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お正月の意味とは何だろう 日本的霊性を考える

○つれづれ日誌(令和2年12月30日)-お正月の意味とは何だろうー日本的霊性を考える


初春や聖霊の声浄らかに


さて、今日は12月30日、今年ももうすぐ終わり、新年が始まります。当たり前のように新年を迎える訳ですが、私たちは「お正月とは何か」、「お正月行事の意味とは何か」、について意外と知らないのではないのでしょうか。そこで今回は、以下、お正月行事についてQ&Aでご紹介することにいたします。



【お正月Q&A】


Q:お正月とは?


A:「正月」とは1月を意味する言葉ですが、本来、先祖をお祀りし、その年の豊穣と健康などを司る「歳神様」を迎える神道由来の行事です。 お正月の初日の出とともに「歳神様」が現れるとされています。


その由来は神道の「八百万の神様」で、稲の豊作をもたらす神様であり、家を災いから守ってくれる先祖の霊ともいわれます。 古くから、日本人の暮らしと密接に結びつく「歳神様」を新年にお迎えするために、年末にさまざまな支度をします。私達流に言えば「唯一創造の父母なる神」をお迎えする準備ということになるでしょう。


また正月は立春でもあり、物事が芽生える(芽出度い)という意味もあり、1月1日から1月7日の松の内や1月15日の小正月までを指すのが一般的です。正月行事には、大掃除、門松、年賀(状)、おせち、お年玉、初詣、初夢など、盛りだくさんの行事、があります。


Q:門松、注連縄(しめなわ)とは何ですか?


A:門松とは、正月の歳神さまをお迎えし、お祭りする場所を示す目印で、門、または玄関に立てて、歳神さまを家に迎え入れます。そして門松は年神様が降りられる依代、つまり、神霊が拠りつく対象物で、神体・神域を表わします。かがみ餅も一種の依代です。


また注連縄(しめなわ)とは、神域・結界を表します。しめなわの「シメ」は「入ってはいけません」の意味で神聖な場所をほかと区別するために張るものだと言われています。


山、森、ヒモロギ(木々)、盤座(いわうら、岩)に注連縄を張り、神の神域を示す一種の依代です。また、神社の鳥居も神域や結界を意味します。しめなわの由来は、岩穴に閉じこもってしまった天照大神をなんとか引き出した際に、「二度と岩穴へこもらないように注連縄で戸を塞いだ」という神話だといわれています。


Q:おせち料理とは何ですか?


A:お節料理(おせち料理)とは、本来、節句の日に神に食物をお供えする「節供」料理でした。そもそも節句とは、七草の節句(1月7日)、桃の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)、七夕星祭(7月7日)、菊の節句(9月9日)の5日があり、江戸時代に定められ「五節句」と呼ばれます。


しかし節句の中でも特に代表的なものが正月の節句であるため、正月料理をとくに「おせち料理」と呼ぶようになり、歳神様をもてなすための料理であります。今は、端午の節句(5月5日)のみ子供の日として祭日になっています。


歳神様にお供えして、五穀豊穣、家族の安全と健康、子孫繁栄をお祈りするため、一品ごとにそれらの願いが込められています。数の子は子孫繁栄、黒豆は健康でまめに働けるように、田作りは五穀豊穣など....。


また、一旦年神様に捧げられたお節は、今度は家族で頂きます。お節を作っておけば、三が日は主婦が家事から解放され、体休めにもなるとも言われています。


Q;お年玉とは?


A;お年玉とは、もともと、歳神様の神前に備えた餅のお下がりを頂くことでした。今では現金を子どもに渡す習慣になっていますが、本来は歳神様から新年に新しい魂「年魂(としだま)」を授かることをいいました。


歳神様は鏡餅などの「お供え餅」に宿ります。そのお供え餅を餅玉に分けたものが「年魂」で、これを家長が「御年魂」「御年玉」として家族に分け、1年を元気に過ごす活力を与えました。そしてこの餅玉を食べる料理が「お雑煮」です。


Q;初夢の意味?


A:「初夢」は、元日の夜から2日にかけて見る夢のこと。昔は大晦日には眠らずに歳神様をお迎えしたので、新年に初めて夢を見るのは「元日の夜」だったのです。


初夢では新しい1年の運勢を占います。縁起のいい夢として有名なのは、「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」。富士は、高い目標や理想を表し「立身出世」、鷹は、高い可能性や行動力を表し「開運や夢の実現」、茄子は、事を成すに通じ「蓄財や子孫繁栄」を表しています。(和文化研究家三浦康子)


Q;初詣とは?


A:新年に神社やお寺に参拝する行事を「初詣」と言いますが、日本人の風習、文化として定着し、毎年9000万人が参詣すると言われています。


初詣へ行く目的は、旧年の感謝を捧げるとともに、新年が良い年になるように「願掛け」を社寺の神様に行うためです。 一年の区切り、新たな出発の儀礼と言ってもいいでしょう。


初詣へ行くと、神様に感謝を捧げ願い事をしたり、絵馬に願いを書いたり、お守りを買ったりします。また、家庭では、正月飾りを飾ったりお雑煮を食べたりしますが、これらの正月行事も初詣と同様に神様への感謝を捧げて新年の願掛けをするためのものです。


正月飾りに宿るとされる神様は、正月に各家に毎年やってくる歳神様(又は先祖の霊)であるのに対し、社寺の神様は地域の「氏神様」で、両者は異なる神様なのでそれぞれ違った意味合いがあるとされているのです。今は「有名な社寺に自由に参拝する」というのが一般的になりました。


ちなみに2016年の初詣の参拝者数上位10は以下のとおりです。


明治神宮東京約317万人、成田山新勝寺千葉約309万人、川崎大師神奈川約307万人、浅草寺東京約291万人、鶴岡八幡宮神奈川約250万人、住吉大社大阪約239万人、熱田神宮愛知約230万人、氷川神社埼玉約210万人、太宰府天満宮福岡約200万人、生田神社兵庫約150万人。


さて、初詣、皆様はどのようにされるでしょうか。筆者は今年、氷川神社に行ったので、来年は鶴岡八幡宮にでもと思っています。もちろん、一番いいのは教会に参拝することであるのは言うまでもありません。


以上、こうして見ると、お正月行事は、「神道の流れに添った儀礼の体系」であることが分かりました。このように神道、神社は無意識の内に日本人の伝統、風習、文化として定着しているのです。


【日本人の宗教特性】


さて、よく知られているように、年末年始には日本人の宗教観や精神性が象徴的に表れています。


<年末年始の日本の情景>


年末年始の宗教風景でお馴染みのように、12月25日のクリスマスには教会に行き、除夜の鐘ではお寺に思いを馳せ、新年には神社に参拝します。7・5・3を神社で祝い、結婚式を教会で挙げ、葬儀はお寺で行います。そして日本人には、これらは決して矛盾した行動ではないというのです。


山本七平は、これらは「日本教仏教派」、「日本教キリスト教派」であって、帰属しているのはあくまで「日本教」だというのです。現住所は仏教でありキリスト教であっても、本籍は日本教だということです。これこそ、日本的霊性と言えるでしょう。


<外国人の二つの驚き>


外国人は日本人の精神特性について二つの驚きを持っていると言われています。一つは、上記年末年始の宗教風景に見られるように、キリスト教、仏教、神道の三つの宗教行事に同時に参加して、その事に何らの矛盾も違和感も感じていないことです。クリスチャン、ムスリム、ユダヤ教徒であれば、到底受け入れられない節操のない忌むべき異教徒の風習でありましょう。


そして今一つは、異教徒でありながら、時にはキリスト教国家における道徳的水準を越える道徳観念を持っているという事実です。即ち、「日本は、非キリスト教国家なのに、何故、こんなに高い倫理観と高い文明を持っているのか」というのが、欧米人が持つ疑問と驚きだというのです。


確かに東北大震災では、2万人の人々が犠牲になり、未曾有の被害を蒙ったにも関わらず、キリストの神を知らない日本人が、暴動も略奪も争いもなく、秩序整然と行動し平常心を失いませんでした。また、外国人旅行客は、日本人の親切さ、礼儀正しさ、清潔さ、勤勉さに一様に驚きます。


このような高い倫理観は一体どこから来ているのか、その疑問を解く鍵こそ上記した「日本的霊性」であります。


【日本的霊性とは】


日本的霊性という言葉は、鈴木大拙が最初に唱えたもので、日本人の基層にある独特な精神性を言い、大拙は、これを「禅と浄土教の他力思想が核となった超精神的宗教意識」と定義しました。また、山本七平は「日本教」と呼んで、「日本人の内に無意識に染み込んでいる宗教」だと言っています。


そして日本的霊性には3つの源泉があると思われます。仏教の死生観、武士道の儒教的規範性、そして神道の世界観です。


その内、縄文・弥生時代以来の古神道の影響を最も強く受け、これが日本的霊性の基層をなしています。「自然を崇め、先祖を尊び、和と共生を重んじ、清浄を好む」というもので、この思想が日本的霊性の核をなし、仏教の無常観や武士道的な忠孝の規範性が加味されて形成されていると言えるでしょう。(聖書の知識22 カテゴリー聖書.神学の論点参照→HPサイト https://www.reiwa-revival.com/post/令和リバイバル:日本的霊性とは何か


日本人は、古来、目に見えぬ何かに対して、畏敬の念を抱く心、良心作用を発揮してきました。日常には、一種の霊的感性に基づく慣習が違和感なく溶け込み、霊的感受性が強い民族であり、「お蔭様」「世のため人のため」という日本語は日本人の倫理に根付いています。


上記した一連のお正月行事に見られるような、「世の常ならぬ畏きもの」(本居宣長)を崇める神道的な風習の中にも日本人の精神性、即ち日本的霊性が散見されるというのです。


内村鑑三は、著書『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の中で、「日本の倫理的、道徳的規範性は、唯一神と贖罪観念を除けば、決してキリスト教に引けを取らない」と言っています。


「画竜点睛を欠く」という言葉が有りますが、内村が語ったように、日本的霊性には、他の全てのものが揃っているけれども、肝心の眼、即ち、「唯一創造の神」という思想、そして 「罪の贖い」(贖罪)という観念が欠如しているというのです。新渡戸稲造も、日本の精神性を高く評価しながらも、「神道の神学には原7罪の教義がない」と指摘しています。(新渡戸稲造著『武士道』P34)


確かに、イスラエルの幕屋と、日本の神社の構造は瓜二つだと言われていますが、幕屋にあって、神社にないものが一つあります。それが祭壇です。幕屋にある祭壇は、牛や羊などイスラエルの罪を贖う全焼の生け贄を捧げる祭具であります。しかし、神社にはこれがありません。神道には、「贖われるべき原罪」という罪観が無いからです。


従って、日本的霊性に神という眼が入り、原罪という罪観が入れば、文字通り「鬼に金棒」ということになるでしょう。


以上、お正月の行事の意味、そして日本の精神性の光と影を見て参りました。年の始めに、お雑煮でも食べながら、しばし日本の精神性に思いを馳せるのもいいかも知れませんね。では、よいお歳を!(了)



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