検証「創立以前の内的教会史」 統一教会の真の歴史
- matsuura-t
- 7月23日
- 読了時間: 14分
更新日:7月23日
◯徒然日誌(令和7年7月16日) 検証「創立以前の内的教会史」ー統一教会の真の歴史
今日、統一教会の創立24周年を迎えましたが、この24年間は教会の外的な歴史であり、教会創立の基台をつくろうとした創立以前の歴史こそ本当の統一教会の歴史です。(1977年5月1日 NYベルベディア『御旨と世界』光言社P578)
プロローグ
さて、7月20日に投開票が行われた参議院選挙だが、自民党が惨敗し与党(自民・公明)が過半数割れになった。安倍元首相に象徴される自民党の保守票が、岸田・石破政権に嫌気がさして、その受け皿としての国民民主党、参政党、日本保守党、NHK党などの保守政党に流れたのである。この自民党離れは、ひとえにLGBT法案やUC解散請求という最悪の反宗教政策を強行した岸田文雄元首相にその責任がある。まさに岸田氏は、日本の国柄を破壊し、自己保身のために宗教を弾圧した戦後最悪の首相であり、彼はその報いを受けることになる。聖書に次のようにある。
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ロマ書12.19)
ところで、UCの解散裁判を巡り、憲法違反を訴える「信教の自由と人権を守る運動」が全国で広がっている。中でも、未曾有の人権侵害である拉致監禁被害の訴えや、小嶌希晶さんが代表を務める「信者の人権を守る二世の会」の活動は目覚ましい。小嶌さんらは、解散命令請求を受けたUCの審理が、非訟事件として非公開で進められていることに異議を唱え、利害関係人として参加を求める申し出書を東京高裁へ10日に提出した。
そのような折り、中山達樹弁護士ら有識者が、UCの解散裁判に関し「公平・公正な裁判を求める有識者の会」を立ち上げたことは注目される。筆者はこれに賛同し、「世論に屈服し、自らの野心で、解散要件に民法も含まれると解釈変更した岸田元首相だけは許せない」とコメントし、署名運動を呼び掛けた。そして筆者は「有識者の会」に賛同し、次の通り「X」に投稿した。
「僕は統一の解散裁判に『公平・公正な裁判を求める有識者の会』の声明文に署名した。本『家庭連合の解散命令に意義あり』に意見表明している細谷典男氏ら36名の他、解散請求に疑義を表明する有識者には若狭勝、郷原信郎、高井康行、塚田成四郎、小林節ら各弁護士がいる。盛り上げたい」
【創立以前の内的教会史】
さてここで、激動する内外情勢からしばらく離れ、巷の喧騒から敢えて距離をおいて、時空を超越した神の摂理歴史に想いを馳せたいと思う。何故なら、「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉はとこしえに変ることはない」(イザヤ40.8)とある通り、変転する歴史の背後に変わらざる神の救済摂理があるからである。即ち今回のテーマはUCの隠れた摂理歴史「創立以前の内的教会史」である。
<内的教会史とはー『御旨と世界』から>
文鮮明先生のみ言集『御旨と世界』には次のようにある。
「今日、統一教会の創立24周年を迎えましたが、この24年間は教会の外的な歴史であり、教会創立の基台をつくろうとした創立以前の歴史こそ本当の統一教会の歴史です」(1977年5月1日 NYベルベディア『御旨と世界』光言社P578)
つまり、1954年5月1日、「世界基督教統一神霊協会」がソウルで創立され、本年2025年で71年を経るが、この71年の歴史は外的な歴史であって、創立以前の歴史こそが真のUCの歴史であるというのである。その内的教会史は、1935年4月17日、文先生が神から召命を受けてから、1950年10月14日に興南監獄から解放され、1952年5月10日、釜山の小屋の教会(ボンネックル)で『原理原本』の執筆を終えられ、水晶山でみ言宣布の祈祷をされた日までの17年間と言えるであろう。統一教会の創立自体は1954年だが、この水晶山でのみ言宣布の祈祷は真実上の教会創立と言える。
神の召命を受けた猫頭山 興南収容所 釜山・ボンネッコル
従って私たちは、この1935年~1952年の内的教会史を吟味しなければならない。今回書き記す内容はまさに「創立以前の内的教会史」であり、この間の主要な出来事は次の通りである。
▪️1920年1月6日(陽暦2月25日) 時満ちて文鮮明先生誕生される。誕生から召命(1935年4
月1日)までの約15年間は内的教会史の「前史」と言える。
▪️1935年4月17日 神の召命。イエス様から使命を啓示される。この日から事実上の内的
教会史が始まる。
▪️1946年5月27日 北へ行くように神から命を受けて北朝鮮に出発。6月6日 平城着。この
日から本格的な内的教会史が始まる。
▪️1646年8月11日 平城大同保安署収監。11月21 瀕死の状態で保釈。1947年 朴ウルリョ
ン女史から「実体の神様」との証(霊界43日路程勝利)
▪️1948年2月22日 平城内務署に収監。4月7日 社会秩序紊乱罪で5年の判決→平城刑務所
に移監。
▪️1948年6月21日 興南徳里特別労務者収容所に移監。強制労働。
▪️1950年10月14日 興南監獄解放→霊肉復活。
▪️1950年10月24日 平城→12月南へ避難→12月27日 ソウル黒石洞到着→釜山に避難。
1951年5月11日から金元徳宅で『原理原本』の執筆開始。
▪️1952年5月10日 『原理原本』執筆完了→水晶山で宣教宣言(事実上の教会創立)。
▪️ 1954年5月1日 世界基督教統一神霊協会創立。
<『御旨と世界』の真髄>
み言集『御旨と世界』(光言社)は、文鮮明先生がコネチカット州ダンベリー連邦刑務所に服役中、自らの説教を修正・加筆し、慎重に選んでまとめられたものである。『御旨と世界』は38本の説教からなり、神のみ旨の真髄が記されている。筆者はその中でも、「創立以前の内的教会史」(『御旨と世界』P477~615)は最高峰のみ言(説教)だと認識し、今まで何度も読み返した。
神の最終目的は、サタンのざん訴のない一人の完成されたアダムの創造だが、エバによってアダムも完成するのが復帰の原則であり、そのために神は歴史を通して、エバの道として一人の摂理的な女性を探されたという。「創立以前の内的教会史」には、摂理的な霊的メシアの花嫁として立てられた女性(朴ウルリョン女史)を通して、43日間に渡るアダム復帰の霊的役事(僕、養子、実子、夫、父、王の各段階で勝利する役事)がなされた証が綴られている。
そして、「これらのことは、外的な教会が創立されるまでの内的な経過として、外的な教会史の始まる背後に隠されていた象徴的、内的な摂理であり、肉身世界に現れるまでに、霊界を通じてなされたものです」(『御旨と世界』P591)とある。文先生の自身の肉的な一生の間に、6000年の全縦的歴史が横的に蕩減されなければならないので、1947年に公的伝道期間が始まる以前にこれらの内的摂理の経過があったという。
また「1947年から統一教会の公的な復帰が始まる1954年までの7年間は、統一教会が実に信じ難い苦難を通過した期間である」と言われ、「この7年間に実体的な組織を発足するための実体的な条件を立てるために北韓共産陣営での苦役(興南監獄路程)等、言語を絶するあらゆる苦難を通過した」と語られた。そして「それによってこの7年間にすべての基台が立てられて、1954年には正式に世界基督教統一神霊協会の創立に至りました」(P592)とある。そうして、「今まで語った路程は、先生がたった一人で歩んだ人間なら行きたいとは誰も思わない孤独の極限の道でした」と述懐された。
文鮮明先生は、1936年(16才)に神に召され、聖書を通し、霊界の聖人を通し、また神との一問一答の中で真理を探求され、遂に原理という究極の真理を見いだされた。この原理は1645年(25才)までには明らかにされ、1952年(32才)に原理原本としてまとめられた。解明された原理について、次のように言われた。
「アダム、エバ、そしてカイン、アベルから始まった聖書史は、初めから失敗の記録であり、聖書全巻を通して失敗の記録である」(『御旨と世界』P595)とし、「先生は、盲目にして無知なる人間の行為の記録とも言うべき人類歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、その歴史の秘密のすべてを解明して歴史の法則と原理を見出だしたのです」(『御旨と世界』P596)と語られた。更に次のように言われた
「原理が明かされるまでは、数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのような世界でした。そして、その闇の中に昇った明るい太陽のごとくに現れた先生は、陽光が万物にくまなくさし通ってすべてを照らし出すごとく、すべての宇宙の原理を詳細に明かしました。今や万人が、真理の光に照らし出された神の真の像と、歴史の真像を知ることができます」」(『御旨と世界』P593)
そして「先生は、真理を理論的に解明し発表しただけでなく、真理に生きた人です。実人生における体験を通して宇宙の真理を知ることができました」と語られ、また「原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造り変える偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです」(『御旨と世界』P594)とも述べられた。まさに目から鱗とはこのことである。
【召命から原理原本執筆完了までの道】
誕生から召命(1935年4月1日)までの約15年間は内的教会史の「準備期」と言える。また1935年4月17日 神の召命を受けてから、1946年5月27日 北へ行くように神から命を受けて北朝鮮に出発するまでが内的教会史の「前史」である。そして6月6日 平城に到着し、この日から文字通り内的教会史が始まる。あるいは、召命(1935年)から世界基督教統一神霊協会の創立(1954年5月1日)ま全体を、広い意味でUCの「内的教会史」と呼ぶことができる。
<召命、そして原理の究明>
文鮮明先生は、1935年4月17日、15才になった復活祭(イースター)を迎える週、近くの猫頭山(ミョドウサン)で夜を徹して祈った明け方、忽然とイエス様が目の前に現れるという特別な霊的体験をされた。
「苦痛を受けている人類のゆえに、神様は悲しんでいる。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」という託宣である。その時、悲しいイエス様をはっきり見、その声をはっきり聞いたと言われた(自叙伝『平和を愛する世界人として』P62)。
文先生は、イエス様から、「苦しむ人類を救い、神を喜ばして差し上げて欲しい」という為すべきことを聞き、胸が張り裂けるような恐れと感激が襲ったという。こうして文先生の人生は、すべてこの日から劇的に変わったのである。この霊的体験は、モーセの召命(出エジプト3.2~12)や、パウロの霊的体験(使徒9.3~5)を遥かに越える。文先生は次のように語られた。
「私のこの体験をすべて表現するのは難しいことです。霊的な世界が突然、私の前に広がり、私は自由に霊界にいる聖者と通信できるようになりました。北朝鮮の地、静かな山中で直接何度もイエス・キリストと対話をしました。その時に啓示された真理の内容が、今の原理の核心になるのです」(武田吉郎著『再臨主の証明』賢仁舎P42)
この決定的な神からの召命の日は、万人が永遠に記憶すべき聖なる日であり、この日から本格的な原理の究明が始まった。以後、神と一問一答し、またイエス様をはじめ霊界の聖賢たちと自由に通信しながら、血みどろの戦いの末、1945年の終戦(光復節)の日までには、ほぼ原理の解明は終わっていた。 特に日本留学時代の2年半(1941年4月~1943年10月)は、真理探求の最後の格闘をされた時代である。
<命を懸けた聖書の究明>
『真の父母経』(第二篇)158ページには、「日本に留学して、聖書の未知の事実を突き止めるため、聖書を深く読みました。聖書の一つの章を5年間研究しても解決出来ないことがあります。この聖書の中の最も難解な箇所を、全て明確に解かなければなりません。そのようにして解き明かしたのが原理のみ言です」と記されている。 また「聖書は本当に啓示的です。世界史、分化史、宗教史において欠かせない宝典です。人類歴史に関する曲折の事情と秘密が、すべて含まれています。それを解かなければなりません」(真の父母経第一篇)とも言われた。
かって筆者は、「原理講論は聖書の新しい解釈論である。そして聖書の奥義を解明した究極の神学書である」とのインスピレーションを得て、遅まきながら聖書の研究をはじめたが、文先生は神との一問一答により得た真理を聖書との格闘によって確認されていったのである。
文先生は、聖書全巻を反復して読破し、真剣に取り組まれた。友人で著名な建築家の厳徳紋氏は、学生時代に創始者の下宿で、下記の事実を目撃したと証言された。
「下宿した私の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、聖書はすっかり真っ黒になってしまいました」(自叙伝『平和を愛する世界人として』創芸社P79)
また、「38度線を超えて北に行きなさい」との神の命で、即座に単身北朝鮮に向かわれたが、自叙伝には「創世記から黙示録まで数十回も線を引いて読み、ごま粒のようなメモ書きで真っ黒になったぼろぼろの聖書一冊だけを携えて、38度線を超えて行きました」(自叙伝P96)とある。
更に金元弼(キム・ウォンピル)氏は1946年7月から北朝鮮で文先生のところに通うようになるが、「文先生の聖書にはすべてのページに赤印が付いており、行間には小さな文字で書き込みがあった」と証言された。
こうして文先生は聖書と格闘されたのである。そして文先生は聖書について次のようにも語られている。
「先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです」と言われ、「最初から、聖書という冠をかぶり、聖書を標本としていたなら、このような道を開拓できなかったでしょう」とも語られた。
文先生は、霊界の具体的な内容を知って霊界の義人、聖人、教祖たちにみな会い、天上世界のすべてのことを体験したと言われたが、一方、「先生は、生まれながらに真理を知っていた。学んで知ったのではない。即ち『学而知之』(学んで之を知る)ではなく『生而知之』(生まれながらにして之を知る)だ」とも言われている。原罪なきメシアとして誕生された文先生は幼い時から霊的感性に極めて優れていたのである。
<北朝鮮での4年半の受難>
文先生は生涯6度の牢獄を体験された。①京畿道警察部での受難 (1944年10月~45年2月) 、②平壌大同保安署の受難 (1946年8月11日~11月21日) 、③「平壌内務署」拘束の受難(1948年2月22日~4月7日)、及び「平壌刑務所」の受難(1948年4月7日~6月21日) 、④興南監獄での強制労働の受難 (1948年6月21日~50年10月14日)、⑤西大門刑務所の受難(1955年7月4日~10月4日) 、⑥ダンベリーの受難(1984年7月20日~85年8月20日) の計6回である。メシアたる者は、最低の所から、最も惨めな僕の僕の立場で現れるというのである。
その中でも②から④の4年4ヶ月は北朝鮮での受難の路程であり、内的教会史の中核を形成する。平壌大同保安署から解放された時には、全身を殴られたため動けず、口も利けず、血を吐き、生きた人間の姿ではなかったという。弟子たちは教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し手を尽くしたが、ついに意識を失ってしまい、弟子たちは死んでしまうと叫びながら泣いたという。10日以上して、奇跡的に意識を回復し生き返ったのである。文字通り死から生への甦りであった。
また興南監獄は (1948年6月21日~50年10月14日)はまさに地獄だった。金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を激しい労働に動員し、死ぬまで働かせたのである。そこは1年以内にほとんどが死ぬという緩慢な屠殺場であり、想像を絶する環境下にあった。この収容所での状況は自叙伝『平和を愛する世界人として』(P104~116)に詳述されている。
それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエスが十字架の道を行かれたのと同じ背景があり(キリスト教が先生を受け入れなかった)、人類史をかけた戦いであった。しかし、獄中にあって、12名の弟子を伝道され、イエスが越えられなかった峠を蕩減復帰され、1950年10月14日、奇跡的に解放され霊肉復活を成し遂げられたのである。1650年10月14日は、UCの解放記念日(以北出監日)として永遠に記憶しなければならないと言われた。(参照→徒然日誌 令和6年4月17日 イエス・キリストと文鮮明先生ー内的教会史と名節)
<原理原本の完成と宣教宣言>
「太初はすなわち『一』であられる。この『一』がすなわち太初の根本である。この根本がすなわち『ハナニム(神)』であられる。この『一』なる存在こそ、無限小から無限大なる存在の根本である」という言葉から始まる原理原本は、1952年5月10日、ボンネッコルの小屋で書き終えられた。
その日、近くの水晶山(涙岩がある山)でみ言宣布の祈祷を捧げらたが、まさにこの日こそUCの事実上のUC創立であり、これまでの路程は文字通り創立以前の内的教会史であった。それはキリスト教がペンテコステの日(使徒行伝2.1~4)を事実上の教会設立の日としているのと同義である。そうしてこの日姜賢實女史が導かれ、間もなく李ヨハネ氏、そして劉孝元氏が導かれてきたのであった。
即ち、原理原本は1951年5月11日から、興南収容所で弟子になった釜山在住の金元徳(キムウォンドグ)氏の家で執筆が始まり、1952年5月10日、ボンネッコルの小屋で5冊のノートに書き終えたのである。金元弼氏の話しによると、文先生は平壌にいる時、既に原理原本の土台になるようなものをノートにまとめておられ、その原稿を置いて興南収容所に行かれたという。15才で神の召命をうけてから、本格的に真理を探求し、その大半は1945年8月15日の終戦(光復節)までに解明していたのである。
ちなみに原理原本を土台に劉孝元氏が書かれた『原理解説』は1957年8月15日、『原理講論』は1966年5月1日に発刊されている。『原理原本』は蘇生期、『原理解説』は長成期、『原理講論』は完成期の経典と言える。劉氏によると、原理講論は、隅々まで文先生の主管の中で書かれたという。また一般の信徒に向けて書いたというより、将来を見据え、著名な学者や神学者が読んでも耐えられることを意識したという。著名な韓国の神学者は、「韓国が生んだ世界的な神学書、組織神学の根幹を完璧に整理した経典である」と評した。
劉氏は自らの日記の中で、「読めば読むほど、瞑想すれば瞑想するほど、深くて奥妙なのが後編第五章だ。今まで誰も探し出すことが出来なかった復帰摂理の年代と年数を、お父様が探して下さった」と、数学専門家らしい感想を記している。(史吉子著『原理に関するみ言の証P338)
以上、創立以前の内的教会史、特に原理原本が脱稿されるまでの原理探求の路程について論考した。外的には1954年に世界基督教統一神霊協会が創立されるが、それ以前の教会創立の基台をつくろうとした創立以前の内的歴史こそ本当の統一教会の歴史だというのである。(了)
牧師・宣教師 吉田宏