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石原慎太郎の死に思う プロテスタント(改革派)との対比において

◯つれづれ日誌(令和4年2月9日) 石原慎太郎の死に思う プロテスタント(改革派)との対比において


令和4年2月1日、かの石原慎太郎が89才で死去いたしました。この日は、奇しくも天一国10年の始まりで、文鮮明先生聖和10周年でした。心なしか、何か時代の節目を感じるものです。


この機会に、この型破りの作家にして政治家の生き様と思想について、追悼の意を込めて論評することにいたします。


それにしても、石原慎太郎ほど良きにつけ、悪しきにつけ、賛否両論、さまざま議論されてきた人物はいないでしょう。従って、石原については、色々な観点から論じることができると思いますが、石原の顕著な特質は、何と言っても独特の美的感性に基づく「進取の気質」と「改革精神」でありましょう。端的に言えは、世直し、日本の建て直しを一貫して主張したことです。


従って、今回はこの顕著な特質について取り上げ、特にこれをルターなどプロテスタントとの対比において論じることにいたします。


【石原慎太郎における改革精神】


石原慎太郎は、好きなことを言い、したいことをし、生きたいように生き、物議をかもしながら89才の長寿を全うした訳で、その意味で幸せな男と言えるかも知れません。また、日本の現代史において、一つの時代を作った一人であったことは確かです。


87才の時に撮られた動画を見ましたが、大変若々しく、とても90才近い老人だとは思えませんでした。四男の話によると、死ぬ一週間前まで本を書いていたそうで、「言いたいことを言い、やりたいことをやり、人に憎まれて死ぬんだ」と言っていたそうです。


<進取の気質>

23才でまだ当時高校生だった妻典子と結婚した石原は、既に大学時代、芥川賞受賞作『太陽の季節』を発表し、時代を先取りした青年の奔放な生き様を描写しました。政治家になっては、保守派若手タカ派の議員集団「青嵐会」を中川一郎を担いで立ち上げ、憲法改正を叫び、田中角栄の金権政治を批判して、自民党の大胆な改革に乗り出しました。


また、東京都知事時代には、尖閣諸島を都で購入すると宣言し、国際社会を驚かせました。これは結局、尖閣を国が買い上げることにつながりましたが、これほど石原の大胆な進取の気質、改革精神が表れている事例はありません。



更に80才にして維新の会、次世代の会を立ち上げ、日本の立ち位置を遺言的に明示するなど、常に時代の一歩先を行く石原の姿がそこにありました。歯に衣着せぬ正論を吐いて憎まれ口を叩きましたが、どこか憎みきれない何かがありました。


つまり、石原の頭の中には、日本という座標軸が常にあり、左翼のように政府と対立して、体制の革命を目指すという道を取らずに、あくまでも自民党という枠内にあって、これを内部から改革するという「体制内改革」の道を選択したというのです。その意味では、正にリアリストでした。


アメリカやイギリスの二大政党制を見るまでもなく、「健全な与党には、健全な野党の存在が不可欠である」と言われますが、石原は、自民党内における健全野党たらんとしたのだと言えなくもありません。


中国のような共産党一党独裁政治の中では、健全な批判勢力は生まれようがなく、これが、人権侵害と社会の停滞につながりました。


そもそも民主主義は、堕落人間が構成する社会にあって、その統治に関して最善の策として立てられた制度であります。つまり、不完全な人間で構成される社会を、よりよく治めるために人間の経験と知恵から生み出された統治制度であり、神が統治されるキリスト王国の一歩手前の「次善の制度」と言えるでしょう。


「権力は必ず腐敗し肥大化する」という言葉があります。これは権力自体が背負った宿命であり、こういった過渡的な制度には、民主主義と言えども、批判にさらされ、常に改善、改革が必要であるというのです。勿論、宗教教団と言えども例外ではなく、古くなり、時代にそぐわなくなったものは、大胆に改革すべきです。


<預言者として>

さてメシアの役割には、統治者としての「王」、神と人間の仲介者たる「祭司」、時代を警鐘し改革を提言する「預言者」、という3つの顔があるとされていますが、その段から言えば、石原はさしずめ「日本型預言者」と言えるでしょう。


預言者の役割は、文字通り神の言葉を預かって、これを国民に述べ伝えるということでありますが、より具体的には、王や権力に対しては「腐敗の糾弾」を、民に対しては不信仰の「悔い改めを迫る」ことでした。従って、預言者は王からも民からも嫌われ、悲惨な人生を余儀なくされたのです。


つまり、堕落した現状を改善、改革すること、即ち、世直し、建て直しが預言者の仕事でありました。その意味で、石原と同様、ルターやカルバンはキリスト教の改革者であり、預言者でもあったと言えるでしょう。筆者は、石原の生き様の中に、ある意味で、ルターやカルバンの改革精神を想起させられ、現状の改革という点においてよく似たものを感じております。


石原はルターの次の言葉を好んで引用して語りました。


「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」


【プロテスタントの歴史的意味について】


実は宗教改革者ルターも、始めはあくまでもカトリックの内部からの改革を目指したのでした。ことの成り行きで、プロテスタントというカトリックとは立ち位置の異なる宗派を成立させることになりましたが、かの有名な「95ヶ条の提題」は専門家にしか読めないラテン語で書かれたもので、カトリックの中枢に宛てた改革提言てあったのです。


筆者は、聖書の知識124において、カトリックとプロテスタントの主な違いを検証いたしましたが、プロテスタントの本来の歴史的意味は何であったのか、それは文字通り「改革」であります。


<両者相互の補完性>

筆者は、カトリックに対するプロテスタントの誕生は、カトリックに対する徹底的な問題提起であるとも言え、歴史の必然から生まれたものだったと理解しています。


キリスト教に限らず、組織には、常にカトリック的な立場とプロテスタント的な立場があり、これらが相互に切磋琢磨することが肝要であり、両者は相互に補完するものと言っていいでしょう。前述のように、そもそもプロテスタントは、腐敗したり、形式的になった古い組織(カトリック)を改革するために、先ず体制内改革運動として出発したのです。


言い換えれば、守旧派(保守派)と改革派の存在です。守旧派は組織的な統制と規律を重視し、組織の維持と防衛に心血を注ぎますが、改革派は、これらの古くなって時代にそぐわなくなった組織の大胆な改革を叫びます。


結局、プロテスタントはカトリックから分離し、独自の道を歩むことになりますが、しかし、このプロテスタントの勃興は、腐敗、形骸化したカトリックを改革し、更に発展させるための反面教師になり、実際カトリックは甦りました。意外にもプロテスタントは、カトリック復興のきっかけになったというのです。そして両派は、切磋琢磨して、それぞれがその後のキリスト教世界を作って行くことになります。そして今や両者の再統合の気運が生まれてきました。


<宗教間の対話と一致の潮流>

20世紀になって、カトリック、プロテスタント両派は、対立と相克の時代を経て、今や相互を補完する関係へと流れていきます。即ち、20世紀における教派間、宗派間の対話と一致の潮流であります。


その潮流は、「第二バチカン公会議」(1961~1965)に象徴されるでしょう。


1545年のトリエント会議以来、カトリックは、唯一の正統的な教会を自認し、 第一パチカン公会議(1869年)では、教皇の無謬性(むびゅうせい)を強調するなど、他の教会との交流は極めて消極的でした。


しかし第二バチカン公会議(1961年)において、教派間、宗派間の対話と一致、エキュメニカルの方向に大きく舵を切ることになりました。


ヨハネ23世は、他教派、他宗教との対話と協力を目指し、ギリシャ正教との相互破門(1054年)の解消、聖公会、ルター派との関係修復などを推進しました。


またヨハネ・パウロ2世はユダヤ人への謝罪、聖地エルサレム訪問などを行い、今やカトリックは、教会一致促進運動(エキュメニカル)に最も熱心な教会になりました。


1987年には、カトリック、プロテスタントが共同して新共同訳聖書を刊行しています。


一方、プロテスタント内部の教派間協力運動も進み、1948年、聖公会を含むプロテスタント諸派が結集した「世界教会協議会」(WCC)が結成され、日本では、1948年、プロテスタント合同の「日本キリスト教協議会」(NCC)が結成されました。


また1970年には、立正佼成会の庭野日敬が議長となり、世界平和宗教者会議(WCRP.)を開催して、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、神道、儒教、新宗教が一同に会しました。


バルトと並ぶ神学者パウル・ティリッヒやカトリックの改革派神学者ハンス・キュングは、宗教間の対話、相互理解を奨励し、また宗教多元論の主唱者であるジョン・ヒックは、「神は多くの名前を持つ」と述べて、宗教の多元化を主張しました。


ちなみにヒックは三位一体を拒否し、イエスは神の霊に満たされた偉大なキリスト教徒の指針であるが、神そのものではなく人間であるとしました。キリスト教の「神の受肉」という教義は、あくまでもメタファー(比喩)として考えるべきであるとも言っています。


こうして今や、超宗派、超宗教の流れは、後戻り出来ない不動の潮流になったと言えるでしょう。


<超教派・超宗教ムーブメント>

UC創始者においても、生涯の活動の中で、キリスト教を中心とした超教派・超宗教運動は、最も力を入れられた分野であり、心情と時間と金銭を惜しみなく注がれました。宗教の和合一致、とりわけキリスト教の和合一致に心血を注がれ、そしてこれはUCだけでなく全ての宗教の夢でもあります。


そもそも全ての宗教は、神の救済摂理をそれぞれある段階とある分野で担うもので、時・程度・範囲・役割が違うだけで、「神の創造理想を担う」という点では共通の役割と目標を持っていると信じるものです。


大本教教祖の出口王仁三郎は「万教同根」を唱え、成長の家教祖の谷口雅春は「万教帰一」を宣言しました。また、崇教眞光教は、初代教主・岡田光玉の説いた「地球は元一つ、世界は元一つ、人類は元一つ、万教の元又一つ」を理念に掲げ、五大宗教の大元を説く教えとしました。幸福の科学も、崇教眞光教と似たような教えを説いています。


そして創始者は、1970年から、韓国宗教協議会(ERA)、神様会議、国際クリスチャン教授協会(ICPA)、国際基督教学生連合会(ICSA)などを立ち上げられました。更に、1985年、世界宗教議会、1991年、世界平和宗教連合(IRFWP)、1999年、世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)、2000年米国聖職者指導者会議(ACLA)、2003年超宗教超国家平和協議会(IIPC)を設立され、そして2019年には世界聖職者指導者協議会(WCLA)が創設されました。その間、1991年には神学者グループによる「世界経典」が出版されています。


【さいごに】


さて、前述しましたように、石原慎太郎ほど、好き奔放に生きた人間は、そうざらにはいないと思われます。しかし、その大胆な提言と行動が、ある種の喝采を持って支持を得たのは、彼の言動に、国民がある種の快感を持ったということであり、また石原は奔放な中にも、石原ならではの矜持があり、肝心なところでは決して羽目を外すことが無かったことにあるでしょう。


しかし彼は結局、一党一派を造ることも、新興宗教の教祖のように新集団を造ることもなく、一預言者として幕を閉じました。石原は、法華経に親しみ『法華経を生きる』(幻冬舎)という本まで書いていますが、その中で「法華経に関してもお前の宗派はいったい何だと問われれば、石原教とでもしかいいようがないが、俺は俺の教祖だと自惚れてみても、私の信者も私しかいない」(P50)と告白しています。


「石原慎太郎は霊友会の信者、長男の石原伸晃は崇教真光、そして三男の石原宏高は幸福の科学に入信しており、一族で別々の新宗教からの支援を受けている」と物の本に出ていますが、衆議院議員宏高に言わせれば、「オヤジは法華経だが、実際は石原教なんだ」と言ったといいます。


石原は、哲学者のように「自分とは何か」という実存的な課題を真面目に探求し、法華経の中にそれらしき回答を見いだしたかに思われますが、彼はあくまでも求道者、あるいは哲学の徒であって、信仰者ではありませんでした。最後まで、「自分」あるいは「日本」が発想の原点であって、キリスト教のように超越的な「神」ないしは「人類」からの発想は希薄だったと言えるでしょう。


従って、贖いや救いという境地までは知るよしもなく、さ迷いつつ、求める人として、自己流のそれなりの納得感、満足感を持ってかの国に旅立ったと思われます。宮本武蔵が真剣勝負の時に祈ったという「神仏を崇めても、神仏に頼らず」(『法華経を生きる』P31)ということだと....。


こうして石原は、真の神にまでは至ることは出来ませんでしたが、日本的預言者だったことは確かです。預言者は「ぶれない、群れない人種」、いわば一匹狼であり、王からも民からも憎まれ役でした。石原が、最後に「人に憎まれて死ぬんだ」とテレビて言い放ちましたが、そもそも、改革者、預言者は「憎まれ役」であることを肝に銘じたいものであります。


石原が都知事選挙に出て美濃部亮吉に破れたあと、筆者は思想新聞で、久保木修己と石原慎太郎との新春対談を企画しましたが、その対談の際に、古代ギリシャのストア哲学である「ストイシズム」という言葉を石原が何度も使っていたことが印象深く思い出されます。


ただ、この稀代の改革者石原でしたが、愛人に男の子を産ませ、切羽詰まって認知に追い込まれるという失態を見せた世俗人でもありました。ともあれ画期的な生涯を閉じてかの世に旅立った石原慎太郎氏のご冥福を心からお祈り致します。(了)

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