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朝鮮半島におけるキリスト教② 日本の統治時代 と迫害

◯つれづれ日誌(12月29日)-朝鮮半島におけるキリスト教②ー日本の統治時代と迫害


前回、李氏朝鮮(1392~1910)時代のキリスト教迫害について述べましたが、今回は李朝終焉後、太平洋戦争終結までの、日本統治時代におけるキリスト教の取締りについて見ていきます。なお、李氏朝鮮は中国の冊封体制を脱して、1897年から国号を大韓帝国と変えています。


李氏朝鮮における殉教について、先だってデンマーク宣教師の五十嵐さんから、鮮烈な一文が寄せられました。若き頃『朝鮮殉教史』を読んで衝撃を受け、ある日祈祷の中で、雲に乗って現れたその殉教者たちをまざまざと霊視したというのです。その表情を見た五十嵐さんは、彼らが何かを深く哀願していたと感じました。


筆者はこの証を読んで、これは間違いなく李朝時代の殉教者が、地上に相対できる基台に再臨復活したものと確信すると共に、「殉教者の血は教会の種子である」との2世紀の教父テリトリアヌスの言葉を想起いたしました。殉教者が哀願し託したものが何であるのか、真摯に祈り求めたいと強く思わされたものです。


なお、カソリックのフランス人宣教師のギュスターヴ・ムーテル大司教は、李王朝時代の殉教者を細かくまとめた「殉教録」を作成しています。


【開国から日韓併合まで】


さて、日本の統治時代に、キリスト教徒への迫害があったのは、主に、3・1独立運動の取り締まりに際して起こった殺害事件と、1937年以降の神社参拝を拒否した一部長老派への弾圧の二回であります。しかし、これらはキリスト教そのものへの禁教というより、社会的混乱を恐れた総督府の秩序維持のための取り締まりだったと言えるでしょう。


明治維新で近代化を達成した日本は、李王朝に強く開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結され、ついに開国することとなりました。また李朝は、1882年にはアメリカと修交通商条約を締結しました。


この朝鮮の開国を皮切りに欧米諸国との外交関係が樹立されると、プロテスタント諸派が李氏朝鮮に宣教師を派遣しました。当初大院君はキリスト教を警戒しましたが、主にアメリカからブロテスタント宣教師が入ってきました。韓国におけるプロテスタント初の殉教者は、大院君の鎖国政策で処刑されたイギリスのロバート・トーマスで、1866年26才で殉教しました。


李朝では崇儒抑仏政策により仏教が抑圧され、民衆は巫俗(シャーマニズム)、風水、祭祀などの民間宗教や、儒教・仏教・道教の流れを汲む新興宗教に傾斜していていました。李朝末期には、天が直接光臨する時代が到来し、理想郷の地上天国が実現されるとする「後天開闢」思想がありました。東学(天道教)は後天思想に基づく新しい宗教の代表格でした。


19世紀末頃の思想状況はこのようなものであり、キリスト教はすでに朝鮮半島に渡来していましたが李朝はあへんと同じようなものと警戒しており、本格的な宣教が始まるのは1884年に長老派の医師アレンの朝鮮入国以降とされています。


1884年長老派の医師のホリス・アレンがプロテスタントはじめての宣教師で、1885年長老教会の牧師ホリス・アンダーウッド、メソジストの牧師ヘンリー・アッペンゼラーなどの宣教師がやってきました。彼らはピューリタン的な純粋な信仰を持っていました。日本に遅れること20年です。


初期の宣教の特徴は、聖書の翻訳と刊行による印刷物を介した布教が重視され、また「医療」と「教育」が活動の中心となりました。長老派は1885年に少年向けの培材学堂(ペジェがくどう)、メソジスト派は1886年に少女向けの梨花学堂(梨花女子大学)を創設して教育や医療に力を注ぎました。  


1890年には、いわゆる教会の在り方や伝道の方法でいわゆる「ネビィアス方式」が取り入れられました。ネビィアス方式とは中国のアメリカ人宣教師ジョン・ネビィアスが韓国に来て教育した内容で、a.自立的教会活動、b.聖書中心の教会、c.宣教師の海外派遣、d.諸教派の協力、e.庶民伝道が特徴です。(鈴木崇巨著「韓国は何故キリスト教国になったか」)       


1895年の日清戦争、1905年の日露戦争は信者が激増する契機になりました。人々は戦争の極限状態にあって、信仰に精神的な拠り所を求め、またキリスト教会が治外法権の領域として、一般の人々の生命と財産を守る避難所の役割を果たしていたからでもあります。


又、1907年には韓国人牧師も生まれ、長老派の平城神学校から有力な牧師が排出されました。


1903年には、北部東海岸の元山で癒しや異言などの聖霊体験が始まり、1907年には平壌ピョンヤン(平壌)でも「大リバイバル」(大覚醒)が起こり、平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれるようになっていきました。リバイバルとは、信者が福音によって罪深さを自覚し、悔い改めて回心することで、神が介入されたというのです。


当時ピョンヤンには再臨待望論があり、日清戦争から日露戦争後の期間、キリスト教は驚異的な成長を遂げ、ピョンヤン人口5万人の内、1万4千人が礼拝に参加し、また文先生が生誕された平安北道の定州では、2万人人口のほとんどが信者だったと言われています。(浅見雅一・安延宴著『韓国とキリスト教』P101)


こうして朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上でもまれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達したと言われています。(カソリックは約4万人) プロテスタントの宣教から20年余で大きく躍進したことになります。


李王朝時代、カトリックはプロテスタントより朝鮮半島の宣教を先行させていましたが、李朝後の宣教はプロテスタントよりも遅れて、1890年代になって始められました。カソリックのフランス人宣教師のギュスターヴ・ムーテル大司教は、韓国カトリックの近代化と土着化に尽力し、李王朝時代の「殉教録」を作成しました。


ちなみに1909年に伊藤博文を暗殺した安重根(洗礼名トマス)は17歳のときにカトリックの洗礼を受けています。


【日韓併合と3・1独立運動】


1910年、大韓帝国は日本に併合され、李氏朝鮮は名実共に519年の幕を閉じました。当時、李王朝は完全に統治能力を失い、自力で改革するのは難しかったとは言え、儀礼の国、小中華の儒教の国が「何故日本の支配を受けなければならないのか」との思いはあったことでしょう。


<独立運動を担ったキリスト教徒>

そして李王朝の硬直した伝統主義から脱すること、即ち西洋的近代化とはキリスト教への改宗を意味するものでもありました。日韓併合下では、外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになり、3・1運動では監理教(メソジスト)に参加者が多かったと言われています。


事実、抗日運動の中心を担った「独立協会」の指導者は、李承晩を始め多くがキリスト教への改宗者でした。1919年3月1日、独立宣言を起草宣言し、パゴダ公園で集会して「朝鮮独立万歳」を叫びましたが、キリスト教徒16名、天道教徒15名、仏教徒2名の計33名が独立宣言に署名しています。なお、天道教とは、19世紀に崔済愚(チェジュウ)が創始した宗教で、儒教、仏教、道教、土俗信仰を融合した独自のものです。


この独立宣言には、ロシア革命が勃発したこと、大戦によってドイツ帝国やハプスブルク帝国などがたおれたこと、ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)など民族自決の気運が高まっていたこと、といった背景がありました。 


また3・1宣言に先立って、1919年2月8日、日本の朝鮮YMCA会館に集まった約600人の学生(早稲田・慶応・青山学院・東京高師などの朝鮮人留学生)は朝鮮青年独立団の名のもとに「独立宣言書」を採択しています。


3ヶ月間全国でデモ行進が行われ、死者がかなり出ましたが、多数がキリスト教徒でした。3・1独立運動の全体の犠牲者については、死者が553名、負傷者が1409名となり、朝鮮人、日本人双方に犠牲者が出ました。しかし朴殷植著『韓国独立運動之血史』では誇張された被害者数が記載されています。


中でも18才で拷問を受け獄中死を遂げた天安出身でクリスチャンの柳寛順(ユ・グァンスン、1902~1920年)は有名です。ただ、「美化されて史実の裏付けが乏しい」との批評が韓国内からも出ています。


また、1919年4月15日、京畿道水原の提岩里教会(ていがんりきょうかい)では、放火などの破壊活動や日本人への暴力行為をおこなった暴動の首謀者(天道教、キリスト教の信者)らを教会に集めて、23人を教会ごと焼き払って殺害するという事件が起きました。(提岩里教会事件)。


しかしこれらは、宗教迫害というよりは、むしろ治安活動の中での犠牲者と言うべきでしょう。この3・1独立運動後、日本の統治は、それまでの武断統治から文治統治に転換することになります。


1929年、朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停滞状態にあった朝鮮と近代文明国との間に架け橋をかけ、朝鮮人の苦しみもあるかも知れないが、日本は朝鮮に莫大な利益をもたらしている」との評価をしています。しかし、現地日本人の朝鮮人への差別的で傲慢な態度は反感を買いました。


<3・1独立運動の霊的意味>

さて、ここでその当時の朝鮮半島の霊的状況、3・1独立運動の内的意味を考えておきたいと思いますます。


前記しましたように、1903年には元山(ウォンサン)で、1907年には平壌(ピョンヤン)で聖霊体験が起こり、当時のピョンヤンは東洋のエルサレムと呼ばれていました。こうした背景の中で、前述の通り1919年3月1日、キリスト教徒を中心に独立運動が勃発しました。この独立運動は、国家を変えるだけの規模ではありませんでしたが、その霊的意味には深いものがありました。


即ち、かってイエス誕生の時と同じように、当時半島は外国(日本)の支配下にありました。その外国支配の中にあって、メシア誕生に際し「神の主権を主張できる霊的条件」が必要だったと言われ、それが独立運動の本質的意味だったというのです。


形だけとは言え1919年、李承晩・呂運亨・金九らによって樹立された「上海臨時政府」はその象徴でした。これらを踏まえ、1919年3月ころ、来るべき主は母親の胎中に身籠り、1920年陰暦1月6日(陽暦2月25日)に誕生されました。


つまり、3・1独立運動は、来るべきメシア誕生のための条件だったというのです。奇しくも半島の原理創始者誕生と軌を一にして、日本では1918年から内村鑑三を中心とした再臨運動が勃発しています。


三・一独立運動 、大韓民国臨時政府の要人 、朝鮮神宮参拝



【日帝のキリスト教政策と神社参拝の強制】


さて日本は、1910年に韓国を併合し、朝鮮半島は日本の統治下に入りました。朝鮮総督府は、キリスト教自体には否定的でしたが、日本内地と同様、基本的に信仰の自由は保証されていました。


前記しましたように、李王朝時代の迫害が終焉し、欧米から宣教師が派遣され、特にプロテスタントの伸長には目を見張るものがありました。


1910年の日韓併合の後、朝鮮総督府は、「日本組合基督教会」(会衆派)の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を依頼しました。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、「渡瀬常吉」を派遣しました。 渡瀬常吉は熊本藩武士の子で18歳の時に八代組合教会で洗礼を受け、海老名弾正の忠実な教え子でした。


日本組合基督教会は朝鮮総督府より援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げました。渡瀬常吉は、「朝鮮併合は、日本が世界の大勢に順応した結果である。東洋の平和を永遠に保証するため、日本帝国存在の必要と同時に、朝鮮1500万民衆の幸福を念願した結果である」と述べたといいます。


一方、神道の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく朝鮮神宮が設置されました。その後、特に1937年の盧溝橋事件以降「皇国臣民ノ誓詞」が発せられ、総督府はキリスト教会への神社参拝を強要し始めることになります。


この同化政策のためにとった神社参拝強要は、キリスト教にとっては偶像崇拝の強制に当たるとする、朝鮮の長老派の一部の篤実な信徒が神社参拝を拒みました。但しカソリック及びメソジストは神社参拝は宗教儀礼ではなく国家儀礼であとし、妥協して受け入れています。


1938年6月末、日本政府は同じ長老派系統の日本基督教会大会議長「富田満」を派遣し、「朱基徹」(チュキチョル)牧師ら朝鮮の長老派を説得させました。


「神社参拝は宗教ではなく国家儀礼である」と主張する富田に対し、朱基徹は「神社参拝は十戒に反する偶像崇拝」だと答えました。その後朱基徹は刑務所に送られそのまま死去したため殉教者として知られています。


朝鮮の長老派教会は、数十名が投獄されで何人かが獄死し、幾つかの教会が閉鎖されたと言われています。日本国内でもホーリネス派が神社参拝を拒み、日本人数十名が投獄され、何人かが獄死しています。


しかし、日本統治時代は、1937年以降の戦時下で神社参拝や皇居遥拝の強制があったものの、総じて信教の自由が保証され、特にプロテスタントは大きく伸びています。


ただ、1937年の盧溝橋事変以降日中戦争が始まり、特に1940年以降に顕著になった皇民化政策の影響で、一部反抗するキリスト教徒への取締りがかなりあったことは否定できません。


以上、日本統治時代のキリスト教について概観いたしました。このように、韓国のキリスト教は、李王朝の1784年から解放の1945年まで、多かれ少なかれ、試練の中におかれていました。このような試練を経て、1945年の解放後、今日に至るまでに飛躍的なキリスト教の激増期を迎えることになります。次回は、解放後、「何故韓国はキリスト教国家になったのか」を吟味したいと思います。(了)

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