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長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地③ 島原の乱の舞台「原城跡」 、初期宣教とキリシタン大名高山右近

◯つれづれ日誌(12月15日)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地③-島原の乱の舞台「原城跡」 、初期宣教とキリシタン大名高山右近


遥かなるパライソ(天国)を身近に、今ぞ見きこの喜びに心高まる(雲仙殉教祭)


長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産の登録は、禁教時代のキリシタン迫害と殉教が何であったかを、再度私たちに思い起こさせる「天の声」でした。 長崎・天草潜伏キリシタンの旅の締め括りに、島原の乱の跡地である「原城跡」を概観し、ザビエルらの初期宣教とキリシタン大名の代表である高山右近を述べたいと思います。


【島原の乱と原城跡】


原城跡は、もともと有馬藩の居城でしたが、禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタン、農民、浪人らが蜂起した「島原・天草一揆」(1537年10月25~38年2月28)の主戦場となった城跡です。


一揆の中心となった島原と天草は、それぞれキリシタン大名の有馬晴信(肥前佐賀)、小西行長(肥後熊本)の領地で、もともとキリシタンが多い地域でした。幕府の禁教令により、長崎・天草のキリシタン農民は信仰を弾圧され、また厳しい年貢の取り立てに苦しんでいました。


そして1614年の禁教令以来、1619年の京都の大殉教、1621年の元和の大殉教などもあり、キリスト教への取り締まりは厳しくなっているという時代背景がありました。島原の乱以後、キリシタン弾圧は徹底したものになり「潜伏キリシタン時代の幕開け」になりました。その結果、一部を除き、日本各地の潜伏キリシタンは途絶えましたが、その例外となった地が「長崎と天草地方」であり、この地で潜伏キリシタンたちは多種多様な形態で自らの信仰を密かに継続しました。


<島原の乱とは>


当時の島原藩主は、有馬晴信が転封となり、代わって入封したのが松倉勝家であり、4万石の小大名としては、不相応な大きな島原城を作るなど、農民の生活が成り立たないほどの過度な年貢の「誅求」(厳しい取立)を行いました。また厳しいキリシタン弾圧も開始し、改宗を拒んだキリシタンや年貢を納めない農民に対し 、「箕の踊りと呼ばれる火刑」や、「雲仙岳での熱湯漬け」など、苛烈な拷問・処刑を行ったことが記録に残っています。1627年から1632年の雲仙での殉教者は33人と言われ、雲仙での最初の殉教者は有馬晴信の元家臣であったパウロ内堀作右衛門と16人の殉教者です。そのうちパウロ堀内の3人の子供は、親の目の前で指を切り落とされるという拷問の末、殉教しました。パウロ堀内も指を切られ、財産は全て没収され、4回目の地獄温泉責めの末、殉教しました(山口百々男著『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』サンパウロP47)。


パウロ堀口をはじめ雲仙で悲惨な殉教を遂げた29人は、バチカンにより福者とされ、長崎大司教区主催で毎年「雲仙殉教祭」が行われています。殉教祭では殉教者の言葉「はるかなるパライソ(天国)を身近に、今ぞ見きこの喜びに心高まる」が詠まれます。


一方、天草は小西行長の死後、唐津藩の寺沢広高の領地となり、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われました。


折からの飢饉も重なり、年貢を納めなかった農民の妊婦や娘が拷問により命を落としたことなどを発端に、1637年、ついに怒り心頭に達した島原と天草の農民や元武士たち3万7千人が集結して立ち上がりました。 総大将には、当時16歳のキリシタン天草四郎時貞が一揆統合のシンボルとして担がれました。天草四郎は小西行長の家臣の子で、長崎に遊学するなど学問に秀で、宗教的なカリスマ性があったと言われています。


左:天草四郎時貞肖像画  中:島原の乱図屏風  右:原城の位置図


また同地にはキリシタン大名であった晴信、行長の統治時代に入信した元武士の浪人がいて、この浪人とキリシタンが一揆の中核を担いました。


<島原の乱の経緯> 


一揆勢は、先ず島原城を攻撃、同時に天草の富岡城も攻めますが、結局、両城を落とせず、一揆勢は原城に集結します。原城は有馬晴信が築城した城で、自然の要塞に囲まれた難攻不落の要塞でしたが、当時は廃城になっていました。これに対し、板倉重昌率いる幕府軍4万人は、原城に総攻撃をかけますが、何と幕府軍が惨敗し、一揆勢の死傷者が僅かだったのに対し、幕府軍の死傷者は8000名にのぼり、しかも、総司令官の板倉重昌は討ち死にしました。原城は、石垣が5メートルもある防御に優れた城だったうえに、海に面した天然の要塞だったからです。


そして、一揆勢の強さの最大の秘密は、一揆勢の中心が有馬や小西の武士の残党だったことです。彼らが、百姓を指揮して、戦術的に優れた士気が高い軍団を形成していました。その上、一揆勢の多くがキリシタンであり、宗教的結束がありました。一揆勢は原城跡に立て籠もると、城内に礼拝堂を建てたり、 信心具(十字架、メダイ、ロザリオ)の前でひそかに祈りを捧げていました。


そこで、ついに幕府側は「知恵伊豆」と呼ばれた、幕府の老中・松平伊豆守信綱が、幕府軍の総司令官となって原城を包囲し、「兵糧攻め」を開始します。結局幕府軍は、原城に最後の総攻撃をかけて、1万2千人もの死傷者を出しながら、原城に立て籠もる一揆勢3万7千人を皆殺しにし、原城跡はまさに巨大な墓場と化しました。その時、 天草四郎も打ち取られました。信綱の長男松平輝綱は『島原天草日記』 の中で、「一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえに、全員が喜んで死を受けいれた」と記しています。


一揆の後、 松平信綱は、分不相応な島原城を築城するために、過酷な年貢の取り立てを行い「島原の乱の原因」を作った島原藩主・松倉勝家を斬首の刑に処し、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害しています。


<島原の乱の真相>  

島原の乱は、圧政に抵抗して領主権奪取を目指す「農民一揆」なのか、信仰に目覚めた立ち返りキリシタンによる「宗教一揆」だったのか、議論のあるところです。いずれにせよ島原の乱は 、飢饉に苦しむ領民に、松倉と寺沢の両領主が過酷な年貢を課し、幕府がキリスト教徒を弾圧したことに抵抗した土豪や農民が起こした一揆であることは間違いありません。

しかし松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱を「キリシタンの暴動」と主張しました。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着したというのです。


確かに、厳しい収奪に反発し、更に飢饉の被害まで加わり、改革を求めて両藩に対して起こした農民一揆であるという一面がありますが、事態の推移から、単なる一揆だけとする見方では説明がつかず、やはり「立ち返りキリシタンの宗教一揆」という側面も否定することはできません。立ち返りキリシタンとは、1614年の禁教令以来、沈滞していた信仰を、圧政や飢饉を契機に復活させた信徒であります。彼らは、このような災難は信仰を曖昧にしてきた自分たちへの神の警告だと考えたのかもしれません。いずれにせよ、殉教精神を持ったキリシタンが一揆側の結束の要だったことは確かであり、実際多くのキリシタンが殺害され犠牲になりました。 但し、バチカンは、非暴力の教えにそぐわないとして、この島原の乱を殉教とは認めていません。


この島原の乱以降、幕府は鎖国体制を強化して、ボルトガルと断交し、キリシタンの取り締まりも、踏み絵や寺請精度を設けるなど徹底したものになっていきました。 1644年に、日本における最後の司祭小西マンショ(1600~1644)が殉教して、文字通り日本に宣教師・司祭が不在になり、長崎、五島、そして天草の潜伏キリシタンは、1864年の信徒発見の日まで、約250年という長期にわたって厳しい潜伏を余儀なくされたのです。


【初期の宣教とキリシタン大名高山右近】


当時キリスト教が、広がった理由にキリシタン大名の存在があります。上記した島原の乱も有馬晴信や小西行長というキリシタン大名のもとで、キリシタンが多い地でありました。その中でも高山右近はキリシタン大名として最も信仰深いクリスチャンでした。


<初期の宣教とキリシタン大名>


聖書の知識35「日本キリスト教の歴史概説」でも述べましたが、1549年8月15日、ザビエルをはじめ、トルレス神父、フェルナンデス修道士、そして水先案内人の日本人アンジロウら一行8人は宣教の一歩として薩摩の坊津に上陸しました。薩摩の島津貴久の保護を受け、ザビエルは鹿児島に1年間滞在し、約100人の信者を得ました。次に平戸に行き、ここでも100人くらいの信者を得て、その後天皇の布教許可を得るために京都に赴きました。途中、大内義隆の領地山口に一か月半くらい滞在し毎日二回街頭で説教して布教しています。1551年1月、天皇に謁見し布教許可を得るべく京都に着きました。


キリスト教会の宣教方法は、先ず上層階級を宣教の対象とし、ついで彼らを通して下層民の改宗を行うという、初期教会以来の伝統的なやり方が踏襲されていました(五野井隆著『日本キリスト教史』吉川弘文館P41)。しかし戦国時代の当時、天皇や幕府に統治権力はなく、断念して地方の有力な大名の庇護を得る戦略に切り替え、ザビエルは天皇に会うことなく京都を離れ平戸に戻りました。その後、当時西の京と称されていた山口に拠点を移し、山内義隆から布教許可をもらって、日に二度辻説法をするなど布教に務め、二か月あまりで500人くらいが洗礼を受けています。また1551年秋には、豊後の大友宗麟に会い、宣教の許可を得ています。


1552年4月、ザビエルは日本における改宗事業の進展のためには、日本に強い影響を与えてきた中国を無視できないと考え、2年3ヵ月の日本滞在のあと、中国に行くべく先ず拠点のインド(ゴア)に向かいました。キリスト教が中国で受け入れられるようになれば、もともと中国から伝来した日本の仏教諸宗派は、その誤りを正さざるを得なくなると確信したからです(五野井隆著『日本キリスト教史』P44)。その後中国へ向かう途中、1552年12月3日、中国上川島にて病気で死去しました。46才。ザビエルの日本滞在中にキリスト教徒になった日本人は、およそ700人でした。日本の宣教はザビエルが種子を蒔き、その後同行者コメス・デ・トルレスによって基礎固めが行われ、1587年当時には約30万人(人口比2.5%)の信者が生まれていました。


この過程の中で洗礼を受ける大名も出てきました。大名は、独自に南蛮人との貿易を模索しており、その南蛮との窓口になるザビエルら宣教師たちは、当初歓迎されたのです。 彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名な大名として洗礼順に、大村純忠(長崎大村)、高山飛騨守(高槻)、高山右近(高槻・明石)、小西行長(肥後熊本)、大友宗麟(豊後大分)、有馬晴信(肥前佐賀)、蒲生氏郷(伊勢・松坂)、織田信秀(美濃)などで、ザビエル宣教後、60年の間に60人以上のキリシタン大名が出現したと言われています(長嶋総一郎著『日本史の中のキリスト教』PHP 新書P34) 。


日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を要請しました。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られ、『日本史』を著した ルイス・フロイス(1563年来日)、優れた宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1579年来日)などのイエズス会員が日本に来航し、織田信長や豊臣秀吉と謁見しながら布教活動にあたりました。


日本における宣教方針は、指導者トップからの「上からの伝道」と、日本の伝統文化と生活様式を尊重する「適応主義」の二つで、日本人司祭や司教を養成することを重視しました。トルレスのあと上長の立場を引き継いだカブレル(1568年来日)は日本文化と対立する布教方法を取り、大きく混乱しましたが、巡察使として日本にきたヴァリニャーノの適応主義の指針によって日本での宣教は順調に進みました。そして日本人司祭の養成を急務とし、安土城下にセミナリオ(初等神学校)をはじめ、各地にセミナリオ、ノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置しました。


当初困難だった京都の宣教も、織田信長が1568年に京都に入ると事情は一変し、信長はルイス・フロイスらに京都での布教を認め、教会学校(セミナリオ)が作られるようになりました。これらキリシタン大名の影響もあり、キリシタンの数は1600年ごろには40万人~60万人にも達し「キリシタンの世紀」と言われています。当時の日本の人口は約1500万人くらいだったので、キリスト者の割合は3%を超えていました。


前述しましたように、キリシタン大名の中には鉄砲や貿易による利益への関心からキリシタンになった者もいましたが、高山右近のようにこの世での不利益を受けながらも信仰を貫いた大名もいました。また代表的な九州のキリシタン大名である大村純忠・有馬春信・大友宗麟の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年遣欧使節をローマ教皇の元に派遣しています。


<高山右近>


さて高山右近(1552年~1615年)ですが、彼は代表的なキリシタン大名として知られています。


高山右近は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主であり、父高山飛騨守友照の嫡男として生まれました。1563年に10歳で修道士のロレンソにより洗礼を受けています。洗礼名ジュスト。それは父友照が琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼(洗礼名ダリオ)を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであります。


友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとして生きました。この時代、友照が教会建築や布教に熱心のあまり、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けたといいます。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与え、そして、右近は細川忠興と細川ガラシャにも影響を与えました。フロイスは著書『日本史』の中で次のように書いています。


「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立され、五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス『日本史』)


1576年には、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4000人の領民が洗礼を受けました。また1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれたといいます。同年、高槻の領民25000人のうち、18000人(72%)がキリシタンだったと言われています(カトリック高槻教会レポート) 。


1582年本能寺の変で信長が倒れ、信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続し、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めました。1585年、右近は明石6万石に転封され、明石教会を建設しました。また右近の感化によって、 蒲生氏郷、黒田官兵衛、小西行長などがキリシタンになり、細川忠興、前田利家、織田有楽斎などに影響を与えました。


しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ります。しかし右近は「現世の栄華より、永遠の霊魂の救いを求む」と答えたため、戦功で秀吉に与えられた明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となります。1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭しました。 また信仰の同志小西行長の配慮で小豆島や天草に隠れたりしました。


1612年、徳川幕府はキリシタン禁教令を発布し、1614年には右近の国外追放令が出されます。右近一家は雪の中を徒歩で京都に向い、坂本を経て大坂から船で長崎に着き、そして長崎から船でマニラへ向かい、43日後に到着しました。ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を大歓迎しました。しかし、苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために、到着後40日ほどで熱病にかかり、1615年2月3日、63歳の生涯を閉じました。マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られました。


このように高山右近の見上げた信仰は、キリスト教復興のよいモデルと教訓になると思われます。


以上が、島原の乱の舞台「原城跡」、初期宣教とキリシタン大名高山右近についての解説であります。これで三回に渡る長崎・天草ユネスコ世界遺産の旅を終わりたいと思います。 キリシタンの迫害・潜伏キリシタンとしては長崎・天草が最も有名ですが、岩手県一関市(伊達藩)の309名の殉教(大籠キリシタン殉教公園)や大阪市大槻市(高山右近)などにも潜伏キリシタンがいました。


それにしても潜伏キリシタンは、宣教師も神父もいない中で、しかも危険な中、どうやって2世紀以上も信仰を保ち、親から子へ、子から孫へ伝えられたのでしょうか。まさに信仰が殉教を生み、殉教はまた信仰を生んでいきました。ローマ教皇も信徒発見は、現代の奇跡だと驚愕されたとか。


今回、発展、禁教、殉教、そして潜伏というキリシタンの歴史を振り返りましたが、感じることは、迫害・拷問・受難という地獄を見てきた信仰者の凄まじい生命力です。これ以上ないどん底を通過してきたこれらキリシタンの生き様は、私たちに大きな教訓と希望を与えてくれます。殉教の血は「宣教の種子」という言葉がありますが、日本にも信仰のために流された多くの血があったことを想起し、これらをよき種として、日本総福音化を目指して精進したいと決意を新たにさせられました。(了)


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