体である。
<NCCの声明>
NCCは、1995 年、戦後 50 年にあたり、次のように声明を発表した。
「日本のキリスト教会が戦前・戦中に天皇制国家に迎合し、戦後もその過去を十分に反省せず、天皇制の問題性を見抜くことができなかった罪を神の前に告白し、悔い改めを表明した。」
また1995年5 月の NCC 声明では、「日本が朝鮮・台湾を侵略戦争によって不法に植民地化し、中国を中心とするアジア・太平洋諸地域に対しては派兵・占領から全面侵略戦争に至る長期の不法行為を行った」という歴史的事実を認め、そして、キリスト教会が、それらの不法を「しばしば容認し、擁護し、あるいは積極的に加担する罪を犯した」ことを告白した。 そして次のように明言した。
「皇室典範改正によって天皇制を将来にわたり維持するかどうかが問われている今、1995 年の二つの声明の歴史認識と悔い改めに立つなら、天皇制を維持するための制度改正を支持することはできません。その歴史認識の延長線上にあるのは、天皇制を維持することではなく、その終焉を求めることです。」
そして天皇制(天皇制という言葉は左翼用語である)は、生まれや家系によって特定の人を特別な存在とし、人に優劣(差別)をつける制度であるとした。一方、神はすべての人を等しく尊い存在、すなわち「神のかたち」として創造され、その信仰に立ち、誰もが尊厳をもって生きることのできる平等な共生社会を目指すという。まさに一線を越えた衝撃的な声明であり、左翼と瓜二つの戦争史観である。
<中川健一牧師の見解>

前述の中川健一牧師は、2026年9月1日、「キリスト教は天皇制に反対すべきなのかーNCC『天皇制の終焉』声明を聖書から考える」と題してnoteに投稿し、NCC声明に異論を述べた。即ち、NCCは複数の教会・教団・キリスト教団体による協議体の一つであるから、「NCCの声明は日本のキリスト教会全体の声明ではない」と断わった上で、持論を述べられた。
NCCの特徴の一つは「エキュメニカル運動」であり、エキュメニカル運動とは、教派の違いを超えてキリスト教会の一致と協力を目指す運動である。またNCCのもう一つの大きな特徴は、「キリスト教信仰と社会的・政治的課題を強く結びつける姿勢」であるという。従って、NCCは、平和、人権、憲法、靖国神社、天皇制、差別、外国人問題などについて積極的に声明を出してきた。
重要なのは、「聖書を社会問題に適用するとき、どのような解釈原理を用いるのか」という問題であり、ここに、NCCと保守的福音派との大きな違いがあると中川牧師はいう。ちなみに中川牧師のハーベスト・タイム・ミニストリーはNCCと立場が違う「日本福音同盟」(JEA )に所属している。
前記のNCC声明にもあるように、NCCは、戦前のキリスト教界が国家神道や戦争遂行に協力した歴史を、自らの罪責として強く意識する。そのため、戦争責任→国家神道への反省→天皇制国家への批判→現在の天皇制への批判という思想的な流れがある。
ではNCCはなぜ天皇制に反対するのだろうか。天皇制は、生まれや血統によって特定の人物と家系に特別な地位を与える制度であるから、すべての人間が「神のかたち」に造られたと教える聖書と異なるという。さらに天皇制は、国家神道、植民地支配、戦争責任とも切り離せないので、従って、皇室制度を維持するための改革ではなく、天皇制そのものの終焉を目指すべきだと主張するのである。では、この論理は聖書的に妥当だろうかと中川牧師は問う。
確かにNCCの問題提起の中で、天皇を神格化(偶像崇拝)することは、聖書的には認められない。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト記20.3)とあるからである。また、国家への忠誠と神への忠誠が衝突するなら、「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒5.29)との原則が適用されなければならない。従って、戦前の教会が国家神道や天皇神格化に十分抵抗できなかったのであれば、その歴史を反省する必要があるというのである。
しかし中川牧師は、「天皇を神格化しないこと」と「天皇制を廃止すること」は別問題であり、NCCの論理には、ここに大きな飛躍があるという。即ち、「天皇を神格化してはならない」という神学的命題から、「従って天皇制を廃止しなければならない」という政治的結論へ進むことには飛躍があると指摘する。
特に、戦前の天皇制と現在の象徴天皇制は区別して考える必要があり、憲法第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、現在の日本国憲法では、天皇は主権者ではなく「日本国民統合の象徴」とされている。
従って、戦前の国家神道を否定することと、現在の象徴天皇制を否定することの間には、かなり大きな論理的距離があるとした。
また「神のかたち」は天皇制廃止を要求するかが問題なる。「人間としての価値が平等であること」と、「社会的役割がすべて同じであること」は別問題であり、大統領と一般市民、裁判官と一般市民は、人間としての価値において平等だが、役割は異なる。 従って、すべての人は神のかたちに造られている→すべての人は等しい尊厳を持つ→世襲的地位は認められない→天皇制は廃止すべきである、という結論は、聖書本文から必然的に導き出されるものではなく、そこには、近代的な平等思想や特定の政治思想(左翼思想)が加わっていると中川牧師は指摘した。
更に、聖書は王制そのものを否定していないという。ペテロは、「神をおそれ、王を尊びなさい」(1ペテロ2.17)と命じている。パウロも、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである」(ロマ13.1)と語り、「王たちと上に立っているすべての人々のために、祈りをささげなさい」(1テモテ2.1)と祈るよう勧めている。これらは、善良な国民として国の秩序に従うという市民道徳である。
キリスト者個人が政治的判断として天皇制廃止を支持する自由はあり、逆に、象徴天皇制を支持する自由もある。しかしキリスト教団体が、「天皇制の終焉を求めるべきである」とまで語るなら、それを支える明確な聖書的根拠が必要であり、今回のNCC声明には、その点に大きな疑問があると中川牧師は指摘した。
<キリスト教各派の態度>
日本のキリスト教界には、大きく見ると、NCC、JEA、カトリック、正教会、日本キリスト教連合会などの諸団体があり、それぞれ神学的立場・教会観・社会問題への姿勢が違う。ちなみに「日本キリスト教連合会」とは、カトリック教会、日本聖公会、プロテスタント諸教派が教派の垣根を超えて協力し、信教の自由を守ることや宗教法人の適正な管理運営などを目的に活動している連合団体である。
NCCは、前記の通りエキュメニカルを重視し、教派を超えた一致や、平和、人権、社会的正義を主張する。一方JEA(日本福音同盟)は福音派の保守的プロテスタントで、聖書信仰、福音宣教、個人の救い(回心)を重視する。JEAは、2026年6月現在、56の教団・教会と、協力会員の宣教団体などが加盟し、日本同盟基督教団、日本長老教会、日本バプテスト教会連合、日本ホーリネス教団、日本ルーテル同胞教団、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団など、多くの福音派教団が所属している。
またNCCに加盟している「日本基督教団」はプロテスタント最大級の合同教団で、メソジスト・長老派など複数の教団を含む。即ち、日本基督教団(The United Church of Christ in Japan)とは、もともと1941年6月24日に「宗教団体法」に基づく政府の強い要請により、日本国内のプロテスタント33教派が合同して成立した合同教会である。
教団の設立当時は、1937年から始まった日中戦争中で、「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」(1940年10月7日)において「プロテスタント諸教派が合同して宣教・伝道の任にあたる」という決議に基づき成立している。戦時中はもっぱら戦時体制に貢献し、創立総会では「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」と宣誓した。
1945年の敗戦(日本の降伏)により、連合国軍占領下で宗教団体法が廃止されると、教団も1946年には教憲・教規を定めて会議制に移行するなど、戦時体制の清算と新たな体制への移行につとめた。しかし、1941年の合同そのものを良しとしない教派、合同教会のスタイルと相容れない教派、海外ミッションとの関係がある教派は、教団を離脱することになった。一方、教団に残留することになった各教派・各教会は、戦時体制を脱却した新たな教団の形成に向かうこととなり、そして1954年、聖書、救い、教会に関する基本信条である「日本基督教団信仰告白」の制定にいたる。
教団に残留した教派として、日本組合基督教会、メソジスト教会、(旧)日本基督教会の一部、米国バプテスト同盟系の一部、ホーリネス教会の一部、日本自由メソジスト教会の一部などがあり、日本基督教団は、日本のプロテスタント最大の教派とされ、2020年度時点で、全国に教会1666、信徒161,103人、現任教師1931人を擁している。
だが、1969年「反万博闘争」に端を発して、キリスト教会の社会的役割を重視するグループ(社会派)とキリスト教会の形成や伝道を重視するグループ(教会派)との対立が深まり、いわゆる「九・一、二(きゅうてん いちに)事件」と呼ばれる「教団紛争」が勃発し、以後、急速に左傾化した。(参照-日本基督教団闘争史→ https://x.gd/3rl6v )
さて、天皇制をめぐって大雑把に整理すると、NCCは国家神道・戦争責任・政教分離・人権という諸観点から非常に批判的で、上記した通り天皇制そのものの終焉を求めている。一方JEAは天皇制をキリスト教信仰の中心問題として扱うというより、聖書的国家観・信教の自由・政教分離という観点から考える傾向があり、「天皇を神として礼拝すること」は拒否するが、天皇制を廃止することまでは主張していない。カトリック、福音派一般も同様である。

しかし、高砂教会牧師で、「日本民族総福音化運動協議会」の総裁、「日本を愛するキリスト者の会」の副総裁であった手束正昭氏(てづか まさあき、1944年~2024年2月8日)は、著書『日本宣教の突破口ー醒めよ日本』の中で、大東亜戦争(太平洋戦争)の日本悪玉論はGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)による洗脳であるとし(自虐史観)、また、南京事件虐殺の数字にも疑義を呈している。
即ち、大東亜戦争は、欧米の支配からアジアを解放するという目的を持った自存自衛の戦いであると共に、中国による華夷秩序の形成を阻止し、アジアに自由互恵の新秩序を打ち立んとした戦争だったと主張し、NCCと真逆の歴史観を有している(『日本宣教の突破口』P293) 。(参照-手束正明氏の思想と神学→ https://x.gd/75dFv )
【天皇制度は日本の国柄】
NCCは左翼思想に染まった日本基督教団を中核とした団体であり、新憲法の下に戦後80年を過ぎても、いまだに戦争責任に拘り、自虐史観に染まり、反天皇制を標榜する。 クラウドチャーチの小林拓馬牧師は、NCCはもはやキリスト教団体ではなく左翼政治団体であると言い切っている。

つまり、NCCの言っていることは、自虐史観にせよ、天皇問題にせよ、憲法問題にせよ、今回の「天皇なくせ声明」に明らかなように、日本共産党と瓜二つであると小林牧師は断言する。聖書は王の存在を認めており、NCCのように天皇や皇族をなくせということは、日本の国柄・歴史・伝統・文化、即ち日本自体を否定することであり、キリスト教徒として恥ずかしいと小林牧師は頭を下げた。
NCCはまた、天皇制は、生まれや家系によって特定の人を特別な存在とし、人に優劣をつける制度であり、天皇の対極として低い身分を生み出し、日本社会において「部落差別」がその典型だという。
また、「万世一系」という血統を特別視する思想は、「真の日本人」と「そうでない人」を分ける発想とも結びつき、それは、植民地主義や侵略戦争、排外主義を支え、国家への忠誠を求める思想とも深く結びつているとした。日本の左翼は、天皇制反対、反戦平和、差別撤廃をスローガンにしてきたが、まさにNCCの主張は左翼と瓜二つである。
2026年3月16日に沖縄県名護市の辺野古沖で起きた「辺野古転覆事故」で死亡した「不屈」船長の牧師は日本基督教団に属し、同志社国際高校とつながりがあり、辺野古基地問題、反基地運動、平和学習など左翼思想の持ち主だったと言われている。
<左翼思想に染まったNCC>
前述してきた通り、NCCが天皇制に反対する理由は第一に「戦争責任」の問題がある。NCCは、自分たちの前身である日本基督教連盟が、戦時下に日本国家の宗教政策・戦争体制に協力した歴史を非常に重く受け止め、日本の侵略戦争に協力した過去の罪責を告白するという立場を現在も維持している。
即ちNCCは、神道、天皇制、軍国主義が一体となって戦前の日本の国家体制を形成していたと考え、従って「戦争に協力した教会自身が、その責任を告白するならば、戦前の国家体制を象徴した天皇制についても根本的に問い直すべきだ」という論理になる。今回のNCCの「天皇制終焉声明」は、 ドイツにおける戦中の告白教会による「バルメン宣言」や、戦後のドイツ福音主義教会(EKD)による「シュトゥットガルト罪責告白」(1945年10月)を想起させる。
ちなみに「バルメン宣言」とは、1934年5月にドイツのバルメン(現ヴッパータール)で開催された第一回告白教会会議で採択された、ナチス政権による教会支配やイデオロギーの介入を拒絶する神学的宣言であり、神学者カール・バルトらが中心となって起草した。またシュトゥットガルト罪責告白(シュトゥットガルト罪責宣言)とは、1945年10月にドイツのプロテスタント教会指導者たちが、ナチス・ドイツによる戦争犯罪と人道に対する罪について、自らの責任を世界に向けて告白した歴史的文書である。
だが、ドイツと日本ではまるきり事情が違う。ドイツの場合は明らかにナチス・ヒットラーによる軍事独裁であり、あまつさえユダヤ人600万人を虐殺した。一方日本は、前記した手束正昭牧師が「大東亜戦争は、 アジアを解放するという目的を持った自存自衛の戦い」と言われているように、確かに自衛戦争、アジア解放戦争という側面がある。
日本国内において、左派は侵略戦争と主張し、保守は自衛戦争を主張する。無論、日本の占領を手放しで良しとするわけではないが、日本軍によってアジア諸国の独立が進んだことは確かであり、日本の果たした役割は決して小さくなかった。左翼のように、いつまでも戦争責任を追及するのではなく、戦後80年も過ぎた今、自虐史観から完全に解放されるべきだと思料する。(参照-靖国神社参拝は偶像崇拝かー80年談話に思う→ https://x.gd/eCqXE )
今回のNCCの声明のように、大東亜戦争を「日本国家によるアジア・太平洋地域への侵略戦争」と規定し、反国家、反天皇を標榜するこれらの認識は、まさに左翼思想と親和性があり、教団に共産主義思想が入り込む下地になった。また 弁証法的唯物論に基づく共産主義の唯物史観を克服する歴史観と実践論を持ち得ていなかったことが、その傷口を大きくした。共産主義思想の本質を見抜けなかったことで、NCCが共産主義思想に汚染されることになったのである。
<天皇は日本の文化・伝統の象徴>
最後に、天皇の意義とその評価について持論を述べたいと思う。
先ず、現憲法下における国民主権の下での国民統合の象徴としての天皇の位置づけは大いに評価できる。古来、日本の天皇は権威の象徴であって権力は持たなかったが、日本国憲法によって改めて強調され担保された。「君臨すれども統治せず」との法治による立憲君主制は、イギリスと同様、日本の歴史と国民性に合致し、政治的、社会的な安定をもたらしている。また天皇への尊敬心は、日本の道徳(忠孝)の根源になり、世界でも有数の道義と礼節の国民性を育んだ。
もし日本に天皇や皇室が無かったらどうなるのだろうか。おそらく、歴史も伝統も国柄もない、粗雑で野蛮な喧騒が支配する国になっていたのではないかと思う。歴代の総理大臣が1年交代で変わっても、日本の政治的、社会的安定が保てたのは、変わらざる国民統合の中心が存在していたからではないだろうか。では日本に天皇制が何故必要なのか、以下の3点を挙げたいと思う。
第一に、国家・国民のまとまりにおいては、国民統合の精神的、文化的核となるアイデンティティーが必須であり、その役割は、現在の日本においては、長い伝統を有する歴史的存在の天皇しかない。かって、ソ連が崩壊し、共産主権のアイデンティティーが喪失した時、エリチェンやプーチンは、ロシア政教を復活させて国民統合のアイデンティティーにしたが、このことで国民精神は安定した。
第二に、イギリスと同様、君主制が日本の国民性に合っている。イギリスは清教徒革命で一時期共和制を採用したが、結局うまくいかず君主制を復活させて安定した。日本は、国柄や国民性が君主制と相性が合う。
三番目は、天皇への「崇敬」が、国民道徳の根幹になっているということである。儒教でいう五倫(親子・夫婦・兄弟・朋友・君臣)や五常(仁・義・礼・智・信)の徳目は、日本では尊皇精神が根源になっている。 ただ、ここで注意しなければならないのは、「崇敬」であって「崇拝」ではないという点である。崇拝は神のみに捧げられる言葉であり、人間に向けられるものではない。カトリックも、マリア信仰は偶像崇拝だとの批判を受けた時、崇敬するのであって崇拝しているのではないと反論した。
以上で、「日本キリスト教協議会(NCC)の『天皇制終焉声明』を検証するー国のアイデンティティーとしての天皇」と題する論評を終わることにしたい。おしまいに、NCCに関して付け加えなければならないことが一つある。それは、UC解散問題に関するNCCの態度である。
NCCは2023年11⽉25⽇、キリスト教団体7者共同で、文科省がUCの解散命令請求を裁判所に提出したことを評価する声明を発表し、UCは、法令に違反し、著しく公共の福祉を害する「破壊的カルト」であると明記した。また、日本基督教団は、2026年3月6日、「日本基督教団カルト問題連絡会」名で声明を出し、東京高裁が宗教法人の解散を命じる決定をしたことを妥当であるとみなし、宗教法人解散命令を支持するとした。
これらの声明は、信教の自由への挑戦であり、同じ宗教人としては真逆の判断をしてしまった。前記した小林拓馬牧師や主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師、つきしろキリスト教会の砂川竜一牧師らは、解散は宗教の自由への抑圧になるとして反対の意思を表明している。せめて信教の自由を守ることを掲げている「日本キリスト教連合会」は、今からでも解散反対の意思表示をするべきである。奇しくもラビ・ガマリエルは次のように言っている。
「あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。」(使徒行伝5.38~39) (了)
牧師・宣教師 吉田宏



