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聖書的視点から見たジェンダーフリーとLGBT問題について

◯つれづれ日誌(令和5年5月31日)-聖書的視点から見たジェンダーフリーとLGBT問題について


それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである(創世記2.24)


最近、ジェンダーフリーとか、LGBT問題が盛んに議論され、政治イシューにもなって賛否両論があるようですが、今回この問題について聖書的視点から考えて見たいと思います。


【ジェンダーフリーとは】


ジェンダー(gender)とは、生物学的な性別(sex)に対して、「社会的・文化的につくられる性別」のことを指します。 たとえば「男性として、または女性として生まれたのだからこの役割を負うべき」とか、「女性だから男性の言うことを聞くべき、男性だから強くあるべき」などの決めつけは、ジェンダーの概念で生まれた考え方であり、ジェンダーが周知される時代になったいま、これはれっきとした差別にあたるという訳です。


つまり、生まれながらの生物学的な性別(sex)が理由で、社会や文化が一方的に押しつけているものだと言えます。


またジェンダーフリーとは、そういった社会的・文化的な性的差異に左右されず、男女、あるいはそのほかの性にとらわれず、ジェンダーの壁を超えて自由に個性や個人の資質を発揮する考え方と言えるでしょう。


20世紀後半に生まれた「フェミニスト神学」はジェンダーフリーの神学的裏付けと言えなくもありません。「フェミニスト神学」は、家父長的拘束からの女性の解放など、政治制度、 文化慣習、社会動向などのもとに生じる「性別による格差」や「性差」に影響されず、「男女が平等な権利」を行使できる社会の実現を目指しました。


先進国では速度の違いはあっても是正が進みつつありますが、しかし、開発途上国では問題も多く、女性だから勉強は必要ないとされたり、ひどいときには理不尽な暴力にさらされることもあり、ジェンダーの問題は権利の侵害や人権の蹂躙を招きかねず、さまざまな課題があります。


国連の持続可能な開発のための17の国際目標であるSDGs(エスディージーズ)には「ジェンダー平等を実現しよう」というものがあり、ジェンダーにまつわる問題は人類共通の課題として取り上げられています。そのためには従来の常識のなかに根付いていた差別観を撤廃し、社会全体で是正に取り組むことが必要となります。


しかし、ジェンダーフリーとは決して「性別を撤廃し、中性化する」という意味ではなく、それぞれの性の特徴や役割を生かしながら「性別による格差」や「性差」を是正しようとするものです。


【LGBT(性的少数派)問題と法制化について】


一方、LGBT(乃至はLGBTQ)とは性的マイノリティ(少数派)を表す言葉で、Lesbian(レズビアン、女同士)、Gay(ゲイ、男同士)、Bisexual(バイセクシュアル、男女双方)の3つの「性的指向」と、Transsexual(トランスセクシャル、性自認)の略称です。

<LGBT理解増進法について>


最近、自民・公明両党は、LGBTなど「性的少数者への理解増進」を図る法案を国会に提出しました(正式名:「性的指向および性同一性に関する国民の理解増進に関する法律」)。性的少数者は学校や職場や社会で偏見やいじめなどの差別や不利益を被ることがあり、LGBTへの国民理解を得るための法律であり、その法案の第一条は次の通りです。


「第一条 この法律は、全ての国民が、その性的指向又は性自認にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する基本的な事項、行政機関等及び事業者における性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等のための措置等を定めることにより、性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等を推進し、もって全ての国民が、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する豊かで活力ある社会の実現に資することを目的とする」


一方、与党案に批判的な立憲民主、共産、社民の野党3党は、超党派の議員連盟が約2年前にまとめた「原案」を対案として出しました。また日本維新の会と国民民主党が、独自案を共同で衆議院に提出しました。


立民などの対案には「性自認を理由とする差別は許されない」と明記されており、申告により性を決める「性自認」がまかり通れば、女性であると自認した男性が、女子トイレや女湯に入るなどの混乱が予想され、またスポーツ競技の女子種目への出場を認めるのかという問題もあり、極めて危うい内容であると指摘されています。


与党案では「性同一性を理由とする不当な差別はあってはならない」などと改められましたが、事実上、性自認と同義であるとみなされる懸念は拭えません。性自認を「性同一性」に表現を変えても、性自認を含むと解釈することが可能になります。


上記の案は、学校に対し、「児童や生徒に教育や啓発に努める」よう明記していますが、性教育が十分行われていない段階の児童や、多感な時期を迎えた生徒が、LGBTを巡る問題にどう向き合うべきかは、慎重な議論が必要です。「差別禁止ありき」ではなく、あくまでもLGBTに関する基礎知識を広げることで国民全体の理解を促す法案とは言え、自民党内では異論が相次ぎ、「日本の尊厳と国益を護る会」の青山繁晴議員らは、故安倍晋三元首相の遺志にも違うなどとして、当該法案に反対しています。


<LGBT理解増進法の論点>


2023年2月17日、日本を除いたG7(G6)とEUの駐日大使は、LGBTQ(QとはQuestioning)の人権を守る法整備を日本に求める書簡を取りまとめました。日本でLGBTQの権利を守る法整備が遅れていることを念頭においたもので、非公式の書簡ですがエマニュエル駐日米大使が取りまとめの立役者となりました。この書簡は、日本に対して「差別に対して明確に、必要な措置を講じる」こと、つまり性的少数者の権利を守るための法整備を要求するものです。


今回自民党が急いで「理解増進法」を取りまとめたのは、こうした国際世論を受けて、とりあえずサミット前に間に合わせしようとしたのではないかと言われています。


アメリカでは2015年の「オーバーグフェル対ホッジス裁判」において、最高裁が「同性婚は合憲」という判決を出し、州によっては、異性間だけでなく、同性間の結婚に対しても保障されると判断された背景があり、LGBT問題についての認識は、アメリカと日本で大きく異なっているというのです。但し、連邦レベルでは、こういった同性婚を認める法律はありません。


アメリカは伝統的なキリスト教国家であり、後述するように聖書は明らかにLBGTの性の在り方を否定している(レビ18.22、ロマ1.26~27、他)というのに、このような反聖書的な制度が罷り通っていることに驚きを禁じ得ません。正にキリスト教信仰の衰退を見るようです。


統計によるとアメリカの性的少数者は人口割合の5%~6%(1500万人~1800万人)に登ると言われています。日本では世論調査の仕方によりまちまちで、1%~8%の幅があり、筆者の感触としては1%~2%前後だと思われます。そもそも西欧とは文化的、歴史的背景が違うこともあり、G6の要求をそのまま受け入れることはできません。


また法的にも問題が指摘されています。憲法24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する」と規定しており、同性婚の法制化に疑義を呈す麗澤大の八木秀次教授(憲法学)によると、条文にある「夫婦」の語句から男女間の関係のみを指すと捉えるのが通説であり、同性婚を「容認」と読むのは解釈に無理があるとして、八木氏は「同性婚禁止説」を唱えています。同性婚を容認するなら改憲が必要であるとの声が少なくなくありません。


また民法などの規定は、婚姻は男女の組み合わせを前提としており、ゆえに同性婚は認められていないとし、本来「婚姻制度は子を産み、育てるための制度」にその本質があるというのです。


一方、同性カップルを婚姻に相当する関係と認める「パートナーシップ制度」は全国200超の自治体が導入しています。ただ法的効果はなく、立憲民主党は、戸籍上で同性でも婚姻できるようにするための「婚姻平等法案」(民法改正案)を衆院に提出しまし た。しかし、「パートナーシップ制度」(事実婚)や「同性婚」は、未だ国民的な合意を欠き論外であり、また「差別禁止法」は、賛否が大きく分かれており、慎重に扱うことが肝要です。


<概念の確認>


ちなみに「性的少数者」(セクシュアルマイノリティ)とは、多くは同性愛者、乃至は性別に違和感を覚える人のことを指し、 「人は異性を愛するのが当然だ」とか「持って生まれた性別に合わせた生き方をしていくことが当然だ」としている社会からみて少数者という意味です。


性的マイノリティの中でも一番多くを占めるのが「同性愛」の人々で、過去、精神病とされていましたが、今では国際精神医学会やWHO(世界保健機構)で、同性愛は「異常」「倒錯」「変態」とみなさず、いかなる治療の対象からも外されています。また上述の通り、一部アメリカの州など同性婚を認める国もありますが、日本では認められていませんし、認めるべきではありません。


「性的指向」には、異性を好きである人(異性愛)、同性を好きである人(同性愛)、両性を好きになる人(両性愛:バイセクシャル)がありますが、これら同性愛や両性愛は性的少数者です。また「性自認」とは、自らが男であるとか、女であるとかを(実体はともかく)自認していることで、トランジェンダー(性同一性障害)とは、こころの性とからだの性が一致していない人を指します。


またクエスチョニングとは、自分の性自認や性的指向が定まっていない、もしくは意図的に定めていない人のことを指し、「Q」はクィア(Queer)と表現されることもあり、もともと「不思議な」「風変わりな」といった同性愛者を侮蔑する言葉でしたが、現代では規範的な性のあり方以外を包括する言葉としても使われています。


【聖書の視点から見たLGBT法案の問題点】


諸外国の趨勢を見ると、LGBT法案を必要とするほど性的少数派が多数になっていることを物語っていますが、LGBTを如何なる形にせよ認めることは、「神の創造の秩序」に反することは明らかです。


<聖書の結婚観>


聖書はLGBTの性的志向に対して、明確にノーを宣言しており、いうまでもなくUC教義も同様です。


聖書には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1.27)とあり、性は男と女であり、これが唯一の創造の秩序であることを宣言しています。


また、「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2.24)とある通り、男女が結ばれて家庭を形成することが明記されています。


イヴの創造  戒めを受けるアダムとイブ(ギュスターヴ・ドレ画)


特に聖書は、同性愛を不品行な性的罪として禁止しています。従って同性同士の結婚についてはいうまでもありません。レビ記には同性同士の性行為を汚れた罪としており、ロマ書には同性愛への願望や行動を恥ずべき、不自然な罪と明記しています。


「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである」(レビ18.22)


「彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」(ロマ1.26~27)


そして1コリントでは、同性愛者達は神の国を受け継ぐ事はできないと書いてあります。


「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者は、いずれも神の国をつぐことはないのである」(1コリント6.9~10)


更に、1コリント7章やエペソ書5章には、結婚についての指導が書かれており、結婚は男性と女性の間のものである事がはっきりしています。


そして以上のような性に対する態度は、聖書だけではなく、世界の歴史を通して聖書的な結婚観が人間社会全体の普遍的真理である事も知られており、歴史は同性結婚に反対しています。また、現代心理学でも、男性と女性はお互いを補い支え合うようにできているという事が指摘され、心理学は同性愛について反対しています。


また生物学的に見て、男性と女性は性的に互いに適合関係にある事もはっきりしており、性行為の目的が「新しい命の誕生」である事を見ても同性愛が間違っていることは明らかです。


<キリスト教会の動向>


キリスト教の同性愛についての見解は、教派や聖職者等個々人によって異なり、罪とする立場から受容する立場まで幅広くあると言われています。


前述したように、パウロ書簡の1コリント6章9節~10節には、「偶像崇拝や姦淫する者と共に『男娼となる者、男色する者』は神の国をつぐことはない」とあり、 これに対し、同性愛を受容する人々は「イエスは特には言及していない」ことを受容論の根拠とする場合があります。


2009年には、福音派、正教会、カトリックの聖職者は、「マンハッタン宣言」を発表し、同性結婚、人工妊娠中絶への反対をうたいました。 一方、「同性愛者の人権は尊重するが、同性愛行為は罪であり認められない」とする立場、即ち、教会として同性愛を宗教上の罪(sin)とみなしこれに反対するものの、同性愛者に対する迫害・差別については認めないとするような見解もあります。


同性愛者によって設立され、性的少数者を受け入れる教会として、アメリカに、メトロポリタン・コミュニティ教会があり、日本では同性愛者であることをカミングアウトした牧師もいます。聖公会やプロテスタントの一部においては差異があり、特に聖公会では教会分裂の深刻な要因になっています。


なお、ロシア正教会、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、エホバの証人、世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)といった宗派ではいずれも同性愛を認めていません。


以上、ジェンダーフリーとlGBT問題について、その意義、政治的動向、聖書的視点を見てきました。


最近、埼玉県教育局のIGBTに関する広報の動画を視聴したのですが、そこには「性別というのは男性と女性の二通りだけではなく多様であり、性の在り方をどう捉えるかはそれぞれである」と述べられおり、筆者は仰天しました。つまり、これはLGBTの存在自体を前提にし、これを黙認乃至は是認したもので、公的機関がこのような認識では日本の将来は暗いものになりかねません。


従って筆者としては、関連する如何なる法案にも賛成できません。こういった反聖書的、反キリスト的社会風潮が生まれていること自体、正に終末的現象と言わざるを得ず、正しい福音の規範が迅速に普及することが急務です。(了)

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